やわらかな音
僕の初恋の相手は、幽霊だ。
そう言うと大抵の人は冗談だと笑うだろうから、僕はこの事を誰にも言ったことがない。親友にすら。痛い目で見られたり、笑い飛ばされたり、そんな風に消費されたくなかったから。だからそう決めているんだ。
だけど本当は、僕自身あれは長いひと夏の夢だったんじゃないかと思う時がある。
忘れてしまいそうなほど、不確かで、儚かった想い。僕の初恋 ────
*
遡ること8年前 ──── あれは、高校1年の夏だった。
「おはようございまーす」
ガラリと開けた部室のドア、遅刻しないようにと早めに出たらどうやら早く着きすぎたようで、部員はまだ誰も来ていなかった。
当たり前と言えば当たり前。
だって今は夏休みに入ったところで、誰だって学校になんて行きたくないのは当然だもの。
そもそも”部室”と言ってもここはただの音楽室で。合唱部の僕たちに宛がわれているのは、普段は音楽の授業で使われるなんの変哲もない音楽室だ。
壁にはモーツァルトやバッハの肖像画が飾られていて、教壇の横には大きな黒いグランドピアノ。正面の大きな上下式黒板には五線紙が引かれて、棚にはずらりとガットギターが並んでいる。そんなごくありふれた音楽室。そこで僕らは日々合唱に励んでいる。
合唱部はうちの学校の部活動の中では弱小部に分類される。部員数も少なければ、コンクールでの入賞経験も無い。そんな部だけど、子供の頃から歌うことが好きだった僕は、迷わずに入部した。
そんなわけで、僕は夏休みに入ったばっかりの今日も真面目に朝から学校に来たわけだけど。僕は知らなかったんだ、朝一番の音楽室がこんなにも綺麗だということを。
空気は清んできらきらと輝いていて、真夏だというのにひんやりとして気持ちがいい。
あー、と発声を試してみると、思った通りにのびやかに響き渡った。
「んふふ……」
これは僕だけの秘密だ。きっと早起きのご褒美。
みんなが来るまでの間、僕は存分に好きな歌を歌った。
そうして気分よく登校した三日目の朝、事態はあっけなく急変したのだ。
昨日や一昨日のように僕は鼻歌交じりに音楽室のある三階へと階段を上っていた。
音楽室は三階の奥にあるから、朝から三階まで登るのは結構しんどいんだけど、そんなことも苦にならないほど僕は陽気に階段を駆け上って音楽室へと続く廊下を歩いた。すると、遠くの方からかすかに聞こえたのはピアノの音 ────
誰だろう……一瞬立ち止まって、それからまた歩みを進める。
綺麗なピアノの音。
うちの部員にもピアノを弾ける人は何人かいるけど、その誰とも違うような気がする。
やわらかで、優しくて、くすくすとほほ笑むような音。
部員じゃなくたってピアノを弾ける人くらい沢山いるだろう。
だとしても、こんな朝早くからいったい誰が……
そんなことを考えながら廊下を進んで、ようやく音楽室の前にたどり着いた。
ドアに手をかけて、一瞬考えた。
弾くのを止めてほしくなかったんだ。僕が今ドアを開けたらきっとその人は驚いてやめてし合うだろう。そんなことを考えて、僕はその曲が終わるまでドアを開けるのを止めることにして、音楽室側の壁にもたれてしゃがみこんだ。
ドアの向こうから漏れ聞こえる音色。
本当に誰が弾いているんだろう……
軽やかに奏でられていたピアノは最後、軽快に跳ね上がるようにして終わりを告げた。
僕は思わず拍手しそうになるのをこらえて、恐る恐るとドアに手を掛けた。
僕は合唱部の部員だ。音楽室に来る道理だってある。
よしっ……!
