Sing a Song!
Track7 ; Only Yesterday
『これ、受けてみれば?』
先日ギョンスがバーに来た時に渡された紙をジョンデはソファーに寝転びながら繁々と眺めていた。
オーディション、か……
興味がないわけではないが、受けたところで……という気もしている。確かにジョンデにとって歌は自分自身そのものだけれど、プロになるのかと聞かれれば、頷きかねる。今も歌でお金をもらっているという意味ではプロと言えばプロなのだけど。要するに社会の仕組みとしてのそれに加わるのか、ということだ。
『君の歌はもっとたくさんの人を幸せにできるのに』
『君は何のために歌ってるの?』
ギョンスに言われた言葉を思い出す。
ジョンデは昔から歌うことが好きだった。上手に歌えば周りの大人たちが褒めてくれて、気分がよくなればさらに歌った。思えばその頃の感覚が染み付いて離れないのだ。けれど音大時代に大きく高い壁が現れてすべては変わった。うまく歌えなくなったのだ。どうすればみんなが喜んでくれるのか、楽しんでくれるのか、考えれば考えるほど分からなくなった。あんなに自由に歌えていた歌が、歌えなくなったのだ。
今はあのバーでリハビリをしながら歌いはじめたお陰か、歌う楽しさをまた少しずつ思い出してはきているのだけれど。
「オーディショ、ン……?」
持ち上げて蛍光灯に照らしていた紙に影が掛かってやわらかな声が落ちてくる。
「あ、おかえりなさい!」
レイが仕事を終えて帰ってきた。
ジョンデは起き上がってソファーに座りなおした。
「オーディション受けるの?」
「あぁー、迷ってるんです。ギョンスに勧められたんですけど」
「受けないの?」
「うーん、」
煮えきらない返事をすると、レイは隣に腰かけて言った。
「ギョンスくん言ってたよ、ジョンデは才能があるのにって。僕もそう思うな」
「才能?ないですよ、そんな大それたもの」
言って、けたけたと笑う。
自分に何かがあるとすれば、それはただ歌が好きだという気持ちだけだ。
前に教授に言われたことがあった。
歌は聞き手に伝わって初めて歌になるんだ、と。
歌というのは難しいもので、伝わらなければそれはただの自己満足なんです。そんなものは歌でもなんでもない。技術は訓練すればいくらでも向上することができますが、残念ながら気持ちを乗せることはそうはいかないのです。だから君が伝えたいと思う相手に真っ直ぐに歌ってください。
──君が届けたいと思う相手は誰ですか?
問われてジョンデは答えられなかった。
「情けないんですけどね、僕、誰かのために歌ったことがないんです」
「誰かの、ため……?」
「僕の歌は、きっと足りないものだらけなんだ」
レイは困ったように眉を下げた。
*
嵐とは、前触れもなく突然にやって来るものだ。
いつものようにバーで歌っていたとき店にやって来たのは、酷く複雑に懐かしい人物だった。
一曲歌い終えて不意に客席を見渡したとき、見知った長身の姿をとらえて、思わず固まった。
瞬間、レイの顔が浮かんだのだ。
「クリス……!なにやってんですか、こんなところで!」
駆け寄って言うと「久しぶりにお前の歌を聞きたいと思って」なんて、呑気に言っている。
ジョンデはクリスがいなくなってレイがどんな想いでいたかいちから説明してやりたい気分だった。
だけどそれが叶わなかったのは、隣におどおどと控えめに笑う男がいたから。
これが新しい恋人か、と怒りにも似た感情が込み上げた。
レイのことを話せないもどかしさ。
クリスがこの新しい恋人と笑っている間、レイは何度もクリスを想って涙したのをジョンデはいつも側で見てきた。
「……帰ってください」
「は?」
「いいから、帰ってください!あなたの顔なんて見たくないんで」
「なんだよ、つれないな。一緒に住んだ仲じゃないか」
