ビーグルベーグルシリーズ
161130 ビーグルベーグル レイチェン
僕が気になるその人は、名前も知らない人。
けれど、毎日のように顔を合わせる人だ。
* * *
「いらっしゃいませ~!」
最早それは僕の口癖のようなものだ。
毎日毎日何十回も繰り返して、そのひとつひとつに義務のような笑顔をのせて。それでも「ありがとう」の一言で本当に幸せになれてしまうお手軽な僕と僕の仕事。
"ビーグルベーグル"
ひょんなことから友人同士の四人で始めたベーグル屋は、ベッキョンが探してきた駅前商店街という立地と、ギョンスが焼く美味しいベーグルと、チャニョルのセンスと、僕の笑顔によりありがたくも繁盛している。
駅前なんだから朝から開けようと言ったのはベッキョンで、彼の先を読むセンスは馬鹿に出来ないものがある。その作戦が成功だったのか、朝はとにかくごった返していた。次から次へと焼かれてくるベーグルと、それを買っていくお客さん。近くの学校の学生さんからサラリーマン、OLまで。毎日いろんな人が来る通勤通学前の忙しない一時。悠長に話してる暇なんてないほどだし、それを終えると今度は昼のラッシュが待っていて、そうしてへとへとになって僕らは毎日を終えるんだ。
レジの合間に手が空けばトレーの片付け、陳列棚の整理、商品の袋詰め、それから出来上がったベーグルの陳列。
レジや売り場を担当するのは僕とベッキョンで、厨房はギョンスとチャニョル。あとはその時の仕事の混み具合を見ながら各々手伝っている。
「ただいまアボカドサーモンサンド出来立てでーす!」
僕の自慢の大声はこんなところでも役に立つ。
「あ、ジョンデ!もうすぐプレーンの分も上がるから準備よろしく!」
「了解~」
焼き担当のチャニョルから声をかけられて、プレーンベーグルの売り場を確認して焼きたてを置く場所を確保する。そうしてお客さんがレジに行きそうなタイミングでレジまで戻り、また「いらっしゃきませ」と「ありがとうございました」を繰り返す。
朝のラッシュを過ぎたひとときだ。
僕は程よく来店するお客さんを捌きながら昼のラッシュに備えてレジ回りを調えた。
おしゃれに言えばブランチ、とかそんな感じの時間。
ちょうど10時をまわる頃。
あ、来た。
喧騒と休息の合間、そんな時間にあの人は来るのだ。
「いらっしゃいませ~」
正直、こんな時間に私服でパンを買いに来る男なんて何者なんだと頭を捻る。しかもたまにならまだしも、その人は毎日のようにやって来るんだ。普通のサラリーマンではないことは確かで、学生というにも無理がありそうな雰囲気。だけどいつもいつも真剣にパンを選ぶ姿は、見ていて何だか妙だった。毎日2つ。その日の気分で選んでいく。調理パンよりも甘い菓子パン系の方が好きらしい。あ、チョコチップのベーグルは高確率だ。
その人が入ってきて思わずベッキョンと目配せをした。
「今日も来たな」
「うん」
妙なその人は、僕らの中でも何となく認識されて話の種になるときもある。
年はきっと20代半ばくらい。
パンを選ぶときは真剣で、買って帰るときはとても幸せそうな笑顔をこぼす。
「お会計680円です」
「えっと……あっ……!」
その人がポケットから財布を出した途端、チャリンという音と共にコインやらカードやらが散らばって……
「あ、すみません!」
「いえ、大丈夫ですか!?」
僕もレジの向こうに回り込んで拾うのを手伝った。
近くで見たその人は恐ろしくイケメンで。白い肌に綺麗な鼻筋。眠たげな二重の奥にはガラス玉みたいな瞳が輝いていて、すごいなぁって、ただただ驚いていると不思議そうに視線を返された。
「あ、あの……何か?」
「え……あ!すみません!」
立ち上がってお辞儀をする。
包装を終えてお会計をして、ドアの向こうへ消えていく背中を見送った。
「あ……ありがとうございました!」
振り返って恥ずかしそうにぺこりとお辞儀を返されて、思わずこちらも頭を下げた。
不思議な人……
不思議な魅力の……
「ベッキョナー!起きて!仕事行くよ!」
「うーん、もうちょっと……あとで行くから……」
「ギョンスに怒られても知らないからね!」
「うーん……」
時刻は朝4時。パン屋の朝は早いのだ。
