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解けない魔法

side ジョンデ





一人取り残された喫茶店で、僕は手の中の携帯電話を見つめた。

登録された"ビョンベッキョン"の文字。

僕には今、何が起きていたんだろう。
あのビョンベッキョンに僕の歌を聴かれていて、しかも感動したとまで言ってくれた。また聴きたいから次の出番が決まったら教えてくれ、と。
あのビョンベッキョンが、僕に向かって笑っていたんだ。喉を通ったクラブサンドの味も、飲み慣れたコーヒーの味も、何一つわからないまま胃に収まっていった。

ふと目に入った時計に慌てて、僕は急いで図書館へと戻った。






僕の出番の予定が決まるよりも先に、ビョンベッキョンから「飲みに行こうぜ」とメールが来て、僕たちは仕事帰りに飲みに行くことになった。
あり得ない事態だ。あの頃の僕に教えてあげたいくらい。僕は今、ビョンベッキョンのキラキラの中にいるよって。
彼の世界は思ってた通りキラキラと眩しく光っている。その垂れた瞳はいつでも悪戯を含んでいて、彼のする話は飛び抜けて楽しかった。




「人生でこんなに笑ったことないかもしれないです」

腹を抱えてそう言うと、「歌ってるときのお前だって楽しそうに笑ってたじゃん」って返されて、僕は戸惑いを浮かべた。


「だからきっと聴いてる方まで楽しくなるんだろうな」


図書館にいるときとは別人みたいだな、ってビョンベッキョンの低い声が掠れて響く。僕はなんだか急激に恥ずかしくなって、モジモジとうつ向いた。
程よくアルコールの回った頭は妙に夢心地で。どくどくとうるさい心臓も、夢みたいなこの空間も、目の前で笑う君の顔も。すべてが夢の中みたいだ。


「そういえば、次の出番が決まりまして……」
「おぉ!いつ?」
「えっと、来週の金曜日……少し遅くて9時半からなんですけど……」
「あーうーん、9時半だったらギリギリ間に合うかな!むしろ俺に合わせてくれたような時間?」


なんてな!ってビョンベッキョンは笑顔で返してくれて、僕は安堵の溜め息を漏らした。


「よかった、です……」
「あ!そのさ、それ!敬語やめようぜ!」
「あ、や、でも……」

突然の申し出は、僕にとっては余りあるほどのもので。

「そもそも同級生なのに敬語っておかしくないですか~?」

ビョンベッキョンは、ふざけたように笑う。

「あ、う、うん……」

こくりと頷くと、眼鏡がカタリとずれた。
それを見てビョンベッキョンはさらに笑うし、僕はとてつもなく恥ずかしくなる。とにかくもう、テーブルの下にでも隠れてしまいたい気分だった。


「おいジョンデ!」
「は、はい……!」
「特別にお前には"ベッキョナ"って呼ぶことを許してやる!」
「え……?」
「早く呼んでみたまえ」
「あ、あぁ、うん……ベッキョナ……」


モジモジと呟くと、「いいねぇ」なんて笑ってビョンベッキョンも恥ずかしそうにこめかみの辺りをポリポリと掻いていた。僕もアルコールも手伝ってか心臓がどくりと跳ねて、どんどんと顔が赤くなっていくような気がした。



ベッキョナ───って、呼んじゃった。






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sideジョンデ





キムジョンデの破壊力は恐ろしい。


あの歌声を聴いたとき。
赤く染まった耳元を見たとき。
くしゃりと崩れた笑顔を見たとき。
俺の名前を呼んだとき。


俺の血管を通る血液は沸騰して、ごくりと唾を飲み込むことになる。
掛けられた魔法が何なのかを、俺は知りたいような知りたくないような、複雑な気持ちになるんだ。




そうして迎えた金曜日の夜。


「ここいいっすか?」
「……どうぞ」


ギリギリセーフで滑り込めば、ちょうどスタンバイを終える頃で、俺は慌てて空いている席に座った。


マイクを握りミネラルウォーターで喉を潤し準備をしていくジョンデを見て、自然と笑顔がこぼれる。なのに向こうは俺に気付いていないのか、目が合わないことに少し苛々した。

