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恋の期限は愛のはじまり



「よう!」


大学のテラスで課題をこなしてると、いつものようにルハンが声をかけてきた。


「進んでる?」
「うんまぁ、ぼちぼちかな」
「さすが、お前は真面目だな」
「よく言うよ、優秀なルハンが」
「優秀なのと真面目なのとは別だろ?」

僕の嫌味にも悪戯に笑みを浮かべてルハンは笑う。

「もー心外だなぁ」
「まぁなんたって、俺は地層に恋しちゃってるからね!のめり込み具合が違うんだよ」
「まぁそうだけど」


何を隠そう、僕をこの世界に連れ込んだのは、このルハンだった。


『地層には何千年も昔の歴史が刻まれていて、その時代に生きた色んなことを教えてくれるんだ。それをひとつずつ紐解いていく学問だなんて、ロマンチックだと思わない?』


なんて、きらきらの目をさらに輝かせてルハンは何度も何度も僕に言ったんだ。
僕だって、ロマンチックは嫌いじゃない。
だってクリスが話していた本の世界はどれもロマンチックが溢れていたから。その時僕はクリスが見ていたものが、少しでも見えるかもしれないと思ったんだ。僕なりの方法で。


確かに、ルハンの言っていた意味が分かるようになってくると、僕も地質学の面白さが分かってくるようになってきた。もともと研究とかそういった分野が合っていたのもあるのかもしれない。
まぁ、ルハンレベルに達するまではまだまだかかりそうだけど。



「あっ!お?」


ふとルハンが何かに気づいたようで、にやにやと目尻を下げた。


「なに?」
「それ……だよね?」


それ、と指されたのは小指に光るピンキーリング。


「あ、あぁうん」
「へー。久しぶりに見た。どうしたんだよ、急に」
「うん、まぁ、なんとなく?」


ルハンがこの指輪に気づいたことに正直少し驚いた。だって何年もしていなかったから。それと同時に気恥ずかしさも込み上げてきて、思わず赤面する。


「心境の変化?」
「あ、いや別にそういう訳じゃないんだけど……なんとなく。ほら!絵葉書届いたから」


ルハンは、ふーん、と笑っていた。


「ねぇ、ずっと気になってたんだけどさ」
「なに?」
「お前ってまだそいつのこと好きなの?」
「え……、」
「だってもう8年だよ?恋人ができたとかも聞かないしさ」


確かに、僕はこの国に来て、恋人が出来たことがない。


「だめ……かなぁ?」
「いやダメってことはないけど。そんなにいい男だったのかなぁって」


そう言ってルハンは笑う。


「もちろん、いい男だよ」


言って僕も笑った。


「俺より?」


ルハンの目は笑っているけど笑っていなかった。


「え……?」

「俺よりいい男?」


ルハンは僕なんかからしたら、うんとイケメンだし、優秀だし、面倒見が良くて社交的でとてもいい男だと思う。クリスと比べたりしていいものなのかと迷ってしまうほど。大学に編入した頃から何かと気に掛けてくれて、とても世話になってるし可愛がってもらっている。僕がこの大学で楽しく学べてるのは絶対的にルハンのお陰だ、けど。

僕は、なんと答えるべきか迷った。



「うん、いい男、かな」


結局、迷ったあげくそう言うとルハンは、そっか、と言ってあっけらかんと笑った。
その目に少しだけ悲しみが混じっていたような気がするのは、僕の気のせいだろうか。


「そういえば今週の金曜にギョンスがご飯作ってくれるっていうんだけど、お前も来る?」


ギョンス、とはルハンが住むアパートメントの住人で、僕らと同じ大学で化学を専攻している留学生だ。
『化学と料理は同じもの』が彼の口癖で、時間が空けば実験みたいに料理をしては僕らに振る舞ってくれるのだ。

