解けない魔法
さくみど企画
リーマンベッキョン×図書館司書ジョンデ
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こちらのお話は、オバドズ内の☆至福部屋☆にある、同タイトル作品の続きになります。
いきなり始まりますので、以下は先にそちらを読んでから読まれることをおすすめいたします。
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side ベッキョン
店員に案内されて席につくと、とりあえず二人してビールを頼んだ。奥のステージ付近では、ざわざわと人の出入りがあって、ようやく演奏の準備が始まったようだ。いい時間に来たなぁ、なんて。
生バンドを聴きながら飲むのもたまにはいいかもしれない。普段の生活じゃあ、クタクタになるまでこき使われて心の休む暇もないくらいだから。
照明が点くと、客席からは拍手がこぼれた。俺も遅れを取らないようにグラスを置いて慌てて拍手をした。
センターのマイクを持ったボーカルが丁寧にお辞儀をして、上げた顔はどこかで見たことがあるような同い年くらいの男だった。細いし、ちっこいし、ちゃんと歌えんのかよ。なんてたった今考えた自分を殴ってやりたい。
ピアノが響いてゆったりとしたジャズバラードの前奏が始まったと思ったら、声を発した瞬間、息を飲んだ。
どうやら俺は、その声に魔法をかけられた。
ピクリとも動かない身体で、必死に耳を傾ける。他の客なんか一気に見えなくなって、そいつと俺と二人だけの世界にいるみたいだ。響くウッドベースは俺の心臓の音だろうか。艶のある歌声が、耳を通って脳ミソに刻まれていく。閉じた瞳に広がる長い睫毛。苦しそうに下げられるハの字の眉。首元を這う血管まで。視覚も聴覚もすべてを奪っていく。
深い、深い海の底にいるようだった。
「……ク…………ベク……?」
「……ん?なに?」
「いや、どっか行っちゃってたから」
俺の目の前でチャニョルはヒラヒラと手を振っていて、ようやくここがジャズバーだと意識を取り戻した。
「上手いな、あいつ」
「あ、あぁ……そうだな……」
慌てて掴んだビールのグラスはじっとりと汗をかいていて、コルクのコースターには染みが出来ていた。
苦味のある泡が喉に貼り付いて流れていく。
ごくりと飲み込むと、ひんやりとしたそれが自棄に気持ち良く思えた。
ステージを見やれば楽しそうに次の曲を紹介していて、その笑顔にまた俺の心臓は撃ち抜かれていた。心が、どっか遠くに放り投げられてしまったみたいに、俺はその後もずっと自分じゃないみたいだった。明るくてお調子者で盛り上げ上手のビョンベッキョン。いつもの俺はどこ行った?
帰り道、ぼんやりとしながらチャニョルの横を歩いていた。あの声が、耳から離れない。楽しそうに、気持ち良さそうに歌う姿。全身で刻んでいくリズム。呼吸するように歌っていた。こんな衝撃は初めてで、今まで聴いたどんな歌よりも、俺の心臓を掴んで離さなかった。
「あいつさぁ、」
チャニョルが急に難しそうな顔で口を開く。
思考が飛んでってた俺は、びくりと震えてチャニョルを見上げた。
「あいつ?」
「うん、さっき歌ってた奴」
「あ、あぁ……」
たった今まで俺の頭を占めていたそいつのことを持ち出されて、思わずどくりと心臓が跳ねる。
「多分、同じ高校の奴だよ」
「え────」
思いもよらない言葉に立ち止まる俺には構わず、チャニョルは話を続ける。
「多分だけどさぁ、ギョンスといつも一緒にいた奴。覚えてない?いっつも図書室でギョンスと本読んでた……ほら、なんだっけ……ジョン……ジョン……」