「あの……」
ガラリと開けた僕は、真っ先にピアノの方を見た。
キラキラと輝く空気。
あぁ、一昨日の朝と一緒だ……
そうしてグランドピアノの陰から覗く顔を見て、僕は思わず息を止めた。
その人が、あまりにも綺麗だったからだ。
透けるような白い肌、漆黒に輝く髪、際立った鼻筋に、ぽってりとした唇。
しばらく呆然と見つめてしまった僕は、失礼だったことに気づいて慌てて声をあげた。
「……あ……あ、あのえっと、すみません!僕合唱部で……!!」
決して怪しい者じゃないんです!ただの真面目な合唱部員で。だからその、のぞき見とか別に。なんて必死に必死に、おそらく先輩だろうその人に向かってぺこぺこと何度も頭を下げた。
「僕が、見えるの……?」
「え……?」
「だから君、僕が見えるの?」
「えーっと……」
「それにもしかして、言葉も聞こえてる……よね?」
何だかよく分からないけどその人はとても驚いていて。それからとても嬉しそうで。
だから僕は、釣られるように「はい」と頷いた。
「よかったぁ!会話なんて何年振りだろう!あー、何から話そう……迷うなぁ。いざとなったら困っちゃうね!」
「は?えっと……」
「あぁ!そっか!まずは自己紹介だ!」
そう言うとその人は、ピアノから立ち上がって「僕の名前はチャンイーシンです」と妙に規則正しい言葉を並べた。
「出身は中国の長沙という町で、交換留学生として韓国に来ました!17歳、高校二年生です!よろしくお願いします!」
どうやらそこまでがパッケージのようで、仰々しく頭を下げるとピアノにぶつけそうになっていた。恥ずかしそうに首の後ろを掻く姿を見て、思わず小さく笑った。
なんだか良く分からないけど、可愛い人だと思う。
「えっと、僕は1年のキムジョンデです。合唱部で……あ!それでここに来たんですけど……先輩のピアノ素敵でした!」
「ホントに!?ありがとう!」
そう言って近づいてきた先輩を見て、僕は今度こそ驚いていて声を詰まらせた。
だってその人は『透けるような白い肌』ではなく、本当に『透けている白い肌』だったんだもの。開いた口が塞がらない、とはこのことで。いくら強心臓でお化け屋敷が全然怖くない僕だって、ホンモノの幽霊に驚かないわけなんかないんだ。
「もしかして……驚いてる?」
苦笑しながら言うその人に、僕はあんぐりと開いた口のままうんうんと頭を上下に動かした。するとその人は困ったように右頬に笑窪を浮かべて、そうだよね、と呟いた。
「ごめんね、驚かせちゃって」
「いえ、あの……大丈夫です」
「大丈夫って……?」
「えっと、だから……驚いてはいるんですが、怖くはないというか……」
まったく。何を言ってるんだろうか、僕の口は。何を喋ったらいいのか、多分まだ僕の頭は混乱している。
けれど言葉の通り、驚いてはいるが怖くはなかった。
多分、最初に思ったようにその人があまりに可愛らしい人に見えたからだ。よくあるおどろおどろしい幽霊ではなく、どちらかというとキャッキャと笑う天使のような。
とにかく、僕は驚いてはいたが、怖いとは思わなかった。
「今までも何人かは僕が見える人はいたんだけどね、みんな怖がって逃げちゃったから……だからこうやって話ができるの嬉しくて」
そう言って、先輩 ─── イシンヒョン ─── は嬉しそうに笑顔をこぼした。
それからというもの、僕は音楽室で一人になれる時間を見つけてはイシンヒョンとおしゃべりに花を咲かせた。ヒョンはとても嬉しそうで、僕だけがヒョンを笑顔に出来るんだと思うと、なんだか僕も嬉しかった。
「ヒョンは、中国人なんですよね?」
「ん?そうだよ?」