ひとまず寄ってきた店員にビールを頼んでまたステージの方へ向き直そうとすると、何やら視線を感じて横を見た。

相席させてもらった男だ。

ぎょろりと目を見開いて、ひたすらに俺を見ている。「なにか?」と問うと男は漸くパチリと瞬きをした。


「……いえ」


なんだコイツ。
僅かに首をかしげつつも、意識はステージへと向かう。さぁ、ジョンデの歌声を堪能しよう、とステージの方へ体勢を戻した。
が、やっぱり何かが引っ掛かる。



「───あ、」


思い出した。


「もしかして、ギョンス……?」


だよな?チャニョルと同じ中学出身で、ジョンデと仲が良かったって言っていたギョンス。確かにこんな目をしていたような気がする……


「え……!?」


ギョンスが口を開こうとした瞬間、ピアノの音が鳴り響き意識が飛んでいった。


ピアノとウッドベースの絡み合う前奏のあと、艶のある歌声が響く。昼間、丸眼鏡越しに見ていた瞳が遮るものもなく閉じられ、長い睫毛が綺麗に広がる。


甘い、歌声だった。


その歌声に、姿に、ビリビリと電流が流れていく。別人のようで同一のようで。けれど思考が混乱する間もなく電流は流れ続ける。
絡め取られていく意識の底で、淡い何かが疼いていた。


深い海の底に、光が差し込んだ瞬間だった。





「あの、僕のこと知ってるの?」


休憩の合間に遠慮ぎみにギョンスに話しかけられた。


「あー……チャニョリが同じ中学だって言ってたから」
「チャニョルが……?」
「うん、そうだよな?」
「うん……他に……他に何か言ってた!?」
「いや?あぁ!あとジョンデと仲良いって」
「ジョンデ……ジョンデのことも知ってるの?」
「知ってるっつーか、まぁ、親しくなったのは最近だけど」
「親しいの!?」
「うん……?」


何か言う度に目を見開いて驚いているギョンスが不思議で、妙に笑いがこぼれた。

そうこうしているうちにまた演奏が始まって、たちまちに海の底へと引きずり込まれる。



演奏が終わって拍手の波の中、ジョンデは照れくさそうにはにかんでお辞儀をしていた。俺も同じように沢山の拍手を贈る。
ほんの瞬間、今日初めて視線が重なったような気がして、心臓が飛び跳ねた。
どうしようもなくざわざわとして笑顔がこぼれる。

隣のギョンスを見やれば、グラスを飲み干して帰る支度をしていた。


「帰んの?」
「うん」
「あいつのこと、待たないの?」
「君は……待つの?」
「まぁ、そのつもり」
「何時になるか分かんないのに?」
「適当に潰す」
「そう……じゃあ僕はお先に」


結局ギョンスは帰ってしまって、閉店のあとはひとりで店の前のガードレールに腰かけていた。



side ジョンデ




多分、ベッキョンが来ていた。
いや、行くって言ってたし。

眼鏡をしていないせいでお客さんの顔はほとんど分からないけれど、雰囲気で、多分あの人だった。あまり意識したら恥ずかしくなってしまうので最後まで意識しないようにしていたけど、歌い終わった最後、拍手の波の中で彼を見つけた。


堪らなかった。


彼のくれる拍手が、笑顔が、視線が。堪らなく嬉しくて心臓がぎゅっと締め付けられた。


いつものように片付けを手伝ってお店を出る頃には12時もまわっていて、心地よい疲労が全身に伝わる。帰ったらメールでも送ってみようか、なんて。どんな返事が来るのかを想像すると、またふわりと気分が浮き上がった。