仕込みやら掃除やらやることはいっぱいで朝が早いので、僕とチャニョルはこの店の上に住んでいる。
上といってもすぐ上な訳ではなくて、5階建てのビルの4階。1階はこのビーグルベーグルと隣のcafeシュシュがテナントとして入っていて、2階は弁護士事務所と空きテナント。3階以上が単身用の賃貸マンションという造りだ。
で、僕とチャニョルはそれぞれ部屋を借りてるんだけど、ギョンスは遅刻しないからいいとして、ベッキョンは遅刻が多すぎるという理由で現在僕の部屋に転がり込んでいるわけだ。
「おはよー」
「あ、おはよう」
「おぅ!」
店に出ると、調理担当のチャニョルとギョンスはもう来ていて、さっそく今日の分の成形や仕込みを始めていた。
僕はレジ周りを整えて、店舗の掃除を始める。
「ベッキョンは?」
「まだ寝てるー」
「またぁ?」
「うん」
「チャニョラ、あいつの給料天引きしといて」
実質的なオーナーはチャニョルが務めているけど、怒ると怖いのはギョンスの方だ。
「どうせまたゲームでもしてたんだろ?」
「うん、みたい。先に寝ちゃったから知らないけど」
そんなこんなで焼き上がったサンド用のベーグルを冷ます間、僕らは焼きたてのベーグルをかじってインスタントコーヒーで適当に朝食を済ませているとベッキョンが飛んで来るのが朝の常となっている。
「わりぃー!!二度寝しちゃった!」
「お前の給料直結だから別にいいけど」
「またまたぁ!」
「あはは!残念だったね」
「え、マジ?」
「うん」
そんなこんなで、ビーグルベーグルの騒がしい一日がまた始まる。
「あ、そうだ。これ……」
「ん?なになに?」
朝店内を掃除してるときにカウンターの下から見つけた免許証をエプロンのポケットから取り出して見せると、3人一斉に覗き込んだ。
「さっき拾ったんだよね」
「チャンイーシン……って、この顔あの人じゃん!」
「うん、昨日財布ひっくり返してたから多分その時……」
「へぇー。チャンイーシンっていうのか」
いつも10時過ぎに来るあの人。
僕とベッキョンの間ではちょっとした有名人だ。
「知ってるの?」
「うん、常連さん。いっつも10時くらいの変な時間に来るんだよねぇ」
「何者なんだろうな」
「さ、そろそろ始めるよ」
うちの店は7時には開店しなければいけないのだ!
残りのベーグルをコーヒーで流し込んで、冷めたベーグルから調理を再開した。
「あ、セフナ、おはよう」
「おはようございまーす」
「今日は朝から?」
「はい、ホント面倒くさい……」
「あはは!がんばれ学生!」
8時を過ぎる頃に同じく上に住む大学生のセフンが眠そうな目を擦りながらやってくる。
「あ、ミンソギヒョン!おはようございます」
「あぁ、おはよう」
それから9時を過ぎれば開店前の喫茶店シュシュのマスター、ミンソギヒョン。
そして、10時。
「いらっしゃいませ~」
あの人だ。
───チャンイーシン
僕はポケットの中の免許証を掴んだ。
「あの……」
幸せそうに陳列棚のパンを眺めているその人を捕まえて、僕は声をかけた。
「これ、そうですよね?」
「あ……」
その人は目を見開いて僕の顔と掌の免許証を交互に見比べた。
「多分、昨日お財布落としたときに落ちたんだと思います。今朝掃除していたときに見つけて」
「あぁ!全然気づかなかったよ」
ありがとう、と言ってその人は免許証を掴んで満面の笑みを浮かべた。
その瞬間、なんだろうか……ビビビっと……
得体の知れないものが、僕の脳天を直撃したんだ。
「あの……?」
「え、あ……あぁ!すみません!あ!昨日見つけてればよかったんですけど!」
「ううん、大丈夫。助かったよ」
ふと視線を感じて振り向けば、ベッキョンがにやにやと笑っていた。
チャンイーシン、さん……
歳は僕より3つ上だった。
住所は近くのマンション。
あぁ、だから毎日買いに来てくれるんだ……なんて。
「なに……?」
「別にぃー」
レジに戻ると相変わらずベッキョンがにやにやと笑っていた。
「今週もお疲れさまー!」
翌日は日曜日で定休日なので、やっとゆっくりと寝れる。
売れ残ったベーグルを持ち帰って明日のブランチにでもしよう、なんて考えながら売上げを合わせていると、浮かんだのはあの人の顔だった。