ある日の朝、いつものように音楽室で二人でいる時、僕がふと気になって尋ねると、どうして今更そんなこと聞くの?なんて言わんばかりにヒョンは不思議そうに僕を見る。
「だって韓国語すごく上手だから」
「あぁ。だってほら、もうずっと韓国語しか聞いてないから」
自然とそうなるでしょ?と切なげに笑うヒョンを見て、僕の胸はチクンと痛んだ。
一人きりで、この異国の音楽室で、ヒョンは何十年も過ごしてきたんだ。僕のような合唱部員や選択授業で音楽を選択したたくさんの生徒たちを、何十年にも渡って見送ってきたと前に楽しそうに言ってた。それは本当に楽しかったのかもしれないけれど、きっとその何倍も寂しかったのだろうと想像する。
そんなヒョンの力に、僕は少しでもなれたらと思った。
*
「ヒョン、ありがとうございます!」
休日、学校の近くのファーストフード店で、僕は音楽データを受けとるとミンソギヒョンとルハニヒョンにお礼を言った。
「ほとんど僕の趣味だから、お前が気に入る曲入ってるか分かんないけど」
「そんな、ヒョンのセンス信じてますから大丈夫です!」
「はは!今の聞いたからな」
二人は三年生の先輩で、ルハニヒョンは中国人だ。
去年、いつぞやのイシンヒョンのように交換留学生として来ていたらしいが、あまりにもこの国を気に入って三年だっていうのに今年正式に留学してきちゃったらしい。そして僕の幼馴染みのミンソギヒョンととても親しいので、なんだかんだと僕も仲良くさせてもらっている。
そんなルハニヒョンから僕は中国の歌を教えて貰ったのだ。そう、イシンヒョンのために。
あれから僕は、僕がヒョンにしてあげられそうなことを色々と考えた。
ヒョンが寂しくないように。
本当は、抱き締めてあげられたらいいのに……
実体のないヒョン。透けてしまうヒョン。触れないのに、存在しないのに、なのにヒョンは確かに僕の目に映り、僕の鼓膜を震わせ、僕の心臓を掴む音色を響かせる。
とても不思議で、とても尊い人。
そんなヒョンに僕があげられるものは、やっぱり歌しかないような気がして。それで僕はルハニヒョンに中国の曲を教えて貰うこのにしたんだ。
普通朋友 ── Just a Friend ── ただの友達。
歌詞の意味なんて分からないのに、その曲は少しだけ切なかった。
初めてする発音は舌が縺れそうになるくらい難しくて、耳で捉えるよりもずっとずっと難しかった。それでもどうしても分からないところは部活の帰りにルハニヒョンに教えて貰ったりもして。その度に「誰に聴かせるんだよ」なんて冷やかされて。そんなんじゃない、って僕は苦笑いで。呆れたミンソギヒョンが止めに入るのは毎回のことだった。
*
「……よしっ」
小さく深呼吸をして音楽室のドアを開ける。
朝の光は相変わらずキラキラと光っていて、僕の背筋をシャンと伸ばす。
「おはよう、ジョンデ」
「おはようございます、ヒョン!」
「どうしたの?今日は随分元気がいいけど」
「えっとその……実はヒョンにプレゼントがあって……」
「プレゼント……?」
不思議そうに首をかしげるヒョンは、本当に純粋な子供みたいで。僕はまたふわりと心が暖かくなる。
「はい、貰ってくれますか?」
「ん?うん」
「ふふ」
じゃあ準備しますねって言って。
僕は鞄を置いてヒョンの前に立った。
それから目を瞑って、呼吸を調えて。
ひゅっと息を吸い込むと、異国の音楽を吐き出した。
慣れなくて苦労した発音。
でもヒョンの笑顔を思い浮かべて。少しでもヒョンの心が暖かくなるように。懐かしい故郷を思い出せるように。寂しい心を慰められるように。そんな風に願って、何度も何度も練習したんだ。ヒョンが、笑ってくれるかなって。
だって、ヒョンのために歌ってあげられるのは、僕だけだから。