そんなことを考えながら半地下のお店から狭い階段を登って地上に出ると、

目の前にはそのビョンベッキョン────


僕は思わず立ち止まって息を飲んだ。



「よっ!お疲れ!」


ひらひらと掲げる掌から伸びる指先は、昔と変わらず、いつ見ても綺麗だ。


「……なん、で」
「なんでって、待ってたからに決まってんじゃん!」


あはは!と深夜の路地に彼の低く掠れた声が優しく響く。


「僕、を?」
「他に誰がいんだよ」
「だって……終電ももうないのに……」
「ん?あぁ、そっか」
「そっかって……」


信じられない思いで立ち止まってる僕に、ベッキョンは腰かけていたガードレールから立ち上がって、僕の前に立った。


「やっぱお前の歌すげぇな!」
「……ありがと」


突然の褒め言葉に照れくさくてうつむくと、ベッキョンは「それだけ言いたかったんだ」って言って笑った。


「て、ことだから!じゃっ!」

「え……!」


背中を向けて立ち去ろうとするベッキョンを見て、僕は慌てて腕を掴んだ。


「待って……!」
「なに?」
「あの……電車、もうないよ?」
「ん?あぁ……はは!」


もう終電も出ちゃった後なのに。この前聞いたベッキョンの家は確かここからじゃ結構遠かったはず。



「あの、よかったら……家に来る?」



今僕は、僕の口は───結構な言葉が飛び出た気がする。



「え……あ!ごめん!何でもない!」


慌てて否定したのに、ベッキョンは笑っていて。けれどちょっとだけ耳の縁が赤くなっていたような気がしたから、僕は余計に恥ずかしくなったし、妙な期待をすることになった。


「マジで……?いいの?」
「や、いいっていうか……狭いし汚いけど、それでもいいなら……ここから近いし……」


「……じゃあ、そうする」



妙な間を開けて、ベッキョンはそう言った。



「うん……」



ビョンベッキョンが家に泊まるなんて……あの頃じゃ考えられなかった。こんな風に面と向かって話していることさえ……




家までの道中は、やっぱり妙な空気が流れていた。


「そういえば、ギョンスに会った」
「ギョンス……?」


あぁ、そうか。ギョンスのことは知ってるんだっけ。なんてギョンスに対して妙な嫉妬を覚えそうになって、慌てて思考を振り切る。


「たまたま座ったら隣の席だったんだ」
「そうなんだ」
「あいつ変わってねぇな!」
「そう?」
「うん、高校の頃のまんまだった!」


何かを思い出したのか、ベッキョンは楽しそうに笑っている。その頃、その隣に僕もいたんだけどな、なんて……


「そういえばさぁ、眼鏡外してて見えてんの?」
「ううん、見えないよ」
「は?ダメじゃん」
「いいんだ。見えると緊張しちゃうから」
「はは!なんだそれ」
「だって……人前に立つのとか、慣れてないし……」
「あぁ、だからか!」
「……?」
「全然こっち見ないから、おかしいなって思ってたんだ」
「あ……ごめん……」


ベッキョンがそんなに僕を見ていてくれてたなんて、信じられないし申し訳なくなる。あの頃はいつだって見るのは僕の方だったのに。キラキラと光を纏う彼を、僕はいつだって見つめているだけだった。


ジョンデ、と君に呼ばれて、僕を見て笑って、並んで隣を歩けるようになるなんて。



side ベッキョン





「狭くてごめんね」と言って通された部屋は、キムジョンデらしい綺麗に整えられた部屋だった。


「全然汚くないじゃん」
「そう、かなぁ……」


ぎこちない返事が返されるたび、見てみれば耳元は赤く染まっていて。どくりと心臓が飛び跳ねて、そわそわと落ち着きなくなる。


「適当に座って寛いでくれていいから」
「うん、サンキュ」


棚の上の時計に目をやれば、もうすぐ1時を回ろうとする時間だ。


「明日、仕事?」
「いや休み。ジョンデは?」
「うん、僕も」
「じゃあゆっくりできるな」
「うん。起きるのは何時でもいいよ」


いたたまれずに適当に座って、帰りがけに寄ったコンビニで買ったビールを開けて一気に流し込んだ。苦い泡が喉を擦っていく。

ぐるりと見渡したジョンデの部屋は、よく見ると沢山の本が積み上げられていて、本当に好きなんだなぁ、って感心した。ジャンルが統一されてないのは仕事柄だろうか。職場でも沢山の本に囲まれているのに、家でもそうなのだから、大したもんだ。


「あ、うちの会社のだ」
「え?あぁ、そっか。出版社なんだっけ」
「うん、ペーペーだけどな!」
「はは!そんなの僕だって一緒だよ」


「よかったらこれ着て」とスエットを渡されて、ありがたく受け取る。背中越しにジョンデも着替えているのが伝わって、妙な心地になった。


「僕も飲んでいい?」


着替え終わったジョンデは、図書館で見たのともバーで見たのとも違って、リラックスしたキムジョンデというひとりの男だった。


「どうぞ」と袋から取り出して渡すと、「ありがとう」と言ってくしゃりと笑う。緊張が解かれて、細くつり上がった瞳とへにゃりと下がる眉。
ドキン、と一際大きく心臓が跳ねた。



あー……あぁ……あぁぁぁぁぁ!