あー!何だっけ!?とチャニョルは頭を掻きむしっているけど、俺はさっぱり分かんない。"ギョンス"とは、確かチャニョルと同じ中学の出身の奴だ。クラスは同じになったことがないとかで、チャニョル自身も親しいわけでは無さそうだった。だから尚更俺には面識がない。そんな奴もいたなぁ、なんてくらいだ。そいつといつも一緒にいた奴?そんな奴いたかなぁ……
思い出そうとしても、さっぱり浮かんでこなかった。
「あぁ!ジョンデだ!キムジョンデ!」
「ふーん」
キムジョンデ?どっかで聞いたような名前だけど、どこにでもありそうな名前だ。
「でも違うかも」
「は?」
「だって全然違うもん。そいつ、あんな人前で歌ったりするような奴じゃないし」
気のせいかも、とチャニョルは笑っていて、俺は「なんなんだよ!」ってチャニョルの腕にグーパンチをした。
じゃれあう俺たちの間を、夏特有の生ぬるい夜風が、するりと頬を撫でて通り抜けていった。
side ジョンデ
「お疲れさまでしたー」
閉店後の店内で楽器の片付けを手伝って店を出たのは、もう時計がてっぺんを回って一時間ほど経った頃だ。
今日も楽しかったなぁ、なんて。
僕は歌と出会えて良かった。世界が一変した。それまでのつまらなかった世界じゃなく、キラキラと───そう、彼を取り巻いていた楽しそうな世界へ、少しかもしれないけど近づけた気がするから。
目の悪い僕は裸眼じぁあぼんやりとしか客席は見えない。ましてやムードのある薄暗い店内とあっては、奥の方なんてちょっとうつ向いているだけで影がかかって顔なんて全然見えない。だけど突き刺さる視線と、息を飲む音、それに暖かい拍手。それが僕をキラキラの向こう側へと連れていってくれるんだ。
ビョンベッキョンがいた、あの世界へと。
あの頃、必死に追いかけて掴みたかったもの。ふわりと纏う彼のキラキラ。甘酸っぱい懐かしさは、直ぐ様先日の彼を思い出させた。
あの、ビョンベッキョンが本を借りに来たあの日以来、僕は返却の日を今か今かと待ちわびていた。
僕のいる日だったらいいなぁとか、ましてやカウンターに居るときだったらいいなぁとか。久しぶりに見た彼は、やっぱりキラキラとした空気を身に纏っていて、あの頃と変わらない垂れた目元を思い出しては心が温かくなった。
「ギョンス!」
立ち上がって手を上げると、高校時代の友人ギョンスが、ぱぁっと笑みを浮かべて近づいてきた。
「遅くなってゴメンね」
「ううん、大丈夫。忙しそうだね」
「なんだかね」
久しぶりに連絡をしたらちょうど予定が合いそうだったので、仕事帰りにでも飲みに行こうと誘ったのは僕の方だった。会うのは多分半年くらいぶりだ。最後に会ったのは大学を卒業する前の冬で、就職したらなかなか会えなくなるねぇ、なんて話したんだ。けれどその予感はやっぱり当たったようで、機械メーカーの事務職に就いたギョンスはとても忙しそうだった。
「仕事どう?慣れた?」
「うーん、まだまだ難しいよ。覚えるので手一杯。ジョンデは?」
「同じくー。覚えることたくさんで。ようやくまともに業務が出来るようになってきたって感じかなぁ」
「でもずっとやりたかった仕事でしょ?」
「まあね」
司書の仕事は、僕がずっとやりたかった仕事だ。慣れ親しんだ図書館の空気、本の匂い。いつからかその中で僕も働きたいと思っていた。実際働いてみれば、表に見えていた以上に体力勝負だし細かい業務も多い。専門外の勉強もしなきゃいけないし、日々勉強だ。それでもやっぱり変わらず本は僕を特別な世界へと導いてくれる。だから僕は本を読むんだ。
「あ!そうだ!そういえばね、」
グラスを置いて声をあげれば、ギョンスは驚いたのか大きな目を見開いた。
「あはは!驚きすぎだよ」
「だって急に声あげるから……」
「ごめんごめん!それでね、そういえば、」
この前ビョンベッキョンが来たんだ!