言ったクリスの言葉にジョンデは溜め息を溢す。
そのクリスがいた部屋には、今はクリスが捨てた恋人がクリスからの連絡を待つために住んでいるのだ。
当たり前にそんなことも知らずに、クリスは笑う。
最悪だ……
ジョンデは思う。
何が最悪って、今このタイミングでレイが店のドアを開けたことが、だ。
視線の端にレイを捉えて、ジョンデの心臓は大きく跳び跳ねた。
「あ、ジョンデー」
レイが小さく手を降ってこちらに駆け寄ろうとした瞬間、目の前のクリスが振り返る。
「レイ……?」
「…………クリス?」
レイは驚いて瞳を見開いて、信じられない、と嬉しそうに笑みを浮かべようとしたが、それは叶わなかった。ジョンデと同じく隣にいる人物を捉えてしまったのだ。
あ、と小さく呟いたのが分かった。
「レイさん……!」
ジョンデが駆け寄ろうとすると、レイは瞬時に踵を返した。ジョンデはマスターにすみませんと声をかけてレイを追って店を出た。
きっと泣いている。
「レイさん!!待って!!」
その背中を見つけて追いかけるが、レイも逃げるように走っていく。途中何人かの人にぶつかってそのいちいちにレイは頭を下げていた。こんなときでもレイらしいのか、と何だか妙にやるせない。お陰で追い付くのは簡単だった。
「レイさんってば!!」
腕を掴んで振り向かせれば、案の定涙を溢していた。
「ジョン、デ……」
次から次と溢れる涙をゆっくりと丁寧に拭って頭ごと抱き締めれば、レイはふるふると肩を震わせていた。
背中を撫でて、頭を撫でて。
まるでいつぞやの反対だ。
ジョンデの胸も苦しかった。でもそれはレイの苦しみが乗り移ったからで。ならば少しでも自分に分けてしまえばいいと思う。
レイの辛さが、悲しみが、少しでも緩和されるように。
手を、繋いだ。
手を繋いで、今はもうジョンデとレイの二人の部屋へと帰る。
「やっぱり、見ちゃうとダメだね」
帰り道、レイはぽつりと呟いた。
消え入りそうな声で吐き出されたそれは、酷く弱々しい。
あとはもう無言のまま部屋に着いて並んでソファーに座って。手持ち無沙汰に転がっていたクッションを掴んで。何も映し出さない真っ黒なテレビ画面を、二人して真っ直ぐに見つめた。
「……ねぇ、キスしてもいい?」
静まり返る空間の中で不意にレイが呟く。
ジョンデは「どうぞ」とだけ返した。
テレビ画面を見つめていた視線が遮られて流れるようにゆっくりと近づいてきた唇を、ありのままに受け止める。
柔らかな感触はとても不思議だった。
掠めるように触れてすぐに離れていったのに、気が付けば追いかけるようにまた触れていて。そのうちに二人とも夢中になって唇を重ねていたのだ。
胸が、苦しかった。
込み上げる衝動に抗えなかったし、唇を重ねれば重ねるだけ心臓が痛くなって苦しかった。
なんだかよくわからない得体の知れないものが、ジョンデの心の中を占領していく。
*
「レーイー」
聞いてる?と目の前のルハンが膨れている。
ここはレイのスタジオの近くの喫茶店、つまりタオのバイト先だ。この間行ったミンソクとの旅行のお土産を渡したいからと、ルハンに呼び出されたのだ。
にもかかわらず、レイの意識は遥か遠くに投げ出されていた。
「ごめん、なんだっけ?」
「別に大した話じゃないからいいけど」
それより何かあった?とルハンは目を輝かせる。
「……え?いや、何でもない!」
慌てて否定したが、時すでに遅し、だ。
ルハンはニヤリと笑う。
「何?どうした?もしかして僕に教えない気?」
「や、別にそういうわけじゃないけど……」
「あぁ、分かった!ジョンデとなんかあった!そうでしょ?」
見事に言い当てられて心臓が跳び跳ねる。
レイは難しい顔をすると、「うぅーん……うぅーん……」と唸りに唸ってテーブルに突っ伏して。
そして呟いた。
