恋の期限は愛のはじまり
つづきのつづき カイド編
ブーッ、とブザーを鳴らすだけ鳴らして、勝手に開けたドアの向こうに、ルハンさんは俺を引き入れた。
そうして家主の断りもなくずかずかと部屋へと上がっていく。
「よぉ!遅くなったね」
「ホントですよ。どれだけ待ってたことか。僕は完成時間も計算に入れてるんですから」
部屋の奥から現れたのは、小柄でぎょろりとした目を持つ男だった。
俺は一先ず気まずさを引き連れてルハンさんの後ろから続いた。
「ジュンミョニヒョンは?」
「あぁ、来れなくなった。ってことでメンバー変更」
そう言ってルハンさんに腕を掴まれ前に引きずり出される。
「ジュンミョンのルームメイトのジョンイン」
どうも、と小さく会釈すると、その男は見るからに肩を落として奥のリビングへと引き返していった。
あからさまな態度に戸惑いを覚えてルハンさんを見やれば、眉を下げて苦笑している。
なんてところに来ちゃったんだ……
「あー!!ジョンイナだぁ!!」
ルハンさんに続いてリビングへと行くと今度は大きな声で呼ばれて振り返る。
「あぁそっか、タオは前に会ってるんだっけ?」
「うん!ジュンミョンの家にお泊まりしたときに会ったよー!」
そう、このタオと呼ばれた男を俺は知っている。俳優の卵だとかなんだとか。ジュンミョニヒョンが今日泊めるから、といきなり連れてきたのだ。初対面の俺を馴れ馴れしく「ジョンイナ」と呼んで、それからヒョンにベタベタとくっついていた。とにかく、とても気分が悪かったのを覚えている。
俺はため息をつきつつ、どうも、とまた小さく会釈した。
あー、もう既に帰りたい。
「あ!こんにちはー!」
リビングに上がるとキッチンの奥から、元気な声が掛かって、まだいるのか、と溜め息をついた。だから俺は人見知りなんだってば。
「あ、あれはジョンデね」
ルハンさんに紹介されて、また小さく会釈をした。料理皿を手にしてにこりと懐っこい笑みを浮かべられて「ごめんね、なんか変なのばっかりで驚いたでしょ?」とその人は苦笑した。
なんか……やっとまともな人に会ったかもしれない。
「えぇ、まぁ」
正直に返事をすると、あはははは!とよく通る声で笑った。彼はジョンデといって、語学留学をしているとルハンさんが教えてくれた。
準備ができたところで、さあ始めようか、とギョロ目の男──ギョンスさんが音頭をとった。
囲まれたテーブルにはたくさんの料理が並んでいて、俺やジュンミョニヒョンが普段作るものは料理とは言えないような代物だから、家庭料理、それも故郷の、なんてとても久しぶりだった。
「ふーん、待ち人来たりか」
なんだ。とギョンスさんが呟いた。
ルハンさんが「諸君たちに発表がある」と仰々しく立ち上がって伝えたのだ。ジュンミョニヒョンの想い人がついに迎えに来た、と。その発表に、この場にいた全員が肩を落としたのが分かった。
「だから今日はみんなで失恋パーティーだな!」
みんな……?