言うと、ギョンスはまたさらにひときわ大きく見開いた。
「ビックリして全然見れなかったけどね」
「そうなんだ」
「うん。緊張して吐くかと思った」
あはは、と笑うと、ギョンスも苦々しく笑う。
ギョンスは、あの頃僕がビョンベッキョンばかり見ていたことを知っている唯一の友人だ。どこそこで見かけたとか、今日はどうだったとか、逐一報告する僕の話を、あの頃も鬱陶しそうに聞いてくれていたっけ。
「全然変わってなくてさ、やっぱりビョンベッキョンはキラキラしてたよ。僕さぁ、不思議なんだ。どうして彼の周りだけがキラキラとしてるんだろうってね」
「そんなの……」
ギョンスは言いかけて口を閉じた。
「なに?」
「いや、何でもない」
「なんだよそれ~」
変なギョンス、って笑って卵焼きをひとくちつまむ。
「そういえば、歌続けてるの?」
「うん。こないだも歌ってきたところ」
「そうなんだ。次出るとき教えて。行けそうだったら行くから」
「うん、ありがとう」
僕が歌と出会ったのは、大学に入ってからだ。自分の世界を変えてみたくて入った音楽サークルで、そこの先輩だったミンソギヒョンに勧められたのだ。お前上手いんだな、って。もっと人前で歌ってみろ、って。そう言って紹介してくれたのが、今のジャズバーだった。僕はそこで初めて本以外の、"歌"という楽しみを覚えた。キラキラとしたあの世界が掴めそうな気がしたんだ。
ギョンスも学生の頃はたまに顔を出してくれていた。ステージに上がることは内緒にして初めて呼んだときは、驚いてやっぱり目を大きく見開いていたっけ。君にそんな趣味があったなんて知らなかったよ、って戸惑いながら言っていたのをよく覚えている。
就職してからはステージに上がる頻度もだいぶ減ったけど、それでも毎日のように繰り広げられているステージに、僕も月に二、三回は出させてもらっている。仕事との兼ね合いも取りながら、それでも続けられたらいいなぁ、って。そこでは僕は、何者にでもなれるから。
僕じゃない僕が待っているんだ。
side ベッキョン
「ベッキョナー」
「はいはい!」
「これ、使い終わったから戻してきて。ついでに今度はこれね」
部の先輩であるジュンミョニヒョンに渡されたのは、つい数週間前借りてきた分厚い専門書と一枚のメモ紙だ。あぁ、くそ暑い中またおつかいかよ、なんてげんなりとしながらもそんな事はおくびにも出さず、いつもの笑顔を振り撒いてそれを受け取った。
ビルを出ればムッとする熱気。どこからかジリジリと蝉の声が聞こえて、こんなビル街にも蝉とかいるんだなぁって。
なるべく日陰を歩いて地下鉄に乗り、向かったのは先日の図書館。
重たい鞄を抱え直して時計を見れば、昼なんてとっくに過ぎていて、帰りに飯でも食って帰るか、と道中にある店の看板に目を光らせた。
図書館の手前に洒落た喫茶店を見つけて、お!ここにすっか!なんて思わず鼻唄がこぼれる。
その前にとっとと用事を済ませてしまおう。
俺は勇んで図書館へと足を踏み入れた。
あぁー、やっぱり涼しい。図書館って最高だな。受験生が入り浸るのもよく分かる。って、俺にはそんな思い出はさっぱり無いけど。
カウンターに行くと、この前の男が座っていた。相変わらず丸眼鏡にエプロン姿で真面目そうに仕事をしている。
「返却と、あとこれお願いしたいんですけど」
そいつの前で鞄から本を取り出し、メモ用紙を見せた。本を確認するとバッと音がしそうな勢いで頭を上げたそいつは、前回と同じように一瞬大きく目を見開いた。
それからすぐにうつ向いて本を受けとると「期間内のご返却ありがとうございます」と定型句を口にして、すぐにパソコンに向かい返却の手続きと、それから受け取ったメモを見てまたパソコンを操作し始めた。俺は、ぼんやりとその横顔を眺める。
あ、睫毛長ぇなぁ。
「お待ち下さい」と席を立った後ろ姿に目をやった。
何か、重要なことが引っ掛かっているような気がした。
そいつが持ってきた専門書はやっぱり分厚くて。結局帰りも重いのかよ、って心の中で愚痴る。
