番外編
side KS
ジュンミョンさんが置いていった本を見て、マスターは嬉しそうに笑みを浮かべている。
その本の表紙絵や挿絵は僕が描いたものだ。
「すごいよな、こうやって自分が書いたものが形になるって」
「そうですね……僕も、とても貴重な経験でした」
しみじみと呟くと、「そういえばホットでいい?」とマスターに聞かれたので、僕はすっかり忘れていた注文をお願いした。
「今日はモカの日なんだ」
「モカの日?」
「そう、バレンタインに掛けて」
「あぁ!なるほど」
「モカっていうのはさ、みんなチョコレートのことだと思ってるだろ?」
「はい、違うんですか?」
僕はその問に瞬時にカフェモカを頭に浮かべた。
「あぁ。モカっていうのは本当は港町の名前なんだ。コーヒーの発祥の地って言われてる。そこから出荷された豆をモカっていうんだ」
「へぇ、初めて知りました」
「チョコレートの風味があるって言われてるけど、まぁそのへんはなんとも言えないかな」
ははは、と笑いながらマスターはコーヒーを出してくれて、これはモカ・マタリだと教えてくれた。
一口飲んでみたけど、チョコレートの風味は僕にはよく分からなくて思わず苦笑を浮かべた。
「はは!そう、よく分からないだろ?だからはい、本物のチョコレート!」
差し出されたそれを見て僕は首をかしげた。
「バレンタインだからお客さんに配ってるんだ」
「あぁ、なるほど!ありがとうございます」
あ、そうだ!とマスターが声をあげた。
不思議に思って見てると「俺も貰ったんだった」と先程渡した紙袋を取り出す。
「クッキー?」
「はい。日保ちするようにと思って」
本当はバレンタインだしブラウニーにしようかと思っていたけど、安全策を採ってクッキーにした。EMSでも何日かかるか読めなかったし。
なんて理由はいかにもあいつのついでみたいだろうか。
「ジョンインのやつ、元気にしてる?」
「えぇ、忙しそうにしてるみたいです」
ほら、と見せた先日送られてきた写真の中では、ジョンインは向こうの仲間たちと楽しそうに笑っている。
「ホントだ。頑張ってるんだなぁ」
「えぇ」
ジョンインは結局去年の冬、高校卒業を待たずに海外へと飛び立っていった。離れて過ごすようになってもうすぐ一年が経つ。
2年は戻らないと思うと言っていたけど、2年で済むかは今のところ誰にも分からない。
僕はこの一年、学校と就職活動に専念していた。
それでも空いてしまった時間は、あの絵を描くことで埋められたような気がする。
「その表紙の絵……駅に行く途中の高台から見た景色なんです」
ジュンミョンさんの本を指せば、マスターはあぁ!と声をあげた。
「その場所教えてくれたのがあいつで……」
「そっか。そうだったんだ」
「はい……形に残るってすごいなって僕も思いました」
あいつと見た景色が、本になったんだ。
思い出の場所……
ジョンインとは海外に行ったきりで、この一年は会ってない。僕らは学生とダンサーの卵で、まだまだそんな余裕はないから当たり前と言えば当たり前なんだけど。
僕は寂しさを埋めるようにその絵を描いていた。
そして春からはきっと忙しく働き始める。
大丈夫なはず、と何度も言い聞かせた。
僕らは、どれくらいの時間をやり過ごせば、また会えるようになるんだろう。
その時間は、永遠のように長く思えた。