不思議に思って首をかしげて呟くと、ルハンさんは「そう、みんな」と笑う。
「え、みんなヒョンのこと好きだったんですか?」
「そ!」
一人一人視線をやると、みんなうんうんと頷いていた。
「ジョンデさんも?」
「うん、って言っても僕は見ての通りライバルが多過ぎてあっという間に諦めたけどね~」
「そう、ですか……」
俺は、どうやら本当に何も分かってなかったようだ。あの人からの葉書を隠したところで、ライバルは他にもたくさんいたんだ。
なんだかげんなりとして、思わずため息を溢した。
「はは!もしかしてお前もだったの!?」
そんなルハンさんの問いかけに俺は無視を決め込んで、とりあえず目の前のご飯を食べることに集中した。
俺がジュンミョニヒョンと出会ったのは、3年前だ。親に高校を出て留学したいと言った時、許可する代わりにと提示された条件がジュンミョニヒョンとのルームシェアだった。父親の知り合いの息子で、とても勉強のできる真面目な人だからその人と一緒に住むなら許してやる、と。正直他人と住むのは進まなかったけど、どうしてもアメリカでダンスの勉強がしたかった俺は、その条件を飲むことにした。どうせ行ってしまえばこっちのもんだろうとばかりに気楽に考えていたのだ。会ったこともない堅物とルームシェアなんて、やってられるかと。
だけど、いざ訪ねてみたら玄関先で出迎えてくれたのは、色白で小柄で、恥ずかしそうに照れながら目を細くつり上げて笑う、可愛らしい人だった。『可愛らしい』なんて表現は馬鹿げてるかもしれないけど、きっとそれは一目惚れに近かったように思う。
よろしくね、と差し出された手を「こちらこそ」と握って頭を下げた。ヒョンは「一人っ子だから弟ができて嬉しいな」とはにかんで、「君のお父さんから宜しくって連絡があったから、困ったことがあったらなんでも言って」と笑顔で肩を叩かれた。
あの人に想い人がいると知ったのは初めて絵葉書が届いたときだ───
ポストに入っていた何通かの手紙の中にその葉書は紛れていて、不思議に思いながらもヒョンに渡した。
「ヒョン、葉書届いてるよ」
「ん?ありがとう」
絵葉書なんて今時珍しいなと思いながら、誰から?と尋ねると、ヒョンはその送り主の名前を確認して固まった。
瞬間、ヒョンの表情が確かに変わったんだ。
大きく目を見開いて、頬を赤くして。
そうして嬉しそうにはにかんだ。
俺は今まで見たこともなかったヒョンの表情を見て、瞬時に心臓が悲鳴をあげていた。
それは思ってもみなかったことだった。
ヒョンと暮らすようになって1年弱。ヒョンに色恋の雰囲気なんて一度たりとも感じたことはなかったのに。誰かと恋愛をする姿なんて想像すらできなかったほどに。
そのくらい真っ白で、真っ直ぐな人。
だから俺は安心していたんだと思う。
それはまさに、青天の霹靂だった。
体が怠いな、と思いながら目を開けると、見慣れない部屋のソファだった。ゆっくりと起き上がると頭がガンガンと響いて、痛みに顔を歪める。よくよく見渡してみると、そこは昨日ルハンさんに連れられてやってきた部屋だった。ブザーを鳴らして入ったからルハンさんの部屋でないことは確かだ。一体誰の部屋なんだ、と思いながら立ち上がって辺りを見回す。昨日の食事の後は綺麗に片付けられていて、はらりと落ちた毛布を見るに、潰れた俺を寝かせてくれていたのが分かる。
とりあえず水を飲みたいと、キッチンの方へ向かった。
「おはよう。やっと起きたんだ?」
そこにはギョンスさんがいて、振り向かずに黙々と何かを作っているところだった。
「……あの、すみませんでした」
「僕は別に。礼ならタオに言いなよ。持ち上げてソファに寝かせたのはあいつだから」
「あ、はい」
手を止めずに淡々と料理を続けるギョンスさんの背中を見つめながら邪魔しちゃいけないと思いつつも俺は「あの、」と話を続けた。
「ここは、ギョンスさんの部屋なんですか?」