財布からカードを出して差し出せば、「ありがとうございます」と返事が来た。バーコードを読み取っていく姿を眺めながらふと目についたのは、やっぱり丸眼鏡の奥の長い伏せられた睫毛で。それから視線をずらして目に留まったネームプレート。"キムジョンデ"の文字。
なんだっけなぁ。
引っ掛かっているもの。それを取り去るように必死に思考をなぞる。頭の中に聞こえてきたのは、なんと悪友チャニョルの声だった。
『ジョン……ジョン……』
『あー!なんだっけなぁ!?』
『あぁ!ジョンデだ!キムジョンデ!』
「───キムジョンデ?」
思わず漏れていた声を拾ったのは、向かいに座るその男だった。
またしてもバッと音がしそうな勢いで頭を上げて、その視線と重なった。
「あ、ゴメン」
「いえ……」
気まずい空気を振り切るように「二週間後の返却になります」とキムジョンデは本を差し出す。俺はそれを受け取って、鞄へと詰め込んだ。「ありがとうございました」と掛けられた声に小さく会釈して背を向ける。それから踏み出そうとした一歩は───、失敗に終わった。
くるりと向き直ると、そいつはまた驚いていて、目があったことに俺も驚いていた。この前も今日も、顔なんてほとんど上げなかった癖に。普段は顔上げてるのかよ、なんて。
まぁ、そんなことはどうでもいい。
「な、にか……?」
「いやあの……あのさぁ、人違いかもしれないんだけど、」
いや、そんなハズはない。
キムジョンデという名前も。丸眼鏡の奥に並ぶ長い睫毛も。徐々に下がりだした眉毛だって。きっとあいつだ。
身構えるそいつに向かって、俺は言葉を続けた。
「もしかしてこの前、ジャズバーで歌ってました?」
「え───」
大きく見開かれた丸眼鏡の奥にある瞳が、微かに揺れたのが分かった。
間違いない。
この、目の前の真面目そうな男は、あの日とても楽しそうに歌っていたあの男だ。
「だよな?うん、そうだお前だ。キムジョンデ」
「どうして……」
ぼそりと呟かれた言葉を拾って、にやりと笑いかける。
「すごい記憶に残ってたから。お前の歌」
「そう、なんですか……」
「あ、あんまり喋ってたら怒られるか。悪い」
「いえ、」
「あ、休憩とかある?俺、帰りにそこの喫茶店で飯食って帰ろうと思ってたんだけど」
ベラベラと調子のいい口が、いつも以上に回っていて止められなかった。気づいたときには「待ってるから」なんて言っていて、図書館を出た瞬間我に返った。
何言ってんだろ、俺。
来るわけないよな、って苦笑しながら結局はその喫茶店に入って、軽食を摘まんでいた。
カランコロン、と音がしてドアが開くたび、心臓が跳ねた。来るかな、とか。来ないよな、とか。どうしてこうも心臓が跳ねるのか不思議で仕方ないくらい、ワクワクとドキドキが入り雑じる。
そうして何度目かのドアが開いたとき、エプロンを外したキムジョンデがキョロキョロと辺りを見回していて、俺を見留めると小さく頭を下げたもんだから、思わず笑いがこぼれた。
席の近くに来ると、キムジョンデは申し訳なさそうな姿で立った。
「お待たせしてすみません」
「はは!俺が無理矢理誘ったのに?座りなよ」
「……じゃあ」
遠慮がちにちょこんと座るキムジョンデに「休憩?」と聞くと「はい、お昼まだだったので」と、やっぱり申し訳なさそうに眉を下げる。
「なにか頼めば?」
「あ、はい……じゃあ……」とメニューを眺めて店員を呼んで、コーヒーとそれから俺も食べていたクラブサンドを頼んでいくキムジョンデを、俺はじっと眺めていた。
「あの……えっと……」
もぞもぞと居心地悪そうにうつ向いてしまったキムジョンデを見て、思わず笑いがこぼれる。
「いつも歌ってんの?」
「いえ、たまにです。月に二、三回くらい……」
「へぇ~。じゃあ俺ラッキーだったんだ」
「え、」
「だって初めて行った時だったから」
「あ、えっと……ありがとうございます……」
耳の縁を赤くしていくキムジョンデを見て、思わず自分まで耳が赤くなった。
それを誤魔化すように、俺の口はまた動く。
「そういえば、俺たち、同じ高校だったらしいんだけど、覚えてる?」
「え……」
「一緒に行ってた奴がさぁ、パクチャニョルって背の高いやつだったんだけど、そいつがお前のこと覚えてて。何だっけ……あぁ!ギョンス!ギョンスと仲良かったんだろ?」
