盲目の人
****
side L
イシンと会ってから、ミンソクはぼんやりと考え事をすることが多くなった。
弟の恋人と会わせるなんて荒治療すぎただろうか。俺はミンソクが放っておけなくて、最近ではスケートの練習もサボりがちだ。
今日だって、俺はミンソクをひとりにしておけなくて、いそいそと通ってはコーヒーを入れている。ミンソクからは「お前そんなに暇なのか?」と呆れ顔を向けられたくらいだ。
ミンソクのお陰で紅茶党からすっかりコーヒー党に乗り換えた俺は、コーヒーを飲みながらベクの相手をしつつミンソク横顔を覗いていた。
すると、ブブッと携帯が振動してメッセージの受信を知らせた。
多分アイツだろう、と予想した通りメッセージの送信元はスケート仲間のタオだ。
──優勝したからって練習サボり過ぎ
だよな、なんて俺はため息と同時に頭を抱えた。
「わん!」とベクが鳴いて尻尾を振る。
そう言えばベクは少しだけジョンデに似てる気がする。ベクもジョンデもいつも楽しそうだ。なんて言ったら「僕は犬ですか!」ってジョンデに怒られそうだけど。あ、いやイシンがいつもコブタちゃんって言ってたから、「ジョンデは犬じゃなくてブタだよ」って訂正される方が先かもしれない。どちらにせよ、ミンソクにとって必要不可欠な存在だということは確かで、俺はちょっと拗ねそうだ。
そんな想像をしてくすくすと笑っていたのか、ミンソクから「なに?」と訝しがられた。
「ね、外行かない?」
「外?何しに?」
「スケートの練習」
「また?」
「じゃなくて、今日は俺の」
「あぁ、そういうことなら……」
***
スケート場に行くとタオがいつものメンバーと一緒に練習をしていた。
「あ!ルハンだ!!」
よう!なんて手を上げると飛びかかりそうな勢いでこちらに滑ってきて、風を感じたミンソクは俺の肩を掴む手に力が入ってわずかに身を屈めた。
「こら!タオ!危ないからやめろ」
「なにが?」
あ、ワンちゃんだぁ~!!とベクに近寄るタオに、これまた「だからやめろって!」と制してベクたちとタオの間に入る。
「この子は今仕事中なの!」
「仕事?」
首を傾げるタオにミンソクは俺の後ろから「盲導犬です」と真っ直ぐに言い放った。
こういう時のミンソクはとても凛としている。
「ミンソガ、ごめんね」
「いや、大丈夫」
俺たちのことは気にせず練習して来いよ、とミンソクは笑う。
俺はタオに付いてスケート靴に履き変えると練習をスタートさせた。
「ねぇ、練習サボってた理由ってあの人?」
「う~ん、まぁ」
「へぇ~」
タオに冷やかされながらミンソクを見ると、ベンチに座ってベクを撫でながら、気持ち良さそうに空を仰いでいた。
─── どうしてそんなに構うんだよ
例えば繋いだその小さな白い手を暖めたいとか、美味しいコーヒーを飲んで幸せそうに頬を染める顔が見たいとか、頑ななその心が酷く愛おしい、とか。
君を好きだからに決まっている。
何にも代えがたいほど、俺の心を侵食して、色を重ねていくんだ。
スケート一色だった俺の心を。
****
side M
日が暮れてきたと言うルハンは、そろそろ帰ろうかと俺の肩を叩いた。
ルハンの手は心地いい。
どんな時でも変わらない体温で俺の肩を叩き、俺を安心させる。
けれどそれは、無意識だろうけど必ず声をかけてからするとか、それ以外でも使ったものは必ず元の場所に戻してくれるとか、ルハンの優しさはそういう何気ないものだ。あの日、唐突に現れて雨の中タクシーを止めてくれたように。そうして、それが視界に何も映さない俺を酷く安心させてくれるんだ。
次の大会はどうだとか、一緒にいたタオはどうのとか。そんな話をしながら、そろそろ雨が降りそうだな、と思ったのはそんな匂いがしたからだ。
だから早く帰らなきゃ、って。
だけど、
左手のベクがビクリと一瞬止まったのと、ルハンが声を上げるのは、ほとんど同時だった。
「ミンソク……ッ!!」
どん、とルハンが体当たりしてきて思わずよろけそうになった。体当たりではない。覆いかぶさるように抱きしめられてるんだ。
「……うっ!」
「わんわん!わんわん!」
ベクが興奮して吠えている。
「ルハナ……?」
「ミンソガ!大丈夫!?」
「おい、何があった!?どうしたんだ?」
呻くような苦しそうなルハンの声。焦り。その時俺に分かったのはこの異様な空気感だけ。
「……ってめぇ!!この野郎!!」
ルハンが聞いたこともない声で叫んでいて、びくりと震えた。
ルハンの体温が離れてしまったんだ。
だめ。ダメだ、ルハン!お前の手は優しいものなのに!