時差だってあるから、電話だってろくにできない。何度も淋しいと思った。あのライブの日、"連れてって"と歌った歌は僕の心の底に沈む本心だったんだ。そんなこと言うべきじゃないと思っていたし言うつもりもなかったのに、あのときあの歌を歌ったのは、僕の最初で最後の本心を伝えたかったからかもしれない。
僕らの恋は、初めから期限つきのようなものだったから。
長くは続けられない。
ずっと一緒にはいられない。
近い未来に必ず来る別れ。
分かっていたはずなのに、僕はあいつを愛しすぎていたし、あいつもきっとそうだったんだと思う。
どれだけ淋しくなると分かっていても、僕はジョンインとの別れは選べなかった。
『俺たちのペースで、続けられる方法を探そう』
ジョンインは旅立つ前、そんなことを言っていた。きっと大丈夫だって。僕はうんうんと頷いて、泣くのを必死にこらえた。
「マスター、」
「んー?」
「大人って自由ですか?」
「ん?」
「マスターみたいに余裕のある男になったら、僕も自由になれるんでしょうか……」
──早く大人になりたい──
ジョンインと付き合い初めてから、僕はずっと思っている。自由に会って、自由に恋愛して。いろんなことに縛られずに過ごす日々。
「自由ってさ、難しいな」
マスターは苦笑して呟く。
「え……?」
「大人なんて、案外窮屈なもんだよ」
「そうなんですか?」
「責任とか世間体とかしがらみとか。面倒なことが山積みだし、あるのは"余裕"じゃなくてただの"慣れ"だ。焦らなくったってそのうち嫌でも年は取るさ。それに、」
離れ離れでも上手くやってるカップルは世界中にいくらでもいるよ、とマスターは笑った。
「そう、ですか……」
「俺もさ、大人になってから分かったことだけど、世の中の人たちって案外みんな悩みを抱えてるもんなんだ。幸せそうに見えるカップルだって、楽しそうに笑ってる家族だって、成功してるように見える社長だって」
「そうなんですか?」
「あぁ」
「マスターも?」
「もちろん。店のことや、恋人のことや、沢山悩んでるよ」
「そう、ですか……」
「だからそんなに考え込むなよ。今のギョンスが出来ることから始めればいい、と俺は思う」
マスターは少し恥ずかしそうに「こんなことギョンスにしか言わないよ」と笑った。
今の僕ができること……
例えば春から仕事を頑張るとか。こつこつ貯金を貯めるとか。
例えば綺麗な景色を見たときジョンインのために写真を撮るとか。プレゼントを贈りあうとか。
ジョンインが言ったように、僕らのペースで?
そうか。
ジョンインは時折、長い手紙のようなメールをくれることがある。数枚の写真を添えて。
仲間のことやバイトのことや街のこと。ジョンインが思った様々なことを綴ってくれるんだ。
だから僕も、そんな風に返信をするようになった。他愛のない出来事や近況と一緒に身近なものを写真に納めて送る日々。
それは、いつからか僕らの習慣になっていた。
変わりゆく生活のなかで、変わらないもの。
僕らのペースでゆっくりと、か。
ジョンインへの愛情や、手紙のようなメール。
それがある限り、もしかしたら僕たちは大丈夫なのかもしれない。
旅立つ前にジョンインが、「ヒョンは食べ物を扱う人だから」と考えた末に贈ってくれたのは、今も右足首に掛かるアンクレットだった。切れないように丈夫な革紐のそれを、ジョンインは丁寧に結んでくれた。