「当たり前だろ。いくらなんでも人ん家で朝から勝手に料理する馬鹿はいないよ」
「あ、あぁ、はい」
ぼーっと立ちすくむ俺に、ギョンスさんは「なに?」とやっとこちらを振り向いた。
「これから大事な工程に入るから、用が終わったならあっちに座っててくれないかなぁ」
出来たら持ってくから、と面倒くさそうな顔をされつつも、その料理の頭数に自分も入っているのかと思うとなんだか少し嬉しかった。そう思うくらいには昨日の料理が美味しかったのだ。
「できたよ」
言って運ばれてきたのは、彩り鮮やかなサラダとゆで卵。それに焼きたてだというクロワッサンが入ったバスケット。
「え、自分で焼いたんですか?」
「そうだけど?」
だから何、と言わんばかりの目で睨まれて、思わず萎縮した。パンなんて自分で焼くものだと思ってなかった俺は、ただ素直に驚いていただけなのに。
「昨日のうちに仕込んでただけだよ」
「そう、なんですか……」
俺は多分、この人の雰囲気に圧倒されていたんだ。
いただきます、と手を合わせて早速掴んだクロワッサンは焼き立てでふかふかだった。
「うまっ!」
思わず声を上げると、ちらりと無言で視線を寄越されて、また黙々と食べ始める。「美味しいです」と改めて言い直した。
「料理と化学は同じものだから」
「化学……?」
「僕の専攻。何も知らないんだな」
「え?あぁ……急に連れられてきたので」
「ふーん」
あまり興味は持たれてないらしい。なんだかそれが妙に気に食わなくて、俺は思わず言葉を続けていた。
「あの、他の人は?昨日のうちに帰ったんですか?」
「もちろん。みんな同じ建物に住んでるんだから、わざわざ狭いところで雑魚寝する必要なんてないと思うけど」
「同じ建物?」
問うと、ギョンスさんは、はぁ、とため息を吐いた。思わずびくりと震えてしまい、何でこんなに怯えているのかと自分に呆れた。
「本当に何も知らないんだ……」
「……え?」
「昨日のメンバーはみんなこのアパートの住人だよ。この下の101がルハン、上の301がジョンデ、その隣の302がタオ。ルハンさんはジュンミョニヒョンと同じ大学で同じ地質学専攻。タオは俳優のタマゴ。ジョンデは語学留学。僕はヒョンたちと同じ大学の化学専攻」
一息にしゃべったあと、分かった?と尋ねられて、こくりと頷いた。
「で、君は?」
「俺はダンスを……」
「ふーん」
やっぱり興味はなさそうな返事だった。
朝食を食べ終えると、自分のアパートへと戻った。着替えてスタジオに行かなきゃいけないのだ。そう思ってのドアを開けると、昨日のあの人が立っていて、思わず固まった。
「あ……」
「ん?あぁ、おかえり」
自分の部屋に帰って、知らない人からおかえりと言われるのも変な気分しかない。その相手がヒョンの想い人とあらば尚のこと。
だよな、そりゃ泊まるよな。
「あ、ジョンイナおかえり!」
そこに出てきたのはジュンミョニヒョンで。
「うん、ただいま」
「昨日はごめんね」
「いや……」
「どうだった?楽しかった?」
「あぁうん……飯も旨かったし……」
そっかぁ、と笑顔で返される。
「僕もギョンスのご飯食べたかったなぁ」
「ん?そんなに旨いのか?」
「うん!クリスだってビックリするよ!」
二人の空気がやけに馴染んでるような気がして、つきりと心臓が痛むのと同時に、全然勝てないんじゃん、と苦笑した。
だって確かこの人たちは8年ぶりの再会なはずだろ?それなのに、一晩でこんなに自然になるなんて。や、一晩とか関係ない。この人たちはきっと会った瞬間から瞬時に時間を戻して二人の時間を刻み直してるんだ。
それが分かるのはきっと俺がヒョンをずっと見てきてから。分かってしまうんだ。安心しきった表情を。
自室に戻って鞄を置くと、徐に引き出しを開けた。そこに入っているのは一枚の絵葉書。ここに書いてある用件なんてすでに果たされていて、もう意味なんて持ち得ないのに、俺にとっては酷く重たい一枚だった。
