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最後の恋シリーズ

160113 続・最後の恋 カイド



「よろしくおねがいします」


そう言って目の前に現れた顔を見て、僕は心臓が飛び出るかと思った。




社内研修を終えた新人が今日から各部に配属されるとあって、部内は朝から仄かに色めき立っていた。昨年はうちの部には新人は配属されなかったので、今の今まで自分が一番の下っぱだった。だから新人が入るのは確かに嬉しかったんだけど。


「ギョンスもついに教育係だね」

隣の席でジュンミョニヒョンが笑う。

「えぇ、そうですね」


ジュンミョニヒョンは新人の頃、僕の教育係だった。それが今では僕が教育係なんだから可笑しな話だ。僕は緊張と不安が入り交じる中、新人が来るのを待っていた。そうして人事部の人間に連れてこられた人物を見て僕は息を飲んだのだ。



「キムジョンインくんだ」と部長から紹介された彼は、僕が知ってる彼よりも背も骨格も当たり前に7年分成長していて、スーツを綺麗に着こなす大人の男になっていた。




「…………ンス……ギョンス、ほら」


ジュンミョニヒョンにつつかれて意識を戻すと、部長が教育係の僕を彼に紹介していた。

「え、あ、あぁ。ドギョンスです」

慌てて挨拶をすると、彼は僅かに口の端をつり上げて笑った。昔と変わらないその仕草は、彼が照れ隠しをするときのものだ。彼も驚いて緊張しているのかもしれない。




キムジョンインは僕が心を奪われた最初で最後の人だ。


もう面影も怪しかったのに、目の前に現れた途端にたくさんの淡い記憶が一斉にフラッシュバックして。
記憶の中の彼は学生服を着て太陽の下でいつも笑っていた。僕は大きな口を開けて笑う姿が何よりも好きだった。


「よろしくおねがいします」


そう言って下げられた頭部から流れ落ちる髪の毛の感触を僕は知っている。




会いたいと思ったことはない。
会ったところでどうにもならないということは分かっていたから。思い出としてしまっておけばいい、と。人恋しくなればたまに引っ張り出して眺めてみたりして。そうして心が凪いだらまた大事にしまっておく。今の僕にとってジョンインとはそういう存在だった。
なのにいざ会ってしまえば、僕はやっぱり戸惑いを隠せないらしい。


「こちらこそ、よろしくおねがいします」と、僕は随分と他人行儀な挨拶をした。
あの頃は「ヒョン」「ジョンイナ」なんて懐っこく呼びあっていたというのに。そんなことで当たり前に通りすぎた7年を実感じた。


新人の席はもちろん教育係りである僕の隣で、ぎこちないながらも案内する。社内ネットワークや、今取りかかっている案件についてざっくりと説明した。ジョンインはそのすべてにおいて几帳面にメモを取っていた。

ペンを握る手を見て、その昔、彼に数学を教えたことを思い出す。彼は数学が随分と苦手だった。



そうして僕らの間には何もなかったかのように、数日が過ぎた。
本当に、何もなかったんじゃないかと錯覚してしまうほど、彼は新入社員で僕は教育係だった。


「あ、そうだ!ギョンス、」
「はい?どうしました?」
「部長がそろそろ歓迎会でもやらないかって言うんだけど」
「あぁわかりました、いつもの店でいいですよね?」
「うん」
「じゃあ週末にでも予約しときます」


お願いね~、と言ってジュンミョニヒョンは営業に出ていった。
隣に座るジョンインを見れば何か探しているのか、フォルダ内を漁っている。


「どうしました?」
「あ、えっと、この書類……」
「あぁそれならここに叩き台入ってるから、これ使って」
「あ、はい。すみません」


触れない程度の距離をもどかしく思うことはなかった。ただ、彼はこの事態をどう思っているのか、それくらいは知りたいと思ったけど何も言ってこないというのが答えなんだと思う。僕達の別れ方は、お世辞にも綺麗とは言えなかったから。


今になって思えば、あれは恋と言うには幼すぎたような気がする。お互いの愛を信じられず、疑うことで自分自身を防御していた日々。たとえば僕は、彼がクラスメートの女子と話をすることすら許せなかったし、彼は僕が彼より受験勉強を優先することが許せなかった。お互いに思い通りにならない苛立ち。感情の暴走。ジョンインが何を考えてるのか分からないことが酷くもどかしかった。
どうかしてたんだ、と言うしかしょうがなかった。あの頃僕は、自分の感情を抑えられないくらいには、全身で彼を愛していたから。