ヒョンの向こう側が透けて見えるとき、僕はいつも少しだけ悲しくなる。
幽霊なんだって思い出して、触ることも抱き締めることもできないんだって思い知るから。
我願意改變
重新再來一遍
我無法只是普通朋友
感情己那么深 叫我么怎能放手
但妳説 I only want to be your friend
做個朋友
我在妳中心只是 just a friend
不是人情
我感激妳對我這様的坦白
但我給妳的愛暫時収不回來
So I
我不能只是 be your friend
「ふふ、下手くそですみません。中国語の発音って難しくて……気に入ってくれました?」
歌い終わって照れながらもイシンヒョンを見ると、ヒョンの頬には一筋の涙が流れた。
それがきらりと光って、あまりにも綺麗で。まるで天の川のような輝きで。僕は次の言葉が紡げなかった。
「僕も、我無法只是普通朋友……」
「え……?」
あまりにも滑らかに発音されたそれは、ヒョンにとってはやっぱり母国語であるのだと改めて思い知る。
「ありがとうジョンデ、嬉しいよ」
「よかった……」
潤んだ目元を触ろうとして伸ばした手は、けれど触れることなく下ろされた。
だってその涙も拭えないなんて……
僕は、嬉しいのに悲しかった。
そんな風に僕らは日々を過ごす中で、とりとめのない話をしながら距離を縮めた。けれど僕は、ヒョンがなんで死んだのか、なんで音楽室にいるのか、大事なことは何ひとつ聞くことが出来なかった。
怖かったから?そうかもしれない。ヒョンの核心に触れたら、僕はヒョンが本当に存在しない人なんだということを受け止めなければいけなくなる。それが、それがとても怖かった。
どうして生きている時に出会えなかったんだろう、と考えてヒョンが一体何年生まれなのかも知らないことに気付いた。本当に、僕は知らないことだらけだ。好奇心旺盛な僕が、こんなにも知ることが怖いだなんて。
手を伸ばしても触れないヒョンを見て、僕はこの幽霊に恋をしてるのだと気付いた。
そう言うと大抵の人は冗談だと笑うだろうから、僕はこの事を誰にも言ったことがない。親友にすら。痛い目で見られたり、笑い飛ばされたり、そんな風に消費されたくなかったから。だからそう決めているんだ。
だけど本当は、僕自身あれは長いひと夏の夢だったんじゃないかと思う時がある。
忘れてしまいそうなほど、不確かで、儚かった想い。僕の初恋 ────
*
遡ること8年前 ──── あれは、高校1年の夏だった。
「おはようございまーす」
ガラリと開けた部室のドア、遅刻しないようにと早めに出たらどうやら早く着きすぎたようで、部員はまだ誰も来ていなかった。
当たり前と言えば当たり前。
だって今は夏休みに入ったところで、誰だって学校になんて行きたくないのは当然だもの。
そもそも”部室”と言ってもここはただの音楽室で。合唱部の僕たちに宛がわれているのは、普段は音楽の授業で使われるなんの変哲もない音楽室だ。
壁にはモーツァルトやバッハの肖像画が飾られていて、教壇の横には大きな黒いグランドピアノ。正面の大きな上下式黒板には五線紙が引かれて、棚にはずらりとガットギターが並んでいる。そんなごくありふれた音楽室。そこで僕らは日々合唱に励んでいる。
合唱部はうちの学校の部活動の中では弱小部に分類される。部員数も少なければ、コンクールでの入賞経験も無い。そんな部だけど、子供の頃から歌うことが好きだった僕は、迷わずに入部した。
そんなわけで、僕は夏休みに入ったばっかりの今日も真面目に朝から学校に来たわけだけど。僕は知らなかったんだ、朝一番の音楽室がこんなにも綺麗だということを。
空気は清んできらきらと輝いていて、真夏だというのにひんやりとして気持ちがいい。
