ビーグルベーグルシリーズ
「おっはよー!!」
「おぉ!」
「おはよう」
なんか機嫌いい?なんてギョンスに聞かれて、思わずにやける。
「別に?」
「いいことでもあった?」
「お?ついに彼女でも出来たか!?」
「違うよー!」
チャニョルとギョンスに冷やかされたけど、何と言えるようなことなんて何もない。
ただ、休みの日もイーシンさんに会ったってだけで……
とにかく、僕はいつものように慌ただしい一日が始まって、ちょっとだけ暖かくなった心を引き連れて仕事に勤しんだ。
ふと思い出すと、ふわっと暖かくなるような……そんな感じだ。
そうしていつもの時間にいつもの人が来て、いつもの時間にイーシンさんも来た。
「いらっしゃいませ~!」
ドアの向こうにその人を見つけたせいか、いつもより大きな声で挨拶してしまって恥ずかしくなる。
イーシンさんは入ってくるなり僕を見て、「おはよう」と笑顔を向けてくれた。
少しの雑談をしながらレジを打って、ありがとうございました!と見送ると、待ってましたと言わんばかりにベッキョンが近づいてくる。
あぁー嫌な予感がする……と思ったのも束の間、「随分親しくなってんじゃん」とにやにやと気持ち悪い笑顔を向けられて、思わず眉間に皺が寄った。
「そんなことないけど?」
「そう?」
「う、うん」
必死に否定する僕をよそに、ベッキョンは「ふーん」なんて言いながら厨房へ向かうと、ギョンスとチャニョルに向かって声をあげた。
「ジョンデに春が来たぞー!!」
「え!ちょ……!!」
慌てて駆け寄る僕をよそに、チャニョルはベッキョンに向かって「マジで!?やっぱり!?」なんて声をあげていて、ギョンスもギョンスで「やっぱりね」と呟いていた。
「今日朝から機嫌いいもんなぁ!」
「マジで?」
「うん、そうだと思ったんだよなぁ!そっかぁ、ジョンデもついにかぁ!俺は嬉しいよ!」
「はは!」
「もー、何でだよー。違うってば!」
必死に否定してるのに3人の耳には入っていないようで、「相手は?」とか盛り上がっている。
「やめてよー!」と声をあげていたのに、カランとドアの開く音がして、結局僕はレジに戻るしかなかった。
そんなこんなで僕は徐々にイーシンさんと仲良くなった。天気の話とか、ベーグルの話だとか、ちょっとした世間話。レジの合間に笑顔を向けて何気ない会話を交わす。何故だかいつも、ぽかぽかと心の中が暖かくなっていくようだった。
だけど……
パタリと来なくなったのは1週間前のことだった。
1日目は、あれ?と思って、2日目は、どうしたのかな?と思った。
3日目には、風邪でも引いたのかな?と心配したけど、4日目には、違うような気がする、と思った。
そうして1週間前が過ぎて僕は、もしかしてもう来ないのかもしれない、と思った。
こんな商売柄、常連だと思った客がパタリと来なくなることはよくあることと言えばよくあること。
そんなことは十分にわかっている。
きっと何か事情があるんだろう……なんて。
ただ、少しだけ他のお客さんより親しくなってしまった手前、何かあったなら少しくらい教えて欲しかったような気はして。唐突に途切れるなんて、あまりにも淋しすぎるような気がしたから。
チョコチップベーグルを見るたび、もう来ないのかな、と思うととてつもなく悲しくなった。
偶然にも名前や住んでる辺りは知ってるけれど、連絡先とか住んでるマンションとか、具体的なことは何も知らない。連絡を取る手段がないんだ。
知り合いと呼ぶにはあまりにも一方的過ぎた。
店員と客なんて……そんなもんなのかもしれない。
「今日も来ないな」
「うん……」
今日もまた、いつもの時間が淡々と過ぎていく。
ベッキョンは僕の肩に手をつくと、慰めるように苦笑を浮かべた。
あぁ、会いたいなぁ……
定休日、僕はまた気がつけばあの公園の広場に来ていた。
あのときのベンチに座る。
ぼんやりと眺めた空は、ゆっくりと雲が流れていった。
こんな時、ドラマや映画ならタイミングよく現れたりするんだろうけど、僕は結局一時間ほどぼんやりと過ごして、くしゃみをひとつしたのを機に家へと帰った。
あー、そういえば洗剤買うために出たんだった。
まぁいいか……
なんだかすべてがどうでもよく思えた。
自分でもどうしてイーシンさんに拘るのか、よく分かんない。だけど決まって思い出すのは、あの優しげな笑顔で、ふんわりとした喋り方で、一生懸命にパンを選ぶ幸せそうな横顔で。
例えば引っ越したとか仕事が忙しいそんな理由ならいい。病気になったとか入院したとか、僕が嫌いになったとか……そんな理由じゃないのなら。
「いらっしゃいませ」
「あれ?ヒョン元気ない?」
昼過ぎににジョンインがやって来て、先生たちの分も含めて買い込んでいく。今日は身動きがとれない日らしい。
彼らは毎日ではないけど、案件が立て込んでいる時はうちのベーグルを買いに来るのだ。だから、ジョンインがお使いに来るときは先生が忙しいときだ。