「ルハナ!!!やめろ!!!」
辺りに手を伸ばしたってルハンの体にはぶつからない。ベクは相変わらず「わんわん!」と吠えていて、聞いたこともない声で時折唸っている。
「だってミンソガ、こいつ!」
誰かに襲われたのだと思った。
それから、それをルハンが助けてくれたのだと。真っ暗な世界で恐怖で震える手を両手で握りしめて、俺は元警察官だ、と言い聞かせた。
「あんた誰だ。何が目的だ。物取りか?それとも通り魔か?警察呼ぶぞ」
スマホを片手に持ち上げて言っているけど、いつものように俺は頓珍漢な方角に向かって話してるかもしれない。
いや、鋭く感じる相手の感覚とルハンの感覚が俺を正面に向けさせているだろうか。
「聞いてんだろ、答えろよ!!!」
目が見えなくなってから、色んなものに虐げられてきた。不安も恐怖も、いつも紙一重だ。ベクがいなければ真っ直ぐ歩くことだってできない。
それでも、これはジョンデから夢を奪った罰だと思っていたから平気だった。理不尽なことなんて何もない。すべて受け入れてきたし、受け入れなければいけないと思ってきた。
だけど、だからってルハンが俺を庇って怪我をしていいはずがない。それは、違う。
昔からいつも冷静だった自分に、こんな激情が宿っているなんて知らなかった。
「何とか言えよ!!!」
「ミンソガ……!」
「……お前が……お前があの日迎えになんか行かなければ……お前の車になんか乗らなければ……こんなことにはならなかったんだ……」
聞えた声は、酷く懐かしいものだった。
優しくて、大らかで、慈愛に満ちていた ─── 俺たちの、ジョンデの、
「…………父さん」
「え……」
「お前の車になんか乗らなければ、あの子はこんなことにはならなかった……全部お前のせいだ!」
あの子はアイツの忘れ形見だったのに、と涙を堪えて呟いた声は酷く力なくて。
俺はこんな父さんの声、聞いたことがない。
母さんは会うたびに、あなたが悪いわけじゃないと言う。その言葉が俺をどんなに苦しめているかも知らずに。だけど今、目の前の継父は俺のせいだと言った。俺のせいでジョンデはああなったのだと。俺が悪いのだと。殺してしまいたいほど憎いのだと。
それは酷く、心地の良い言葉だった。
「ミンソガ?」
そうやって、やっぱりルハンは声をかけてから俺を抱きしめた。泣かないで、って。あぁ、俺は泣いているのかと思った。泣きたかったのかって。
「すみません、大ごとにしたくないんで今日は帰ってもらってもいいですか?あなたも後悔してるんでしょ?ミンソクを襲ったこと」
ルハンの声は優しい。体温も腕も、全部が優しくてあったかい。
俺は泣いた。泣いて、ジョンデを思った。
─── だってジョンデは生きてるから
あの、恋人の声が蘇った。
ジョンデは生きている。
眠りながら、でも生きている。
***
「ルハナ、ごめん……」
家に着いてソファーに座って落ち着いた頃、俺はぽつりと口を開いた。
「なんで謝るの?ミンソク悪くないじゃん」
「いや、俺のせいだから……怪我、何ともない?」
「え?あぁ、これくらい大丈夫!いつもスケートで転んだりしてるし」
「でも……」
相当痛いはずなのは知っている。何かの棒で思い切り殴られたはずだから。時折動くとき痛そうに漏れる声も、俺を心配させまいと最小限に堪えているんだろう。
「手当、するから。背中でしょ?」
そっと背中の方に手をまわそうとしたら、思い切り避けられた。
「大丈夫だって!」
「そんなわけあるか!」
「大丈夫!ミンソクを守れたんだから、名誉の勲章だよ」
「何だよそれ……」
ラジオもかけてない静かな室内では、いつの間にかベクも疲れて寝てしまったのか、ベクの呼吸音だけがいやに静かに響いていた。
