むず痒い春
「ヒョン、早く!早く!」
ライブハウスの前はそれなりに人だかりが出来ていて、係員のもと列をなしていた。
そんなに人気あるんだ、なんてなんだか不思議な気がして。ワンマンライブじゃないから全部で4組のバンドが出るんだけど、この中のどのくらいがアイツのファンなんだろうなんて考えてみる。
「お前も初めて?」
「そうですよ。だから楽しみで」
うきうきと子供みたいにはしゃぐセフンを見て、俺は過った少しの罪悪感に背を向けた。
「へー、結構すごいんだな」
「はい、出てるの全部、今注目のバンドなんで」
「そっか。チェン……はソロなんだよな?」
「多分……?」
開場時間になって中に入る。
女の子たちは猛ダッシュで前を取りに行っていた。俺たちは中程の少し空いた辺りに位置取りして時間が経つのを待った。いつものようにセフンがくっついてきて、にこりと笑顔を向けるので俺も笑顔を向けた。引きつってはないと思う。
お目当てのそれは3番目の出番で、それなりに人気があるのだと分かる。
セフンと二人で初めて聴いたあの日から、あのCDは俺の家の棚の上に飾られていた。
何度も手を伸ばしては躊躇って。結局一人では一度も手に取ることすら出来なかった。
見覚えのある星空の写真。色んな想いが一息に飛び出してきそうで怖かった。何故だか勘違いだったらいいとすら思った。それほどまでに、今のジョンデを知るのが怖かった。
そうしていよいよ3番目。
暗転していたステージにライトが射して。
スタンドマイクの前に立つ人影。
ジョンデ───、
変わらない八の字眉が。
伏せられた睫毛が。
あ、ってなって心臓が……
俺は、そのステージの間中、そわそわとした気分でひたすらじっとあいつを見ていた。
今のあいつを受け止めるように、変わらないあいつを探すように。酷く不思議で懐かしい感覚と、知らない誰かを見てる感覚。頭の中は忙しいはずなのに、脳みそを震わせていたのは、あいつの綺麗な歌声だった。
「ヒョン、どうでした?」
うん ───
「ヒョン……?」
「───あ……あぁ、ごめん!よかったよかった!楽しかった!」
「良かった!」
セフンはらしくもなく不安そうに眉を下げていて、俺が笑いかけるとようやく安心したように笑顔をこぼした。
「悪い、ちょっとトイレ行ってくるわ」
「はい」
セフンの笑顔に見送られて、俺は人混みをすり抜けて、ロビーへと脱け出した。
なんだかとても息苦しくて、あそこにはいられなかった。印象的な八の字眉、長い睫毛、華奢な身体、透き通る声。
卒業以来久しぶりに見た姿は、とても不思議な感覚で。知ってるようで、まるで知らない人に見えた。一緒に寝転んでゲームをした横顔は、もう遠い過去なんだろうか。
俺の知ってるキムジョンデは……
「ベッキョナー!ビョンベッキョン!!」
ロビーの角のベンチでミネラルウォーターを流し込んでると、懐かしい声に呼ばれて、心臓が勢いよく跳ねた反動で飲み込み損ねた水が気管支に入った。
「っ……ゲホッ、ゴホッ……」
はぁ、はぁ、なんて肩で息をして振り向くと、そこには、あの卒業式の日最後に見た笑顔と同じ笑顔で手を上げるキムジョンデがいて。
やっぱり!って言いながら近づいてくる。
「おぉ……」
「うわっ!すごい久しぶりだね!」
「あぁ。驚いたよ、お前が出てきて」
「僕も、ステージからベッキョンが見えた瞬間、歌詞ふっ飛ぶかと思った!」
それより大丈夫?なんて背中を撫でながら笑う姿はあの頃とちっとも変わってなくて、高揚感とともに安堵もして……
それなのに心臓は高鳴り続けて。
その武骨で小さな手の体温が背中越しに伝わる。
「てゆーか、何でいるの!?地元の大学行ってんじゃないの!?」
「うん、まぁ……いや……」
迷った末に、結局俺も都会の大学を選んだ。
別にジョンデがいるからって訳じゃないけど。ただ実家を離れるのもいいかな、って思っただけで。入れそうな都会の大学を適当に選んだだけだ。
そのことを結局最後までジョンデには言えなかったのを、今更ながらに思い出した。
なんだかんだでずっと拘っていたのが丸見えだ。
「こっちの大学にしたんだ」
「え!なんだぁ。教えてくれればよかったのに。じゃあまた会えるね!あ!今度飲みに行こうよ」
嬉しいなぁ、と屈託なくジョンデは笑う。
相変わらず、ずきんと響く俺の心臓。
「お、おぉ……」
「なに……?彼女に怒られるとか?」
「バカ!彼女なんて……!」
セフンの顔が浮かんで、なんだか途端に後ろめたくなる。
「ははは!ねぇ……ところでさぁ、これって偶然?」
「何が?」
「だから、ベッキョニが今日来てるのって偶然なのかなぁって……」
「あー、うーん……」
半分は偶然で半分は予想してだけど、なんて答えたらいいのかよく分からない。
「なんつーか、まぁ誘われて……」
「あぁ!隣にいた人?」
「まぁ……」
「友達?」
「恋人です」
「セフナ……!」