「…………!」
「そのギョンスってのとチャニョルが同じ中学だったみたいで、一緒にいたお前のことも覚えてたんだって!ってことで、俺は全然記憶にないんだけどさ!」
ははっ!と笑うと、キムジョンデもようやく笑顔を見せた。
「まぁ、そんなことはどうでもいいってゆーか、なんて言うか……とにかくさ!俺、お前の歌に感動したから、だからまた会えて嬉しかった……みたいな?はは!」
感動、だなんてそんな簡単な一言では表せられないほどの衝撃だったのに、俺の脳みそは陳腐な言葉しか生み出さない。
くすぐったくて、照れくさい時間だった。
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リーマンベッキョン×図書館司書ジョンデ
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こちらのお話は、オバドズ内の☆至福部屋☆にある、同タイトル作品の続きになります。
いきなり始まりますので、以下は先にそちらを読んでから読まれることをおすすめいたします。
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side ベッキョン
店員に案内されて席につくと、とりあえず二人してビールを頼んだ。奥のステージ付近では、ざわざわと人の出入りがあって、ようやく演奏の準備が始まったようだ。いい時間に来たなぁ、なんて。
生バンドを聴きながら飲むのもたまにはいいかもしれない。普段の生活じゃあ、クタクタになるまでこき使われて心の休む暇もないくらいだから。
照明が点くと、客席からは拍手がこぼれた。俺も遅れを取らないようにグラスを置いて慌てて拍手をした。
センターのマイクを持ったボーカルが丁寧にお辞儀をして、上げた顔はどこかで見たことがあるような同い年くらいの男だった。細いし、ちっこいし、ちゃんと歌えんのかよ。なんてたった今考えた自分を殴ってやりたい。
ピアノが響いてゆったりとしたジャズバラードの前奏が始まったと思ったら、声を発した瞬間、息を飲んだ。
どうやら俺は、その声に魔法をかけられた。
ピクリとも動かない身体で、必死に耳を傾ける。他の客なんか一気に見えなくなって、そいつと俺と二人だけの世界にいるみたいだ。響くウッドベースは俺の心臓の音だろうか。艶のある歌声が、耳を通って脳ミソに刻まれていく。閉じた瞳に広がる長い睫毛。苦しそうに下げられるハの字の眉。首元を這う血管まで。視覚も聴覚もすべてを奪っていく。
深い、深い海の底にいるようだった。
「……ク…………ベク……?」
「……ん?なに?」
「いや、どっか行っちゃってたから」
俺の目の前でチャニョルはヒラヒラと手を振っていて、ようやくここがジャズバーだと意識を取り戻した。
「上手いな、あいつ」
「あ、あぁ……そうだな……」
慌てて掴んだビールのグラスはじっとりと汗をかいていて、コルクのコースターには染みが出来ていた。
苦味のある泡が喉に貼り付いて流れていく。
ごくりと飲み込むと、ひんやりとしたそれが自棄に気持ち良く思えた。
ステージを見やれば楽しそうに次の曲を紹介していて、その笑顔にまた俺の心臓は撃ち抜かれていた。心が、どっか遠くに放り投げられてしまったみたいに、俺はその後もずっと自分じゃないみたいだった。明るくてお調子者で盛り上げ上手のビョンベッキョン。いつもの俺はどこ行った?
帰り道、ぼんやりとしながらチャニョルの横を歩いていた。あの声が、耳から離れない。楽しそうに、気持ち良さそうに歌う姿。全身で刻んでいくリズム。呼吸するように歌っていた。こんな衝撃は初めてで、今まで聴いたどんな歌よりも、俺の心臓を掴んで離さなかった。
「あいつさぁ、」
チャニョルが急に難しそうな顔で口を開く。
思考が飛んでってた俺は、びくりと震えてチャニョルを見上げた。
「あいつ?」
「うん、さっき歌ってた奴」
「あ、あぁ……」
たった今まで俺の頭を占めていたそいつのことを持ち出されて、思わずどくりと心臓が跳ねる。
