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最後の恋シリーズ

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引っ越してくれば?なんて、随分簡単に言ってくれたもんだ。合鍵まで渡されて。
その部屋がどんなに心地いいか、あいつは知らないんだ。なんて怒ってみても、俺の想いを知らないのだから当然か、と苦笑するしかない。


「何だよ、気持ち悪いな」


心底気持ち悪そうな顔でそう言ったのは、同期のミンソクだ。


「ジュンミョニ?」


図星を指されて、はは、と笑うとミンソクは仕方なそうに眉を下げた。
ミンソクは、俺の様々な様々を知っている唯一の人間だ。どうしてかこいつには、いつも隠し通せない。


「……引っ越してくればって言われた」
「あぁ。」

御愁傷様、と言わんばかりの表情で返される。

「大変だな」

そう言って俺の肩を叩いた手は、小さい割りにずしりと重みを感じた。



久しぶりの独身生活は、ジュンミョンによって、妙に調子が狂わされていた。
下着やら着替えやらを持っていそいそと通う姿はどこの押し掛け女房だよと自分でも笑いそうになったし、手土産にとケーキの1つでも買って行くときは、チエンにもこんなことしなかったのになと僅かな罪悪感に苛まれた。
煙草を吸わないあいつの部屋には、気づけばあいつが買ってきた俺用の灰皿が置かれ、客人用だった食器や毛布はいつの間にか俺用になっていた。

ジュンミョンの部屋は、真綿でくるまれるように心地いい。




あの子の、チエンの宝物の歌を聴いたのは偶然だった。

珍しく仕事の付き合いで繁華街に出ていたとき、解散後もう少し飲みたいな、とたまたま入ったジャズバーでちょうど彼女は歌っていた。
俺を見るなり驚いて目をひん剥き一瞬表情を曇らせたあと、とても生意気な目付きで睨まれたのだ。そりゃあもう、笑うしかなかった。
彼女はそこで接客をしながら、客にせがまれれば歌を披露しているらしい。
伸びのあるきれいな歌声だった。


「いらっしゃいませ」

ちょうど歌い終わった彼女にカウンター越し、強い目付きでおしぼりを渡されて目の前にコースターが置かれた。
可愛い顔をしているが、話し方はハキハキとしていて元気がいい。が、冷たい気がするのはきっと気のせいではないはず。


「歌、上手いんだな」
「ありがとうございます。で、何にしますか?」
「じゃあ、スコッチをロックで」
「かしこまりました」

薄く流れるジャズミュージックの合間、カチャリとグラスを準備する音が漏れた。


「離婚したんですよね?」
「ん?あぁ、聞いたのか」
「はい。それって……私のせいですか?」


コースターにグラスを載せられて、拍子に氷がカラリと揺れる。


「あいつがそう言ったのか?」
「いえ、オンニはそんなこと言いません。誰かのせいになんかしないし、いつでも笑ってます」
「そうか。なら良かった」


「……よくないですよ!」


ソニョンはバンッとカウンターを叩いて声をあげた。
他の客が驚いてこちらを見たので、すみませんと苦笑して小さく頭を下げる。マスターも驚いて「ルナちゃん!」と駆け寄ってこようとしたのでこちらも、大丈夫ですよと手で制して、また頭を小さく下げた。


「よくないです……オンニは幸せにならなきゃいけないのに……可愛い赤ちゃん産んで、優しいお母さんにならなきゃいけないのに……」


どうして離婚なんてしたんですか、と悲しそうに呟いた。それは、まるっきり予想外の問い掛けだった。

俺は、手にしていたグラスを傾けてカランと氷を鳴らすと、その琥珀の液体を一口含んだ。ウイスキー特有の芳醇な香りが口の中に広がる。


「チエンは、君のことを宝物だって言ってた。聞けば、結婚前からの付き合いなんだろ?」
「そうですけど……」
「悪かったな。俺の方が後だった。だから君の元に返そうと思ったんだけど」
「返すだなんて……オンニは物じゃありません!」
「はは!分かってるさ。……いや、違うな。俺が悪かったんだ。全部。半端な気持ちで結婚なんかしたから」


それは、本当に俺の中の結論だった。


「私は……、私はオンニの赤ちゃんを抱くのが夢でした。オンニにあなたの写真を見せられたとき、私、オンニとあなただったらきっとすごく可愛い赤ちゃんが生まれるって思ったんです!だからすごく喜んだのに……」