「ルハナ……頼むから、傷を確かめたい。見えないけど、確かめたいんだ」
「ミンソガ……」
はぁ、と小さくため息をつくと、「ホント頑固なんだから」とぼやいて、ルハンは俺に背を向け、俺の腕を掴んだ。
「ほら、血が出たり骨が折れたりはしてないから、大丈夫でしょ?」
初めて触れたルハンの背中は、Tシャツ越しでもあたたかくて、筋肉に覆われた背中はとても逞しい。
傷の辺りに手を遣るとビクリと震えて「痛っ…」と呟くので、驚いて手を放したけど、またそっと触れてみた。
じんわりと熱を持っている。確かに湿ってはいないから血が流れたりはしていないんだろうけど、熱を持っていて少し腫れているような気がした。
「痛い……?」
「……少しだけね。でも大丈夫」
「ごめん……」
俺はその傷口に、そっと唇を這わした。
Tシャツ越しに伝わる体温。
温もり。愛しさ。
「ミンソク……?」
恐る恐る振り返ったルハンは僅かに息を飲み込んで、それから俺を抱き締めた。
「ミンソクじゃなくてよかった。怪我をしたのがミンソクじゃなくて。ちゃんと守れてよかった……」
そんなの俺だって───
言おうとした唇は、ルハンのそれによって塞がれてしまった。開いた唇は、ルハンの舌を迎い入れるには最適だったようで。ぬるりと這いまわる感覚。腹の底から沸き上がる欲望。目が見えない俺は、残りの感覚をフルに活用してルハンを感じた。
そうしてソファーに押し倒された俺は、ルハンに横抱きに抱えられてベッドへと移動していた。
「ミンソガ、好きだよ」
そう囁くルハンの声は、ひどく優しくて心地よかった。
ルハナ、ルハナ、って呼吸するように名前を呼ぶ。バカみたいに、俺はそれしか言えなかった。
幸せで、泣けてきた。
そして死にたくなった。
ルハンが優しくて、ルハンが好きで、死にたくなった。
俺にそんな資格はないのに。
なぁ、ジョンデ。
俺は一体、誰に許されたいんだろう。
お前が目を覚ましたら、また歌いはじめたら、俺もまた変われるんだろうか。ルハンに好きだって言えるだろうか。幸せになる人生を選べるんだろうか。父さんは、母さんは、またみんなで笑えるんだろうか。
なぁ、ジョンデ。
お前の返事を聞きたいよ。
****
side L
滑らかなミンソクの肌を掻き抱いた翌日、俺はミンソクを腕に目を覚ました。
今日は足の裏を舐めなかったベクが、けれど俺たちを呆れた顔で笑っていて、俺は「いいだろ」と自慢げに見せびらかした。
「わん!」と声を上げで俺たちの上に乗り上げる。普段はこんなことしないのに、眠っていたミンソクはビックリして目を覚まし、自分たちの上にいるベクを苦笑しながら撫でていた。
「おはよ、」
「うん、今何時?」
「えーっと、11時かな」
「えっ!ごめんベク!今ご飯準備するから!」
そう言って起き上がろうとしたミンソクは、あっ、と体を固まらせて、それから赤面した。
「どうした?」
大丈夫?辛い?と昨日の行為を反省しようとしたのに、ミンソクはふるふると頭を振って「あそこ、変な感じで……」と呟くから、俺は叫びだしそうになりながらミンソクを抱きしめた。
「いい!俺がやるから、ミンソクは寝てて!」
「いいよ、大丈夫だから」
「ダメ!!こういう時は甘やかされてよ」
そう言って、つるりとした頬にキスを落とすと、俺は落ちていたTシャツとパンツを履いて、キッチンへと歩いた。
カチャカチャとフローリングに爪の音をたててベクも嬉しそうについてくる。
「ミンソガー、コーヒー飲む?」
「うんー」
こんな朝は夢みたいだ。
俺たちは、きっとちゃんと幸せになれる。
心の底からミンソクが好きだと思った朝、その知らせは届いた。
Prrrr....