残っていたベーグルがあの人の好きなチョコチップベーグルだったからだろうか。
ふわりと笑った顔はどう見ても優しげで、話し方も物腰の柔らかそうな人だった。
何やってる人なんだろう……
翌日、少し朝寝坊した僕は、持ち帰ったベーグルをかじって溜まっていた洗濯物を片付け、下のシュシュへと足を運んだ。
「よう、いらっしゃい」
「おはようございまーす」
「あ!ジョンダ!いらっしゃい」
マスターのミンソギヒョンとアルバイトのタオが笑顔で迎えてくれるその店は、お隣さんということを差し引いたとしても僕のお気に入りだ。
ヒョンのコーヒーはどこよりも美味しいと思う。
「いつものでいい?」
「はい」
ヒョンが美味しい特製ブレンドを淹れてくれる間、カウンターに掛けてタオと雑談をする。
「ジョンイナの試験ってもうすぐだよね?」
「あぁ、そっか。そうだね」
「今年は受かるかなぁ……」
「そんな簡単じゃないんじゃない?」
ジョンイン、とは2階の弁護士事務所でアルバイトとして働いている若者だ。去年初めて司法試験を受けたがダメだったらしく、今年も引き続き頑張っているらしい。
よくシュシュとビーグルベーグルにお使いに来るので、僕らもよく知っている間柄だ。
「タオや、ジョンインの前で試験のこと口にするなよ?」
ミンソギヒョンがコーヒーを差し出しながらタオに言い聞かせる。
「何で?」
「プレッシャーになったら困るだろ」
「えージョンインは大丈夫でしょー!」
「そんなわけあるか。1年間その日のために勉強してんだから」
「1年間かぁ……すごいなぁ」
タオも少しはコーヒーの勉強したら?なんて笑って声をかけると、「嫌だよ!」と尻尾を巻いて逃げていった。
「あはは!ヒョンも大変だね」
「ほんと、採用誤ったかなぁ」
「じゃあうちのベッキョンとトレードする?」
「あぁー、どっちもどっちだな」
「あはは!ベッキョンに言っとく」
「こらっ!」
そうやって穏やかな昼下がりを過ごして店をあとにする。
天気もいいし散歩でもするか、なんて宛もなく歩いていたはずなのに、気付けばあの人の家の方に歩いていた。
多分この辺かな、なんて。
会えるはずもないのに……
のんびりと歩けば、大きな広場があって、子供たちが走り回っていた。
ベンチに腰掛けてぼんやりと眺める。
ひゅっと春の風が吹けば、新緑の枝葉がカサカサと音を立てて揺れた。
「もしかして、ベーグル屋さん……?」
ぼんやりと座っていると後ろから声をかけられて慌てて振り返った。
「あ……」
「やっぱり!」
あぁ、そっか!今日お休みだもんね、と笑顔を向けるのは、ほんのさっき頭に思い浮かべたその人だった。出来すぎた偶然に頭が追い付かない。
「隣いい?」
「あ、はい……!どうぞ!」
少し横にずれると、イーシンさんは回り込んで隣に座った。
「散歩?」
「はい。あの……えっと……イーシンさん、は?」
「名前……あぁそっか!免許証!」
「……はい」
勝手に見ちゃって悪かったかな、なんて思いながら苦笑を浮かべたけれど、当の本人は気にしていないのか、「ベーグル屋さんのお名前は?」と反対に質問されたので「ジョンデです」と答えた。
「ジョンデくんか。いい名前だねぇ」
「ふふ、ありがとうございます」
照れながら視線を下に向けると、イーシンさんの手には当たり前だけどうちじゃない店のパン屋の袋。思わず「あ……」と声を漏らしてしまった。
「今日休みだったから」
「まぁ、そうですよね」
「普段はね、ジョンデくんのお店のベーグルしか食べないんだけど、どうしてもお腹空いちゃって……」
そういえばいつもイーシンさんが買いに来る時間からは大分ずれている。
「いつもありがとうございます」と頭を下げると、「こちらこそ美味しいパンをありがとう」と返されて二人して笑った。子供たちのはしゃぐ声が聞こえて、ぽかぽかと穏やかな陽気が漂っていて、あぁ、なんか幸せな時間だなぁ……って。
「お店以外で会うと変な感じだね」
「はい」
ただのんびりと、のんびりと過ぎていく時間が、僕の心を満タンに充電してくれるようだった。
