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やわらかな音




「おはよーっす!」

二人だけの部室にベッキョンの元気な声が響いて、日常の幕開けを知らせる。ヒョンの方を見ると、いつものようにすっと姿を消していた。
ヒョンはみんながいる時はほとんど姿を消して出てこない。たまに視線を感じて見ると、棚の上に腰掛けて笑っていたりはするけど、基本、僕の気が散らないように姿を隠してくれているらしい。


「あ、また先越された……」
「あはは!おはよう、ベッキョナ」
「やー!キムジョンデ!お前一体何時に来てんだよ。夏休みだってのに」
「ひみつー!」
「なんだと!?さてはお前……泊まり込んでんじゃないだろうなぁ?ん?」

そう言うとベッキョンは「寝袋はどこだー!」と音楽室内をはしゃぎ回る。それを見て僕は朝から大笑いした。

ビョンベッキョンは高校に入ってから出来た友達だ。クラスは違うけど同じ合唱部員として知り合って、今では一番の親友だと思っている。
そんなベッキョンにすら、イシンヒョンのことは言えなかった。
だってこれは、僕とヒョンの二人だけの秘密だから。

「そもそもさぁ、お前最近やたらと調子いいよな」
「そう?」
「機嫌も良さそうだし……あ!わかった!好きな人でも出来たんだろ!?」
「へ!?」

どきんっ!と鳴った僕の心臓は、大いに思い当たる節があるらしい。

どこの奴だ!なんの部活だ!?コンビニか!?駅か!?さては他校なのか!?

ベッキョンの質問攻めのすべてに、僕は曖昧な返事で誤魔化した。
だってまさか、今その棚の上に座って笑ってるよ、なんて言えるわけないしね。
何が可笑しいのかヒョンはそんな僕らのやり取りを見て珍しく姿を露にしてくすくすと笑っていた。

その内に外の部員もやって来て。挨拶したり準備してる間に、ヒョンは気がつくとまた姿を消していた。

うちの部の夏休み中の活動は、発声練習や合唱練習を含めても主に午前中で終わってしまう。
午後は個人練習をしたければ残るというスタイルだ。ただし午後まで残る人は少ない。なんたって弱小部だし、部員の半数が他部活との掛け持ちだからだ。それでもみんないい人だし午前の練習はちゃんと出るので部としては成り立っている。
そんな中で僕はここのところずっと朝も早くから、夕方も日が暮れる間近まで音楽室に居るもんだから、みんな不思議に思うのも無理はないと思う。理由は言わないけれど。

「ところでさぁ、」
「ん?なに?」
「お前、今日も残るの?」
「うん、そのつもりだけど……?」

練習の合間、ベッキョンが声を掛けてきた。

「あのさぁ……俺も、残っていいかなぁ?」
「え、どうしたの?」

三度の飯よりゲームが大好きなベッキョンが居残りを申し出るなんて。

「雪でも降るんじゃない?」
「なんだよ、失礼な」
「あはは!ごめんごめん」
「ちょっと発声見て欲しいんだけど……」
「あぁ、そういうことね」

今度行く施設の慰問でベッキョンはソロパートを任されているけど、高音部分がキツいんだとこの前言っていたっけ。ヒョンとの時間は減ってしまうけど、親友を邪険にすることなんて出来ないから、僕はもちろん了承した。

「僕で力になれるならいくらでも」
「サンキュ」

それから部活はいつも通り終わって、二人で残った音楽室で僕らはお弁当を食べた。
本当は音楽室内は飲食禁止だけど、夏休み中だしってことでこっそりと。

「なぁ、ジョンデー」
「んー?」
「お前本当に、いつも一人で残って何してんだよ」
「なにって、練習だけど?」
「それは分かるけどさぁ……」

そういうことじゃなくて、とご飯を食べ終えたらしいベッキョンは髪の毛を掻きむしりながらピアノの方へと歩いていった。

本当はヒョンと話したり、遊んだり、歌ったり。そんなことをしているんだけど。
ベッキョナ、お前は信じてくれるの?僕の好きな人のこと……


「ジョンデ~」

悶々と考え込みながらお弁当箱をつついていた僕は、その声に驚いて顔を上げた。

「ベッキョナ……?」
「どうしたの?こっち来て一緒に遊ぼうよ」

ベッキョンは自分の座るピアノの方に来るように僕を呼んで、楽しそうにピアノを弾く。

だけどその音色は……

心臓が止まるかと思った。



「……ヒョン?」

じっと見つめながら言うと、ベッキョンの手は止まり、気まずそうにこちらを見る。
僕には分かる。
この音色は、イシンヒョンの音だ。
ベッキョンはもっと力強くて軽快で跳ねるように弾く。その音色がベッキョンのハスキーで力強い声と重なるととても格好いいんだ。
だけど今の音は優しくて暖かくて、キラキラとやわらかな光を包む、イシンヒョンの音だった。
僕を呼ぶときの甘やかな語尾も、一心不乱にピアノを弾くときの丸まった背中も、それらはすべてイシンヒョンのだったんだ。

