Sing a Song!
「おかえり」
「ただいま」
空港内に併設された喫茶店で、僕はクリスを目の前の空席へと迎え入れた。
「ちゃんと見送れた?」
「あぁ、」
「そっか。よかった……」
たった今、後悔ばかりが残る元恋人を見送って、クリスは僕の元に戻ってきた。
ちょうど暇だから付き合うよ、なんて親切な振りをして。善人面して空港まで付き添った僕は、弱ってるところに突け込もうとするただの悪人だ。
クリスと知り合ったのは、その時行きつけになりつつあった喫茶店だった。常連のセフンと仲良くなって、その内に紹介されたのだ。声を掛けてきたのはクリスの方だった。僕の読んでいた本が気になったと言っていた。お互いに読書家だったお陰で話は盛り上がって、何度か会うようになった。
引っ越すんだ、と切り出されたのは5回目に会ったときだっただろうか。恋人と部屋を借りることに迷っている、と打ち明けられた。
僕はそれまで彼に恋人がいるだなんて思いもよらなかったし、その時初めて恋人の存在を知ったんだけど、うん。
完全にもう手遅れだった。
僕は彼に───クリスに、惹かれ始めていたから。
『あいつと一緒に住んだりなんかしたら、俺は一生あいつを手放せなくなる気がする』
『どうして?ダメなの?』
『やるべき事があるから、あいつには』
『やるべき事?』
『ダンサーなんだ。ロンドンに帰ったあいつの師匠が自分の元に呼び寄せたがってるのをこの前偶然知って……』
『それで迷ってるんだ?』
『あぁ……俺が背中を押してやるべきなのに、それすらできないんだから情けないよ』
肩を落として苦笑しながらそんな話をしたのは、確かうちの近所の居酒屋だった気がする。僕のオススメの小説を何冊か貸す約束をして、取りに来たところを飲みに誘った。
アルコールが入った僕は、その話を聞くまで、あば良くば、なんて下心丸出しで。でもその話を聞いたあとでも、やっぱり下心は消えなかった。
『別れちゃえば?』
『はは!それができたら簡単だけど』
『手伝ってあげようか?』
『は?』
『クリスが、その恋人を手放す手伝い』
馬鹿みたいなことを言っている自覚はあった。けれど分は悪くないような気がして。
『思いきった決断は必要だと思うし、僕が手伝えることがあるなら何でも言ってよ!』
その時のクリスは、相変わらずの苦笑いだった。
連絡が来たのはそれから二週間が過ぎた頃だ。「急で悪いけど、やっぱり頼っていいか」って。僕は諸手をあげて喜んだし、急いで彼を迎えに行った。
「嫌われるなら徹底的に嫌われた方がいい」
そう言ったクリスの悲しそうな顔ははっきりと覚えている。
その方が未練とか残んないだろ?って。
じゃあお前の未練はどうなるんだよ、って僕は思わず呆れたけど、その言葉は飲み込むしかなかった。それほどクリスは憔悴しきっていたから。
「ジョンデくん、だっけ?元同居人……というか彼の恋人」
「あぁ」
「今日、呼んでくれてよかったね」
彼らも色々あったらしく、これは正に驚きの結末だったわけだけど。
彼らのロンドン行きの話を聞いてから、クリスはとても嬉しそうだった。やっと肩の荷が下りたんだろうか。何よりも彼らの、恋人の未来を案じてたんだろう。僕のちっぽけな想像力で想像してみる。なんだか苦しくて、涙が滲んだ。
「なぁ、」
「んー?」
「お前にも迷惑かけたな」
「何言ってるの?手伝えることがあったら言ってって言ったのは僕の方だし」
「そうかもしれないけど、お前と知り合えて良かった」
淋しそうに苦笑したクリスを見ながら、僕の胸はちくりと痛む。彼を思うクリス。そんなことは百も承知のはずなのに。
「ねぇ、後悔してない?」
「はは!もちろん」
一度だけチラッと見たことある。とても綺麗な人だった。優しげで儚げな、そんな印象だった。クリスが愛した人。手放せなくなる、とすでに手放せなさそうな表情で言っていた人。
思い出したら、切なくなった。
「なぁ、スホ」
「なに?」
「うん。やっぱり、ちゃんとした方が言いかと思って」
「何を?」
俺たちの関係。
「ずっと考えてたんだ」とクリスは言う。
「レイのことちゃんとしたら、お前とも向き合わなきゃいけないだろうなって」
「……うん」
クリスが僕のところにいる理由。それが正に、たった今綺麗になくなってしまったということ。僕たちは本当にただの友人で、僕はたまたま困っていたクリスを助けただけで。彼を繋ぎ止めておくための免罪符なんか持っていないんだ。
「本来は煩わしいことは得意じゃないんだ。ただ、このままだらだらとしていてはいけない気はする」
「そう、だよね……あぁ!でも行くところがないなら見つかるまで居てもらって構わないよ!でもいつまでもソファーじゃ大変か!」
あはは!なんて笑って言えば、クリスはわずかに眉間に皺を寄せた。
「な、に……?」
「いや、それは本心なのか?と思って」
「どういう、こと……?」
「俺は、自分が中途半端な状態では始めたくなかったから今まで何もしなかったんだけど。それがお前の本心だって言うなら、また別の作戦を練らなきゃいけないなぁと思って」
「作戦?なん……の?」
───お前を落とすための作戦。
そう言ったクリスの顔は、怒っているようにも、不貞腐れているようにも見えた。僕は困ってしまって言葉も出ない。
「えっ、と……ベッド買いに行く……?」
どうにか絞り出したトンチンカンな僕の台詞に、クリスは「ぶはっ!」と吹き出して。
「じゃあ、飛びきり大きなのにしよう」なんて笑うから、僕は一瞬にして耳まで赤くなった。
「あ、ちょっと待て!」
「なに……?」
「悪い。さっきレイに俺の分の貯金も渡しちゃったから金がない」
「……もう!」
「ま、小さなベッドでくっつくのも悪くないか」
ははは、と笑うクリスを見て、やっと僕の下心も報われるのかもしれない、なんてちょっとどころじゃなく僕の胸は高鳴っていた。
おわり
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