あー、と発声を試してみると、思った通りにのびやかに響き渡った。
「んふふ……」
これは僕だけの秘密だ。きっと早起きのご褒美。
みんなが来るまでの間、僕は存分に好きな歌を歌った。
そうして気分よく登校した三日目の朝、事態はあっけなく急変したのだ。
昨日や一昨日のように僕は鼻歌交じりに音楽室のある三階へと階段を上っていた。
音楽室は三階の奥にあるから、朝から三階まで登るのは結構しんどいんだけど、そんなことも苦にならないほど僕は陽気に階段を駆け上って音楽室へと続く廊下を歩いた。すると、遠くの方からかすかに聞こえたのはピアノの音 ────
誰だろう……一瞬立ち止まって、それからまた歩みを進める。
綺麗なピアノの音。
うちの部員にもピアノを弾ける人は何人かいるけど、その誰とも違うような気がする。
やわらかで、優しくて、くすくすとほほ笑むような音。
部員じゃなくたってピアノを弾ける人くらい沢山いるだろう。
だとしても、こんな朝早くからいったい誰が……
そんなことを考えながら廊下を進んで、ようやく音楽室の前にたどり着いた。
ドアに手をかけて、一瞬考えた。
弾くのを止めてほしくなかったんだ。僕が今ドアを開けたらきっとその人は驚いてやめてし合うだろう。そんなことを考えて、僕はその曲が終わるまでドアを開けるのを止めることにして、音楽室側の壁にもたれてしゃがみこんだ。
ドアの向こうから漏れ聞こえる音色。
本当に誰が弾いているんだろう……
軽やかに奏でられていたピアノは最後、軽快に跳ね上がるようにして終わりを告げた。
僕は思わず拍手しそうになるのをこらえて、恐る恐るとドアに手を掛けた。
僕は合唱部の部員だ。音楽室に来る道理だってある。
よしっ……!
「あの……」
ガラリと開けた僕は、真っ先にピアノの方を見た。
キラキラと輝く空気。
あぁ、一昨日の朝と一緒だ……
そうしてグランドピアノの陰から覗く顔を見て、僕は思わず息を止めた。
その人が、あまりにも綺麗だったからだ。
透けるような白い肌、漆黒に輝く髪、際立った鼻筋に、ぽってりとした唇。
しばらく呆然と見つめてしまった僕は、失礼だったことに気づいて慌てて声をあげた。
「……あ……あ、あのえっと、すみません!僕合唱部で……!!」
決して怪しい者じゃないんです!ただの真面目な合唱部員で。だからその、のぞき見とか別に。なんて必死に必死に、おそらく先輩だろうその人に向かってぺこぺこと何度も頭を下げた。
「僕が、見えるの……?」
「え……?」
「だから君、僕が見えるの?」
「えーっと……」
「それにもしかして、言葉も聞こえてる……よね?」
何だかよく分からないけどその人はとても驚いていて。それからとても嬉しそうで。
だから僕は、釣られるように「はい」と頷いた。
「よかったぁ!会話なんて何年振りだろう!あー、何から話そう……迷うなぁ。いざとなったら困っちゃうね!」
「は?えっと……」
「あぁ!そっか!まずは自己紹介だ!」
そう言うとその人は、ピアノから立ち上がって「僕の名前はチャンイーシンです」と妙に規則正しい言葉を並べた。
「出身は中国の長沙という町で、交換留学生として韓国に来ました!17歳、高校二年生です!よろしくお願いします!」
どうやらそこまでがパッケージのようで、仰々しく頭を下げるとピアノにぶつけそうになっていた。恥ずかしそうに首の後ろを掻く姿を見て、思わず小さく笑った。
なんだか良く分からないけど、可愛い人だと思う。
「えっと、僕は1年のキムジョンデです。合唱部で……あ!それでここに来たんですけど……先輩のピアノ素敵でした!」
「ホントに!?ありがとう!」
そう言って近づいてきた先輩を見て、僕は今度こそ驚いていて声を詰まらせた。
