第三章
side JM
月に一度程度、お世話になっている教授の元を訪ねて情報の収集や手伝いをしている。今日もその日で、僕は大学の教授の元を訪ねた。
「こんにちは」
「やぁ、ジュンミョンくん」
白髪混じりの初老の教授は、文学の世界では中々の重鎮だけれども、物腰は柔らかく人当たりもいい。教授と言われる人種の中では珍しいタイプかもしれない。と言っても、僕を懇意にしてくれてるのは専ら祖父の影響が大きいとも言えるけど。
「あれ?」
書物が積み上がった書棚の奥で物音が聞こえて、思わず覗き込んだ。
「あぁ、学生だよ。最近よく手伝ってくれてるんだ」
紹介しよう、と呼び出されたのはシロクマで見かけたあの学生だった。
「あれ?君、もしかして……」
「知り合いかい?」
「いえ、知り合いって言うほどでもないんですけど」
行きつけの喫茶店でよく見かけたもので。そう言うと彼も気付いたのか「あぁ!カウンターの!」と声を上げた。
「キムジョンデです」
言って差し出された手を握ってこちらも同じく挨拶をした。
そろそろ失礼しようかという頃、彼は大学の図書館に教授からの頼まれ物を探しに行くと言うので僕も一緒についていくことにした。
「専攻は何を?」
「ロシア文学です」
「ロシア文学か。あまり詳しくはないけど、ドストエフスキーなんかは面白くて僕も何冊か読んだかな。まぁ、長すぎて何度も挫けそうになったけど」
「はは!確かに。ロシア文学は長編が多いですもんね」
そこが面白いんですけど。とジョンデは笑った。
「そういえば、あなたがスホだったなんて驚きました!」
スホは僕のペンネームだ。
「はは!こんな人間でごめんね」
「そんな!僕、あなたの評論好きです」
「ありがとう」
素直で明るくて快活な青年だ。
ジョンデはとても楽しそうに書棚の間を行き来している。うっすらと口ずさまれる歌はなんの歌だろう。
教授からの頼まれ事の本を見つけると、僕らは図書館の近くのベンチに掛けた。
「ねぇ、何日か前、シロクマの入り口でぶつかったの覚えてる?」
「え……」
「君は大分慌てて出てきたみたいだけど」
ジョンデは思い出したのか「あぁ……」と小さく溢して複雑そうに眉根を寄せた。
「僕でよければ話を聞くよ?」
「え、やぁ、そんな……」
「コラムのネタに使わせてもらうかもしれないけどね」
言って笑うと、ジョンデも苦笑を浮かべる。
「……ツルゲーネフの『はつ恋』って読んだことありますか?」
「ん?」
「短編なんですけど。僕はそれを、思い出したんです」
──ジナイーダがいないと、私は気が滅入った。何一つ頭に浮かんでこず、何事も手につかなかった。とはいえ、彼女がいる時でも別に気が楽になったわけではない。嫉妬したり、自分のちっぽけさに愛想をつかしたり、馬鹿みたいに拗ねてみたり。そのくせどうにもならない引力で彼女の方へ惹き付けられて。知らず、幸福のおののきに身が震えるのだった──
彼が呟いたそれは、まさに初恋のそれで。
──これが恋なのだ
僕はその文に続く言葉を呟いた。
「えぇ、そうですね。分かりきったことです」
恋って何なんでしょうね。
ジョンデは呟いた。
その相手がレイであることは分かっていたが、僕は口には出せなかった。
大学の帰りにシロクマに寄ると珍しくクリスが早い時間に来ていた。
「あ、こんにちは」
今日は早いですね、と声を掛けると「早くあなたに会いたくて」と返される。思わず赤面するとマスターが「だから言ったでしょ?」と苦笑いを浮かべた。
クリスに隣の椅子を引かれたので、僕は遠慮なく隣に腰かけた。カウンターで、こうして彼と並んで座ることにも漸く少しだけ慣れてきた気がする。
「そうだ、これ一緒にどうですか?」
差し出したのはこの前もらったらフライヤー。
「ここによく来てる大学生の子たちのライブなんです。僕も誘われて」
クリスは大きな手でそれを掴んだ。
「へぇ、面白そうですね」
「マスターも行くんですよね?」
「あぁ、折角だから」
マスターはにこりと笑顔を溢した。
「そうか。ミンソクも行くなら行こうかな」
「……あ、えっと、それはちょっと傷付きます」
「はは!冗談です。あなたが行くなら是非ご一緒に」
にこやかに弧を描いていた瞳が鷲のような目に変わって、瞬時に心臓がびくりと飛び跳ねた。
「あ、あぁマスター!そうだ、今日彼に会いましたよ」
僕は慌てて話を摩り替えて小さく息を吐いた。
「彼?」
「ジョンデくん」
言うと「あぁ、」とマスターは大きな猫目を見開く。
「知り合いの教授に会いに行ったらちょうど彼もいて。折角だから少し話をしたんです」
「話……?」
今度はクリスが首を捻った。
「なんだかもう答えは出てるみたいでした」
「答え……」
「ほら、レイさんのこと。あとは誰かが背中を押せば、上手くいくんじゃないでしょうか」
「背中……切っ掛けか」とクリスは呟いた。
「でもレイのやつ全然連絡つかないって、嘆いてたからなぁ」
マスターの呟きに肩を落とすと、手元のフライヤーが目に入って、僕は思わず声を上げていた。
「あの……、これ、誘ってみてはどうでしょう?」
いい年した男がやることじゃないのは分かっていたけど、僕はこれから始まるはつ恋の物語に、ワクワクと少しだけ心が弾むのが分かった。
