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ビーグルベーグルシリーズ

170206 クリス・ウー法律事務所 クリスホ





「はい……はい……かしこまりました。では明日、お待ちしております」



クリス・ウー法律事務所には今日もまた相談依頼が舞い込む。


「先生、明日10時に相談の依頼です」
「内容は?」
「相続の関係とおっしゃっておりました」
「わかった」


「ところでさぁ、」と当事務所の看板弁護士であるクリスが言葉を続ける。


「その、先生って言うの、何度言ったら止めてくれるんだ?」
「何度言われても無理です。先生は先生ですから」
「ジュンミョナ……お前は確かに俺の優秀なパラリーガルだけど、その前に俺の恋人だろ?」
「仕事中ですから」


いくら僕たちが長年付き合っている恋人同士だといっても、仕事中は弁護士とパラリーガルだ。私情を挟むのは趣味じゃない。



「こちら、先日の著作権法関係の資料です。こちらは離婚案件の判例。それから、先日の相続依頼の方から書類が揃ったと連絡がありましたが、如何いたしますか」


デスクに山のような書類を広げながら言うと、クリスは、はぁ、と小さく溜め息をついた。


「ジュンミョナ、お前はホント優秀だな」



そう、僕は優秀なパラリーガルだ。
資料や書類は大概指示を受ける前に揃えているし、ミスのない美しい書類作成から無駄のない調査まで。僕以上にこの男の助手を勤められる奴はいないだろうと自負している。


「先生、」
「どうした、ジョンイナ」


ジョンインは当事務所で司法試験の勉強をしながら細かな雑用なんかをお願いしているアルバイトの青年だ。
僕たちが調停や交渉で揃って外出している時なんかは電話番をお願いしたりもしている。


そんなジョンインからの問いかけに、クリスは「分からないことでもあったか?」と返答した。


「いえ、あの……そろそろお昼ですけど、どうされますか?」
「あぁそうか。ジュンミョナ、どうする?」
「今日は事務所に缶詰ですので、下へお使いお願いします」
「……だそうだ」


げんなりとした顔でクリスが答えると、ジョンインは小さくガッツポーズして財布を掴むと足早に階段を掛け降りていった。大方、下のベーグル屋の店員ギョンスに会えるのが嬉しいのだろう。


「なぁ、ジュンミョナ~」
「ダメです。働いてください」


猫なで声を出されたところで、溜まっている案件が片付くわけでもない。
一つずつ着実に知恵を絞らなければいけないのだ、クリスが。
僕はあくまで手伝いしか出来ないのだから。




昼時の連絡がつく時間だったため、僕は依頼人へと電話を掛け、日程の調整を進めた。この依頼者は相続で揉めているのだ。次男に生前贈与をしていたはずだと長男が主張している。

そんな電話のやり取りを聞いてか、最近多いっすよねぇ~、とベーグルとアイスコーヒーを抱えたジョンインが事務所に戻ってくるや否や呟いた。


「まぁ、資産はあっても無くても揉めるからなぁ。そえいえば大先生もよく家族仲良く円満でいることが一番の相続対策だって言ってたな」
「なるほど、深いっすね」


クリスの呟きにジョンインが頷く。
僕はベーグルをかじりながらそれを横目で見ていた。ちなみに"大先生"とはクリスが司法修習時の教官だった年配の弁護士先生のことだ。


「あ、そうだ。ジョンイナ、」


クリスが咀嚼したベーグルをコーヒーで流し込んで口にする。

「なんですか?」
「お前、そろそろだろ?」
「あぁ……はい……」
「事務所のことは気にせず、お前は試験に集中しろよ」
「ありがとうございます」
「分かんないことあったらいつでも聞け」

ジョンインの司法試験が近づいていることは僕も分かっていた。
ジョンインが休暇に入れば、事務所ではまた二人きり。だらかどうということはないけど、少しだけぎこちなくなる。去年の今頃もそうだった。


「そういえば、先日の仮差押えの件、そろそろ強制執行の手続きに移った方がいいかと思いますが、いかがいたしますか?」
「あぁ、俺もそう思ってた」

食後のコーヒーを飲みながらクリスは「ファイルを」と、大きな掌を差し出す。僕はそこに書庫から取り出した事件ごとにファイリングされた紙ファイルを取り出し差し向けた。
債権関係は赤いファイルだ。


ペラペラと捲り、コーヒーを一口啜る。


「よし、進めるか。依頼人に連絡してくれ」
「かしこまりました」



結局、僕はクリスのこんな姿が好きだったりするんだ。



「ジュンミョナ、」


風呂から上がって寝室の方を覗けば、恋人はベッドの上ですっかり丸くなっていた。
やれやれ、なんて苦笑をこぼす。

昼間は俺以上に気を張って仕事をしているジュンミョンは、家に帰って風呂に入ればあっという間に眠ってしまうのだ。
リビングに戻ると脱ぎ散らかした恋人の服が脱け殻のように落ちていた。

一緒に仕事をするジョンインにこの姿を見せたら、きっと信じられないと目を丸くするだろう。
そのくらい、ジュンミョンという男はオンとオフがはっきりと分かれているのだ。そして、恋人である俺は、このオフの状態がたまらなく好きだったりする。

ジュンミョンが脱ぎ散らかした服を拾って洗濯カゴへと放りながらビールのタブを押し開けた。ボリュームを絞ってテレビをザッピングする。一日のトピックスを確認しながら、煙草に火を点ける。静かな一日の終わりだ。