お湯を沸かしながらミルを引いていた時、テーブルの上のスマホが鳴ったので手を止めた。掴んで確認するとイシンからだ。
珍しいな、と思いながらタップする。
「どうした?」
『ルゥ……!!ジョンデが……ジョンデがね!ジョンデが目を覚ましたよ!』
「え……」
涙混じりにイシンは言葉を紡いでて、電話越しでもぐちゃくちゃな顔してんだろうって想像がついた。
俺は咄嗟にミンソクに目をやると、ミンソクもどうしたのかとこちらを見ている。
俺はミンソクの方へ歩きながらイシンへと言った。
「イシン、もう一回言って」
それから、スピーカー通話のボタンを押してミンソクへと向ける。
『だから、ジョンデが目を覚ましたの!!』
「だって。ミンソガ」
にかり、と笑えば、見えてないはずなのにミンソクも応えるように顔を歪ませて。それから「ルハナ……」ってまた名前を呼ばれて。俺はイシンに「後で行くから」と伝えて電話を切った。それからベッドに乗り上げてミンソクを思い切り抱きしめた。
「よかったね」
「うん……」
「後で一緒にお見舞いに行こう」
「うん」
ほら、俺たちはきっと幸せになれるんだ。
***
二人で病室に行くと兄弟の母親がミンソクが来たことに驚いて、それから文字通り長い夢から目覚めたジョンデは「ヒョン」とミンソクを呼んだ。
ミンソクはボロボロと泣きながらジョンデに謝っていたけど、ジョンデはやっぱり困惑しながらも楽しそうに笑っていた。
兄弟を見守るイシンの目は真っ赤に腫れ上がっていたし、病室内は相も変わらずイシンが飾ったであろう切り花でいい匂いが充満している。
俺は、この場に居合わせることが出来て、幸せだと思った。
***
一年後
「調子はどう?」
「うん、悪くないよ。本当にヒョン来るんだよね?」
「もちろん」
ステージ横の小さな楽屋を尋ねれば、ジョンデが少しだけ緊張した面持ちで喉を潤わせていた。
「ベクは?」
「今日は留守番。耳壊れちゃったら困るから」
「はは!そうだよね。残念」
「いつでも遊びに来いよ」
「うん、そうする。ってヒョンのマンションじゃん!」
「はは!まぁね!あ、そろそろ迎えに行ってくるわ」
「うん、よろしくね」
一旦会場を出て、ミンソクの待つマンションへ迎えに行く。
ベクが拗ねるかもしれないから、おやつの差し入れは絶対だ。
「ミンソガ―!」
いつものように声を上げて鍵を開ける。
「支度出来た?」
「うん」
「じゃあ行こうか。あ、ベクにおやつ!」
「わん!」
今日はジョンデの復活ライブだ。
順調に回復したジョンデは、一年後、数曲だけならという医師からのお許しの元、ステージに立つことになった。
客は身内だけ。激しい曲もやらない。辛くなったらすぐ中止すること。等々いろんな条件は出たけど、ジョンデがどうしてもイシンの作った曲を歌いたいと言うので、無理を押して開催に踏み切った。これが成功すれば、きっと完全復活も近いだろう、なんて。
ミンソクは、初めてジョンデのステージを見る。
きっと本人よりも緊張してるんだろうなと思うと、可笑しくてこっそり笑った。
「ルハナ」
「ごめんってば、笑ってないよ」
ミンソクはたまに本当は見えてるんじゃないかと思う時がある。
それならそれでもいいけど、俺にはこっそり教えてよね、なんて。
「ジョンデがミンソクはちゃんと来るのかって心配してたよ」
「はは!行くに決まってるのにな」
ジョンデが目を覚ましてから、ミンソクは何気ないことでも笑うことが増えた。きっと、本来の性格はこっちなんだろう。大らかで、面倒見が良くて、よく笑う。俺もその方がミンソクに似合ってるような気がした。
「ルハナ、」
「んー?なに?」
会場への下り坂。
俺の肩に置かれる小さな白い手。
コンコンと小気味よい白杖の叩く音。
「好きだよ」
「え……」
「ルハナのこと、好きだよ。こんな俺でもよかったら、これからもずっと一緒にいてください」
立ち止まったミンソクは、見えてないはずなのに、やっぱり俺をしっかりと見ていて、青空の下で恥ずかしそうに笑う顔は妙に格好良かった。
「ミンソガ……!!ミンソクがいいに決まってんじゃん!」
泣きそうになりながら抱きしめた腕の中で、ミンソクはクスクスと笑っていて、俺は本当に幸せだと思った。
「ほら、ライブ遅れるって」
「うん。でも嬉しくて」
「はは!」
「ミンソガ、幸せになろうね!」
「あぁ、そうだな」
盲目の恋人は、太陽みたいに笑う可愛い人だ。
おわり
side L
