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最後の恋シリーズ

150208 宝物とモヤモヤ クリスホ





ウーイーファンが離婚したらしいよ



そんな噂が僕の耳に入ってきたのは、実に離婚から2ヶ月が過ぎてからだった。


「ギョンス知ってた!?」


隣の席に座る後輩に慌てて尋ねれば、「ヒョン知らなかったんですか?」と真ん丸な目を向けられた。


「仲良いから、てっきり本人から聞いてるものだと思ってました」
「聞いてないよ!」



親友と呼べる男の一大事を、僕はまったく知らなかったのだ。


『今夜7時、いつもの店! 絶 対 に !!』


怒りに震える手で、僕はメールを送信した。



ウーイーファン、とは会社の取引先の人間で、中国系カナダ人の男だ。仕事を通して何度か話す内に意気投合し、気がつけば仕事抜きでも飲みに行ったりと、プライベートでも仲良くするようになった。そんなファンが結婚したのは2年前。入社して3年が過ぎた頃だったはず。相手はなんと常務の娘だというので酷く驚いた。聞けばその常務も中国系の人で、ファンのことを大層可愛がっていたらしい。奥さんは確か3つ上の姉さん女房で一度だけ会ったことがあるが、目鼻立ちのはっきりとした美人で、さらに長身でスタイルのいい人だった。ファンと並ぶ姿を見て、美男美女とは正にこの事だ、と思った記憶がある。



「よう、お疲れ」

遅れてきたファンは席に着くなり呑気そうな顔を見せて、僕の怒りは頂点に達した。

「ん?なんだ、急用か?」
「……なんだじゃないよ!どうして言ってくれなかったんだよ!!」
「は?何が?」
「何がって、離婚!!」

そこまで話すとファンは、あぁー、と事も無げに納得して見せた。

「別に、わざわざ言うことか?」
「言うことだよ!」
「そうか、悪かったな」

タイミングを計ったかのように店員がおしぼりを持ってやって来たので、ファンはビールを頼んで渡されたおしぼりで手を拭いた。確かにその大きな手にはもう指輪はされていなくて、何でか僕の方が胸が痛んだ。


「なんで?理由は?」
「大人の事情」
「茶化さないでよ、真剣に聞いてるんだから」

もしかして浮気でもしたのか?と聞くとファンは「まさか」と笑った。
そうだ。この男はこう見えてそんな半端なことはしない。それは親友として自分が一番良く分かっていること。

「じゃあなんで?」

問い詰めると、ファンは呆れたようにため息をついた。

「お前なぁ。どこに夫婦の事情に首突っ込むやつがいるんだよ」

察しろ、と言われたときにちょうどビールが運ばれてきて、ついでにつまみを何品か頼んだ。

「だって……心配にもなるだろ。ファンは仕事以外はまるでダメだから」
「酷い言われようだな」
「本当のことだろ」
「まぁ、異論はない」
「それにしても、そんな風になってるの全然知らなかった。親友だと思ってたのに……」


自分の役不足に、何だか妙に悲しくなった。離婚なんて一大事だろうに、まったく知らなかったんだから。それとも、親友だと思ってたのは自分だけで、ファンは単なる取引先の人くらいにしか思っていなかったのだろうか。何だか悲しくなって、思わず視線を落とした。


「おい」
「……は?」
「お前、また変なこと考えてるだろ」


お通しの枝豆を摘まみながらぎろりと視線を寄越される。


「な、なにが?」
「お前は少し考えすぎなんだよ」
「か……考えないよりいいじゃん!ファンは考えなさすぎなんだよ」
「はは、まぁな」

自分のことだというのに、ファンは気楽そうに笑っていた。


「なぁ……、辞めないよな?」


話を聞いてからずっと気がかりだったことを、ようやく恐る恐ると尋ねた。


「何が?」

「……会社」

「あぁー、」


常務の娘と離婚したとなれば居づらくなるのは目に見えている。友人関係が終わるとは思ってはいないけど、辞めてしまうにはもったいない気がしていた。


「辞めないよ。それに、お前のとこの仕事受けたばっかりだろうが」
「……あぁ、そっか」


そういえば今月からまた新たな共同プロジェクトが始まったばかりだった。もちろんファンもその一員で、辞められては困る。会社的にも。


「だって、大丈夫なの?」
「まぁ。」

じろりと見つめると、はぁ。とまた溜め息をついて、ファンはやっと重い口を開いた。


「……恋人がいたんだ」
「え?」
「あいつに。結婚する前からの話らしい」
「は……?」


あまりにショッキングな話に、開いた口が塞がらない。


「まぬけだろ?まったく知らなかったんだから」


ファンは苦笑いのように、はは、と自嘲した。


「……じゃあ、クビにはならないな」
「まぁな」


やっと絞り出したよく分からない返答に、ファンはやっぱり何でもない風に頷いて見せた。



*****


彼女──チエンと出会ったのは、初めて常務の家に食事に呼ばれた時だった。
単純に、大きな瞳で綺麗な人だと思った。笑顔が魅力的でさばさばとした性格。ちょっとずれたような感覚も、見ていて飽きなかった。
結婚したのは常務のお膳立てがあったからで、俺はただ「いいな」と思ったんだ。彼女なら、まぁ、いいな。と。彼女もいいと言うので俺たちは結婚した。結婚するにはまだ若かった気もするが、不毛な恋心を飼い続けるよりはずっと建設的に思えた。