彼女はとても表情豊かに話をする。
一喜一憂が手に取るように分かるような、そんな話し方だ。きっとチエンもそんなところが可愛いのだろう、なんて不思議な気分になった。


「どうしてそんなに子供に拘るんだ?子供を作るなんて、嫌がるのが普通じゃないのか?」

子供を作るとは、つまりそういうことで……
その辺の常識が俺にはさっぱり分からない。だけど彼女は、

「だって、私には無理だから」

ぽつりと呟いた言葉が生々しく真実を孕んでいて、酷く申し訳ない気がした。


「そりゃ私だってオンニと幸せになりたいって思ってましたよ?だってそうじゃないですか。私、恋人なのに。でもオンニの赤ちゃん見たかったんです。ううん、オンニが幸せそうにママをする姿が見たかったのかもしれません。だから……」


その意見には俺も賛成だと思った。
彼女はきっと素敵な母親になるだろう。


「そうか……協力できなくて悪かったな」


でも……と思ったが考え直して口をつぐんだ。
そもそも、俺たちはほとんどベッドを共にすることがなかったのだから、離婚しなかったとしても子供ができたかは微妙だ。でもそれを今彼女に告げる必要はないだろう。


「チエンは、元気か?」
「えぇ元気です。元気どころか、何もなかったみたい。あの、私分からないんですけど……、離婚ってそんなに簡単なものなんですか?」


酷く不思議そうに彼女は口を開いた。


「さぁ、どうだろうな。ただ……うちは特別じゃないか?」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ」

笑顔を浮かべると、彼女は困惑の表情を見せた。


「あの……オッパは、私のことムカつかないんですか?」


突然、オッパ、だなんて親しげに呼ばれて思わず苦笑した。


「なんですか……?」


本来は人好きする子なんだろう。ジュンミョンあたりと会わせたら、どんなことになるか考えただけで笑える。


「あ、いや。ごめんごめん。こっちのことだ。で、なんだって?」
「……もー!私のことムカつかないかって聞いたんですよ!」
「あぁ、そうか。いやムカつかないな。君はチエンの宝物だから」
「なんですかそれ!もー!じゃあ質問変えます!」

言って焦れったそうに足踏みをすると、今度は「オンニのこと好きでしたか?」と新たな質問をぶつけられた。やっぱり彼女の質問は直球だ。


「あぁ、好きだったよ」

「……そうですか。ならいいです!」


彼女は俺の返答に満足したのか、にっこりと笑って「じゃあ遠慮なくオンニ返してもらいますね」と言い放った。


******


別に、本気で言った訳じゃないけど。

ファンが引っ越してくる気配がまるでないことに、少しだけ寂しさを覚えた。本当に、本気で言った訳じゃなかったんだけど。でもちょっとだけ、何だか悔しい気がしたのは事実で。
それでも渡した合鍵の方は使ってくれているからいいことにする。今では残業して帰ればすでに一人で缶ビールを開けていることもしばしば。家主を待てないのかと文句を言うと、定時で終えられないお前の方が悪い、なんて平然と言い返されて返す言葉もなかった。

別に二人でいるからといって、どちらかが料理が得意なわけでもないので、僕たちの晩ご飯は大抵がスーパーの惣菜だ。
ギョンスに言わせれば、健康に悪いから簡単なものでも作るようにした方がいいですよ、とのことなんだけど。やっぱり少しくらいは作った方がいいんだろうか。
そういえば、ファンの奥さんは料理が上手だといつだか言っていたなぁと思い出して、妙な対抗心が沸いた。


あ、元奥さん、か。


ひとまず今日のところは惣菜で我慢だ、とテーブルに容器を広げる。皿に移さないのは、この際目を瞑って欲しい。

乾杯、と同じく缶ビールを開け、ごつんとぶつける。ファンはすでに2本目のようだ。


「そういえばこれ、」

さっき拾ったんだけど、とファンがポケットから取り出したのは、僕の高校の学祭の時の写真だった。


「あー!!」


真っ赤なドレスを着た僕は、女装をして踊っている。

なんでそんなもの拾うんだよ!!
絶対引き出し開けただろ!!