僕はお返しに、アクセサリーの苦手な彼のためにあの栞をあげた。おばあさんがくれたラベンダーが刺繍された手作りの栞。僕らが知り合うきっかけになったもの。
ジョンインは驚いて遠慮していたけど、僕は絶対にこれがいいと思って、どうにか彼に託した。
どうか、ジョンインを守ってください、と願いを込めて。
僕らを繋ぐもの。
アンクレットや栞や、
手紙のような長いメールや写真や、
一緒に過ごした思い出やあの景色や。
一人前になったら必ず迎えに行く、と言っていたジョンインの言葉が、今もまだ鼓膜の奥にこびりついている。
僕はそれを、楽しみに待とうと思う。
出来ることをがんばりながら。
僕らのペースで。
口の中では、コーヒーの苦味を上塗りするように甘いチョコレートが優しく蕩けた。
おわり
160214 Happy Valentine's Day!!
ジュンミョンさんが置いていった本を見て、マスターは嬉しそうに笑みを浮かべている。
その本の表紙絵や挿絵は僕が描いたものだ。
「すごいよな、こうやって自分が書いたものが形になるって」
「そうですね……僕も、とても貴重な経験でした」
しみじみと呟くと、「そういえばホットでいい?」とマスターに聞かれたので、僕はすっかり忘れていた注文をお願いした。
「今日はモカの日なんだ」
「モカの日?」
「そう、バレンタインに掛けて」
「あぁ!なるほど」
「モカっていうのはさ、みんなチョコレートのことだと思ってるだろ?」
「はい、違うんですか?」
僕はその問に瞬時にカフェモカを頭に浮かべた。
「あぁ。モカっていうのは本当は港町の名前なんだ。コーヒーの発祥の地って言われてる。そこから出荷された豆をモカっていうんだ」
「へぇ、初めて知りました」
「チョコレートの風味があるって言われてるけど、まぁそのへんはなんとも言えないかな」
ははは、と笑いながらマスターはコーヒーを出してくれて、これはモカ・マタリだと教えてくれた。
一口飲んでみたけど、チョコレートの風味は僕にはよく分からなくて思わず苦笑を浮かべた。
「はは!そう、よく分からないだろ?だからはい、本物のチョコレート!」
差し出されたそれを見て僕は首をかしげた。
「バレンタインだからお客さんに配ってるんだ」
「あぁ、なるほど!ありがとうございます」
あ、そうだ!とマスターが声をあげた。
不思議に思って見てると「俺も貰ったんだった」と先程渡した紙袋を取り出す。
「クッキー?」
「はい。日保ちするようにと思って」
本当はバレンタインだしブラウニーにしようかと思っていたけど、安全策を採ってクッキーにした。EMSでも何日かかるか読めなかったし。
なんて理由はいかにもあいつのついでみたいだろうか。
「ジョンインのやつ、元気にしてる?」
「えぇ、忙しそうにしてるみたいです」
ほら、と見せた先日送られてきた写真の中では、ジョンインは向こうの仲間たちと楽しそうに笑っている。
「ホントだ。頑張ってるんだなぁ」
「えぇ」
ジョンインは結局去年の冬、高校卒業を待たずに海外へと飛び立っていった。離れて過ごすようになってもうすぐ一年が経つ。
2年は戻らないと思うと言っていたけど、2年で済むかは今のところ誰にも分からない。
僕はこの一年、学校と就職活動に専念していた。
それでも空いてしまった時間は、あの絵を描くことで埋められたような気がする。
「その表紙の絵……駅に行く途中の高台から見た景色なんです」
ジュンミョンさんの本を指せば、マスターはあぁ!と声をあげた。
「その場所教えてくれたのがあいつで……」
「そっか。そうだったんだ」
「はい……形に残るってすごいなって僕も思いました」
あいつと見た景色が、本になったんだ。
思い出の場所……
ジョンインとは海外に行ったきりで、この一年は会ってない。僕らは学生とダンサーの卵で、まだまだそんな余裕はないから当たり前と言えば当たり前なんだけど。
僕は寂しさを埋めるようにその絵を描いていた。
そして春からはきっと忙しく働き始める。
大丈夫なはず、と何度も言い聞かせた。
僕らは、どれくらいの時間をやり過ごせば、また会えるようになるんだろう。
その時間は、永遠のように長く思えた。