「ヒョン、これ……」
「え……?」
ひっくり返して文と送り主の名を目に止めると、ヒョンは大きく目を見開いて顔を上げ俺を見た。
「ごめん……」
呟くと、ヒョンはふにゃりと笑って俺の頭をポンポンと撫でる。
「いいよ、もう」
会えたんだからそれでいいんだ、と抱き締められた腕の中、ぎゅっと心臓が痛んだ。
「あ……あぁ、俺暫くギョンスさんの部屋に泊まらせてもらうことにしましたから」
咄嗟に出た名前は、昨夜出会ったばかりの人で、今朝は無言で朝食まで用意してくれた人だ。なんでこんな出任せを言えたのかよくわからない。ただ異国の地で俺が頼れるのはジュンミョニヒョンだけだったから。それ以外の人はよく知らないだけで。
「え、ギョンス?なんで?」
「クリスさん、暫くうちに泊まるんでしょ?」
「そうだけど……遠慮しなくていいのに」
「違うって、ギョンスさんの飯旨かったからまた泊めてくださいってお願いしてきたんだ」
「そう……」
そっか、と呟いてヒョンはまた俺の髪の毛をくしゃりと撫でた。
ブーッ、とブザーを鳴らすだけ鳴らして、勝手に開けたドアの向こうに、ルハンさんは俺を引き入れた。
そうして家主の断りもなくずかずかと部屋へと上がっていく。
「よぉ!遅くなったね」
「ホントですよ。どれだけ待ってたことか。僕は完成時間も計算に入れてるんですから」
部屋の奥から現れたのは、小柄でぎょろりとした目を持つ男だった。
俺は一先ず気まずさを引き連れてルハンさんの後ろから続いた。
「ジュンミョニヒョンは?」
「あぁ、来れなくなった。ってことでメンバー変更」
そう言ってルハンさんに腕を掴まれ前に引きずり出される。
「ジュンミョンのルームメイトのジョンイン」
どうも、と小さく会釈すると、その男は見るからに肩を落として奥のリビングへと引き返していった。
あからさまな態度に戸惑いを覚えてルハンさんを見やれば、眉を下げて苦笑している。
なんてところに来ちゃったんだ……
「あー!!ジョンイナだぁ!!」
ルハンさんに続いてリビングへと行くと今度は大きな声で呼ばれて振り返る。
「あぁそっか、タオは前に会ってるんだっけ?」
「うん!ジュンミョンの家にお泊まりしたときに会ったよー!」
そう、このタオと呼ばれた男を俺は知っている。俳優の卵だとかなんだとか。ジュンミョニヒョンが今日泊めるから、といきなり連れてきたのだ。初対面の俺を馴れ馴れしく「ジョンイナ」と呼んで、それからヒョンにベタベタとくっついていた。とにかく、とても気分が悪かったのを覚えている。
俺はため息をつきつつ、どうも、とまた小さく会釈した。
あー、もう既に帰りたい。
「あ!こんにちはー!」
リビングに上がるとキッチンの奥から、元気な声が掛かって、まだいるのか、と溜め息をついた。だから俺は人見知りなんだってば。
「あ、あれはジョンデね」
ルハンさんに紹介されて、また小さく会釈をした。料理皿を手にしてにこりと懐っこい笑みを浮かべられて「ごめんね、なんか変なのばっかりで驚いたでしょ?」とその人は苦笑した。
なんか……やっとまともな人に会ったかもしれない。
「えぇ、まぁ」
正直に返事をすると、あはははは!とよく通る声で笑った。彼はジョンデといって、語学留学をしているとルハンさんが教えてくれた。
準備ができたところで、さあ始めようか、とギョロ目の男──ギョンスさんが音頭をとった。
囲まれたテーブルにはたくさんの料理が並んでいて、俺やジュンミョニヒョンが普段作るものは料理とは言えないような代物だから、家庭料理、それも故郷の、なんてとても久しぶりだった。
「ふーん、待ち人来たりか」
なんだ。とギョンスさんが呟いた。
ルハンさんが「諸君たちに発表がある」と仰々しく立ち上がって伝えたのだ。ジュンミョニヒョンの想い人がついに迎えに来た、と。その発表に、この場にいた全員が肩を落としたのが分かった。
「だから今日はみんなで失恋パーティーだな!」
みんな……?