「……キスした」
「え……付き合ってたっけ?」
「…………い」
「え?」
「……付き合って、ない」
「……はは、」
ルハンは乾いた笑みを溢して、それ見ろと言わんばかりの顔で笑っている。
「やっぱりねぇ。言った通りになったでしょ?」
ルハン様の目論見に間違いはないのだ、と自慢気に言う彼を恨めしく見つめた。
「なんで?なんか問題あるの?」
「大アリだよ!!」
ジョンデには好きな人がいるの!、と訴えるとルハンは「あぁー、」と整った顔を引きつらせた。
そう、ジョンデには好きな人がいるのだ。チャニョルという胸を痛めて深酒をしてしまうような相手が。それなのに自分とキスなんてしてしまって、優しいジョンデはきっと矛盾に苦しむだろう。
昨夜ジョンデとキスをして、あのまま二人で寄り添っていつの間にかソファーの上で寝ていた。先に目を覚ましたのはレイで、気まずさのあまりジョンデが起きる前にスタジオへと逃げ出したんだ。
これから、どんな顔していいやら頭を抱えていた。
「それでも、クリスなんかよりよっぽどいいよ」
「……クリス?」
「そ。とにかくあいつはダメ。あいつじゃレイは幸せになれない」
「なんで?」
「それは……」
苦そうな顔でルハンは言う。
──お前が盲目すぎるから
「いくら好きでも自分を圧し殺すような相手は良くない。そうだろ?」
圧し殺す、か。
レイは言われてすっかり忘れていたことを思い出した。
「そういえば、昨日クリスに会った……」
「はぁ?!」
「新しい恋人といた」
呟くと、ルハンは溜め息をついて「確認なんだけどさ、」と口を開いた。
「レイが好きなのは、誰?」
クリス?
それとも、ジョンデ?
*
ジョンデは目を覚ますとソファーの上で、あれ?と思ったがすぐに昨夜のことを思い出す。そうして辺りを見回したが、どうやらレイはすでに外出した後のようだ。
キス、したんだよなぁ。なんて呑気に考える。
事故なんて言葉では済まされないほどのキスをした。唇の感触も、握られた手の感触も、高鳴った胸の痛みも、リアルに残っている。
苦しくて切ない想いがした。
レイにとっては失恋を癒すためのものだったのかもしれないけど、ジョンデにとっては別の意味を作り出してしまったということ。それが何だかとても……
とにかく油断すれば浮き足立ってしまうような気持ちと、そして揺り返すようにやってくる切なさとにただただ翻弄されるだけだった。
*
「昨日はすみませんでした」
ジョンデは店に入るなり昨日の件をマスターに謝罪した。
まぁ、そういうこともあるさ、とマスターに肩を叩かれて苦笑する。事情があるんだろうと察してくれたのだ。隣に立つチャニョルもまたいつもの笑顔で、改めていい人たちに囲まれて仕事をしているのだと思い知る。少しだけ、有り難くももったいない気がした。
Only yesterday when I was sad And I was lonely
You showed me the way to leave The past and all its tears behind me
Tomorrow maybe even brighter than today
Since I threw my sadness away
Only yesterday
(悲しかったのも もうきのうのこと
あなたは教えてくれた
過去のことは過去に残して
みんなうしろへ捨て去ってしまう方法を
きっと明日は今日よりもっと明るくなるわ
なぜって、きのうに投げ捨ててしまったんだから)
"Only Yesterday"/Carpenters
「なんか、機嫌いい?」
いつものようにバーで歌ってカウンターに着けば、チャニョルに笑顔で返される。
「なんで?そんなことないけど」
「なんか楽しそうに歌ってたからさ」
そうなのかな?