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僕が気になるその人は、名前も知らない人。
けれど、毎日のように顔を合わせる人だ。
* * *
「いらっしゃいませ~!」
最早それは僕の口癖のようなものだ。
毎日毎日何十回も繰り返して、そのひとつひとつに義務のような笑顔をのせて。それでも「ありがとう」の一言で本当に幸せになれてしまうお手軽な僕と僕の仕事。
"ビーグルベーグル"
ひょんなことから友人同士の四人で始めたベーグル屋は、ベッキョンが探してきた駅前商店街という立地と、ギョンスが焼く美味しいベーグルと、チャニョルのセンスと、僕の笑顔によりありがたくも繁盛している。
駅前なんだから朝から開けようと言ったのはベッキョンで、彼の先を読むセンスは馬鹿に出来ないものがある。その作戦が成功だったのか、朝はとにかくごった返していた。次から次へと焼かれてくるベーグルと、それを買っていくお客さん。近くの学校の学生さんからサラリーマン、OLまで。毎日いろんな人が来る通勤通学前の忙しない一時。悠長に話してる暇なんてないほどだし、それを終えると今度は昼のラッシュが待っていて、そうしてへとへとになって僕らは毎日を終えるんだ。
レジの合間に手が空けばトレーの片付け、陳列棚の整理、商品の袋詰め、それから出来上がったベーグルの陳列。
レジや売り場を担当するのは僕とベッキョンで、厨房はギョンスとチャニョル。あとはその時の仕事の混み具合を見ながら各々手伝っている。
「ただいまアボカドサーモンサンド出来立てでーす!」
僕の自慢の大声はこんなところでも役に立つ。
「あ、ジョンデ!もうすぐプレーンの分も上がるから準備よろしく!」
「了解~」
焼き担当のチャニョルから声をかけられて、プレーンベーグルの売り場を確認して焼きたてを置く場所を確保する。そうしてお客さんがレジに行きそうなタイミングでレジまで戻り、また「いらっしゃきませ」と「ありがとうございました」を繰り返す。
朝のラッシュを過ぎたひとときだ。
僕は程よく来店するお客さんを捌きながら昼のラッシュに備えてレジ回りを調えた。
おしゃれに言えばブランチ、とかそんな感じの時間。
ちょうど10時をまわる頃。
あ、来た。
喧騒と休息の合間、そんな時間にあの人は来るのだ。
「いらっしゃいませ~」
正直、こんな時間に私服でパンを買いに来る男なんて何者なんだと頭を捻る。しかもたまにならまだしも、その人は毎日のようにやって来るんだ。普通のサラリーマンではないことは確かで、学生というにも無理がありそうな雰囲気。だけどいつもいつも真剣にパンを選ぶ姿は、見ていて何だか妙だった。毎日2つ。その日の気分で選んでいく。調理パンよりも甘い菓子パン系の方が好きらしい。あ、チョコチップのベーグルは高確率だ。
その人が入ってきて思わずベッキョンと目配せをした。
「今日も来たな」
「うん」
妙なその人は、僕らの中でも何となく認識されて話の種になるときもある。
年はきっと20代半ばくらい。
パンを選ぶときは真剣で、買って帰るときはとても幸せそうな笑顔をこぼす。
「お会計680円です」
「えっと……あっ……!」
その人がポケットから財布を出した途端、チャリンという音と共にコインやらカードやらが散らばって……
「あ、すみません!」
「いえ、大丈夫ですか!?」
僕もレジの向こうに回り込んで拾うのを手伝った。
近くで見たその人は恐ろしくイケメンで。白い肌に綺麗な鼻筋。眠たげな二重の奥にはガラス玉みたいな瞳が輝いていて、すごいなぁって、ただただ驚いていると不思議そうに視線を返された。
「あ、あの……何か?」
「え……あ!すみません!」
立ち上がってお辞儀をする。
包装を終えてお会計をして、ドアの向こうへ消えていく背中を見送った。
「あ……ありがとうございました!」
振り返って恥ずかしそうにぺこりとお辞儀を返されて、思わずこちらも頭を下げた。
不思議な人……
不思議な魅力の……
「ベッキョナー!起きて!仕事行くよ!」
「うーん、もうちょっと……あとで行くから……」
「ギョンスに怒られても知らないからね!」
「うーん……」
時刻は朝4時。パン屋の朝は早いのだ。