そんなジョンインの会計を済ませていると心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「別に、そんなことないよ」
「そう?いつもより元気無さそうだから心配……」
そんなやり取りに耳をそばだてて聞いていたのかベッキョンが後ろから割り込んだ。
「失恋だからそっとしとけ。はは!」
「失恋?」
「違うよ!何言ってんの!?」
わーわー騒ぎそうになったところでレジを待つお客さんが来たので「ありがとうございました!」と笑顔で袋ごと押しやる。ジョンインは心配そうにこちらを見たけど、満面の笑みで返した。
結局、今日も来なかったんだ。あの人は。
それから気がつけばまた一週間が過ぎていて、あの人が来なくなってから二週間が経っていた。
もう、本当に来ないんだなって。
早く忘れてしまおう。そう思った。それがいいと思った。深入りする前に。
「お疲れー」
「うん、お疲れさま」
明日は定休日というところ、仕事が終わってベッキョンに今日も泊まるの?と聞くと「面倒くさいから泊めて」と返ってきたので、僕は呆れ顔で返した。
「いいじゃん、奢るから飲みに行こうぜ!」
「ホントに?」
「うん!」
「じゃあいいけど」
何奢らせようかなぁ、なんて鼻歌まじりに店の裏口の鍵を閉めていると、ベッキョンが慌てて寄ってきて背中をバシバシと叩かれた。
「おい!ジョンデ!」
「もー!何だよ、痛いなぁ」
「いいから、あれ!」
「んー?」
促されて振り向いた僕は、ベッキョンの綺麗な指が指す先を見て、一気に固まった。
「こんばんは」
店の前に立つその人は、にこりと笑顔を浮かべる。
あの時のように……
「あ、え……と、もう店閉まっちゃいましたけど……」
「うん、知ってるよ」
「じゃあ、なんで……」
「ジョンデくんに会いに来たんだけど」
「え……」
何がなんだか分からない。
心臓が鼓動を早めて、頭の回転を鈍らせる。何か言いたいのに何て言えばいいのか分からなくて、喉の辺りで言葉が渋滞をおこしていた。
「あ!悪い!今日チャニョルと約束してたの忘れてたわ!ごめん!」
じゃあな!と背中を叩いて、ベッキョンは手を振っていなくなった。
「ちょっと!ベッキョナ!」
あーもー!どうすればいいんだよ!!
「時間ある?」
「あ、はい……」
「どこか入ろうか。あ、そういえば家ってどの辺なの?」
「えっと、この上です……」
「え?あぁ、そうなんだぁ」
じゃあ余り遠くないところがいいね、と笑ってその人は歩き出した。
え、なに!?
何の話されるの!?
なんなのこれ!!
「あ、ここでもいい?」
そう言って指差したのはお隣のシュシュだった。
「え……?いいっていうか……」
「あ、やっぱり隣だと不都合とかある?」
「いえ、そんな……」
「僕、ここのコーヒーも好きなんだよねぇ」
そう言ってイーシンさんは、ドアを開けた。
「いらっしゃい」とミンソギヒョンがいつもの声で挨拶をする。
「久し振りですね。って……ジョンデ!?」
先に入ったイーシンさんに続いて店に足を踏み入れると、僕の顔を見るなりヒョンは目を見開いていた。
「あ、やっぱりお隣さんだと知ってるんだぁ」
「え、えぇまぁ」
「そういう二人こそお知り合いだったなんてビックリなんですけど」
「知り合いっていうか、お客さんです……」
最近は来てないけど……
奥のテーブル席に向かうイーシンさんに続いて、結局僕も奥に座った。
お水とメニューを持ってきたミンソギヒョンに、僕はメニューを見ずに「いつもので」と注文する。
「今日タオは?」
「さっきもう上がったよ」
「そ。よかった……」
とりあえずあのうるさいタオが居ないことに胸を撫で下ろした。
「じゃあ僕はカフェラテで」
「かしこまりました」
イーシンさんも注文を終えると、ヒョンはカウンターの奥へと戻っていった。
「久し振りだね」
「はい……もう来ないと思ってました」
「えー、なんで?」
「だって、そういうお客さん多いですし……」
自分の中の一時的なブームとかで来ていた人がパタリと来なくなることなんて、それこそよくあることだ。
「実はね、仕事でちょっと海外行ってたんだ」
なんだ、仕事、か……
思いの外正当な理由で、一気に力が抜けるのがわかった。
「海外ですか?」
「うん、ちょっとヨーロッパの方に」
これはお土産ね、と渡された袋には何だかよく分からない民族的な人形が入っていた。
「ありがとうございます」
「実はさっき帰ってきて、荷物だけ置いてその足で来ちゃったんだぁ」
「え……?」
「本当は明日行こうと思ったんだけど、ほら、明日って定休日でしょ?」
「はい……」
「それで、明後日まで待ちきれなくて」
てことはもしかして……イーシンさんも、僕に会いたいとか思ってくれてたってこと?