イシンと会ってから、ミンソクはぼんやりと考え事をすることが多くなった。
弟の恋人と会わせるなんて荒治療すぎただろうか。俺はミンソクが放っておけなくて、最近ではスケートの練習もサボりがちだ。
今日だって、俺はミンソクをひとりにしておけなくて、いそいそと通ってはコーヒーを入れている。ミンソクからは「お前そんなに暇なのか?」と呆れ顔を向けられたくらいだ。
ミンソクのお陰で紅茶党からすっかりコーヒー党に乗り換えた俺は、コーヒーを飲みながらベクの相手をしつつミンソク横顔を覗いていた。
すると、ブブッと携帯が振動してメッセージの受信を知らせた。
多分アイツだろう、と予想した通りメッセージの送信元はスケート仲間のタオだ。
──優勝したからって練習サボり過ぎ
だよな、なんて俺はため息と同時に頭を抱えた。
「わん!」とベクが鳴いて尻尾を振る。
そう言えばベクは少しだけジョンデに似てる気がする。ベクもジョンデもいつも楽しそうだ。なんて言ったら「僕は犬ですか!」ってジョンデに怒られそうだけど。あ、いやイシンがいつもコブタちゃんって言ってたから、「ジョンデは犬じゃなくてブタだよ」って訂正される方が先かもしれない。どちらにせよ、ミンソクにとって必要不可欠な存在だということは確かで、俺はちょっと拗ねそうだ。
そんな想像をしてくすくすと笑っていたのか、ミンソクから「なに?」と訝しがられた。
「ね、外行かない?」
「外?何しに?」
「スケートの練習」
「また?」
「じゃなくて、今日は俺の」
「あぁ、そういうことなら……」
***
スケート場に行くとタオがいつものメンバーと一緒に練習をしていた。
「あ!ルハンだ!!」
よう!なんて手を上げると飛びかかりそうな勢いでこちらに滑ってきて、風を感じたミンソクは俺の肩を掴む手に力が入ってわずかに身を屈めた。
「こら!タオ!危ないからやめろ」
「なにが?」
あ、ワンちゃんだぁ~!!とベクに近寄るタオに、これまた「だからやめろって!」と制してベクたちとタオの間に入る。
「この子は今仕事中なの!」
「仕事?」
首を傾げるタオにミンソクは俺の後ろから「盲導犬です」と真っ直ぐに言い放った。
こういう時のミンソクはとても凛としている。
「ミンソガ、ごめんね」
「いや、大丈夫」
俺たちのことは気にせず練習して来いよ、とミンソクは笑う。
俺はタオに付いてスケート靴に履き変えると練習をスタートさせた。
「ねぇ、練習サボってた理由ってあの人?」
「う~ん、まぁ」
「へぇ~」
タオに冷やかされながらミンソクを見ると、ベンチに座ってベクを撫でながら、気持ち良さそうに空を仰いでいた。
─── どうしてそんなに構うんだよ
例えば繋いだその小さな白い手を暖めたいとか、美味しいコーヒーを飲んで幸せそうに頬を染める顔が見たいとか、頑ななその心が酷く愛おしい、とか。
君を好きだからに決まっている。
何にも代えがたいほど、俺の心を侵食して、色を重ねていくんだ。
スケート一色だった俺の心を。
****
side M
日が暮れてきたと言うルハンは、そろそろ帰ろうかと俺の肩を叩いた。
ルハンの手は心地いい。
どんな時でも変わらない体温で俺の肩を叩き、俺を安心させる。
けれどそれは、無意識だろうけど必ず声をかけてからするとか、それ以外でも使ったものは必ず元の場所に戻してくれるとか、ルハンの優しさはそういう何気ないものだ。あの日、唐突に現れて雨の中タクシーを止めてくれたように。そうして、それが視界に何も映さない俺を酷く安心させてくれるんだ。
次の大会はどうだとか、一緒にいたタオはどうのとか。そんな話をしながら、そろそろ雨が降りそうだな、と思ったのはそんな匂いがしたからだ。
だから早く帰らなきゃ、って。
だけど、
左手のベクがビクリと一瞬止まったのと、ルハンが声を上げるのは、ほとんど同時だった。
「ミンソク……ッ!!」
どん、とルハンが体当たりしてきて思わずよろけそうになった。体当たりではない。覆いかぶさるように抱きしめられてるんだ。
「……うっ!」
「わんわん!わんわん!」
ベクが興奮して吠えている。
「ルハナ……?」
「ミンソガ!大丈夫!?」
「おい、何があった!?どうしたんだ?」
呻くような苦しそうなルハンの声。焦り。その時俺に分かったのはこの異様な空気感だけ。
「……ってめぇ!!この野郎!!」
ルハンが聞いたこともない声で叫んでいて、びくりと震えた。
ルハンの体温が離れてしまったんだ。
だめ。ダメだ、ルハン!お前の手は優しいものなのに!