チエンの裸を見たのは、2年振りだった。


その日、忘れ物をして昼間家に戻った俺は、物音に気付いて寝室のドアを開けると、情事の最中の彼女と出くわしたのだ。傍らには可愛い顔した若い娘が裸で横たわっていた。


『あぁ、悪い』

咄嗟にドアを閉めたが、間際に見たその娘は泣きそうに眉を寄せていた。


『こんな時間にどうしたの?』

ローブを纏った彼女がリビングにやって来て、平然と言ってのけるのが妙に可笑しかった。

『いや、忘れ物をして』
『そう』
『彼女は?』
『あー、恋人よ。ソニョンっていうの。可愛いでしょ?』
『あぁ。邪魔したようで悪かったな』
『いいのよ、あなたの家でもあるんだから』


噛み合っているのかいないのか、よく分からない会話のやり取りをして、俺は社に戻った。衝撃は大きかったがショックを受けてるわけではないのが不思議だった。
そうして仕事を終えて家に帰ると、チエンは申し訳なさそうに苦笑して見せた。

『ソニョンに怒られちゃったわ』
『ん?』
『オンニいけないことをしてるんだからちゃんと旦那さんに謝って、って。だから、ね?』

ごめんなさい、と舌を出して謝る彼女が可笑しくて思わず笑うと、得意のチャーミングな笑みを向けられて、どうしたものかと考える。
きっとこの場合、怒るのが当然なんだろう。
あいつなら間違いなく怒って喚いて罵ったりするんだろうな。それとも説教か、なんて考えて思わず笑みが漏れそうになった。

人間としては多分それが正しいのだろう。
でも、怒れない理由なら自分にも十分過ぎるほど思い当たって。結局苦笑するしかなかった。

『いつから?』
『んー、もう6年になるかな』
『結婚する前からなのか』
『そうよ。あの子は私の宝物だもの』

『……離婚、した方がいいのか?』

ふと頭に浮かんだ言葉を告げると、どっちでもいいわ、と彼女は笑った。

『でもそうね。ごめんなさい、ソニョンとは別れる気はないの。だからファンに任せる。あなたの好きなようにして?』
『そうか……』


思い浮かんだのは、あの──ソニョンという子の真っ直ぐな目。悲しげで、それでいて取られたくないという意思の強い目。泣きそうな顔。

あぁ、あの子に返した方がいいんだろうな。

漠然とそんな気がした。
だから俺は離婚を選んだ。



ジュンミョンに呼び出されて怒られて……
誤解を恐れずに言うならば、嬉しかった。


あぁ、俺のこと心配してくれるのか、って。


取引先の人間だ、とジュンミョンを紹介されたとき、俺は正しく一目惚れに落ちていた。もう4年近くも前の話だ。その白い肌に、何度も触りたいと思った。強くはない酒を飲んでは無防備な姿を見せるたび、抱き締めたい衝動を堪えるのに必死だった。結婚してしまえば治まるかとも思ったが、そんなものは何の足枷にもならなかった。
だから、だからきっとチエンと別れることが簡単だったんだろう。最初から愛してなどいなかったのだから。彼女も何かに気づいていたのか、俺が二人で過ごしたその部屋を出るとき『ファンも早く幸せになってね』なんて言って笑っていた。


おかしな夫婦だった。
分かってみれば似た者夫婦で。
でも──、チエンのことは好きだった。
愛することはできなかったけど、好きだった。


「ジュンミョナ、お前は愛のある結婚しろよ」


居酒屋からの帰り道、そんなことを言うと、「当たり前だろ」とジュンミョンは目を細めて笑う。


この笑顔を独り占めする女性がそのうち現れるのかと思うと気が気じゃないが、でもそれが近い将来の現実なんだろう、と燻る想いを消火するべくバケツの準備でもしようか、と自嘲した。