仕込みやら掃除やらやることはいっぱいで朝が早いので、僕とチャニョルはこの店の上に住んでいる。
上といってもすぐ上な訳ではなくて、5階建てのビルの4階。1階はこのビーグルベーグルと隣のcafeシュシュがテナントとして入っていて、2階は弁護士事務所と空きテナント。3階以上が単身用の賃貸マンションという造りだ。
で、僕とチャニョルはそれぞれ部屋を借りてるんだけど、ギョンスは遅刻しないからいいとして、ベッキョンは遅刻が多すぎるという理由で現在僕の部屋に転がり込んでいるわけだ。
「おはよー」
「あ、おはよう」
「おぅ!」
店に出ると、調理担当のチャニョルとギョンスはもう来ていて、さっそく今日の分の成形や仕込みを始めていた。
僕はレジ周りを整えて、店舗の掃除を始める。
「ベッキョンは?」
「まだ寝てるー」
「またぁ?」
「うん」
「チャニョラ、あいつの給料天引きしといて」
実質的なオーナーはチャニョルが務めているけど、怒ると怖いのはギョンスの方だ。
「どうせまたゲームでもしてたんだろ?」
「うん、みたい。先に寝ちゃったから知らないけど」
そんなこんなで焼き上がったサンド用のベーグルを冷ます間、僕らは焼きたてのベーグルをかじってインスタントコーヒーで適当に朝食を済ませているとベッキョンが飛んで来るのが朝の常となっている。
「わりぃー!!二度寝しちゃった!」
「お前の給料直結だから別にいいけど」
「またまたぁ!」
「あはは!残念だったね」
「え、マジ?」
「うん」
そんなこんなで、ビーグルベーグルの騒がしい一日がまた始まる。
「あ、そうだ。これ……」
「ん?なになに?」
朝店内を掃除してるときにカウンターの下から見つけた免許証をエプロンのポケットから取り出して見せると、3人一斉に覗き込んだ。
「さっき拾ったんだよね」
「チャンイーシン……って、この顔あの人じゃん!」
「うん、昨日財布ひっくり返してたから多分その時……」
「へぇー。チャンイーシンっていうのか」
いつも10時過ぎに来るあの人。
僕とベッキョンの間ではちょっとした有名人だ。
「知ってるの?」
「うん、常連さん。いっつも10時くらいの変な時間に来るんだよねぇ」
「何者なんだろうな」
「さ、そろそろ始めるよ」
うちの店は7時には開店しなければいけないのだ!
残りのベーグルをコーヒーで流し込んで、冷めたベーグルから調理を再開した。
「あ、セフナ、おはよう」
「おはようございまーす」
「今日は朝から?」
「はい、ホント面倒くさい……」
「あはは!がんばれ学生!」
8時を過ぎる頃に同じく上に住む大学生のセフンが眠そうな目を擦りながらやってくる。
「あ、ミンソギヒョン!おはようございます」
「あぁ、おはよう」
それから9時を過ぎれば開店前の喫茶店シュシュのマスター、ミンソギヒョン。
そして、10時。
「いらっしゃいませ~」
あの人だ。
───チャンイーシン
僕はポケットの中の免許証を掴んだ。
「あの……」
幸せそうに陳列棚のパンを眺めているその人を捕まえて、僕は声をかけた。
「これ、そうですよね?」
「あ……」
その人は目を見開いて僕の顔と掌の免許証を交互に見比べた。
「多分、昨日お財布落としたときに落ちたんだと思います。今朝掃除していたときに見つけて」
「あぁ!全然気づかなかったよ」
ありがとう、と言ってその人は免許証を掴んで満面の笑みを浮かべた。
その瞬間、なんだろうか……ビビビっと……
得体の知れないものが、僕の脳天を直撃したんだ。
「あの……?」
「え、あ……あぁ!すみません!あ!昨日見つけてればよかったんですけど!」
「ううん、大丈夫。助かったよ」
ふと視線を感じて振り向けば、ベッキョンがにやにやと笑っていた。
チャンイーシン、さん……
歳は僕より3つ上だった。
住所は近くのマンション。
あぁ、だから毎日買いに来てくれるんだ……なんて。
「なに……?」
「別にぃー」
レジに戻ると相変わらずベッキョンがにやにやと笑っていた。
「今週もお疲れさまー!」
翌日は日曜日で定休日なので、やっとゆっくりと寝れる。
売れ残ったベーグルを持ち帰って明日のブランチにでもしよう、なんて考えながら売上げを合わせていると、浮かんだのはあの人の顔だった。