「ルハナ!!!やめろ!!!」
辺りに手を伸ばしたってルハンの体にはぶつからない。ベクは相変わらず「わんわん!」と吠えていて、聞いたこともない声で時折唸っている。
「だってミンソガ、こいつ!」
誰かに襲われたのだと思った。
それから、それをルハンが助けてくれたのだと。真っ暗な世界で恐怖で震える手を両手で握りしめて、俺は元警察官だ、と言い聞かせた。
「あんた誰だ。何が目的だ。物取りか?それとも通り魔か?警察呼ぶぞ」
スマホを片手に持ち上げて言っているけど、いつものように俺は頓珍漢な方角に向かって話してるかもしれない。
いや、鋭く感じる相手の感覚とルハンの感覚が俺を正面に向けさせているだろうか。
「聞いてんだろ、答えろよ!!!」
目が見えなくなってから、色んなものに虐げられてきた。不安も恐怖も、いつも紙一重だ。ベクがいなければ真っ直ぐ歩くことだってできない。
それでも、これはジョンデから夢を奪った罰だと思っていたから平気だった。理不尽なことなんて何もない。すべて受け入れてきたし、受け入れなければいけないと思ってきた。
だけど、だからってルハンが俺を庇って怪我をしていいはずがない。それは、違う。
昔からいつも冷静だった自分に、こんな激情が宿っているなんて知らなかった。
「何とか言えよ!!!」
「ミンソガ……!」
「……お前が……お前があの日迎えになんか行かなければ……お前の車になんか乗らなければ……こんなことにはならなかったんだ……」
聞えた声は、酷く懐かしいものだった。
優しくて、大らかで、慈愛に満ちていた ─── 俺たちの、ジョンデの、
「…………父さん」
「え……」
「お前の車になんか乗らなければ、あの子はこんなことにはならなかった……全部お前のせいだ!」
あの子はアイツの忘れ形見だったのに、と涙を堪えて呟いた声は酷く力なくて。
俺はこんな父さんの声、聞いたことがない。
母さんは会うたびに、あなたが悪いわけじゃないと言う。その言葉が俺をどんなに苦しめているかも知らずに。だけど今、目の前の継父は俺のせいだと言った。俺のせいでジョンデはああなったのだと。俺が悪いのだと。殺してしまいたいほど憎いのだと。
それは酷く、心地の良い言葉だった。
「ミンソガ?」
そうやって、やっぱりルハンは声をかけてから俺を抱きしめた。泣かないで、って。あぁ、俺は泣いているのかと思った。泣きたかったのかって。
「すみません、大ごとにしたくないんで今日は帰ってもらってもいいですか?あなたも後悔してるんでしょ?ミンソクを襲ったこと」
ルハンの声は優しい。体温も腕も、全部が優しくてあったかい。
俺は泣いた。泣いて、ジョンデを思った。
─── だってジョンデは生きてるから
あの、恋人の声が蘇った。
ジョンデは生きている。
眠りながら、でも生きている。
***
「ルハナ、ごめん……」
家に着いてソファーに座って落ち着いた頃、俺はぽつりと口を開いた。
「なんで謝るの?ミンソク悪くないじゃん」
「いや、俺のせいだから……怪我、何ともない?」
「え?あぁ、これくらい大丈夫!いつもスケートで転んだりしてるし」
「でも……」
相当痛いはずなのは知っている。何かの棒で思い切り殴られたはずだから。時折動くとき痛そうに漏れる声も、俺を心配させまいと最小限に堪えているんだろう。
「手当、するから。背中でしょ?」
そっと背中の方に手をまわそうとしたら、思い切り避けられた。
「大丈夫だって!」
「そんなわけあるか!」
「大丈夫!ミンソクを守れたんだから、名誉の勲章だよ」
「何だよそれ……」
ラジオもかけてない静かな室内では、いつの間にかベクも疲れて寝てしまったのか、ベクの呼吸音だけがいやに静かに響いていた。