まぁ、確かに気分は悪くない。
「あー、前もそんな風に歌ってたよ。いつだったかな、」
たしか、と言われた辺りはちょうどレイがアパートに居着いた頃で。
ジョンデはなんだか苦笑した。
まるですべてを見透かされて言い当てられた気分だったから。結局いつも自分の心を暖かくするのはレイだったのだ、と。
ついこの前まで胸をときめかせていた相手を前に、別の人を思い浮かべて笑うなんて現金だろうか。彼を想っていたときとはまるで違う何かが息づいている。
それでも、膨れ始めた想いを、見て見ぬふりなどできるはずもなくて。ジョンデ自身、気づいた想いを止める手立てはすでに持ち合わせていなかった。
昨夜、優しく抱き締めあった腕の感触が仄かに蘇る。
顔中に血が昇るのがわかった。
続く
『これ、受けてみれば?』
先日ギョンスがバーに来た時に渡された紙をジョンデはソファーに寝転びながら繁々と眺めていた。
オーディション、か……
興味がないわけではないが、受けたところで……という気もしている。確かにジョンデにとって歌は自分自身そのものだけれど、プロになるのかと聞かれれば、頷きかねる。今も歌でお金をもらっているという意味ではプロと言えばプロなのだけど。要するに社会の仕組みとしてのそれに加わるのか、ということだ。
『君の歌はもっとたくさんの人を幸せにできるのに』
『君は何のために歌ってるの?』
ギョンスに言われた言葉を思い出す。
ジョンデは昔から歌うことが好きだった。上手に歌えば周りの大人たちが褒めてくれて、気分がよくなればさらに歌った。思えばその頃の感覚が染み付いて離れないのだ。けれど音大時代に大きく高い壁が現れてすべては変わった。うまく歌えなくなったのだ。どうすればみんなが喜んでくれるのか、楽しんでくれるのか、考えれば考えるほど分からなくなった。あんなに自由に歌えていた歌が、歌えなくなったのだ。
今はあのバーでリハビリをしながら歌いはじめたお陰か、歌う楽しさをまた少しずつ思い出してはきているのだけれど。
「オーディショ、ン……?」
持ち上げて蛍光灯に照らしていた紙に影が掛かってやわらかな声が落ちてくる。
「あ、おかえりなさい!」
レイが仕事を終えて帰ってきた。
ジョンデは起き上がってソファーに座りなおした。
「オーディション受けるの?」
「あぁー、迷ってるんです。ギョンスに勧められたんですけど」
「受けないの?」
「うーん、」
煮えきらない返事をすると、レイは隣に腰かけて言った。
「ギョンスくん言ってたよ、ジョンデは才能があるのにって。僕もそう思うな」
「才能?ないですよ、そんな大それたもの」
言って、けたけたと笑う。
自分に何かがあるとすれば、それはただ歌が好きだという気持ちだけだ。
前に教授に言われたことがあった。
歌は聞き手に伝わって初めて歌になるんだ、と。
歌というのは難しいもので、伝わらなければそれはただの自己満足なんです。そんなものは歌でもなんでもない。技術は訓練すればいくらでも向上することができますが、残念ながら気持ちを乗せることはそうはいかないのです。だから君が伝えたいと思う相手に真っ直ぐに歌ってください。
──君が届けたいと思う相手は誰ですか?
問われてジョンデは答えられなかった。
「情けないんですけどね、僕、誰かのために歌ったことがないんです」
「誰かの、ため……?」
「僕の歌は、きっと足りないものだらけなんだ」
レイは困ったように眉を下げた。
*
嵐とは、前触れもなく突然にやって来るものだ。
いつものようにバーで歌っていたとき店にやって来たのは、酷く複雑に懐かしい人物だった。
一曲歌い終えて不意に客席を見渡したとき、見知った長身の姿をとらえて、思わず固まった。
瞬間、レイの顔が浮かんだのだ。
「クリス……!なにやってんですか、こんなところで!」
駆け寄って言うと「久しぶりにお前の歌を聞きたいと思って」なんて、呑気に言っている。
ジョンデはクリスがいなくなってレイがどんな想いでいたかいちから説明してやりたい気分だった。
だけどそれが叶わなかったのは、隣におどおどと控えめに笑う男がいたから。
これが新しい恋人か、と怒りにも似た感情が込み上げた。
レイのことを話せないもどかしさ。
クリスがこの新しい恋人と笑っている間、レイは何度もクリスを想って涙したのをジョンデはいつも側で見てきた。