残っていたベーグルがあの人の好きなチョコチップベーグルだったからだろうか。
ふわりと笑った顔はどう見ても優しげで、話し方も物腰の柔らかそうな人だった。
何やってる人なんだろう……
翌日、少し朝寝坊した僕は、持ち帰ったベーグルをかじって溜まっていた洗濯物を片付け、下のシュシュへと足を運んだ。
「よう、いらっしゃい」
「おはようございまーす」
「あ!ジョンダ!いらっしゃい」
マスターのミンソギヒョンとアルバイトのタオが笑顔で迎えてくれるその店は、お隣さんということを差し引いたとしても僕のお気に入りだ。
ヒョンのコーヒーはどこよりも美味しいと思う。
「いつものでいい?」
「はい」
ヒョンが美味しい特製ブレンドを淹れてくれる間、カウンターに掛けてタオと雑談をする。
「ジョンイナの試験ってもうすぐだよね?」
「あぁ、そっか。そうだね」
「今年は受かるかなぁ……」
「そんな簡単じゃないんじゃない?」
ジョンイン、とは2階の弁護士事務所でアルバイトとして働いている若者だ。去年初めて司法試験を受けたがダメだったらしく、今年も引き続き頑張っているらしい。
よくシュシュとビーグルベーグルにお使いに来るので、僕らもよく知っている間柄だ。
「タオや、ジョンインの前で試験のこと口にするなよ?」
ミンソギヒョンがコーヒーを差し出しながらタオに言い聞かせる。
「何で?」
「プレッシャーになったら困るだろ」
「えージョンインは大丈夫でしょー!」
「そんなわけあるか。1年間その日のために勉強してんだから」
「1年間かぁ……すごいなぁ」
タオも少しはコーヒーの勉強したら?なんて笑って声をかけると、「嫌だよ!」と尻尾を巻いて逃げていった。
「あはは!ヒョンも大変だね」
「ほんと、採用誤ったかなぁ」
「じゃあうちのベッキョンとトレードする?」
「あぁー、どっちもどっちだな」
「あはは!ベッキョンに言っとく」
「こらっ!」
そうやって穏やかな昼下がりを過ごして店をあとにする。
天気もいいし散歩でもするか、なんて宛もなく歩いていたはずなのに、気付けばあの人の家の方に歩いていた。
多分この辺かな、なんて。
会えるはずもないのに……
のんびりと歩けば、大きな広場があって、子供たちが走り回っていた。
ベンチに腰掛けてぼんやりと眺める。
ひゅっと春の風が吹けば、新緑の枝葉がカサカサと音を立てて揺れた。
「もしかして、ベーグル屋さん……?」
ぼんやりと座っていると後ろから声をかけられて慌てて振り返った。
「あ……」
「やっぱり!」
あぁ、そっか!今日お休みだもんね、と笑顔を向けるのは、ほんのさっき頭に思い浮かべたその人だった。出来すぎた偶然に頭が追い付かない。
「隣いい?」
「あ、はい……!どうぞ!」
少し横にずれると、イーシンさんは回り込んで隣に座った。
「散歩?」
「はい。あの……えっと……イーシンさん、は?」
「名前……あぁそっか!免許証!」
「……はい」
勝手に見ちゃって悪かったかな、なんて思いながら苦笑を浮かべたけれど、当の本人は気にしていないのか、「ベーグル屋さんのお名前は?」と反対に質問されたので「ジョンデです」と答えた。
「ジョンデくんか。いい名前だねぇ」
「ふふ、ありがとうございます」
照れながら視線を下に向けると、イーシンさんの手には当たり前だけどうちじゃない店のパン屋の袋。思わず「あ……」と声を漏らしてしまった。
「今日休みだったから」
「まぁ、そうですよね」
「普段はね、ジョンデくんのお店のベーグルしか食べないんだけど、どうしてもお腹空いちゃって……」
そういえばいつもイーシンさんが買いに来る時間からは大分ずれている。
「いつもありがとうございます」と頭を下げると、「こちらこそ美味しいパンをありがとう」と返されて二人して笑った。子供たちのはしゃぐ声が聞こえて、ぽかぽかと穏やかな陽気が漂っていて、あぁ、なんか幸せな時間だなぁ……って。
「お店以外で会うと変な感じだね」
「はい」
ただのんびりと、のんびりと過ぎていく時間が、僕の心を満タンに充電してくれるようだった。
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