******


「で、真相はどうだったんですか?」


次の日ギョンスに問い掛けられて、うん、と曖昧な返事をする。

「離婚、したって」
「へぇ……」

どうでもいいような返事を返されたことにも気づかないほど、頭の中には靄(もや)がかかっていた。

ファンはどうして、あんなに平然としていられるんだろう。

昨夜は結局何だかんだ流されてしまったけど、やっぱり納得がいかないのだ。そんな不貞をするような奥さんには見えなかった。不貞?不義理?とにかく、美人だけど飾っていなくておしゃべりなところが、どちらかと言えば寡黙なファンとお似合いだと思っていた。それに、どうしてあれほどまでの男といながら、他に恋人を作れるのだろうか。親友目線で言うのなら、出来た男ではないけれどいい奴ではある。それとも、親友には分からない何かがあるのだろうか。夫婦にしか分からない何かが……

そういえば、ファンは家庭の話をしたがらなかった。


「ギョンスや。僕はファンのこと、何も知らなかったのかもしれない」
「そんなの当たり前ですよ。家族でも友達でも……恋人でも。分からないことなんてたくさんあります」
「そんなもん?」
「えぇ、そんなもんですね」

淋しいね、と呟くと、ギョンスは切な気に笑みを浮かべた。


例えば僕は、ファンのようにすらりとした長身や、精悍な顔立ちや、低い声に憧れていた。生まれ変わるならあいつのようになりたかったし、あいつのようになれたなら、きっと引く手数多の人生を送れるんじゃないかと下世話な想像もしてみたりする。実際ファンは相当にモテるらしい。うちの会社でも人気の高さは耳にする。それなのにあの年であっさりと結婚してしまって。出世欲?そんなの聞いたことがない。じゃあそんなに好きなのか、とさすがにあの時は驚いたけど、あの奥さんを見たとき、あぁなるほどな、と妙に納得もした。


なのに、離婚した。


恋人がいた?結婚前から?

それを奥さんに告げられるのはどんな気分なんだろう。あの男でも敗北感のようなものを感じるんだろうか。そこいらの男よりは、断然にいい男なのに。平気そうにしていたけど傷付いているんだろうな、と想像していたたまれなくなった。


「飲みに行こう!」と誘うようになったのは、そんなファンを放っておけなかったから。いい年した男がいつまでも感傷的になっているとは思えなかったけど、案外男の方が未練たらしいのは有名な話だ。それに放っておくと飯すら適当に済ますヤツなので、必然的に晩飯くらいは食べさせないと、と妙な世話焼き根性が生まれたのは事実だ。


そうして飲みに行く機会が増えたころ、「不経済だな」と言ったのはファンの方で。だったら家で飲もうか、と提案したのは僕の方だった。ファンの一人暮らしの新居は物が揃っていないからという理由で、それは大体僕のアパートだった。


「お疲れ」
「あ、ごめん!遅くなった!」


玄関先で煙草片手に待ち伏せする姿は、ファンじゃなければ完全に不審者だ。

「これ」
「ん?なに?」
「さっき向かいの家のおばさんがくれた」
「はぁ?」


イケメンは得だな、なんて思いながらも見ればタッパーに詰められてるのは肉じゃがで。早速今夜の酒のアテにと、ご相伴にあずかることにした。


「あ、そうだ」


台所から皿とグラスを取り出しながら、昼間準備したものを思い出す。


「これ、渡しとく」
「鍵?」
「そ。これから寒くなってきたら外で待つのも辛いだろうから」
「はは!合鍵か。お揃いのキーホルダーでも付けるか?」
「なに言ってんの」
「鍵なんかもらったら、あんまり心地いいから居付いてしまいそうだと思って」

と言いつつ、すでに最近ではファンの寝間着や歯ブラシが僕の部屋に定位置を作ろうとしている。

「もうほとんど居ついてるじゃん」
「はは!かもな」

「でもさ、」
「なんだ?」
「それならそれでもいいけど?引っ越してくるなら引っ越してくればいいし。そしたらファンはちゃんと自分の布団で寝れるだろ?」

ファンはうちに泊まるとき、大抵小さなソファーから足をはみ出して毛布にくるまって寝ている。それじゃあ反って疲れるだろうとベッドを明け渡そうとしても、変なところで遠慮してか、首を縦には振らなかった。


「まだ気にしてたのか?」
「当たり前だろ」
「別に客じゃないんだから気にするな」
「するよ!お前、自分の寝てるとこ見れないからそう言うんだ!すごい狭そうに寝てるんだからな。そんなの見てたらなんか申し訳なくなる」
「そうか?お前だって大概だぞ?」
「え?」
「ベッドの端で丸くなって寝てるの知らなかったか?」


爆笑寸前の顔でファンは揶揄する。


「そ、それは……!」


知ってるけど……、
知ってるけど仕方ないだろ!
子供の頃からの癖なんだから!


あはは、とオーバーに笑い転げて見せるファンは、いつにも増して子供じみていた。


なんだかほっとして、幸せだと思った。


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