だってその人は『透けるような白い肌』ではなく、本当に『透けている白い肌』だったんだもの。開いた口が塞がらない、とはこのことで。いくら強心臓でお化け屋敷が全然怖くない僕だって、ホンモノの幽霊に驚かないわけなんかないんだ。
「もしかして……驚いてる?」
苦笑しながら言うその人に、僕はあんぐりと開いた口のままうんうんと頭を上下に動かした。するとその人は困ったように右頬に笑窪を浮かべて、そうだよね、と呟いた。
「ごめんね、驚かせちゃって」
「いえ、あの……大丈夫です」
「大丈夫って……?」
「えっと、だから……驚いてはいるんですが、怖くはないというか……」
まったく。何を言ってるんだろうか、僕の口は。何を喋ったらいいのか、多分まだ僕の頭は混乱している。
けれど言葉の通り、驚いてはいるが怖くはなかった。
多分、最初に思ったようにその人があまりに可愛らしい人に見えたからだ。よくあるおどろおどろしい幽霊ではなく、どちらかというとキャッキャと笑う天使のような。
とにかく、僕は驚いてはいたが、怖いとは思わなかった。
「今までも何人かは僕が見える人はいたんだけどね、みんな怖がって逃げちゃったから……だからこうやって話ができるの嬉しくて」
そう言って、先輩 ─── イシンヒョン ─── は嬉しそうに笑顔をこぼした。
それからというもの、僕は音楽室で一人になれる時間を見つけてはイシンヒョンとおしゃべりに花を咲かせた。ヒョンはとても嬉しそうで、僕だけがヒョンを笑顔に出来るんだと思うと、なんだか僕も嬉しかった。
「ヒョンは、中国人なんですよね?」
「ん?そうだよ?」
ある日の朝、いつものように音楽室で二人でいる時、僕がふと気になって尋ねると、どうして今更そんなこと聞くの?なんて言わんばかりにヒョンは不思議そうに僕を見る。
「だって韓国語すごく上手だから」
「あぁ。だってほら、もうずっと韓国語しか聞いてないから」
自然とそうなるでしょ?と切なげに笑うヒョンを見て、僕の胸はチクンと痛んだ。
一人きりで、この異国の音楽室で、ヒョンは何十年も過ごしてきたんだ。僕のような合唱部員や選択授業で音楽を選択したたくさんの生徒たちを、何十年にも渡って見送ってきたと前に楽しそうに言ってた。それは本当に楽しかったのかもしれないけれど、きっとその何倍も寂しかったのだろうと想像する。
そんなヒョンの力に、僕は少しでもなれたらと思った。
*
「ヒョン、ありがとうございます!」
休日、学校の近くのファーストフード店で、僕は音楽データを受けとるとミンソギヒョンとルハニヒョンにお礼を言った。
「ほとんど僕の趣味だから、お前が気に入る曲入ってるか分かんないけど」
「そんな、ヒョンのセンス信じてますから大丈夫です!」
「はは!今の聞いたからな」
二人は三年生の先輩で、ルハニヒョンは中国人だ。
去年、いつぞやのイシンヒョンのように交換留学生として来ていたらしいが、あまりにもこの国を気に入って三年だっていうのに今年正式に留学してきちゃったらしい。そして僕の幼馴染みのミンソギヒョンととても親しいので、なんだかんだと僕も仲良くさせてもらっている。
そんなルハニヒョンから僕は中国の歌を教えて貰ったのだ。そう、イシンヒョンのために。
あれから僕は、僕がヒョンにしてあげられそうなことを色々と考えた。
ヒョンが寂しくないように。
本当は、抱き締めてあげられたらいいのに……
実体のないヒョン。透けてしまうヒョン。触れないのに、存在しないのに、なのにヒョンは確かに僕の目に映り、僕の鼓膜を震わせ、僕の心臓を掴む音色を響かせる。
とても不思議で、とても尊い人。