金曜日なら課題の提出が終わったあとだから大丈夫か、と二つ返事で了承した。


「じゃあ言っとく」
「うん、よろしくね」


了解、とルハンは笑顔を浮かべると、「指輪、もう無くすなよ」と笑いながら僕の髪の毛をくしゃくしゃにしてテラスをあとにした。

その優しい仕草に、僕はなんでか少しだけ切なくなった。



*




「ジョンイナ、おかえり」
「……ただいま」


ダンスの練習を終えて帰宅したジョンインを迎え入れて、晩御飯の準備を再開する。


「今日はキムチチャーハンだけどいい?」


生憎、僕は今課題に追われていて、ゆっくりとご飯を作る時間もないのだ。まぁ、時間があったところで大したものは作れないんだけど。留学してから覚えた料理は僕の性には合わなかったらしい。


返事がないのが気になって振り返ってみると、ここ最近そうであるようにジョンインはやっぱり何か言いたげに張り詰めた表情をしていた。


「どうしたの……?」


尋ねると、いつものように僕を両手いっぱいに抱き締めて「ヒョン、俺さ……」とようやく言いにくそうに口を開いた。


「俺……最低だって分かってるから……」


苦しそうにジョンインは呟く。
そこからは彼の、痛い、苦しい想いが伝わるようだった。


「……お前は最低なんかじゃないよ」


最低なのは、僕の方だ。
彼の真っ直ぐな気持ちにこたえられない僕の方。


「ごめん……」


腕をほどいて消えそうに呟いた表情は、まるで親から叱られるのを待っている子どもみたいで、申し訳なくも僕は少し吹き出してしまった。


「さ、ご飯食べよう」


そう言って、少し高いところにある彼の頭を撫でた。

「キムチチャーハンだけど文句言わないでね」

笑って明るく言えば、ジョンインも照れたような笑みを浮かべる。
そんな表情は純粋に可愛いと思う。



「そういえば金曜の夜、ルハンの家に泊まるから」
「うん、わかった」
「戸締まりちゃんとしてね?」
「はは、わかってるよ」


いつも通りの会話を再開して、重くなりそうになった空気を払拭した。


それでも。頭の隅ではどうしてジョンインじゃダメなのかと考える。
どうしてルハンじゃダメなのか、も一緒に。



──恋人といるから楽しいのか
クリスといるから楽しいのか──



あの頃思った疑問は、答えならとっくに出ている。


*



金曜日。ギョンスのご飯にありつこうと、ギリギリまでかかってどうにか課題をやっつけた。やっと教授に提出して教授室の前で一息吐く。久々の解放感に包まれ上機嫌だ。
僕はその勢いのまま、よし、ルハンに連絡しよう、と勇んで鞄を開けた。