恥ずかしさで真っ赤になった僕は、わぁわぁと喚きながら写真を取り返そうとファンの方へと腕を伸ばした。するとファンもさらに腕を伸ばして。体格差のある僕はまったく届かない。もちろん間にはテーブルが鎮座していて、ソファーに寄りかかるようにして座るファンは、べったりとそのまま背中を倒してしまい更に腕が届かなくなった。


お前、中々似合うじゃん!なんてファンは笑い転げていて。当たり前だろ!大賞取ったんだから!なんて意味の分からない反論をする。焦れったくなって、テーブルを避けるように手を着いて四つん這いでファンの方へ回り込んだ。
腕を掴もうとすると、逆に空いてる手で腕をとられて。つんのめるように、ファンの胸へと倒れ込んだ。

ワァーとかギャーとか言って喚く僕をファンも爆笑しながら抱き抱える。
存外に広い胸板に抱き止められて、妙な心地だった。だって、ファンが僕の腕を掴んでいたはずの手でやんわりと抱き締めるから。ドキンっと大きく跳ねた心臓が、運動不足のせいかやたらと痛かったんだ。

何すんだよバカ、なんて笑って叩きながら離れた。



深夜に、ふと目が覚めたので水でも飲もうと起き上がって居間に行くと、ファンがいつものように窮屈そうにソファーに横になっていた。だから言わんこっちゃない、なんて悪態をついてみたところで本人はぐっすりと夢の中で、何だか可笑しくて一人でくすりと笑った。

そんな僕の気配を感じたのか、愚図るように身を捩って、掛けていた毛布が落ちかける。
しょうがないなぁと毛布の端を掴もうとした瞬間ファンの腕とぶつかって、そのまますがるように腕を掴まれた。
突然のことに驚いて、心臓が口から飛び出そうになった。瞬間的な出来事に思わず笑いが込み上げてくる。やばいやばい、起こしちゃったかな?と覗き込めば、やっぱりすやすやと眠っていて。ほっと胸を撫で下ろした。

ファンは寝ている顔すら整っていて、いつ見ても羨ましい。を、通り越して最早称賛するしかない。呆れながら見つめて、さて、いつまでもファンの寝顔を見ていたって仕方がない、と掴まれている腕を剥がそうとそっと手をかけた。その刹那───

僕の腕は柔らかに引き寄せられて、体ごとファンの胸に落ちていた。


今度はしっかりと抱き留められていて、心臓がドキリと跳ねる。


あぁ、そうか。
奥さんと間違えてるんだ。


あ、元奥さん、か。


瞬間的にそんな考えが浮かんで、なんでか酷く切なくなった。もやもやとする思考。暖かなその胸は呼吸のたびに揺れ、穏やかな心音が断続的に耳に響く。



欲しい───



そう思った瞬間、僕は慌ててその腕を振りほどきベッドへと駆け込んでいた。そのまま布団を被って丸くなる。


なに考えてんだ!


冗談にも程がある。偶然が重なったからといって。今日の一日で二回もあいつの胸に落ちたからといって。そんなのたまたまだ。それがどうしてそんな思考に至るんだ。


混乱、とは正にこの事だった。




結局その日はあまり眠れなくて、寝不足の浮腫んだ顔で起きると、「朝から不細工だな」とファンにからかわれた。

お前のせいだ!

という心の声は、寸でのところで飲み込んだ。




「おはよう」
「おはようございます。顔色悪いですね」


出社してみれば、寝不足ですか?と早々にギョンスにまで指摘され、僕はあははと冴えない頭で言葉を濁した。

「ヒョンは白いから顔色悪いとすぐわかりますね」

ギョンスのそれは一見心配しているようでその実、気を付けろという警告なんだろうと察する。わかってる。仮にも営業職だ。尤もな台詞に、僕の方が先輩なのになぁ、なんて思わず頭を掻いた。


「ちょっと昨夜寝れなくて……」
「そうですか。あまり無理しないでくださいね」
「ありがとう、ギョンスヤ~」


不意の優しい言葉に、込み上げるものがあった。なんだかんだギョンスは優しいのだ。


「そういえば、今日ファンさんたち来るみたいですね」
「そうなの?」

あいつ朝は何も言ってなかったのに。

「ほら、合同会議の日だから」
「あぁーそっか」


今うちの会社とファンの会社とでやってるプロジェクトは、隣の課の仕事なので僕のところには全く情報は入ってこない。なので定期的にうちの会社でやる合同会議の予定も当然僕のところには入ってこないのだけど、何故かしら女子社員経由でいつもあいつが来る前に知ることになる。そういえば今日もフロアが色めき立ってる気がする。


「何時からなんだろう」
「さぁ、そこまでは」

さすがにギョンスもそこまでは知らないみたいなので、女子社員を捕まえて尋ねた。「午後イチですよ」と即答されて苦笑したのも束の間、今度は恐ろしい勢いで質問をぶつけられた。