ヒョン、遅いから僕も来ちゃいましたよ。
そう言って、セフンはふてくされる様に口をとがらせて、俺の肩に腕を回した。
「あ……あぁ、悪い!」
「ヒョン、もしかして知り合いだったんですか!?」
「え?あぁ、まぁ……高校の同級生」
「マジで!?」
僕ファンなんです、とセフンは俺の肩から腕をほどくとジョンデに向かって握手を求めた。
ジョンデは驚いてるのか、ポカンとしてたけど、セフンからの握手に恥ずかしそうに応えている。酷く不思議な光景だった。軽くなったはずの肩には小さな罪悪感が乗っかっている。
「チェンくん!」
あ、いたいた!と確かバックバンドでギターを弾いていた人がジョンデを呼びに来た。
「あ、ごめん!どうかした?」
「スタッフが呼んでる」
「うん、了解~」
用件だけを告げて、その人は消えていく。
「あ、じゃあ俺らもそろそろ行くわ」
「うん、」
そんなタイミングかなと思って声をかけ、その場を離れようとすると、「ベッキョナ、」と腕を掴まれたので振り向いた。セフンも少し行ったところで立ち止まっている。
「ねぇ、連絡先教えて。ベッキョナ携帯変えたよね?」
「うん、あぁ……」
なんとなくセフンが気がかりだったけど、連絡先を交換した。
連絡するね、と言うので、「あぁ」とだけ答えてセフンの元へと駆け寄った。
「悪い」
「……ヒョン、僕ヤキモチ焼きだってちゃんと覚えてますよね?」
そう言って、セフンは得意の笑顔でにこりと笑う。
少しだけ背筋が凍るかと思った。
それなのに。
ジョンデから連絡が来たのは、2日後のことだった。
俺は大学で授業を受けてる最中で。飛んで来たメッセージを見て隣にセフンがいなくてよかったと胸を撫でおろした。
─── 暇なら飲みに行かない?
いいよ、と返してから今日セフンがアパートに来ると言っていたことを思い出した。
結局悩んだ末に俺が開いたのは、セフンのトークルームだ。
─── 悪い、今日用事出来たからまた今度な。
すぐについた既読のあとに、セフンから "OK" という可愛いスタンプとプンプンと怒っているスタンプが届いて、俺の心臓にはちくりと罪悪感が刺さった。
それは意外と深くて、俺は慌ててごめんのスタンプを送った。
講義を終えて指定された居酒屋に向かう。
奥の座敷ではジョンデが笑顔で手を振っていた。
「ベッキョナ!」
「悪い!遅くなった」
「いや、僕が早く来すぎただけー」
ビールでいい?と聞かれて、俺はたいして飲めないくせに咄嗟に「おう」と頷いていた。
「大学生って忙しいの?」
「いや、もう4年だしそうでもないよ」
「ふーん」
「それよりお前さぁ、やりたいことってこういうことだったのかよ」
「ふふふ、まぁね」
「言ってくれりゃ良かったじゃん」
「だって恥ずかしいし」
枝豆をつまんで皮を捨てながらあの頃と同じ笑顔でジョンデは笑う。
どうしてそんなに変わらないでいられるんだ。大人になるとか、成長するとか。ジョンデといると俺が必死に焦がれてしようとしていることが酷く上部だけのことに思える。昔からそうだ。こいつといると、不意に劣等感に襲われそうになる。
久し振りに見たジョンデの笑顔は、あっという間にこの居酒屋を田舎の風景へと切り変えた。それは春の陽射しが射す教室だったり、夏の風が頬を擽るあの帰り道だったり、秋の夕日が照らすジョンデのあの部屋だったり、雪玉を丸めてぶつけ合った雪の日の校庭だったり。
いつも一緒にいた何気なくて、それでいて尊いあの季節へと還っていく。
むず痒くて、甘酸っぱい気持ちと一緒に───
「ねぇ、もしかしてベッキョナってお酒弱い?」
「うるせー!お前のペースが速いんだっつーの!」
店を出た頃には俺はすっかり出来上がっていて。千鳥足もよろしく、同じく酔っ払いのジョンデに抱えられてようやく歩いている状態だった。
「はは!なんか懐かしいね」
「何が?」
「ベッキョナのその言い方。昔もよくそうやって煩かったなぁって」
「はは~!だろ?」
結局ジョンデは酔っぱらいの俺をアパートまで送ってくれた。
駅からの道を歩いているとき、この道があの ── 昔二人で歩いたあの帰り道と似てるかもしれないことに、どうか気づかないでほしいと必死に願った。
「あそこー!あのアパートの2階のあの真ん中の部屋!あれが俺様の部屋!」
アパートの前に着いて、自分の部屋を指して。当たり前だけど電気がついていないことにホッと胸を撫で下ろした。
「入れよ!」
「いいって、もうすぐ終電だから間に合わなくなる」
「いいだろ!そんなこと言うなって!」
アルコールのまわった頭には、ただこいつと離れたくないという思いしか残っていなかった。
離れたくない。
あの時みたいに、じゃあねって笑顔で手を振られたくなんかないんだ。
無理矢理腕を掴んで引き摺り込んだジョンデは、しぶしぶと靴を脱いで部屋にあがった。セフンと買ったソファーにジョンデが座る。悪いことだなんて微塵も思えなかった。