「かんぱーい!」


部長の声で彼の歓迎会が始まって、僕は隅の方で注文や取分けやそんなことをちょこちょこと動いていた。合間に見たジョンインは部長や先輩方に囲まれて、酒を注がれては色々なことを根掘り葉掘りと聞かれていた。昔コーラを持っていたその手には、今はビールが注がれている。ジョンインもお酒とか飲むんだ、なんて場違いなことを思った。


「彼女はいるのか?」と誰かが聞いた質問が不意に耳に飛び込んできた。

瞬間、僕はすべて音をシャットアウトして、気がつけばトイレに駆け込んでいた。


───聞きたくない───


多分その一心だった。


心臓の奥が千切られそうで。
例えば知らない誰かがジョンインに触れたり。また知らない誰かをジョンインが触れたり。そんなことを想像してしまったからかもしれない。僕が触れない今の彼の感触を知っている誰かがいるかもしれないと思っただけで、瞬時に気が狂いそうになったんだ。

あんなに平気だと思っていたのに。
自分自身に驚きを隠せない。



「ギョンス?どうかした?」
「ヒョン……」
「急にいなくなったから具合でも悪くなったかと思って心配になったんだけど」
「いえ、大丈夫です……」


そうは見えないけど、と背中を擦ってくれるジュンミョニヒョンの手が、酷く暖かに感じる。不意の優しさに心臓が捩れそうだ。


どんなに整理してたって、感情が暴走する。
踏み出せずに7年間も殻に籠っていた代償かもしれない。
最初で最後の恋だと思っていた淡い恋心。
目尻に浮かびそうになった涙を必死に堪えた。


ギーっとまた音がして、トイレのドアが押された。


「あ、ジョンイナ!」


ジュンミョニヒョンがあげた声につられるように視線を向けた。


「ヒョン……?」
「ジョンイナ……」


かちりと視線が重なって、僕は酷く懐かしい呼び名を呟いていた。けれど彼は「すみません」と言ってすぐに出ていってしまって。


今すぐ誰かにすがって泣いてしまいたかった。


僕は今でも彼が好きなんだ───と。



どうしたんだろうね、とジュンミョニヒョンが呟いた言葉で僕は我に返った。





体調が優れないのでと、二次会は出ないで帰ることにした。適当に頭を下げてタイミングを見計らってサッと帰るのがコツだ。それは引き留められると断りにくくなるから。


そんな風にいつものように一団を離れて駅に向かって歩いていると、後ろから急に腕を引かれて振り返った。


「ヒョン……!」
「ジョンイナ」


やっぱりそうだ。
ジョンインに"ヒョン"と呼ばれると、一気に空気があの頃に戻る。高校生のキムジョンインとドギョンス。二人で恋の真似事をしていたあの頃に。


「大丈夫?」
「え……?」
「具合悪そう、だったから……」
「……うん。それより、主役がこんなところにいていいの?」
「あぁー……」



ジョンインは困ったように、はは、と笑って。僕はなんだかどうしようもなくて、同じように笑った。
眩しいような、くすぐったいような気分。


「ねぇ、ヒョン」


並んで駅まで歩きながらジョンインはあの頃みたいに柔らかく呼ぶから、僕はなんだか勘違いしそうになる。7年もの時間を一足飛びで越えてくるんだ。


「なに?」
「配属になる前、俺が同じ会社にいるって知ってた?」
「いや」
「やっぱりね!ヒョンすごい驚いてたもんなぁ」
「うん……驚いたよ」
「俺はさ、入社する前から知ってたよ。ヒョンがいるって」


え……


驚いて隣を振り向くと、真っ直ぐに前を見ていた大人びた横顔が、急にこちらを振り向いて、あの頃みたいに屈託なく笑った。


「入社試験のとき、見かけたんだ」


だからうちの会社に入りたかったんだと彼は言う。僕は勘違いに目眩がしそうだ。


「どういう意味……?」
「そういう意味」
「それじゃ分かんない」

「ヒョン、今付き合ってる人いる?」
「え……?」
「例えば……ジュンミョニヒョン、とか」
「は?」


言いにくいことを言うときモジモジと地面を見るのは彼の癖だった。


「なんでヒョン?」
「だって仲いいし。それにさっき……訳アリっぽかったから」
「さっき?あぁ、そんなんじゃないよ」
「ホントに?」
「うん、」


ふーん、とジョンインは口を尖らせる。



「なんか、昔もこんなやり取りしたよね」


たしかに。
昔はもっと喧嘩腰だったけど。


「ヒョン、俺さ。会えて嬉しかったよ。あんな別れ方しちゃったけど、ヒョンのこと本当に好きだったし」
「うん……」



僕は、僕には。
やっぱり恋愛は向いてないんだと思う。
彼と、どんな風に関わったらいいのかわからないんだ。


「これからは、同僚としてよろしくね」
「同僚って……まだ早い」



あはは、と笑う彼の横顔は当たり前に7年分成長しているのに、やっぱり僕の胸を締め付けるんだ。
好きで、好きで好きでどうしようもなかった人。
僕のすべてで好きだった人。