が、肝心の電話が見つからなくて固まる。


「あれ……?」


教授室のドアの前でガサゴソと鞄を漁ってみるが見当たらない。
ヤバい、忘れたかも……、なんて焦っているといつもの声が聞こえて頭をあげた。


「『あれ?』じゃないよ!どうりで……何回も電話したのに全然出ないんだもん」
「ごめんごめん、忘れちゃったみたい」

飽きれ顔のルハンを見て、ポリポリと頭を掻いた。

「じゃあ一旦お前んち戻る?」
「うん、そうしてくれると助かる」

ご飯食べるだけならまだしも、今日は泊まる予定なので電話がないと何かと不安だ。


「じゃあ、早く行こう」


そう言ってルハンは僕の腕を強引に引いた。

別に、遠回りになるから一緒に来なくたってよかったのに。相変わらず過保護だなぁ、なんて自転車を押しながら、二人で歩いた。




角を曲がって遠目にアパートメントが見えてきたころ、僕は首を傾げた。



「ん?どうした?」

「うん、誰かいるみたい……お客さんかなぁ」



後ろ姿を見る限りでは心当たりはない。
玄関口で困ったように対応しているジョンインの雰囲気から彼の知り合いでもなさそうだ。
誰だろう、と疑問符を浮かべた。



「お前のお客さんかもしれないし、とにかく行ってみた方がよくない?」



ルハンに促されるように歩みを早めたとき、ジョンインの方もこちらに気づいたのか視線が向けられた。
それに釣られるように客人も振り向く。




それはゆっくりと、スローモーションのようだった。




記憶の中の彼と、確かに重なったのだ。




瞬間、僕の歩みは止まって、心臓はどくりと跳ねて。身体中の細胞が動き出したと同時に自転車を投げ出して走り始めていた。




「───クリス!」




勢いよく飛んできた僕の身体を、クリスはまるで馴れた手つきのように両手を広げて受け止めた。 首元に抱きついて、存在を確かめる。



「ジュンミョナ、」




そう紡いだ声は、僕がもう何年も恋い焦がれていた声だ。

両頬に手を添えられて「元気だったか?」と聞かれたので、満面の笑みで「もちろん!」と答えた。


あぁ、クリスがいる。

本物のクリスだ。


じっと見たその顔は、少し延びた髪の毛以外は昔とちっとも変わっていなくて。優しげに垂れた目元も、凛々しい眉毛も、昔のままだ。



あぁ、そうだ。
彼はこんな風に優しく笑うんだ。





「もしかして、王子様?」


僕が置き去りにした自転車をわざわざ玄関まで運んでくれたのはもちろんルハンだった。


「え……?ははっ」


本人を前にそんな呼び方をされると、さすがに困ってしまう。当のクリスは不思議そうな顔をしているけど。


「てかさ、ジョンイニが困ってんじゃん」


言われた方に視線を向けると、驚いてるのか無言で立ち尽くしてるジョンインがいた。
一気に恥ずかしくなって、ごめんごめん!と慌ててクリスから離れた。



「……いえ、」


気まずそうに俯いてしまったジョンインに声を掛けたのはやっぱりルハンだった。


「……そうだ!ジョンイナ、行くよ!」
「え、」
「支度しといで。今日ウチでパーティーなんだ。メンバー変更!」


戸惑うジョンインにルハンはさらに追い討ちをかけるように「それとも二人のイチャイチャまだ見てたい?」なんて言うもだから、ジョンインは頷かざるを得ない。


ジョンインが支度をしてる間、僕はごめん、とルハンに謝った。彼は、久しぶりの再開なんだから、と笑ってくれる。



「ギョンスには言っとくから、お前はまた今度な」



王子様もまた今度!なんて言って、ルハンは半ば無理矢理ジョンインの手を引いて、行ってしまった。
やっぱりルハンもいい男、だと思う。



「よかったのか?」
「うーん、ギョンスのご飯が食べれないのはちょっと残念だけど、まぁ、いいんじゃない?」


そう言って笑うと、クリスも困ったように笑って見せた。






***


ルハンがジョンインの手を離した頃、ルハンはぽつりと呟く。


「はは……今日は失恋パーティだ」


思わず、どういう意味ですか、とジョンインは彼を睨みあげた。
からかわれるのは嫌いなのだ。


「え?俺の、だけど?」


ルハンは不思議そうに答える。


「……え、」
「あ、いや……俺たちの、かな」


苦笑するルハンを見て意味がわからずジョンインは首をかしげた。



***




「もっとおじさんになってから来るかと思った」


クリスを部屋にあげてリビングに案内しながら話す。途中、コーヒーでいい?と聞くと、あぁ、と頷いた。



「あぁ、そうしようかと思ってたんだけど、もどかしくなったんだ」


年を取るのを待てなかった、とソファーに座って彼はおおらかに笑う。


「早すぎたか?」
「いや、嬉しかったよ」


でも知らせてくれればよかったのに、とコーヒーを持って行きながら言うと「届いてないか?」と驚いた顔を見せた。


「プラハにいるっていうのは見たよ」
「そのあとにすぐ、もう一通送ったんだけどな」


何かの事情で遅れているのかもしれない。
それにしても、本人の方が早く着くなんて。なんだか可笑しかった。



並んでソファーに掛けると、懐かしさが胸を覆った。



「元気だった?」
「あぁ。お前も、元気そうで安心した」


ゆっくりと見た彼はやっぱり少しも変わっていなくて、1ミリも離れていたくないと思ったあのときの気持ちのまま、何一つ色褪せてなんていなかった。


「会いたかったよ、ずっと」
「あぁ、俺も」


優しい眼差しを向けられて、ゆっくりと彼の大きな手が頬に触れた。



「キスする資格は、あるのか?」

「もちろん」



言うと僅かに目を細めた。
ゆっくりと近づいてくる唇に、そっと目を瞑る。




8年越しのキスは、とても優しかった。





どうしてこんなに馴染むのかなんて分からない。
ただ、僕は彼を一途に欲していたんだ。
どんなに時が過ぎても唯一無二の存在で、彼に代われるものなんてなかった。この8年がそれだけは証明してくれた。