月に一度程度、お世話になっている教授の元を訪ねて情報の収集や手伝いをしている。今日もその日で、僕は大学の教授の元を訪ねた。
「こんにちは」
「やぁ、ジュンミョンくん」
白髪混じりの初老の教授は、文学の世界では中々の重鎮だけれども、物腰は柔らかく人当たりもいい。教授と言われる人種の中では珍しいタイプかもしれない。と言っても、僕を懇意にしてくれてるのは専ら祖父の影響が大きいとも言えるけど。
「あれ?」
書物が積み上がった書棚の奥で物音が聞こえて、思わず覗き込んだ。
「あぁ、学生だよ。最近よく手伝ってくれてるんだ」
紹介しよう、と呼び出されたのはシロクマで見かけたあの学生だった。
「あれ?君、もしかして……」
「知り合いかい?」
「いえ、知り合いって言うほどでもないんですけど」
行きつけの喫茶店でよく見かけたもので。そう言うと彼も気付いたのか「あぁ!カウンターの!」と声を上げた。
「キムジョンデです」
言って差し出された手を握ってこちらも同じく挨拶をした。
そろそろ失礼しようかという頃、彼は大学の図書館に教授からの頼まれ物を探しに行くと言うので僕も一緒についていくことにした。
「専攻は何を?」
「ロシア文学です」
「ロシア文学か。あまり詳しくはないけど、ドストエフスキーなんかは面白くて僕も何冊か読んだかな。まぁ、長すぎて何度も挫けそうになったけど」
「はは!確かに。ロシア文学は長編が多いですもんね」
そこが面白いんですけど。とジョンデは笑った。
「そういえば、あなたがスホだったなんて驚きました!」
スホは僕のペンネームだ。
「はは!こんな人間でごめんね」
「そんな!僕、あなたの評論好きです」
「ありがとう」
素直で明るくて快活な青年だ。
ジョンデはとても楽しそうに書棚の間を行き来している。うっすらと口ずさまれる歌はなんの歌だろう。
教授からの頼まれ事の本を見つけると、僕らは図書館の近くのベンチに掛けた。
「ねぇ、何日か前、シロクマの入り口でぶつかったの覚えてる?」
「え……」
「君は大分慌てて出てきたみたいだけど」
ジョンデは思い出したのか「あぁ……」と小さく溢して複雑そうに眉根を寄せた。
「僕でよければ話を聞くよ?」
「え、やぁ、そんな……」
「コラムのネタに使わせてもらうかもしれないけどね」
言って笑うと、ジョンデも苦笑を浮かべる。
「……ツルゲーネフの『はつ恋』って読んだことありますか?」
「ん?」
「短編なんですけど。僕はそれを、思い出したんです」
──ジナイーダがいないと、私は気が滅入った。何一つ頭に浮かんでこず、何事も手につかなかった。とはいえ、彼女がいる時でも別に気が楽になったわけではない。嫉妬したり、自分のちっぽけさに愛想をつかしたり、馬鹿みたいに拗ねてみたり。そのくせどうにもならない引力で彼女の方へ惹き付けられて。知らず、幸福のおののきに身が震えるのだった──
彼が呟いたそれは、まさに初恋のそれで。
──これが恋なのだ
僕はその文に続く言葉を呟いた。
「えぇ、そうですね。分かりきったことです」
恋って何なんでしょうね。
ジョンデは呟いた。
その相手がレイであることは分かっていたが、僕は口には出せなかった。
大学の帰りにシロクマに寄ると珍しくクリスが早い時間に来ていた。
「あ、こんにちは」
今日は早いですね、と声を掛けると「早くあなたに会いたくて」と返される。思わず赤面するとマスターが「だから言ったでしょ?」と苦笑いを浮かべた。
クリスに隣の椅子を引かれたので、僕は遠慮なく隣に腰かけた。カウンターで、こうして彼と並んで座ることにも漸く少しだけ慣れてきた気がする。
「そうだ、これ一緒にどうですか?」
差し出したのはこの前もらったらフライヤー。
「ここによく来てる大学生の子たちのライブなんです。僕も誘われて」
クリスは大きな手でそれを掴んだ。
「へぇ、面白そうですね」
「マスターも行くんですよね?」
「あぁ、折角だから」
マスターはにこりと笑顔を溢した。
「そうか。ミンソクも行くなら行こうかな」
「……あ、えっと、それはちょっと傷付きます」
「はは!冗談です。あなたが行くなら是非ご一緒に」
にこやかに弧を描いていた瞳が鷲のような目に変わって、瞬時に心臓がびくりと飛び跳ねた。
「あ、あぁマスター!そうだ、今日彼に会いましたよ」
僕は慌てて話を摩り替えて小さく息を吐いた。
「彼?」
「ジョンデくん」
言うと「あぁ、」とマスターは大きな猫目を見開く。
「知り合いの教授に会いに行ったらちょうど彼もいて。折角だから少し話をしたんです」
「話……?」
今度はクリスが首を捻った。
「なんだかもう答えは出てるみたいでした」
「答え……」
「ほら、レイさんのこと。あとは誰かが背中を押せば、上手くいくんじゃないでしょうか」
「背中……切っ掛けか」とクリスは呟いた。
「でもレイのやつ全然連絡つかないって、嘆いてたからなぁ」
マスターの呟きに肩を落とすと、手元のフライヤーが目に入って、僕は思わず声を上げていた。
「あの……、これ、誘ってみてはどうでしょう?」
いい年した男がやることじゃないのは分かっていたけど、僕はこれから始まるはつ恋の物語に、ワクワクと少しだけ心が弾むのが分かった。