ジュンミョンと知り合ったきっかけは、一件の相談依頼だった。

シュシュのマスターであるミンソクから、友人が会社の上司にストーキングされて困っているから相談にのってやってくれないかと言われて紹介されたのがジュンミョンだった。
内々に会社と交渉をし、接近禁止命令と解雇処分を突きつけるとさすがに観念したのか、その男はジュンミョンの前から去っていった。
一件落着、と俺は一息吐いてシュシュでミンソクの淹れる旨いコーヒーを味わっていたときだった───僕を雇ってほしい、とジュンミョンが乗り込んできたのは。
何事か、と目を丸くしている俺に、あいつは切々と自分を雇えばこんな利益があるとか、自分がいればこんなにラクできるとか訴えてきて。
申し訳ないとミンソクがジュンミョンをなだめすかしてるのを見ながら、俺は気づくと了承していた。
「すぐに来れるのか?」と言う俺に、ミンソクはポカンと口を開いて固まったし、ジュンミョンは「もちろん!」と頬を紅潮させて頷いた。

もう、大分昔のことだ。

ジュンミョンは可愛かったし、俺もまだ弁護士になりたての若造だった。

法律の"ほ"の字も知らなかったジュンミョンは本当に立派なパラリーガルになったし、俺たちは自然な流れて恋人関係になった。


タバコを揉み消して、缶ビールを飲み干す。
テレビを消して、照明を落とした。
寝室に入って恋人の眠るベッドへと潜る。
揺れたスプリングに反応するようにもぞりと身じろぎをすると、俺の胸元へと収まった。
また明日も頼むよ、なんて心の中で呟きながら真っ黒な髪の毛へキスを落として眠りについた。




* * *



「あ、クリス……」

「あぁ、おはよう」


眠そうに目を擦りながらペタペタと歩いてくる。夜が夜なら、朝も朝だ。
先に起きるのは大抵俺で、リビングで迎え入れるのも俺だし、コーヒーを落とすのも俺だ。

お湯を落としながら静かにドリップしてると、ごつんと背中に頭が突撃してきて「眠い」と唸る。


「今コーヒーやるから座って待ってろ」
「うん……」


ビックリするほど寝起きの悪いジュンミョンは、俺が入れたコーヒーを飲まなければ目が覚めないらしい。
ペアのマグカップに入れたそれを2つ持ってソファーに座るジュンミョンの横に俺も座りながらマグカップを差し出せば、いまだふわふわとした表情で受け取った。

あぁ、これで今日も一日がんばれるな。

朝の可愛い恋人を見て微笑む。


コーヒーを飲みきったジュンミョンはシャキッとした目を煌めかせて仕事モードへと切り替わった。あぁ、残念。

こうなってしまえばもう「ジュンミョナー」なんて甘えた声を出したって効かないのだ。
「ほら早く!今日も働くぞ!」なんて尻を蹴られるのがいいところ。
それでも砕けた話し方をしてくれるだけまだいい。一歩家を出ればジュンミョンは俺を"先生"と呼ぶし、皮肉かと思うほどのビジネス敬語を使う。
何度止めてくれと言っても一切聞き入れてもらえなかった。

まぁ結局は、そんなところも可愛いのだけれど。


上階の自室から階下の事務所へと出勤する。
着くなりジュンミョンはパソコンを立ち上げ、ブラインドを開け、湯を沸かしていた。朝のヨタヨタ歩きは想像もつかないほどテキパキと動くのだ。
一方俺は、のんびりとメールを確認しながらジュンミョンを覗き見る。途中で「何か?」と視線を向けられたので、「いや」と苦笑を返した。


そんなメールの中に先日来た依頼者からのものが混じっていて、相談内容の詳細が書かれていた。
じっくりと思考を巡らせる。どの方法がいいのか、これからの進め方、最良で最善の方法。"依頼者にとって"というのが、この仕事の最も厄介なところだとうのはもう嫌と言うほど経験済みだ。と言っても、なるべくそんな仕事は受けないようにしていて、それは何よりジュンミョンが煩いからだった。昔知り合いから頼まれて仕方なく後味の悪い仕事を引き受けたとき、ジュンミョンは終始ジョンインに「こんなろくでなしな弁護士にならないように」と言っていた。


「おはようございまーす」と眠そうな目を擦りながらそのジョンインが出勤してきた。



「あの、先生……」
「なんだ?」
「えっと、来週からお休みをいただきたいと思いまして……」
「あぁ、ちょうど1ヶ月か……」
「はい。あの……仕事大丈夫ですか?」
「ま、ジュンミョンがいるから何とかなるだろ」


はは!と笑うと給湯室の奥からガシャンと音がしてジョンインと二人で思わず顔を見合せた。


「すみません、忙しいのに」
「いや、お前はそっちが本業だからな」
「でも……普通1ヶ月も休みもらえるところなんてないですよ」
「そうか?」
「はい。でもその分プレッシャーですけどね」
「まぁ試験なんてそんなもんだろ」


気負わず、でも気を抜くな。とジョンインの肩を叩いた。


「先生、時間です」
「あぁ分かった」

朝イチで裁判所への予定があったので、コーヒーを飲み干して立ち上がった。

「書類は?」
「出来てます。こちら」

ジュンミョンはトントンと書類を束ねて確認すると、俺に差し出した。綺麗に纏められてクリアファイルに綴じてある。サンキュ、と受け取って事務所を出た。


タンタン、と古い階段を降りて外へ出る。そういえばジョンインもミンソクの紹介だったな、とシュシュの看板を横目に思い出した。
弁護士目指してる学生がいるんだけど面倒見てやってくんない?とミンソクが連れてきたのは、もう数年前の話だ。
そもそも、あのマスターはうちの事務所を寺子屋か何かと勘違いしてるんじゃないだろうか。なんて考えて思わず苦笑をこぼしそうになった。ガラス越しに準備中のミンソクと目が合って、ゴホンッと咳をひとつ。
ミンソクは不思議そうに小首を傾げていた。




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