「多分、同じ高校の奴だよ」
「え────」
思いもよらない言葉に立ち止まる俺には構わず、チャニョルは話を続ける。
「多分だけどさぁ、ギョンスといつも一緒にいた奴。覚えてない?いっつも図書室でギョンスと本読んでた……ほら、なんだっけ……ジョン……ジョン……」
あー!何だっけ!?とチャニョルは頭を掻きむしっているけど、俺はさっぱり分かんない。"ギョンス"とは、確かチャニョルと同じ中学の出身の奴だ。クラスは同じになったことがないとかで、チャニョル自身も親しいわけでは無さそうだった。だから尚更俺には面識がない。そんな奴もいたなぁ、なんてくらいだ。そいつといつも一緒にいた奴?そんな奴いたかなぁ……
思い出そうとしても、さっぱり浮かんでこなかった。
「あぁ!ジョンデだ!キムジョンデ!」
「ふーん」
キムジョンデ?どっかで聞いたような名前だけど、どこにでもありそうな名前だ。
「でも違うかも」
「は?」
「だって全然違うもん。そいつ、あんな人前で歌ったりするような奴じゃないし」
気のせいかも、とチャニョルは笑っていて、俺は「なんなんだよ!」ってチャニョルの腕にグーパンチをした。
じゃれあう俺たちの間を、夏特有の生ぬるい夜風が、するりと頬を撫でて通り抜けていった。
side ジョンデ
「お疲れさまでしたー」
閉店後の店内で楽器の片付けを手伝って店を出たのは、もう時計がてっぺんを回って一時間ほど経った頃だ。
今日も楽しかったなぁ、なんて。
僕は歌と出会えて良かった。世界が一変した。それまでのつまらなかった世界じゃなく、キラキラと───そう、彼を取り巻いていた楽しそうな世界へ、少しかもしれないけど近づけた気がするから。
目の悪い僕は裸眼じぁあぼんやりとしか客席は見えない。ましてやムードのある薄暗い店内とあっては、奥の方なんてちょっとうつ向いているだけで影がかかって顔なんて全然見えない。だけど突き刺さる視線と、息を飲む音、それに暖かい拍手。それが僕をキラキラの向こう側へと連れていってくれるんだ。
ビョンベッキョンがいた、あの世界へと。
あの頃、必死に追いかけて掴みたかったもの。ふわりと纏う彼のキラキラ。甘酸っぱい懐かしさは、直ぐ様先日の彼を思い出させた。
あの、ビョンベッキョンが本を借りに来たあの日以来、僕は返却の日を今か今かと待ちわびていた。
僕のいる日だったらいいなぁとか、ましてやカウンターに居るときだったらいいなぁとか。久しぶりに見た彼は、やっぱりキラキラとした空気を身に纏っていて、あの頃と変わらない垂れた目元を思い出しては心が温かくなった。
「ギョンス!」
立ち上がって手を上げると、高校時代の友人ギョンスが、ぱぁっと笑みを浮かべて近づいてきた。
「遅くなってゴメンね」
「ううん、大丈夫。忙しそうだね」
「なんだかね」
久しぶりに連絡をしたらちょうど予定が合いそうだったので、仕事帰りにでも飲みに行こうと誘ったのは僕の方だった。会うのは多分半年くらいぶりだ。最後に会ったのは大学を卒業する前の冬で、就職したらなかなか会えなくなるねぇ、なんて話したんだ。けれどその予感はやっぱり当たったようで、機械メーカーの事務職に就いたギョンスはとても忙しそうだった。
「仕事どう?慣れた?」
「うーん、まだまだ難しいよ。覚えるので手一杯。ジョンデは?」
「同じくー。覚えることたくさんで。ようやくまともに業務が出来るようになってきたって感じかなぁ」
「でもずっとやりたかった仕事でしょ?」
「まあね」
司書の仕事は、僕がずっとやりたかった仕事だ。慣れ親しんだ図書館の空気、本の匂い。いつからかその中で僕も働きたいと思っていた。実際働いてみれば、表に見えていた以上に体力勝負だし細かい業務も多い。専門外の勉強もしなきゃいけないし、日々勉強だ。それでもやっぱり変わらず本は僕を特別な世界へと導いてくれる。だから僕は本を読むんだ。
「あ!そうだ!そういえばね、」
グラスを置いて声をあげれば、ギョンスは驚いたのか大きな目を見開いた。
「あはは!驚きすぎだよ」
「だって急に声あげるから……」
「ごめんごめん!それでね、そういえば、」
この前ビョンベッキョンが来たんだ!