気恥ずかしさから、俯いて僕が好きだったその大きな手に指を絡める。
そこから伝わる体温に心臓が震え上がった。
僕をこんな風にするのは、きっと世界中でクリスだけだ。




「リスや、」


呟くように呼び掛けると、彼は擽ったそうに笑みを浮かべた。


「その呼び方、懐かしいな」
「はは、そう?」
「あぁ。8年前のお前が蘇るようだよ」
「8年前の僕ってどんなだった?」
「そうだな、」


言って考えるそぶりを見せる。


「とても可愛かったよ。可愛くて、愛しかった」
「じゃあ今は?」
「今は……少し老けた」


おどけてそんな風に言うので、僕は彼の肩を叩いた。なのに、今も可愛いし愛しいよ、なんて言うもんだから、思わず赤面した。


「……そんなことを言うやつだった?」
「好きな人には甘いだろ、知らなかったのか?」

「……うん」



ツキンと心臓が痛んだ。






───好きな人


そういえば今も、というよりあの頃から、僕は彼の好きな人だったんだろうか。


今まで考えたこともなかった疑問が頭を過って、急に不安に襲われた。
だって、好きだなんて言われたことが無かったし。そもそも付き合ってほしいって言ったのだって僕で。それも期間限定なんてオプション付きで。



あぁ、もしかすると何かとても大事なことが欠落していたかもしれない。



どんどんと血の気が引いていく。




大丈夫か?とクリスが頬を撫でてくれた。






「リスは、恋人とか、いないの……?」


不安に胸が潰れそうになって、祈るような気持ちで出した問いに、クリスはポカンと固まった。


「別れたつもりはないけど?」
「え、」
「俺は、一度だってお前と別れたつもりはないよ。8年間、ずっとお前を想ってた」



可笑しいか?なんて凛々しい顔を不安げに歪めて言うもんだから、胸が苦しくなって。



「僕もだよ……」



言って思わず抱きついた。


よかった。
心底そう思った。
瞬間的に涌き出た戸惑いと不安は、彼によって瞬時に書き消されたのだ。
どうしてか涙がこぼれそうだった。


僕だって、ずっと好きだったんだ。
彼しかいなかった。
会いたくて会いたくて、苦しかった。
いつか再会できる日を思って毎日毎日頑張ってきた。



「住所を頼りにここへ来たとき彼がいて、もう手遅れだったかと思った」
「彼?」
「玄関で出迎えてくれた青年」
「あぁ!ジョンイナか」
「一緒に住んでるんだろ?」
「うん、まぁ。でも、あの子はそんなじゃないよ。弟みたいなもん、かな」


言って、ツキンと胸が痛む。
彼の苦しそうに向けられる視線を思い出したからだ。


「弟、か……」
「うん、」
「それでも嫉妬しそうだ」


そう言って抱き締める腕に力を込められた。
彼の首元に顔を埋めると、優しく頭を撫でられて。なんだか擽ったいのに、ひどく懐かしい。



「僕には、リスしかいないよ」
「はは、すごい口説き文句だな」
「ずっと、永遠に、リスしかいない」


嘘じゃない。


「奇遇だな、」


俺もお前しかいないと思ってたところだ。


そう言っておどけたかと思うと腕を緩められて。
視線が絡まって。

また唇が、やわらかに触れていた。



何度も啄むように繰り返されたそれは、やがて深さを増して。
僕はこのまま溶けて消えてしまっても後悔しないような気さえした。



窓の向こうでは日常の喧騒が繰り広げられていて。この部屋でさえ、いつもはジョンインが音楽に合わせて愉しげに身体を揺らしたりしている日常があるというのに。


何故だか不意に故郷の、あの母校の屋上で流れていた空気が鼻を掠めた気がして。


甘酸っぱい気持ちが胸いっぱいに広がった。





2週間の期間限定だった恋人は、



8年ぶりに僕の恋人に戻った。








おわり
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