「ルハナ……頼むから、傷を確かめたい。見えないけど、確かめたいんだ」
「ミンソガ……」
はぁ、と小さくため息をつくと、「ホント頑固なんだから」とぼやいて、ルハンは俺に背を向け、俺の腕を掴んだ。
「ほら、血が出たり骨が折れたりはしてないから、大丈夫でしょ?」
初めて触れたルハンの背中は、Tシャツ越しでもあたたかくて、筋肉に覆われた背中はとても逞しい。
傷の辺りに手を遣るとビクリと震えて「痛っ…」と呟くので、驚いて手を放したけど、またそっと触れてみた。
じんわりと熱を持っている。確かに湿ってはいないから血が流れたりはしていないんだろうけど、熱を持っていて少し腫れているような気がした。
「痛い……?」
「……少しだけね。でも大丈夫」
「ごめん……」
俺はその傷口に、そっと唇を這わした。
Tシャツ越しに伝わる体温。
温もり。愛しさ。
「ミンソク……?」
恐る恐る振り返ったルハンは僅かに息を飲み込んで、それから俺を抱き締めた。
「ミンソクじゃなくてよかった。怪我をしたのがミンソクじゃなくて。ちゃんと守れてよかった……」
そんなの俺だって───
言おうとした唇は、ルハンのそれによって塞がれてしまった。開いた唇は、ルハンの舌を迎い入れるには最適だったようで。ぬるりと這いまわる感覚。腹の底から沸き上がる欲望。目が見えない俺は、残りの感覚をフルに活用してルハンを感じた。
そうしてソファーに押し倒された俺は、ルハンに横抱きに抱えられてベッドへと移動していた。
「ミンソガ、好きだよ」
そう囁くルハンの声は、ひどく優しくて心地よかった。
ルハナ、ルハナ、って呼吸するように名前を呼ぶ。バカみたいに、俺はそれしか言えなかった。
幸せで、泣けてきた。
そして死にたくなった。
ルハンが優しくて、ルハンが好きで、死にたくなった。
俺にそんな資格はないのに。
なぁ、ジョンデ。
俺は一体、誰に許されたいんだろう。
お前が目を覚ましたら、また歌いはじめたら、俺もまた変われるんだろうか。ルハンに好きだって言えるだろうか。幸せになる人生を選べるんだろうか。父さんは、母さんは、またみんなで笑えるんだろうか。
なぁ、ジョンデ。
お前の返事を聞きたいよ。
****
side L
滑らかなミンソクの肌を掻き抱いた翌日、俺はミンソクを腕に目を覚ました。
今日は足の裏を舐めなかったベクが、けれど俺たちを呆れた顔で笑っていて、俺は「いいだろ」と自慢げに見せびらかした。
「わん!」と声を上げで俺たちの上に乗り上げる。普段はこんなことしないのに、眠っていたミンソクはビックリして目を覚まし、自分たちの上にいるベクを苦笑しながら撫でていた。
「おはよ、」
「うん、今何時?」
「えーっと、11時かな」
「えっ!ごめんベク!今ご飯準備するから!」
そう言って起き上がろうとしたミンソクは、あっ、と体を固まらせて、それから赤面した。
「どうした?」
大丈夫?辛い?と昨日の行為を反省しようとしたのに、ミンソクはふるふると頭を振って「あそこ、変な感じで……」と呟くから、俺は叫びだしそうになりながらミンソクを抱きしめた。
「いい!俺がやるから、ミンソクは寝てて!」
「いいよ、大丈夫だから」
「ダメ!!こういう時は甘やかされてよ」
そう言って、つるりとした頬にキスを落とすと、俺は落ちていたTシャツとパンツを履いて、キッチンへと歩いた。
カチャカチャとフローリングに爪の音をたててベクも嬉しそうについてくる。
「ミンソガー、コーヒー飲む?」
「うんー」
こんな朝は夢みたいだ。
俺たちは、きっとちゃんと幸せになれる。
心の底からミンソクが好きだと思った朝、その知らせは届いた。
Prrrr....