言うと、ギョンスはまたさらにひときわ大きく見開いた。
「ビックリして全然見れなかったけどね」
「そうなんだ」
「うん。緊張して吐くかと思った」
あはは、と笑うと、ギョンスも苦々しく笑う。
ギョンスは、あの頃僕がビョンベッキョンばかり見ていたことを知っている唯一の友人だ。どこそこで見かけたとか、今日はどうだったとか、逐一報告する僕の話を、あの頃も鬱陶しそうに聞いてくれていたっけ。
「全然変わってなくてさ、やっぱりビョンベッキョンはキラキラしてたよ。僕さぁ、不思議なんだ。どうして彼の周りだけがキラキラとしてるんだろうってね」
「そんなの……」
ギョンスは言いかけて口を閉じた。
「なに?」
「いや、何でもない」
「なんだよそれ~」
変なギョンス、って笑って卵焼きをひとくちつまむ。
「そういえば、歌続けてるの?」
「うん。こないだも歌ってきたところ」
「そうなんだ。次出るとき教えて。行けそうだったら行くから」
「うん、ありがとう」
僕が歌と出会ったのは、大学に入ってからだ。自分の世界を変えてみたくて入った音楽サークルで、そこの先輩だったミンソギヒョンに勧められたのだ。お前上手いんだな、って。もっと人前で歌ってみろ、って。そう言って紹介してくれたのが、今のジャズバーだった。僕はそこで初めて本以外の、"歌"という楽しみを覚えた。キラキラとしたあの世界が掴めそうな気がしたんだ。
ギョンスも学生の頃はたまに顔を出してくれていた。ステージに上がることは内緒にして初めて呼んだときは、驚いてやっぱり目を大きく見開いていたっけ。君にそんな趣味があったなんて知らなかったよ、って戸惑いながら言っていたのをよく覚えている。
就職してからはステージに上がる頻度もだいぶ減ったけど、それでも毎日のように繰り広げられているステージに、僕も月に二、三回は出させてもらっている。仕事との兼ね合いも取りながら、それでも続けられたらいいなぁ、って。そこでは僕は、何者にでもなれるから。
僕じゃない僕が待っているんだ。
side ベッキョン
「ベッキョナー」
「はいはい!」
「これ、使い終わったから戻してきて。ついでに今度はこれね」
部の先輩であるジュンミョニヒョンに渡されたのは、つい数週間前借りてきた分厚い専門書と一枚のメモ紙だ。あぁ、くそ暑い中またおつかいかよ、なんてげんなりとしながらもそんな事はおくびにも出さず、いつもの笑顔を振り撒いてそれを受け取った。
ビルを出ればムッとする熱気。どこからかジリジリと蝉の声が聞こえて、こんなビル街にも蝉とかいるんだなぁって。
なるべく日陰を歩いて地下鉄に乗り、向かったのは先日の図書館。
重たい鞄を抱え直して時計を見れば、昼なんてとっくに過ぎていて、帰りに飯でも食って帰るか、と道中にある店の看板に目を光らせた。
図書館の手前に洒落た喫茶店を見つけて、お!ここにすっか!なんて思わず鼻唄がこぼれる。
その前にとっとと用事を済ませてしまおう。
俺は勇んで図書館へと足を踏み入れた。
あぁー、やっぱり涼しい。図書館って最高だな。受験生が入り浸るのもよく分かる。って、俺にはそんな思い出はさっぱり無いけど。
カウンターに行くと、この前の男が座っていた。相変わらず丸眼鏡にエプロン姿で真面目そうに仕事をしている。
「返却と、あとこれお願いしたいんですけど」
そいつの前で鞄から本を取り出し、メモ用紙を見せた。本を確認するとバッと音がしそうな勢いで頭を上げたそいつは、前回と同じように一瞬大きく目を見開いた。
それからすぐにうつ向いて本を受けとると「期間内のご返却ありがとうございます」と定型句を口にして、すぐにパソコンに向かい返却の手続きと、それから受け取ったメモを見てまたパソコンを操作し始めた。俺は、ぼんやりとその横顔を眺める。
あ、睫毛長ぇなぁ。
「お待ち下さい」と席を立った後ろ姿に目をやった。
何か、重要なことが引っ掛かっているような気がした。
そいつが持ってきた専門書はやっぱり分厚くて。結局帰りも重いのかよ、って心の中で愚痴る。
財布からカードを出して差し出せば、「ありがとうございます」と返事が来た。バーコードを読み取っていく姿を眺めながらふと目についたのは、やっぱり丸眼鏡の奥の長い伏せられた睫毛で。それから視線をずらして目に留まったネームプレート。"キムジョンデ"の文字。
なんだっけなぁ。
引っ掛かっているもの。それを取り去るように必死に思考をなぞる。頭の中に聞こえてきたのは、なんと悪友チャニョルの声だった。
『ジョン……ジョン……』