ガタンと音がしたのは、俺の体がテーブルにぶつかったから。


それから、キムジョンデの体が俺の体にぶつかったから。



咄嗟に掴んだ腕を引き寄せて抱き寄せた体は、腕の中でびくりと震えた。


そのままどれくらいの時間が経ったんだろう。


10秒だったのか、10分だったのか。
きっとその間だ。



我に返って体を離すと、ジョンデはポカンと呆けていた。


「……は、はは!ははは!ご、ごめん!」


なにやってんだ俺、なんて呟いてひきつった顔でビールを煽った。
じろりと横目で見たジョンデはいまだ固まって呆けたままだ。


気まずい空気が俺たちの間を支配する。



それを破るように、


「ベッキョナ───」


今度はジョンデが呟いて、


「あ?」なんて気まずげに返事をした瞬間。



ジョンデの唇が、俺のそれに重なっていた。


頭が真っ白になって、今度は俺が呆ける番だ。


ちょっと待て!
なにが、起こった!?




パニくる俺の前には、何とも表現し難いジョンデの顔。重なり続ける視線。バクバクと跳ねる心臓の音。じわりと湧き出る変な汗。




あぁ、そうか。そういうことか。




魔法って……




赤く染めた耳たぶにそっと触れると、ジョンデはびくりと震えて瞳が揺れた。

そのまま首もとにずらして、ゆくっくりと顔を寄せる。

流れるように伏せられた瞳に生える長い睫毛は、近くで見るとさらに綺麗に見えた。



あぁ、俺。
キムジョンデとキスしてる……



かけられた魔法の正体は簡単だ。
恋に落ちていたという、ただそれだけのこと。



ゆっくりと唇を離せば、至近で視線が絡まって。堪らずにまた口付けた。



ぎゅっと握られた服の裾。
深海の中でふたりだけ。
遥か向こうでゆらゆらと揺れる海面の向こうには、地上の灯りがぼんやりと霞む。

そのまま押し倒すと、ジョンデは腕で目元を覆った。



「ベッキョナ、」


色を含んで呟かれた俺の名前。


「なに……?」


喉がひきつってうまく声がでない。


「───好き……好きだったんだ……君のこと」
「え……?」
「ずっと……高校の頃からずっと、君を見てた」


高校の頃から……?
口許だけが露になったジョンデの顔を見下ろして思わず固まる。
だって俺は、お前のことなんて知らなかったから。


「図書館に来たとき、ビックリして心臓が飛び出るかと思った……声をかけてくれたときも……さっきお店の前に立ってたのを見たときも……心臓が飛び出そうで、夢みたいだった……」


泣きそうな声で呟いていくジョンデの声を聞いて、俺の方こそ心臓が潰れそうに苦しい。


「ずっと君に近付きたかった……君のキラキラを追いかけて、その中に入りたかった……それが何なのか、今やっと分かったんだ……」


堪らずにその腕を解くと、瞳の上にはゆらゆらと揺れる水の膜。
俺たちの海面はそこにあったのか。

今、ゆっくりと顔を出す。
優しい光が灯るその地上へ。



「お前、すげぇな」
「なに、が……?」
「ヤバいわ。どんどんハマる」
「え……?」
「初めてお前の歌を聞いたときから、ずっと居座ってんだよ。お前のことが。なんで高校の時知らなかったんだろうって、今すげぇ悔しくなった」


はは、って笑うと、ジョンデも恥ずかしそうに笑みをこぼして。


そうして俺たちの唇は、また重なった。



かけられた魔法は解かれて、地上に上がると愛に変わった。



それはもう、解けない魔法───




おわり
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佐倉様ありがとうございました^^
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