そんなヒョンに僕があげられるものは、やっぱり歌しかないような気がして。それで僕はルハニヒョンに中国の曲を教えて貰うこのにしたんだ。
普通朋友 ── Just a Friend ── ただの友達。
歌詞の意味なんて分からないのに、その曲は少しだけ切なかった。
初めてする発音は舌が縺れそうになるくらい難しくて、耳で捉えるよりもずっとずっと難しかった。それでもどうしても分からないところは部活の帰りにルハニヒョンに教えて貰ったりもして。その度に「誰に聴かせるんだよ」なんて冷やかされて。そんなんじゃない、って僕は苦笑いで。呆れたミンソギヒョンが止めに入るのは毎回のことだった。
*
「……よしっ」
小さく深呼吸をして音楽室のドアを開ける。
朝の光は相変わらずキラキラと光っていて、僕の背筋をシャンと伸ばす。
「おはよう、ジョンデ」
「おはようございます、ヒョン!」
「どうしたの?今日は随分元気がいいけど」
「えっとその……実はヒョンにプレゼントがあって……」
「プレゼント……?」
不思議そうに首をかしげるヒョンは、本当に純粋な子供みたいで。僕はまたふわりと心が暖かくなる。
「はい、貰ってくれますか?」
「ん?うん」
「ふふ」
じゃあ準備しますねって言って。
僕は鞄を置いてヒョンの前に立った。
それから目を瞑って、呼吸を調えて。
ひゅっと息を吸い込むと、異国の音楽を吐き出した。
慣れなくて苦労した発音。
でもヒョンの笑顔を思い浮かべて。少しでもヒョンの心が暖かくなるように。懐かしい故郷を思い出せるように。寂しい心を慰められるように。そんな風に願って、何度も何度も練習したんだ。ヒョンが、笑ってくれるかなって。
だって、ヒョンのために歌ってあげられるのは、僕だけだから。
ヒョンの向こう側が透けて見えるとき、僕はいつも少しだけ悲しくなる。
幽霊なんだって思い出して、触ることも抱き締めることもできないんだって思い知るから。
我願意改變
重新再來一遍
我無法只是普通朋友
感情己那么深 叫我么怎能放手
但妳説 I only want to be your friend
做個朋友
我在妳中心只是 just a friend
不是人情
我感激妳對我這様的坦白
但我給妳的愛暫時収不回來
So I
我不能只是 be your friend
「ふふ、下手くそですみません。中国語の発音って難しくて……気に入ってくれました?」
歌い終わって照れながらもイシンヒョンを見ると、ヒョンの頬には一筋の涙が流れた。
それがきらりと光って、あまりにも綺麗で。まるで天の川のような輝きで。僕は次の言葉が紡げなかった。
「僕も、我無法只是普通朋友……」
「え……?」
あまりにも滑らかに発音されたそれは、ヒョンにとってはやっぱり母国語であるのだと改めて思い知る。
「ありがとうジョンデ、嬉しいよ」
「よかった……」
潤んだ目元を触ろうとして伸ばした手は、けれど触れることなく下ろされた。
だってその涙も拭えないなんて……
僕は、嬉しいのに悲しかった。
そんな風に僕らは日々を過ごす中で、とりとめのない話をしながら距離を縮めた。けれど僕は、ヒョンがなんで死んだのか、なんで音楽室にいるのか、大事なことは何ひとつ聞くことが出来なかった。
怖かったから?そうかもしれない。ヒョンの核心に触れたら、僕はヒョンが本当に存在しない人なんだということを受け止めなければいけなくなる。それが、それがとても怖かった。
どうして生きている時に出会えなかったんだろう、と考えてヒョンが一体何年生まれなのかも知らないことに気付いた。本当に、僕は知らないことだらけだ。好奇心旺盛な僕が、こんなにも知ることが怖いだなんて。
手を伸ばしても触れないヒョンを見て、僕はこの幽霊に恋をしてるのだと気付いた。