時差だってあるから、電話だってろくにできない。何度も淋しいと思った。あのライブの日、"連れてって"と歌った歌は僕の心の底に沈む本心だったんだ。そんなこと言うべきじゃないと思っていたし言うつもりもなかったのに、あのときあの歌を歌ったのは、僕の最初で最後の本心を伝えたかったからかもしれない。
僕らの恋は、初めから期限つきのようなものだったから。
長くは続けられない。
ずっと一緒にはいられない。
近い未来に必ず来る別れ。
分かっていたはずなのに、僕はあいつを愛しすぎていたし、あいつもきっとそうだったんだと思う。
どれだけ淋しくなると分かっていても、僕はジョンインとの別れは選べなかった。
『俺たちのペースで、続けられる方法を探そう』
ジョンインは旅立つ前、そんなことを言っていた。きっと大丈夫だって。僕はうんうんと頷いて、泣くのを必死にこらえた。
「マスター、」
「んー?」
「大人って自由ですか?」
「ん?」
「マスターみたいに余裕のある男になったら、僕も自由になれるんでしょうか……」
──早く大人になりたい──
ジョンインと付き合い初めてから、僕はずっと思っている。自由に会って、自由に恋愛して。いろんなことに縛られずに過ごす日々。
「自由ってさ、難しいな」
マスターは苦笑して呟く。
「え……?」
「大人なんて、案外窮屈なもんだよ」
「そうなんですか?」
「責任とか世間体とかしがらみとか。面倒なことが山積みだし、あるのは"余裕"じゃなくてただの"慣れ"だ。焦らなくったってそのうち嫌でも年は取るさ。それに、」
離れ離れでも上手くやってるカップルは世界中にいくらでもいるよ、とマスターは笑った。
「そう、ですか……」
「俺もさ、大人になってから分かったことだけど、世の中の人たちって案外みんな悩みを抱えてるもんなんだ。幸せそうに見えるカップルだって、楽しそうに笑ってる家族だって、成功してるように見える社長だって」
「そうなんですか?」
「あぁ」
「マスターも?」
「もちろん。店のことや、恋人のことや、沢山悩んでるよ」
「そう、ですか……」
「だからそんなに考え込むなよ。今のギョンスが出来ることから始めればいい、と俺は思う」
マスターは少し恥ずかしそうに「こんなことギョンスにしか言わないよ」と笑った。
今の僕ができること……
例えば春から仕事を頑張るとか。こつこつ貯金を貯めるとか。
例えば綺麗な景色を見たときジョンインのために写真を撮るとか。プレゼントを贈りあうとか。
ジョンインが言ったように、僕らのペースで?
そうか。
ジョンインは時折、長い手紙のようなメールをくれることがある。数枚の写真を添えて。
仲間のことやバイトのことや街のこと。ジョンインが思った様々なことを綴ってくれるんだ。
だから僕も、そんな風に返信をするようになった。他愛のない出来事や近況と一緒に身近なものを写真に納めて送る日々。
それは、いつからか僕らの習慣になっていた。
変わりゆく生活のなかで、変わらないもの。
僕らのペースでゆっくりと、か。
ジョンインへの愛情や、手紙のようなメール。
それがある限り、もしかしたら僕たちは大丈夫なのかもしれない。
旅立つ前にジョンインが、「ヒョンは食べ物を扱う人だから」と考えた末に贈ってくれたのは、今も右足首に掛かるアンクレットだった。切れないように丈夫な革紐のそれを、ジョンインは丁寧に結んでくれた。
僕はお返しに、アクセサリーの苦手な彼のためにあの栞をあげた。おばあさんがくれたラベンダーが刺繍された手作りの栞。僕らが知り合うきっかけになったもの。
ジョンインは驚いて遠慮していたけど、僕は絶対にこれがいいと思って、どうにか彼に託した。
どうか、ジョンインを守ってください、と願いを込めて。
僕らを繋ぐもの。
アンクレットや栞や、
手紙のような長いメールや写真や、
一緒に過ごした思い出やあの景色や。
一人前になったら必ず迎えに行く、と言っていたジョンインの言葉が、今もまだ鼓膜の奥にこびりついている。
僕はそれを、楽しみに待とうと思う。
出来ることをがんばりながら。
僕らのペースで。
口の中では、コーヒーの苦味を上塗りするように甘いチョコレートが優しく蕩けた。
おわり
160214 Happy Valentine's Day!!
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