ビーグルベーグルシリーズ
ジョンインが休暇に入ったので、僕の雑務が単純に増えた。
弁護士事務所というのは意外なほどにアナログで紙媒体が多いのだと知ったのは、ここで働きはじめてからだ。
役所関係の申請書類や必要書類はいまだに紙提出が原則だし、片付けなければ溜まる一方なのだ。
それらのファイリングやら仕訳やらをジョンインはとても上手くこなしてくれていた。そして、この一ヶ月はその業務が僕に回ってくる。そんなわけで僕の机は今書類の山だし、片付けるそばから電話が鳴って新たな仕事が生まれていくのだ。
クリスを見やれば、のんびりと窓の向こうを見ていて、思わず舌打ちしそうになったのをぐっと堪えた。
「ジュンミョナ、」
「……なにか」
「糖分あるか?」
糖分、と言われてとりあえず飴玉の1つでも入っているかと引き出しを開けてみた。が、生憎の空だ。
「下で何か買ってきましょうか?」
「あぁ、頼む」
そう言われて財布だけ持つと僕は下へと降りていった。
思考停止に陥ると糖分でエネルギー補給するのはクリスの癖みたいなものだ。それだけ脳を働かせているらしく、当たり前だけど僕には到底敵わない部分。尊敬もあり羨望もある。
とりあえず甘いカフェモカあたりと、小腹も空いたしチョコレートのベーグルでも買っていこうかと、まずはビーグルベーグルに入った。
「あ!ヒョン!いらっしゃいませ」
珍しいですね!と笑顔を向けたのは店員のジョンデで、「ジョンイナ休みに入ったから」と言うと「あぁそっか!」と直ぐ様納得して見せた。
「甘いやつってあったっけ?」
「甘いのですか……?」
それだと……とジョンデがカウンターから出ようとするより早く「これ!どうですか!?」と元気に飛び出してきたのはもう一人の店員ベッキョンだ。
「ヒョンヒョン!これ!うちのイチオシです!!」
「恋するチョコチップベーグル……?」
「そう!ヒョンも恋が叶いますよ!」
「あはは!恋って……!」
"恋"なんて甘酸っぱい言葉を口にするのはとても久しぶりな気がした。
クリスとの付き合いはもう長いし、今さら恋だなんて言うのも恥ずかしくなるほどだ。なのにそれを取ってしまった理由は、きっとそれを食べるクリスを想像してしまったからに他ならない。きっとこういうロマンチックなものは好きだろう。と言っても種明かしは仕事のあとだけれど。
「じゃあそれを。あとシュークリームも貰おうかな」
「ありがとうございます!」
「ってことはヒョンは恋してるんですね!」
興奮ぎみなベッキョンに「どうだろうね」と笑ってお会計を済ませる。
お使いはもっぱらジョンインにお願いすることが多いのでここに来るのは久しぶりだけど、相変わらず賑やかな二人は見ていて楽しい。
帰りがけ、ガラスの向こうに見えたギョンスに笑顔で手を振ると、恥ずかしそうにはにかんでペコリと頭を下げた。
そうしてビーグルベーグルを出たあとはお隣のシュシュへと寄る。
マスターのミンソクは高校の同級生だった。その縁で今の事務所を紹介してもらった訳だけど。
「こんにちは」
「お!いらっしゃい。お使い?珍しいな」
「うん、ジョンインが休みに入ったから」
「あぁそうか。そろそろだもんな」
「カフェモカとアメリカーノちょうだい」
「了解」
テイクアウトの注文を待っている間カウンターの席に座ると、アルバイトのタオがやって来た。
「ヒョン!いらっしゃい!」
「あ、タオ、久しぶりだね」
「そうだよ!ヒョン全然来てくれないからぁ!」
ミンソクとはクリスと三人でたまに飲みに行ってるから、そういえば店の方に顔を出すのは久しぶりかもしれない。
「真面目に働いてる?」
「当たり前でしょ?ね?マスター!」
「ん?うん、あぁ……」
