第一章
side KS
「あの……これ、あなたのですよね?」
そうやって声を掛けられたのが始まりだった。
差し出されたのは刺繍が施された使い込んだ栞で。昨日の朝、僕が落としたと思ってたものだ。
「あ……ありがとう」
驚いて礼を言うと、目の前に立つ高校生は「いえ」と恥ずかしそうに呟いた。
「よく僕のだって分かったね」
「あの……いつもバスで本読んでますよね。俺も、同じバスに乗ってるんで……」
「あぁ、うん、知ってるよ」
「え……」
「え?」
「や、てっきり周りなんて見てないと思ってたんで」
「それは君の方だと思うけど。いつも寝てるみたいだし」
そう言うと彼は恥ずかしそうに笑った。
高校生の彼は自分よりも体格が一回りも大きくて、憂いを帯びた眼差しが酷く印象的だった。
毎朝同じバスに乗る彼とは少しずつ話すようになり、やがて僕らは付き合い始めた。それはとても自然な流れで、ずっと昔から決まっていたような感じで。すべては当然のようだった。
彼――ジョンインはダンサーを目指しているらしく、留学費用を貯めるために毎朝新聞配達をしている。だから朝のバスの中ではいつも寝ているんだと言っていた。僕にはわからない世界だけど、一度ダンスをしているところを見せてもらったら、それはとても衝撃的だった。
黒豹のようにしなやかで力強く、そしてなにより圧倒される程の色気。普段の彼はその姿を隠しているのか猫科であるように気だるそうで常に眠そうに目を擦っているのに、踊る彼はその姿からは想像もできないほどに美しかった。躍動的で尻尾の先まで神経が行き届いていて、気高くて高貴。いつもは幼く笑む瞳が、その時ばかりは鋭く光っていた。
シロクマで、いつだかそんな話をしたら、「じゃあヒョンはフクロウみたい」って言って悪戯っぽく笑った。
「大きな目で夜を見守るみたい」
そんなこと言われたのは初めてで少し戸惑ったけど。
黒豹とフクロウか。
なるほど。不釣り合いな感じが僕たちみたいで少し笑った。
「……あ、来てたの?」
「うん、さっきね」
学校帰りシロクマでいつものように待ち合わせして、うつ伏せて寝てるジョンインの向かいでコーヒーを飲みながら課題のレシピの考案していた。僕は調理師学校に通っている。
「なに書いてんの?」
「今度の発表で作るメニュー」
「ふーん」
「あ……そうだ」
ノートにペンを滑らせながらこの前のチャニョルとの会話を思い出した。
「今度またチャニョルたちとライブやることになった」
「いつ?」
「まだ決まってない」
「決まったら教えて」
「来れるの?」
「わかんない……けどなるべく行く」
言って、年相応の顔で笑う。
彼も忙しいから来れないなら来れないで仕方ないんだけど、来てくれるならやっぱり嬉しいと思う。僕はジョンインとは違って歌うことがメインの生活を送ってる訳じゃないけど、それでもやっぱり好きなことをやってる姿は見て欲しいから。
僕が彼の踊る姿が好きなように。
「ねぇ、ジョンイナ」
「なに?」
「今度の休み、海でも行かない?」
思い立ったように言うと、彼は少し考えて「いーよ」と笑った。ペンを握る手に指を這わされて、心が綻ぶ。ここが喫茶店であることを忘れそうになった。
「出る?」
「……うん」
お金を払ってマスターに挨拶をして路地に出て。駅に向かう途中のいつもの死角で一瞬のキスを交わして、当然のようにまた明日。僕らの逢瀬は長くない。ジョンインは明日もまた早朝に新聞配達だし、僕も課題とそれからライブの練習に追われる毎日だから。
海に行けるのがいつになるのかなんて分からないけど、それでもそんな小さな約束が僕らの日々を支えている。
「あの……これ、あなたのですよね?」
そうやって声を掛けられたのが始まりだった。
差し出されたのは刺繍が施された使い込んだ栞で。昨日の朝、僕が落としたと思ってたものだ。
「あ……ありがとう」
驚いて礼を言うと、目の前に立つ高校生は「いえ」と恥ずかしそうに呟いた。
「よく僕のだって分かったね」
「あの……いつもバスで本読んでますよね。俺も、同じバスに乗ってるんで……」
「あぁ、うん、知ってるよ」
「え……」
「え?」
「や、てっきり周りなんて見てないと思ってたんで」
「それは君の方だと思うけど。いつも寝てるみたいだし」
そう言うと彼は恥ずかしそうに笑った。
高校生の彼は自分よりも体格が一回りも大きくて、憂いを帯びた眼差しが酷く印象的だった。
毎朝同じバスに乗る彼とは少しずつ話すようになり、やがて僕らは付き合い始めた。それはとても自然な流れで、ずっと昔から決まっていたような感じで。すべては当然のようだった。
彼――ジョンインはダンサーを目指しているらしく、留学費用を貯めるために毎朝新聞配達をしている。だから朝のバスの中ではいつも寝ているんだと言っていた。僕にはわからない世界だけど、一度ダンスをしているところを見せてもらったら、それはとても衝撃的だった。
黒豹のようにしなやかで力強く、そしてなにより圧倒される程の色気。普段の彼はその姿を隠しているのか猫科であるように気だるそうで常に眠そうに目を擦っているのに、踊る彼はその姿からは想像もできないほどに美しかった。躍動的で尻尾の先まで神経が行き届いていて、気高くて高貴。いつもは幼く笑む瞳が、その時ばかりは鋭く光っていた。
シロクマで、いつだかそんな話をしたら、「じゃあヒョンはフクロウみたい」って言って悪戯っぽく笑った。
「大きな目で夜を見守るみたい」
そんなこと言われたのは初めてで少し戸惑ったけど。
黒豹とフクロウか。
なるほど。不釣り合いな感じが僕たちみたいで少し笑った。
「……あ、来てたの?」
「うん、さっきね」
学校帰りシロクマでいつものように待ち合わせして、うつ伏せて寝てるジョンインの向かいでコーヒーを飲みながら課題のレシピの考案していた。僕は調理師学校に通っている。
「なに書いてんの?」
「今度の発表で作るメニュー」
「ふーん」
「あ……そうだ」
ノートにペンを滑らせながらこの前のチャニョルとの会話を思い出した。
「今度またチャニョルたちとライブやることになった」
「いつ?」
「まだ決まってない」
「決まったら教えて」
「来れるの?」
「わかんない……けどなるべく行く」
言って、年相応の顔で笑う。
彼も忙しいから来れないなら来れないで仕方ないんだけど、来てくれるならやっぱり嬉しいと思う。僕はジョンインとは違って歌うことがメインの生活を送ってる訳じゃないけど、それでもやっぱり好きなことをやってる姿は見て欲しいから。
僕が彼の踊る姿が好きなように。
「ねぇ、ジョンイナ」
「なに?」
「今度の休み、海でも行かない?」
思い立ったように言うと、彼は少し考えて「いーよ」と笑った。ペンを握る手に指を這わされて、心が綻ぶ。ここが喫茶店であることを忘れそうになった。
「出る?」
「……うん」
お金を払ってマスターに挨拶をして路地に出て。駅に向かう途中のいつもの死角で一瞬のキスを交わして、当然のようにまた明日。僕らの逢瀬は長くない。ジョンインは明日もまた早朝に新聞配達だし、僕も課題とそれからライブの練習に追われる毎日だから。
海に行けるのがいつになるのかなんて分からないけど、それでもそんな小さな約束が僕らの日々を支えている。