不思議に思って首をかしげて呟くと、ルハンさんは「そう、みんな」と笑う。
「え、みんなヒョンのこと好きだったんですか?」
「そ!」
一人一人視線をやると、みんなうんうんと頷いていた。
「ジョンデさんも?」
「うん、って言っても僕は見ての通りライバルが多過ぎてあっという間に諦めたけどね~」
「そう、ですか……」
俺は、どうやら本当に何も分かってなかったようだ。あの人からの葉書を隠したところで、ライバルは他にもたくさんいたんだ。
なんだかげんなりとして、思わずため息を溢した。
「はは!もしかしてお前もだったの!?」
そんなルハンさんの問いかけに俺は無視を決め込んで、とりあえず目の前のご飯を食べることに集中した。
俺がジュンミョニヒョンと出会ったのは、3年前だ。親に高校を出て留学したいと言った時、許可する代わりにと提示された条件がジュンミョニヒョンとのルームシェアだった。父親の知り合いの息子で、とても勉強のできる真面目な人だからその人と一緒に住むなら許してやる、と。正直他人と住むのは進まなかったけど、どうしてもアメリカでダンスの勉強がしたかった俺は、その条件を飲むことにした。どうせ行ってしまえばこっちのもんだろうとばかりに気楽に考えていたのだ。会ったこともない堅物とルームシェアなんて、やってられるかと。
だけど、いざ訪ねてみたら玄関先で出迎えてくれたのは、色白で小柄で、恥ずかしそうに照れながら目を細くつり上げて笑う、可愛らしい人だった。『可愛らしい』なんて表現は馬鹿げてるかもしれないけど、きっとそれは一目惚れに近かったように思う。
よろしくね、と差し出された手を「こちらこそ」と握って頭を下げた。ヒョンは「一人っ子だから弟ができて嬉しいな」とはにかんで、「君のお父さんから宜しくって連絡があったから、困ったことがあったらなんでも言って」と笑顔で肩を叩かれた。
あの人に想い人がいると知ったのは初めて絵葉書が届いたときだ───
ポストに入っていた何通かの手紙の中にその葉書は紛れていて、不思議に思いながらもヒョンに渡した。
「ヒョン、葉書届いてるよ」
「ん?ありがとう」
絵葉書なんて今時珍しいなと思いながら、誰から?と尋ねると、ヒョンはその送り主の名前を確認して固まった。
瞬間、ヒョンの表情が確かに変わったんだ。
大きく目を見開いて、頬を赤くして。
そうして嬉しそうにはにかんだ。
俺は今まで見たこともなかったヒョンの表情を見て、瞬時に心臓が悲鳴をあげていた。
それは思ってもみなかったことだった。
ヒョンと暮らすようになって1年弱。ヒョンに色恋の雰囲気なんて一度たりとも感じたことはなかったのに。誰かと恋愛をする姿なんて想像すらできなかったほどに。
そのくらい真っ白で、真っ直ぐな人。
だから俺は安心していたんだと思う。
それはまさに、青天の霹靂だった。
体が怠いな、と思いながら目を開けると、見慣れない部屋のソファだった。ゆっくりと起き上がると頭がガンガンと響いて、痛みに顔を歪める。よくよく見渡してみると、そこは昨日ルハンさんに連れられてやってきた部屋だった。ブザーを鳴らして入ったからルハンさんの部屋でないことは確かだ。一体誰の部屋なんだ、と思いながら立ち上がって辺りを見回す。昨日の食事の後は綺麗に片付けられていて、はらりと落ちた毛布を見るに、潰れた俺を寝かせてくれていたのが分かる。
とりあえず水を飲みたいと、キッチンの方へ向かった。
「おはよう。やっと起きたんだ?」
そこにはギョンスさんがいて、振り向かずに黙々と何かを作っているところだった。
「……あの、すみませんでした」
「僕は別に。礼ならタオに言いなよ。持ち上げてソファに寝かせたのはあいつだから」
「あ、はい」
手を止めずに淡々と料理を続けるギョンスさんの背中を見つめながら邪魔しちゃいけないと思いつつも俺は「あの、」と話を続けた。
「ここは、ギョンスさんの部屋なんですか?」
「当たり前だろ。いくらなんでも人ん家で朝から勝手に料理する馬鹿はいないよ」
「あ、あぁ、はい」
ぼーっと立ちすくむ俺に、ギョンスさんは「なに?」とやっとこちらを振り向いた。
「これから大事な工程に入るから、用が終わったならあっちに座っててくれないかなぁ」
出来たら持ってくから、と面倒くさそうな顔をされつつも、その料理の頭数に自分も入っているのかと思うとなんだか少し嬉しかった。そう思うくらいには昨日の料理が美味しかったのだ。
「できたよ」