「……帰ってください」
「は?」
「いいから、帰ってください!あなたの顔なんて見たくないんで」
「なんだよ、つれないな。一緒に住んだ仲じゃないか」
言ったクリスの言葉にジョンデは溜め息を溢す。
そのクリスがいた部屋には、今はクリスが捨てた恋人がクリスからの連絡を待つために住んでいるのだ。
当たり前にそんなことも知らずに、クリスは笑う。
最悪だ……
ジョンデは思う。
何が最悪って、今このタイミングでレイが店のドアを開けたことが、だ。
視線の端にレイを捉えて、ジョンデの心臓は大きく跳び跳ねた。
「あ、ジョンデー」
レイが小さく手を降ってこちらに駆け寄ろうとした瞬間、目の前のクリスが振り返る。
「レイ……?」
「…………クリス?」
レイは驚いて瞳を見開いて、信じられない、と嬉しそうに笑みを浮かべようとしたが、それは叶わなかった。ジョンデと同じく隣にいる人物を捉えてしまったのだ。
あ、と小さく呟いたのが分かった。
「レイさん……!」
ジョンデが駆け寄ろうとすると、レイは瞬時に踵を返した。ジョンデはマスターにすみませんと声をかけてレイを追って店を出た。
きっと泣いている。
「レイさん!!待って!!」
その背中を見つけて追いかけるが、レイも逃げるように走っていく。途中何人かの人にぶつかってそのいちいちにレイは頭を下げていた。こんなときでもレイらしいのか、と何だか妙にやるせない。お陰で追い付くのは簡単だった。
「レイさんってば!!」
腕を掴んで振り向かせれば、案の定涙を溢していた。
「ジョン、デ……」
次から次と溢れる涙をゆっくりと丁寧に拭って頭ごと抱き締めれば、レイはふるふると肩を震わせていた。
背中を撫でて、頭を撫でて。
まるでいつぞやの反対だ。
ジョンデの胸も苦しかった。でもそれはレイの苦しみが乗り移ったからで。ならば少しでも自分に分けてしまえばいいと思う。
レイの辛さが、悲しみが、少しでも緩和されるように。
手を、繋いだ。
手を繋いで、今はもうジョンデとレイの二人の部屋へと帰る。
「やっぱり、見ちゃうとダメだね」
帰り道、レイはぽつりと呟いた。
消え入りそうな声で吐き出されたそれは、酷く弱々しい。
あとはもう無言のまま部屋に着いて並んでソファーに座って。手持ち無沙汰に転がっていたクッションを掴んで。何も映し出さない真っ黒なテレビ画面を、二人して真っ直ぐに見つめた。
「……ねぇ、キスしてもいい?」
静まり返る空間の中で不意にレイが呟く。
ジョンデは「どうぞ」とだけ返した。
テレビ画面を見つめていた視線が遮られて流れるようにゆっくりと近づいてきた唇を、ありのままに受け止める。
柔らかな感触はとても不思議だった。
掠めるように触れてすぐに離れていったのに、気が付けば追いかけるようにまた触れていて。そのうちに二人とも夢中になって唇を重ねていたのだ。
胸が、苦しかった。
込み上げる衝動に抗えなかったし、唇を重ねれば重ねるだけ心臓が痛くなって苦しかった。
なんだかよくわからない得体の知れないものが、ジョンデの心の中を占領していく。
*
「レーイー」
聞いてる?と目の前のルハンが膨れている。
ここはレイのスタジオの近くの喫茶店、つまりタオのバイト先だ。この間行ったミンソクとの旅行のお土産を渡したいからと、ルハンに呼び出されたのだ。
にもかかわらず、レイの意識は遥か遠くに投げ出されていた。
「ごめん、なんだっけ?」
「別に大した話じゃないからいいけど」
それより何かあった?とルハンは目を輝かせる。
「……え?いや、何でもない!」
慌てて否定したが、時すでに遅し、だ。
ルハンはニヤリと笑う。
「何?どうした?もしかして僕に教えない気?」
「や、別にそういうわけじゃないけど……」
「あぁ、分かった!ジョンデとなんかあった!そうでしょ?」
見事に言い当てられて心臓が跳び跳ねる。
レイは難しい顔をすると、「うぅーん……うぅーん……」と唸りに唸ってテーブルに突っ伏して。
そして呟いた。
「……キスした」
「え……付き合ってたっけ?」
「…………い」
「え?」
「……付き合って、ない」
「……はは、」
ルハンは乾いた笑みを溢して、それ見ろと言わんばかりの顔で笑っている。
「やっぱりねぇ。言った通りになったでしょ?」