『あー!なんだっけなぁ!?』
『あぁ!ジョンデだ!キムジョンデ!』
「───キムジョンデ?」
思わず漏れていた声を拾ったのは、向かいに座るその男だった。
またしてもバッと音がしそうな勢いで頭を上げて、その視線と重なった。
「あ、ゴメン」
「いえ……」
気まずい空気を振り切るように「二週間後の返却になります」とキムジョンデは本を差し出す。俺はそれを受け取って、鞄へと詰め込んだ。「ありがとうございました」と掛けられた声に小さく会釈して背を向ける。それから踏み出そうとした一歩は───、失敗に終わった。
くるりと向き直ると、そいつはまた驚いていて、目があったことに俺も驚いていた。この前も今日も、顔なんてほとんど上げなかった癖に。普段は顔上げてるのかよ、なんて。
まぁ、そんなことはどうでもいい。
「な、にか……?」
「いやあの……あのさぁ、人違いかもしれないんだけど、」
いや、そんなハズはない。
キムジョンデという名前も。丸眼鏡の奥に並ぶ長い睫毛も。徐々に下がりだした眉毛だって。きっとあいつだ。
身構えるそいつに向かって、俺は言葉を続けた。
「もしかしてこの前、ジャズバーで歌ってました?」
「え───」
大きく見開かれた丸眼鏡の奥にある瞳が、微かに揺れたのが分かった。
間違いない。
この、目の前の真面目そうな男は、あの日とても楽しそうに歌っていたあの男だ。
「だよな?うん、そうだお前だ。キムジョンデ」
「どうして……」
ぼそりと呟かれた言葉を拾って、にやりと笑いかける。
「すごい記憶に残ってたから。お前の歌」
「そう、なんですか……」
「あ、あんまり喋ってたら怒られるか。悪い」
「いえ、」
「あ、休憩とかある?俺、帰りにそこの喫茶店で飯食って帰ろうと思ってたんだけど」
ベラベラと調子のいい口が、いつも以上に回っていて止められなかった。気づいたときには「待ってるから」なんて言っていて、図書館を出た瞬間我に返った。
何言ってんだろ、俺。
来るわけないよな、って苦笑しながら結局はその喫茶店に入って、軽食を摘まんでいた。
カランコロン、と音がしてドアが開くたび、心臓が跳ねた。来るかな、とか。来ないよな、とか。どうしてこうも心臓が跳ねるのか不思議で仕方ないくらい、ワクワクとドキドキが入り雑じる。
そうして何度目かのドアが開いたとき、エプロンを外したキムジョンデがキョロキョロと辺りを見回していて、俺を見留めると小さく頭を下げたもんだから、思わず笑いがこぼれた。
席の近くに来ると、キムジョンデは申し訳なさそうな姿で立った。
「お待たせしてすみません」
「はは!俺が無理矢理誘ったのに?座りなよ」
「……じゃあ」
遠慮がちにちょこんと座るキムジョンデに「休憩?」と聞くと「はい、お昼まだだったので」と、やっぱり申し訳なさそうに眉を下げる。
「なにか頼めば?」
「あ、はい……じゃあ……」とメニューを眺めて店員を呼んで、コーヒーとそれから俺も食べていたクラブサンドを頼んでいくキムジョンデを、俺はじっと眺めていた。
「あの……えっと……」
もぞもぞと居心地悪そうにうつ向いてしまったキムジョンデを見て、思わず笑いがこぼれる。
「いつも歌ってんの?」
「いえ、たまにです。月に二、三回くらい……」
「へぇ~。じゃあ俺ラッキーだったんだ」
「え、」
「だって初めて行った時だったから」
「あ、えっと……ありがとうございます……」
耳の縁を赤くしていくキムジョンデを見て、思わず自分まで耳が赤くなった。
それを誤魔化すように、俺の口はまた動く。
「そういえば、俺たち、同じ高校だったらしいんだけど、覚えてる?」
「え……」
「一緒に行ってた奴がさぁ、パクチャニョルって背の高いやつだったんだけど、そいつがお前のこと覚えてて。何だっけ……あぁ!ギョンス!ギョンスと仲良かったんだろ?」
「…………!」
「そのギョンスってのとチャニョルが同じ中学だったみたいで、一緒にいたお前のことも覚えてたんだって!ってことで、俺は全然記憶にないんだけどさ!」
ははっ!と笑うと、キムジョンデもようやく笑顔を見せた。
「まぁ、そんなことはどうでもいいってゆーか、なんて言うか……とにかくさ!俺、お前の歌に感動したから、だからまた会えて嬉しかった……みたいな?はは!」
感動、だなんてそんな簡単な一言では表せられないほどの衝撃だったのに、俺の脳みそは陳腐な言葉しか生み出さない。
くすぐったくて、照れくさい時間だった。
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