「……わかる?」
「やっぱり……」
「…………はは、バレちゃった!すごいなぁジョンデは」

親友の顔でイシンヒョンは笑っていた。
だけどそれはもう、親友の顔ではなかった。

「こうしたら、ジョンデに触れるんじゃないかと思って」

触りたかったんだ、ずっと ───


そう言ってヒョンは立ち上がると、僕の方へ歩いてきた。


心臓が、どくんと跳ねて酷く痛んだ。


「ジョンデ……」
「ヒョン……」

触れた体温は慣れた親友のはずなのに、そこにはまるで別人の体温が流れてるようで。触れる手つきひとつ、流れるような仕草ひとつ、それは間違いなくチャンイーシンだと思った。

ゆっくりと腕を引かれて、抗う術もなくその胸へと倒れこむ。
ぎゅっと抱き締められて、それがヒョンの温もりなのだと知った。
優しくて、でも強引で。
僕の心臓では、歓喜と警鐘が交互に打ち鳴らされていた。




それからというもの、僕がベッキョンと二人きりになるとヒョンは決まってベッキョンの中へと入り込んだ。
どうやらベッキョンの中は心地がいいらしい。ベッキョンはその間の記憶が無いみたいで、「最近お前といるとやたら眠くなる!」と怒っている。変な陽気出すんじゃねぇ!と騒ぐのが殊更可笑しくて、僕は嫌がるベッキョンに無理矢理くっついて、二人きりになるように仕向けたりもした。

「あの……ヒョン」
「なぁに?」
「その……たまには僕の中に入ってもいいんですよ?僕ならほら、ヒョンのことも知ってるから喜んで身体貸しますし」

心地がいいからってベッキョンの中ばかりじゃ余りにも腑に落ちなくて言うと、ヒョンはベッキョンの顔でくすりと笑って言葉を繋いだ。

「ダメだよ。それじゃあジョンデに触れないもん。自分で自分抱き締めてたってねぇ?」
「そんな……!」

思わず赤面する僕に、ヒョンはまたくすくすと笑った。

「多分ね、僕とこの身体の相性がいいのは、きっとこの彼もジョンデのことを好きで心地いいからだと思うよ。だからきっと、こうしてジョンデを抱き締めても拒否反応がないんだ」

すごく良くてすごく複雑、とヒョンは唇を尖らせる。その仕草が、ベッキョンの顔なのに全然ベッキョンじゃなくて、僕は可笑しくて噴き出した。

「なんで笑うの?」
「だって全然ベッキョンじゃないから可笑しくて!ベッキョンの顔なのに今はもうヒョンにしか見えないんですもん」

僕は、くくっと笑っていたのにヒョンは目をパチリと瞬いて。
「ジョンデ……」と呟くと顔を寄せてきた。


キス、するんだと思った。
してもいい、と思った。


だけど間際に僕は親しい親友の顔を思い出して……触れることはできなかった。

「ヒョン……でもやっぱりダメです。ベッキョンは大切な親友だから……」

いくらベッキョンには見えなくなったって言っても、これは紛れもなくベッキョンの身体だし、視点を切り替えれば当たり前にベッキョンなんだ。
さすがにそれは、出来ないと思った。

「うん、ごめん……」

今にも泣きそうな声で呟くと、ヒョンはすーっとベッキョンから抜けて消えていった。


「ヒョン、待ってください……!」

叫んだ声は静かな音楽室に響き渡り、やがてベッキョンはいつものように眠りから覚める。


「んぁ……?ジョンデ、どうした?」
「……なんでもない」
「つーか俺、また寝てた?」
「うん、ぐっすりね……」
「やっぱお前、変な波長とか出してんだろ?」
「なに言ってんだよ、もー……」

いつもの冗談が笑えない。心がスカスカで痛いんだ。ヒョンを傷つけた。あの優しい人を。僕だって本当はキスしたい。ヒョンに触りたい……本当のヒョンに。
ビョンベッキョンの身体じゃなく、チャンイーシン、あなたの……