言って運ばれてきたのは、彩り鮮やかなサラダとゆで卵。それに焼きたてだというクロワッサンが入ったバスケット。
「え、自分で焼いたんですか?」
「そうだけど?」
だから何、と言わんばかりの目で睨まれて、思わず萎縮した。パンなんて自分で焼くものだと思ってなかった俺は、ただ素直に驚いていただけなのに。
「昨日のうちに仕込んでただけだよ」
「そう、なんですか……」
俺は多分、この人の雰囲気に圧倒されていたんだ。
いただきます、と手を合わせて早速掴んだクロワッサンは焼き立てでふかふかだった。
「うまっ!」
思わず声を上げると、ちらりと無言で視線を寄越されて、また黙々と食べ始める。「美味しいです」と改めて言い直した。
「料理と化学は同じものだから」
「化学……?」
「僕の専攻。何も知らないんだな」
「え?あぁ……急に連れられてきたので」
「ふーん」
あまり興味は持たれてないらしい。なんだかそれが妙に気に食わなくて、俺は思わず言葉を続けていた。
「あの、他の人は?昨日のうちに帰ったんですか?」
「もちろん。みんな同じ建物に住んでるんだから、わざわざ狭いところで雑魚寝する必要なんてないと思うけど」
「同じ建物?」
問うと、ギョンスさんは、はぁ、とため息を吐いた。思わずびくりと震えてしまい、何でこんなに怯えているのかと自分に呆れた。
「本当に何も知らないんだ……」
「……え?」
「昨日のメンバーはみんなこのアパートの住人だよ。この下の101がルハン、上の301がジョンデ、その隣の302がタオ。ルハンさんはジュンミョニヒョンと同じ大学で同じ地質学専攻。タオは俳優のタマゴ。ジョンデは語学留学。僕はヒョンたちと同じ大学の化学専攻」
一息にしゃべったあと、分かった?と尋ねられて、こくりと頷いた。
「で、君は?」
「俺はダンスを……」
「ふーん」
やっぱり興味はなさそうな返事だった。
朝食を食べ終えると、自分のアパートへと戻った。着替えてスタジオに行かなきゃいけないのだ。そう思ってのドアを開けると、昨日のあの人が立っていて、思わず固まった。
「あ……」
「ん?あぁ、おかえり」
自分の部屋に帰って、知らない人からおかえりと言われるのも変な気分しかない。その相手がヒョンの想い人とあらば尚のこと。
だよな、そりゃ泊まるよな。
「あ、ジョンイナおかえり!」
そこに出てきたのはジュンミョニヒョンで。
「うん、ただいま」
「昨日はごめんね」
「いや……」
「どうだった?楽しかった?」
「あぁうん……飯も旨かったし……」
そっかぁ、と笑顔で返される。
「僕もギョンスのご飯食べたかったなぁ」
「ん?そんなに旨いのか?」
「うん!クリスだってビックリするよ!」
二人の空気がやけに馴染んでるような気がして、つきりと心臓が痛むのと同時に、全然勝てないんじゃん、と苦笑した。
だって確かこの人たちは8年ぶりの再会なはずだろ?それなのに、一晩でこんなに自然になるなんて。や、一晩とか関係ない。この人たちはきっと会った瞬間から瞬時に時間を戻して二人の時間を刻み直してるんだ。
それが分かるのはきっと俺がヒョンをずっと見てきてから。分かってしまうんだ。安心しきった表情を。
自室に戻って鞄を置くと、徐に引き出しを開けた。そこに入っているのは一枚の絵葉書。ここに書いてある用件なんてすでに果たされていて、もう意味なんて持ち得ないのに、俺にとっては酷く重たい一枚だった。
「ヒョン、これ……」
「え……?」
ひっくり返して文と送り主の名を目に止めると、ヒョンは大きく目を見開いて顔を上げ俺を見た。
「ごめん……」
呟くと、ヒョンはふにゃりと笑って俺の頭をポンポンと撫でる。
「いいよ、もう」
会えたんだからそれでいいんだ、と抱き締められた腕の中、ぎゅっと心臓が痛んだ。
「あ……あぁ、俺暫くギョンスさんの部屋に泊まらせてもらうことにしましたから」
咄嗟に出た名前は、昨夜出会ったばかりの人で、今朝は無言で朝食まで用意してくれた人だ。なんでこんな出任せを言えたのかよくわからない。ただ異国の地で俺が頼れるのはジュンミョニヒョンだけだったから。それ以外の人はよく知らないだけで。
「え、ギョンス?なんで?」
「クリスさん、暫くうちに泊まるんでしょ?」
「そうだけど……遠慮しなくていいのに」
「違うって、ギョンスさんの飯旨かったからまた泊めてくださいってお願いしてきたんだ」
「そう……」
そっか、と呟いてヒョンはまた俺の髪の毛をくしゃりと撫でた。