週が明けて、会社に行くのが酷くしんどかった。
蘇った昔の温度を平気な顔でやり過ごさなければいけない。拘ってるのは僕で。思い出にしがみついているだけのちっぽけな僕で。
思い出だけがあればそれでいいと何度も思ったのに、週末は何度もあの体温を思い出した。
呆れるほど何も成長できていない自分。
最後の恋だと決めていた人が、また昔と同じ笑顔で笑いかけてくる現実。
けれど確実に昔とは違う距離で。
それは酷く残酷で、神様を呪いたくなった。



「おはようございます!」と新人らしい声を上げてジョンインが出社する。
それから席について「おはようヒョン」と隣の僕に笑う。


「あぁ、おはよう」


あれ?随分親しいんだね、とジュンミョニヒョンが振り返って言うので、僕は咄嗟に口ごもった。


「あ、俺達同じ高校だったんです」
「え?そうなの?」
「はい、この前飲んでるとき思い出して」
「はは!思い出したって!まぁ学年違えばそんなに交流ないもんねぇ」
「まぁ」
「じゃあギョンス、しっかり面倒見ないとね!」


にこにこと嬉しそうに笑うヒョンに、僕は曖昧な笑みを返した。


ヒョンがいなくなって仕事に取りかかる前、ちょっと、と僕は彼を呼び止めた。

「なに?」
「会社では敬語使って」
「あ、そっか。はい、先輩!」

彼は楽しそうに笑うけど、僕はちっとも笑えない。




僕らが別れたとき、これといった理由は特になかった。ちょっとずつすれ違った歯車は、気づけばどんどんと噛み合わなくなっていって。ちょっとした言い合いから喧嘩が絶えなくなっていたんだ。


『ヒョン、違うじゃんこんなの。俺はヒョンと喧嘩がしたい訳じゃないのに』


一度、ジョンインがそんなことを言ったことがあった。僕はそのとき何も言えなくなって、黙り込んでしまったんだ。歩み寄る努力をしていなかったのかもしれない。分かって欲しいばっかりで、理想を押し付けていたんだ。
今ならもっと上手くやれる?
そんなの、絵空事にすぎない。
きっとまた同じことを繰り返すんだ。

それに───あのとき互いに好きだったからといって、今も彼が好きだからといって──ジョンインが今も僕を好きとは限らない。
思い出は、思い出のまま綺麗にとっておいた方がいいのは定説だ。




「ヒョン!仕事終わったから敬語じゃなくてもいいよね?」なんて、会社を出たところでジョンインに呼び止められる。


「ご飯食べに行かない?」
「なんで?」
「なんでって、話したいこといっぱいあるし」


それとも予定あった?と聞かれて「いや」と答えると、問答無用の勢いで近くの居酒屋に連れていかれた。


「ヒョンとお酒飲むの変な感じ」
「うん」

ビールを片手に頬を上げて目を細めて笑う。
僕が好きだった笑顔だ。

「ホントはさ、ヒョンと話したいこといっぱいあったんだ。だけどなんていうか、あんな挨拶しちゃったから切り出せなくて……」

あんな挨拶、とは最初の時の他人行儀な挨拶だ。


「ダンス、まだ続けてるの?」
「いや、大学のとき腰痛めてやめた」
「そう……」


その昔、あんなに好きだったダンスをやめてしまったと言う。どれ程の思いで断ち切ったのか想像するだけで僕は胸を掻きむしりたくなったのに、それを口にする彼は笑っている。
ジョンインはきっととっくに乗り越えていて。僕の知らない7年の時間を思った。そんな大変なときに隣にいれなかったのか、なんて。
資格なんてとっくに無くなっているのに。
僕は彼の想いを受け止めたかった。


「そんな顔しないでよ。もう昔のことだって」
「うん……」


踊っている君が好きだったよ、と告げるのはやめておいた。


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