お湯を沸かしながらミルを引いていた時、テーブルの上のスマホが鳴ったので手を止めた。掴んで確認するとイシンからだ。
珍しいな、と思いながらタップする。
「どうした?」
『ルゥ……!!ジョンデが……ジョンデがね!ジョンデが目を覚ましたよ!』
「え……」
涙混じりにイシンは言葉を紡いでて、電話越しでもぐちゃくちゃな顔してんだろうって想像がついた。
俺は咄嗟にミンソクに目をやると、ミンソクもどうしたのかとこちらを見ている。
俺はミンソクの方へ歩きながらイシンへと言った。
「イシン、もう一回言って」
それから、スピーカー通話のボタンを押してミンソクへと向ける。
『だから、ジョンデが目を覚ましたの!!』
「だって。ミンソガ」
にかり、と笑えば、見えてないはずなのにミンソクも応えるように顔を歪ませて。それから「ルハナ……」ってまた名前を呼ばれて。俺はイシンに「後で行くから」と伝えて電話を切った。それからベッドに乗り上げてミンソクを思い切り抱きしめた。
「よかったね」
「うん……」
「後で一緒にお見舞いに行こう」
「うん」
ほら、俺たちはきっと幸せになれるんだ。
***
二人で病室に行くと兄弟の母親がミンソクが来たことに驚いて、それから文字通り長い夢から目覚めたジョンデは「ヒョン」とミンソクを呼んだ。
ミンソクはボロボロと泣きながらジョンデに謝っていたけど、ジョンデはやっぱり困惑しながらも楽しそうに笑っていた。
兄弟を見守るイシンの目は真っ赤に腫れ上がっていたし、病室内は相も変わらずイシンが飾ったであろう切り花でいい匂いが充満している。
俺は、この場に居合わせることが出来て、幸せだと思った。
***
一年後
「調子はどう?」
「うん、悪くないよ。本当にヒョン来るんだよね?」
「もちろん」
ステージ横の小さな楽屋を尋ねれば、ジョンデが少しだけ緊張した面持ちで喉を潤わせていた。
「ベクは?」
「今日は留守番。耳壊れちゃったら困るから」
「はは!そうだよね。残念」
「いつでも遊びに来いよ」
「うん、そうする。ってヒョンのマンションじゃん!」
「はは!まぁね!あ、そろそろ迎えに行ってくるわ」
「うん、よろしくね」
一旦会場を出て、ミンソクの待つマンションへ迎えに行く。
ベクが拗ねるかもしれないから、おやつの差し入れは絶対だ。
「ミンソガ―!」
いつものように声を上げて鍵を開ける。
「支度出来た?」
「うん」
「じゃあ行こうか。あ、ベクにおやつ!」
「わん!」
今日はジョンデの復活ライブだ。
順調に回復したジョンデは、一年後、数曲だけならという医師からのお許しの元、ステージに立つことになった。
客は身内だけ。激しい曲もやらない。辛くなったらすぐ中止すること。等々いろんな条件は出たけど、ジョンデがどうしてもイシンの作った曲を歌いたいと言うので、無理を押して開催に踏み切った。これが成功すれば、きっと完全復活も近いだろう、なんて。
ミンソクは、初めてジョンデのステージを見る。
きっと本人よりも緊張してるんだろうなと思うと、可笑しくてこっそり笑った。
「ルハナ」
「ごめんってば、笑ってないよ」
ミンソクはたまに本当は見えてるんじゃないかと思う時がある。
それならそれでもいいけど、俺にはこっそり教えてよね、なんて。
「ジョンデがミンソクはちゃんと来るのかって心配してたよ」
「はは!行くに決まってるのにな」
ジョンデが目を覚ましてから、ミンソクは何気ないことでも笑うことが増えた。きっと、本来の性格はこっちなんだろう。大らかで、面倒見が良くて、よく笑う。俺もその方がミンソクに似合ってるような気がした。
「ルハナ、」
「んー?なに?」
会場への下り坂。
俺の肩に置かれる小さな白い手。
コンコンと小気味よい白杖の叩く音。
「好きだよ」
「え……」
「ルハナのこと、好きだよ。こんな俺でもよかったら、これからもずっと一緒にいてください」
立ち止まったミンソクは、見えてないはずなのに、やっぱり俺をしっかりと見ていて、青空の下で恥ずかしそうに笑う顔は妙に格好良かった。
「ミンソガ……!!ミンソクがいいに決まってんじゃん!」
泣きそうになりながら抱きしめた腕の中で、ミンソクはクスクスと笑っていて、俺は本当に幸せだと思った。
「ほら、ライブ遅れるって」
「うん。でも嬉しくて」
「はは!」
「ミンソガ、幸せになろうね!」
「あぁ、そうだな」
盲目の恋人は、太陽みたいに笑う可愛い人だ。
おわり