「そういえばジュンミョンさんって、ファンさんと仲良いですよね!?」
「え?うん、まぁ……」

「あの……!離婚したって本当ですか!?」


やっぱり彼女たちの狙いはあいつなのか。
女子社員の勢いに押されそうになったが、ひとまず「プライベートなことだから僕の口からは」と濁してその場から逃げた。


(午後イチか。
だったらついでにランチでも誘おうかな。)


そう思ってメールでもと携帯をタップしたところで、ふと考えた。


(いやいや、毎晩のように顔をあわせてるのに連絡してまでランチも一緒に食べるとか!いくらなんでも無いだろ!)


どうせ今夜も家に帰ればあいつはビール飲みながらテレビでも見てるんだ。
連絡するまでもない。
決して昨夜の出来事を思い出した訳じゃない、と言い訳をして携帯をポケットに落とした。と思った直後、携帯は震えてメールの受信を知らせる。
僕は驚いて思わず取り落としそうになった。


『午後イチそっちで会議だから、昼どっか出るか?』


正に考えていた人から考えていた内容のメールが来て。あまりにタイムリーで驚いて思わず笑った。


********

昼にジュンミョンの会社の近くの定食屋で待ち合わせて、一緒に昼食をとった。外で一緒に食べるのは何となく久し振りな気がする。節約のためにと家で飲むようになったが、たまには外食もいいかもしれない。

そこまで考えて、まるで恋人気取りだなと笑った。


「なに?」


器用にカツ丼を頬張りながらジュンミョンが視線を投げ掛けるので、「何でもないよ」と一人で笑った。


「……気持ち悪い」
「イケメン目の前にして失礼だな」
「……」

ジュンミョンのジト目は、最高に可愛い。



外に出ると突然後ろから「オッパ!」とカラカラと鈴のような元気な声がかけられた。ジュンミョンも驚いて薄い肩が揺れる。
振り向くとソニョンだった。


「あぁ、君か」
「もー!君ってなんですか!女性に名前を呼ばないなんて失礼ですよ!」


そう言って笑いながら俺の肩を叩く彼女と俺はチエンを通して知り合ったのだから本当に奇妙な関係だと思う。加えて言えば、奇妙な関係だと思うだけで彼女に対する嫌悪や嫉妬は微塵も感じられない。


彼女は、あはは!と笑ったあとにジュンミョンに気づいたのか、「あ、ごめんなさい」と広げた口を淑やかに閉じた。


「お仕事中でしたよね?ごめんなさい」
「いや、昼休みだから大丈夫だ」
「でも……」

ジュンミョンの方に視線をずらして心配そうに眉を下げた彼女を見て、「友人だから問題ないよ」と笑みを向けると、ほっとしたように胸を撫で下ろしていた。

俺は、そうだ……と思い出す。
彼女とジュンミョンを会わせたらどうなるだろうかと思っていたんだ。


「友人のジュンミョンだ」


彼女に向かって紹介すると、「あ、どうも」と気まずそうに頭を下げるジュンミョンの声は「はじめまして、パクソニョンです!」という元気のいい彼女の声に瞬時にかき消された。やっぱり噛み合わないか、と可笑しくて笑うと、ジュンミョンにじろりと睨まれた。


「あ、オッパと私、何でもないですから!」


何を思ったのかソニョンが急に口走る。
ジュンミョンは当然に不思議そうな顔をした。

「何でも、ない……?」

呟きながら視線を寄越されたので、付け加えるように説明した。

「ま、妹みたいなもんだ」

あ、いや、娘か?と笑うと、バシン、とソニョンに思い切り腕を叩かれて思わず呻いた。力の強い子だ。
しかも叩かれた腕を擦りながら時計を見るともう時間もギリギリで。


「悪い、そろそろ行くな」


そう言って彼女の頭を撫でると微妙に嫌そうな顔をされて、思わずへこみそうになった。
彼女にとってはおっさんなんて興味がないのだろう。まぁ、そうか。


「ジュンミョナ、行くか」
「あぁ」

じゃ、と手を上げる。
彼女は音がしそうなほどの笑みをこぼして手を振り返していた。



「悪かったな」
「いや。……可愛い妹だな。あ、娘か?」
「はは!だろ?俺もそう思う」


見るとジュンミョンから怪訝そうな眼差しを向けられて、本日何度目だろうか、とこっそり苦笑した。


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