苦笑いの返事が返ってくる辺り相変わらずなんだろうと、こちらも苦笑をこぼした。
「はい、お待たせ」とミンソクがテイクアウトのカップを二つ差し出したので「じゃあね」と店を後にする。
ベーグルの袋とコーヒーのカップを持って階段を上った。
「戻りました」
「おぉ、サンキュー」
「いえ」
自分の分をとりあえず机に置き、クリスの分を持ってデスクに近寄る。
「はい」
「チョコチップベーグル?珍しいな」
「えぇ、たまにはいいかと思いまして」
「そうだな」
そう言ってにこりと笑ってコーヒーを受け取ると、一口飲んでまた言葉を続けた。
「なぁジュンミョナ、」
「はい?」
「ちょっとこっち来て」
「はい……?」
「こっち」と言われて、不思議に思いながらもデスクの向こう──クリスが座る方へ回り込めば、瞬時に腕を引かれて、クリスの胸元へと倒れ込んだ。
「なに……!?」
「いいから」
そう言って、ぎゅっと背中に腕がまわる。
「……ちょっと!仕事中!!」
「いいじゃん、ちょっとだけだから」
「ダメだってばぁ!」
必死に起き上がろうとクリスの胸元に腕をつく。引き上がろうと腕をついてプッシュアップするも、クリスの腕にがっちりと抱き込められていて起き上がれない。
不意打ちにやられて心臓は鳴りっぱなしだし、こんなところ誰かに見られたらと思うと気が気じゃない。
と、思ったらガチャンとドアが開く音が聞こえてきて、あぁやっぱり定説なのかと頭を抱えたくなった。
慌てて離れて衣服を整えながらドアを見る。
「お邪魔だった?」
顔を覗かせたのは上階に住む大学生のセフンだ。
ゴホン、と咳を一つしてから「何か用事ですか?」と訪ねると、「ジョンインヒョンいるかなぁと思って」と辺りを見回した。
「いや、試験前だから休んでるよ」
「あぁそっか!」
じゃあいいや、とセフンは帰っていった。大方息抜きにゲームでも誘いに来たんだろう。そうやってセフンはたまに遊びに来るのだ。
それにしても来たのが依頼者ではなくセフンでよかった。
「ん?どうしたジュンミョナ」
「どうしたって……!依頼者じゃなくてよかったって思ってたところです!」
「はは!そうだな」
分かっているのかいないのか。
クリスはいつだってそうだ。のらりくらりとかわされるのは結局いつだって僕の方で。雇ってほしいと全力で頼んだときだって、酷くあっさりと了承したクリスに拍子抜けを食らったくらいだ。
あの時、どうして自分にあんなパワーがあったのか、今でも不思議に思い出す。きっとあのセクハラ上司をやっつけて今ならどんなことでも出来るなんて思ってしまったのだろう。でなければ、あんな保証もなく会社を辞めてクリスのもとへと走ったりなんかしていない。それくらいこの事務所が、クリスという弁護士が、僕にはスーパーヒーローの様に思えたんだ。
簡単な事務作業から始まり、法律用語を覚え仕事を覚えた。すぐそばで働くようになって、当たり前のようにクリスに惹かれた。
初めて部屋に泊まった日も、だって恋人だろ?と笑いかけてくれた日も、クリスには敵わないと思った。
僕は一生、この男には敵わないって。
そう思って男としては悔しかったのに、どこかで苦笑いしちゃっている自分もいて。これが好きになることなのか、と思った。
ジュンミョンがどの時点でスイッチが切れるのかというと、家に帰ってスーツを脱いだ瞬間だと思う。
そのスーツは脱ぎ散らかされて、片付け方なんか知らないみたいに放り出されるのだ。昼間、書類はあんなに綺麗に纏めているというのに。
極端な二面性は見ていて本当に飽きない。
例えば文句ひとつ取ってみても、仕事中は理路整然と言葉を並べて忠告してくるくせに、一旦スイッチを切ってしまえば、それはもう可愛らしく唇を尖らせてグダグダと意味の分からない言葉ばかり並べるのだ。