どうやら僕は、とんでもないところまで来てしまったみたいだ。

僕の好きな人は、この世に存在しない。




次の日、早朝の音楽室にヒョンの姿は見えなくて。ヒョンと出会ってからこんなことは初めてだったから、僕は酷く戸惑った。
それから、一人の音楽室は寂しくて途方もなく泣きそうになる。ヒョンは今までずっとそうだったのかもしれない。今の僕みたいに話し相手もいなくて、寂しくてただピアノを弾いていたのかもしれない。
そんな音色に、僕はあの日導かれたんだ。
防音扉の向こう側から響くやわらかな音。

「ヒョン……」

いつもヒョンが座るピアノ椅子に腰掛けて呟く。
消えたって見えてると前に言っていた。だったら今も、この部屋のどこかでヒョンは僕を見てるのだろうか。

いつの間にか馴染んだ中国の曲を口ずさむ。



 この偶然に歓喜する
 また新たに始めよう
 もうただの友達じゃいられない
 君への気持ちが深すぎるのに
 どうすればいいんだよ

 だけど君は言う 僕らはただの友達だって
 僕らのために
 ただの親友だって
 恋人じゃないって
 君が正直なのはいいけど
 僕はそうはいられないみたいだ
 だから僕はもう友達ではいられない


我無法只是普通朋友……
(もうただの友達じゃいられない)



その言葉の意味なら、もうとっくに分かっていた。





「ヒョン、イシンヒョン。出てきてください」

宛もなく空中を見ながら呼びかける。

「ヒョンが隠れちゃうと、僕にはヒョンが見えないんです。探す手がかりも無いんです。あなたは慌ててる僕を見て笑ってるかもしれないけど、僕は全然笑えません。傷つけたこと、ちゃんと謝りたいんです。お願いします」


ヒョンがいそうなところをぐるりと眺めながら僕は必死で話しかけた。
ヒョンが見てることは知ってるんだ。

だってヒョンは、この教室から出れないんだから。


「……僕だって笑ってる訳じゃないよ」
「ヒョン……」

姿を現したヒョンは、窓際の隅に立っていた。

その姿が、何故だかとても儚く見えて。
僕は思わず駆け寄っていた。


「ヒョン……」
「僕だって笑ってる訳じゃない。ただ、どんな顔してジョンデの前に立ったらいいのか分からなくて……」

昨日はゴメンね。

尖らせ気味の唇で可愛らしく謝るヒョンに、僕は思わず眉尻を下げた。
あぁ、心の底からこの人が好きだと思った。
実体が無くても、ヒョンが好きなんだ。

「あぁもう、」

こんな風に愛しく思う時、抱きつきたくても出来なくて。それは酷くもどかしい。

「ベッキョンに入ってヒョンは僕を触れるかもしれないけど、僕はヒョンには触れないんです」
「ジョンデ……」
「だからヒョン、ピアノ弾いてください。僕のために」

その音は僕だけのものだから。あなたの音に包まれる時、僕はとても安心するんだ。

「それからもう二度とこんな風に隠れないで。僕にはヒョンが探せないこと知ってますよね?」
「うん」
「それと、」
「まだあるの?」
「はい、一番重要なこと。何十年後か、僕がおじいさんになって死んだ時、必ず迎えに来てください。そしてその時はヒョンの体で思い切り抱きしめて欲しいです……」

「うん……約束する。必ず迎えに行って、ジョンデを抱きしめるよ」

どんなに互いを想ったって手も繋げない僕らは、神様のどんな悪戯なんだろう。ヒョンはどうしてここにいるの?どうして死んでしまったの?その優しい笑顔も、やわらかな音色も、生命が宿っていないなんて信じられない。こんなにも僕の心を揺さぶるのに。ゆらゆらと透けるヒョンの向こう側。ふわふわと浮かぶ姿。影の無い身体。ガラスに映らないヒョン。


夏休みはもうすぐ終わる。

僕らの時間には終わりが来る。
何故だかその時僕はそう思った。





ヒョンと過ごす時間はとても尊かった。
以前のようにおしゃべりや歌や、たまにピアノを教えて貰ったり。

そういえば最近はヒョンが生きていた時の話を聞くことが増えた。僕と同じように合唱部員だったこと、そこで伴奏のピアノを弾いていたこと。8歳上のお兄さんがいること、とても可愛がってくれていて留学の時もとても心配してくれていたこと。甘いものが好きでお菓子ばっかり食べていたこと。頭が大きくてデカ頭と呼ばれていたこと。