なにそれ……
なにそれ!なにそれ!!
「はい、カフェラテ。と、ブレンド」
固まってる僕の目の前にコーヒーが差し出されて見上げると、ミンソギヒョンは「ん?」と不思議そうな顔をして笑みを浮かべている。
「な、何でもないです!」
「はは!」
お?なにこれ、とヒョンがテーブルの上の人形を掴むと、イーシンさんが「幸福の人形です」と返していた。
「へー。よく見れば可愛いじゃん」なんてじっくりと人形を眺めるヒョンを見て、それからイーシンさんを見れば、自然と視線が重なって微笑まれた。
もうよく分かんない。
僕の頭は爆発しそうだ。
「あの、お仕事って、何されてるんですか?」
ミンソギヒョンがいなくなったのを見計らって問えば、イーシンさんは「あぁ、言ってなかったっけ?」と笑った。
「音楽の仕事をね、ちょこっとだけ」
「音楽……?」
「うん、作曲とか編曲とか、そういうの」
「……すごい人なんですね!」
「全然だよ。まだまだ」
そう言ってイーシンさんは謙遜していたけれど、音楽の仕事なんてなんか分かんないけど格好いいと思う。
「いつもジョンデくんのお店のベーグル食べたいなぁって思ってたんだ」
「ありがとうございます……」
僕作ってないですけど、なんておどけるとイーシンさんもクスクスと笑った。
「あと、ジョンデくんに会いたいなぁって。一回そう思うと、君の笑顔が頭から離れなくて参っちゃったよ」
「え……」
あはは、と能天気そうにこの人は笑っているけど、何か今すごいこと言われたような気がする……
「あの……えっと……」
どう返していいか分からなくて、しどろもどろとしている僕をよそに、イーシンさんは「やっぱりシュシュのカフェラテは美味しいなぁ」と笑顔を浮かべていた。
まったく。
なんなんだ、この人は……なんなんだ!
僕らは、客と店員で。それ以上でもそれ以下でもないはずなのに。なんでこんなに心臓がどくどくと脈打つんだろう。上手い言葉は何一つ出てこない。気の利いたジョークも、いつもの営業スマイルも。何一つ出てこない僕は、ただただイーシンさんの顔を見つめるしか出来なかった。
コーヒーを一杯飲んで、頑なに「奢る」というイーシンさんに甘えてお会計をお願いして、ミンソギヒョンに挨拶をして、僕らはシュシュを出た。
玄関まで送る、と言うので1分にも満たないうちに着く居住者用のエントランスまで一緒に歩いた。
「あの……コーヒーごちそうさまでした」
「ううん、僕が誘ったんだから気にしないで」
「はい」
それじゃあおやすみなさい、と少し早い挨拶をして頭を下げると、イーシンさんも「おやすみ」と笑顔で手を振ってくれた。
振り返ってエントランスのドアを押し開ける。
と、その時、
「待って!」
もう片方の腕を掴まれて、そのまま強引に引き寄せられた。
あ……
僕は、イーシンさんに抱き締められていた。
背中に回された腕がギュッと力を強めて、更に密着する。
「明後日また買いに行くから……」
「…………はい……お待ちしてます……」
なんて会話なんだろう……
放心状態の頭で、ぼんやりと思った。
そのまま腕を緩められて、視線が重なって、頬に手を這わされて、ドキンと心臓が悲鳴をあげる。
あ、キスされるかも……
なんて思ったのに、しばらくしたらイーシンさんはにこりといつもの笑みを浮かべていて、「じゃあね」と口にした。
「あ……はい……」
そのまま離れてドアを押しやると、今度は止められずに前に進んだ。
真正面にあるエレベーターに乗り込んで振り向くと、屈託なく手を振ってていて。僕はペコリと頭を下げるとエレベーターのドアは閉まった。
何だったんだろう……
頭の中がぐるぐると回る。
身体中にはさっきの温もりが残っていて、ちらちらと蘇るあの人の笑顔。
キス、されるかと思った。
しちゃってもいいと思った。
そのまま、キスしちゃってもいいって。
そこまで考えて、僕はイーシンさんが好きなのかもしれないと思った。
あの瞬間……あの真剣な目に捕らえられた瞬間、僕はこの人とどうなってもいいって思ってしまったんだ。
そう思ったら、僕の心は坂を転がるように急加速していった。
二週間ぶりに会えた人。
僕の心をときめかせるあの優しい笑顔を持った人。
こんな気持ちは初めてだった。
→