どうしてこうなんだろう、と頭を捻るのは、今まさに、ジュンミョンが唇を尖らせているからだ。
「ジュンミョナ、どうした?」
「どうしたってさぁ、仕事中にあぁいうのはダメだって言ってるだろ!」
「あぁいうの……?」
「コーヒー買って帰ったあと!」
「あぁ!ただのハグだろ?」
「ただのハグじゃないし!」
スーツを着替えて、ついでにジュンミョンの脱け殻を拾ってあるいて、ハンガーに掛けて、クローゼットにしまって。そうして部屋を歩き回ってる間中ジュンミョンは俺の後ろをペタペタとついてまわりながら尽きない文句を言っている。
楽しくなってきて急に止まると案の定俺の背中に顔面をぶつけて、「急に止まるな!」と騒いだ。
「はは、ごめんごめん」
鼻をぶつけたのか、すこしだけ涙目で鼻を擦っているので、どれどれ、なんて言って覗き込んで、ついでにキスをした。
「クリス!!」
「ははっ!さ、久しぶりに一緒に風呂に入ろう。な?」
肩を掴んでくるりと方向転換をすると、後ろから抱き締めてバスルームまで二人三脚。蛇口を捻ってお湯が溜まるまでソファーで寄り添った。
「ちょっと頭を抱えてたんだよ、上手くいかない案件があって。それでお前を見たら抱き締めたくなっちゃったんだから仕方ないだろ」
悪かったよ、と回してる腕で頭を撫でると、もぅ!と相変わらず唇を尖らせて、それでもいくらか表情を和らげた。
「そういえばさ、今日買ってきたベーグルあるだろ?あれの名前、"恋するチョコチップベーグル"って言うんだって」
「恋する?」
「そう。あれを食べると恋が叶うらしいよ」
「ははっ、恋か。それはすごいな。もっとたくさん買ってこないと」
「なんで?」
「ジュンミョンの恋が冷めないように……?」
冷めないし!とか、もぅ!とか言いながらペシペシと叩く小さな手を掴まえて、またキスをすると結局おとなしく黙ってしまうので、いつもいつも俺はジュンミョンにキスすることになる。
どれだけ難しいことに頭を使っても、こうして簡単に笑い会える恋人がいることが、俺には一番のリラックス方法で。あの時ジュンミョンが必死に色々言っていたどんな利益より、これが一番の利益だったと思う。
可愛い恋人と優秀なパラリーガルは俺にとって欠かせない存在なんだ。
「さ、そろそろ風呂に入るか」
「一緒に……?」
「そのつもりだけど?」
着替えた部屋着をまた脱がして、ぽいぽいと放り投げていく。
ジュンミョンは相変わらずブツブツと文句を言っているけれど、そんなことはどうでもよくて。さぁさぁ、なんて言いながら俺はジュンミョンをバスルームへと連れ込んだ。
一緒に湯船に浸かって、体も頭も綺麗に洗い上げて、仄かにピンク色に染まった体をタオルにくるんで着替えさせた。
「ジュンミョナ、」
「んー?」
「次の休み、遠出でもするか」
「どこに?」
「どこがいい?」
「あー、海……とか?」
「とか?」
「山とか……」
「温泉とか?」
「あ!温泉がいい!」
「よし、じゃあどこか予約するか」
ソファーの上でほかほかの体を抱き締めて、ビールを煽る。
恋人は腕の中で無邪気にスマホで検索を始めて、あーでもないこーでもない、なんて笑いながら懸命に画面をこちらに見せてくる。
「お?ここいいんじゃないか?」
「いや、こっちの方がいいって!」
「そうかぁ?」
「うん、絶対こっち!」
「なんで?」
「なんとなく……?」
「ははは!」
こうして今日も、日がな一日平和を噛み締める。
喧騒の中を駆け抜けるような仕事なんだから、オフくらいのんびりとしててもいいじゃないか。
弁護士だって恋人との時間は重要なんだ。
おわり