知らなかったヒョンを知るのはとても楽しい。

中でも一番驚いたのは、19歳も年上だったことだ。生きていたら35歳。おじさんですね、と笑うとヒョンは17歳の顔で膨れていた。

「でもきっと、35歳のヒョンも格好いいと思います」
「だといいな」
「そんなこと言っても結局ヒョンは17歳から歳とらないですけどね」
「ふふ、いいのか悪いの分からないよそれ」
「ですね」

ピアノの前だったり、窓際の椅子だったり。
僕らは並んで座っているけど、知らない人が見たら僕が一人で喋ってるように見えるんだろうか。ぼんやりと一人分の影が映る窓ガラスに視線をやった。







その日は、8月の残暑の厳しい日だった。
早朝だというのにじっとりと汗ばむような湿気で、僕は制服のワイシャツの裾をパタパタと煽ぎながら学校へと向かっていた。音楽室は他の教室よりも温度制御がされてるのできっとこんな日でも涼しいに違いない、なんて推測する。
ヒョンはバテていないだろうか、そもそも幽霊も夏バテとかするのかな、なんて考えて可笑しくて笑った。


「ヒョン!おはようございます!」

今日も元気にドアを開けるとヒョンはピアノの前に座っていた。

「ジョンデ、おはよう……」
「……ヒョン、どうしました?」

いつものような笑顔じゃなくて焦って近寄る。何かがおかしい。その違和感の正体に気づいてハッとしたのは、ヒョンがいつもよりも透けていることに気付いたからだ。

「ピアノがね、弾けなくなっちゃった」
「どういうことですか?」
「うん、鍵盤が押えられないんだ。透けちゃうの。前はちゃんと弾けたのに……」

ほら、とヒョンは弾こうとして見せてくれるが、何度やってもヒョンの指は鍵盤を通り抜けて下まですり抜けてしまうみたいだ。今までは、ヒョンが弾くと僕の目にだけは鍵盤が動いて見えて、僕の耳にだけは音が届いていた。実際には動いていなくても、ヒョンはちゃんとこのピアノを弾けていたんだ。
それなのに今は何度やっても通り抜けてしまう。

「何となくね、そろそろなのかなって気はしてたんだ」
「どういう、ことですか……?」
「多分僕、消えるんだと思う」
「そんな……!」

突然の言葉に絶句しながらも、心の隅では僕もそんな気がしていた。
この時間には終わりがあって、それはきっと突然やってくるのだろうって。永遠なんて時間はないし、そもそも僕がこの高校を卒業してしまえば必ず終わりは来ることなんだ。だけどそれがどんな理由でどんな風に終わるのか、その想像はつかなかったから。だから僕はあまり考えないようにしていただけだ。

「もう会えなくなるんですか……?」
「多分ね。君に会えて幸せだったよ」
「ヒョン……」

覚悟していたからって。だからって、こんなのはあまりにも突然だと思うんだ。心の準備なんて出来てないのに。

「ジョンデ、どうか僕を覚えていて。チャンイーシンという人がこの音楽室にいたことを。君とこうして過ごしたことを。君があの歌を歌うとき、僕は必ずそばにいるから。だからどうか僕のことを忘れないで」
「ヒョン……なんでさよならみたいに言うんですか」
「うん、だってきっとさよならだから……」
「ヒョン……」


近付いてきたヒョンの顔に、僕は今度こそゆっくりと目をつぶった。

触れることのない唇。
感触のないそれ。

なのにふわりと心の中に暖かいものが満ち足りたとき、きっとそれは触れたのだと分かった。

やわらかな感情。込み上げる涙。
ゆっくりと目を開くと、ヒョンの顔は間近で微笑んでいた。
なんて優しくて、なんて綺麗なんだろう。



「ありがとう、僕を見つけてくれて。それから怖がらないでくれて」


本当にありがとう、ってヒョンは気付いたときにはぐちゃぐちゃの顔で泣きながら笑っていた。


ヒョンの目からは止めどなく涙が溢れて、朝の陽射しを吸収してキラキラと輝く。
この綺麗な涙を拭えないんだと気付いたときのことを思い出した。初めてあの歌を歌った日。ヒョンの涙が天の川みたいに綺麗だった日。僕はもうずっとヒョンのことが好きだった。

ぽたり、と床に落ちた涙を追って下を見た。
絨毯には濡れた染みができて。

ハッとして顔を上げたときには、目の前にはもうヒョンはいなかった。


消えてしまったんだと分かった。
もう会えないんだって……


朝日は相変わらずキラキラと輝いていて、僕はヒョンの落とした涙のシミを塗りつぶすように泣き続けた。





これが、8年前の僕の初恋だ。
苦しく尾を引いた、ひと夏の恋。




おわり
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