ルハン様の目論見に間違いはないのだ、と自慢気に言う彼を恨めしく見つめた。
「なんで?なんか問題あるの?」
「大アリだよ!!」
ジョンデには好きな人がいるの!、と訴えるとルハンは「あぁー、」と整った顔を引きつらせた。
そう、ジョンデには好きな人がいるのだ。チャニョルという胸を痛めて深酒をしてしまうような相手が。それなのに自分とキスなんてしてしまって、優しいジョンデはきっと矛盾に苦しむだろう。
昨夜ジョンデとキスをして、あのまま二人で寄り添っていつの間にかソファーの上で寝ていた。先に目を覚ましたのはレイで、気まずさのあまりジョンデが起きる前にスタジオへと逃げ出したんだ。
これから、どんな顔していいやら頭を抱えていた。
「それでも、クリスなんかよりよっぽどいいよ」
「……クリス?」
「そ。とにかくあいつはダメ。あいつじゃレイは幸せになれない」
「なんで?」
「それは……」
苦そうな顔でルハンは言う。
──お前が盲目すぎるから
「いくら好きでも自分を圧し殺すような相手は良くない。そうだろ?」
圧し殺す、か。
レイは言われてすっかり忘れていたことを思い出した。
「そういえば、昨日クリスに会った……」
「はぁ?!」
「新しい恋人といた」
呟くと、ルハンは溜め息をついて「確認なんだけどさ、」と口を開いた。
「レイが好きなのは、誰?」
クリス?
それとも、ジョンデ?
*
ジョンデは目を覚ますとソファーの上で、あれ?と思ったがすぐに昨夜のことを思い出す。そうして辺りを見回したが、どうやらレイはすでに外出した後のようだ。
キス、したんだよなぁ。なんて呑気に考える。
事故なんて言葉では済まされないほどのキスをした。唇の感触も、握られた手の感触も、高鳴った胸の痛みも、リアルに残っている。
苦しくて切ない想いがした。
レイにとっては失恋を癒すためのものだったのかもしれないけど、ジョンデにとっては別の意味を作り出してしまったということ。それが何だかとても……
とにかく油断すれば浮き足立ってしまうような気持ちと、そして揺り返すようにやってくる切なさとにただただ翻弄されるだけだった。
*
「昨日はすみませんでした」
ジョンデは店に入るなり昨日の件をマスターに謝罪した。
まぁ、そういうこともあるさ、とマスターに肩を叩かれて苦笑する。事情があるんだろうと察してくれたのだ。隣に立つチャニョルもまたいつもの笑顔で、改めていい人たちに囲まれて仕事をしているのだと思い知る。少しだけ、有り難くももったいない気がした。
Only yesterday when I was sad And I was lonely
You showed me the way to leave The past and all its tears behind me
Tomorrow maybe even brighter than today
Since I threw my sadness away
Only yesterday
(悲しかったのも もうきのうのこと
あなたは教えてくれた
過去のことは過去に残して
みんなうしろへ捨て去ってしまう方法を
きっと明日は今日よりもっと明るくなるわ
なぜって、きのうに投げ捨ててしまったんだから)
"Only Yesterday"/Carpenters
「なんか、機嫌いい?」
いつものようにバーで歌ってカウンターに着けば、チャニョルに笑顔で返される。
「なんで?そんなことないけど」
「なんか楽しそうに歌ってたからさ」
そうなのかな?
まぁ、確かに気分は悪くない。
「あー、前もそんな風に歌ってたよ。いつだったかな、」
たしか、と言われた辺りはちょうどレイがアパートに居着いた頃で。
ジョンデはなんだか苦笑した。
まるですべてを見透かされて言い当てられた気分だったから。結局いつも自分の心を暖かくするのはレイだったのだ、と。
ついこの前まで胸をときめかせていた相手を前に、別の人を思い浮かべて笑うなんて現金だろうか。彼を想っていたときとはまるで違う何かが息づいている。
それでも、膨れ始めた想いを、見て見ぬふりなどできるはずもなくて。ジョンデ自身、気づいた想いを止める手立てはすでに持ち合わせていなかった。
昨夜、優しく抱き締めあった腕の感触が仄かに蘇る。
顔中に血が昇るのがわかった。
続く