盲目の人
****
side M
「ミンソガー!」
「ルハナ……また来たの?」
「はは!いいじゃん、暇でしょ?」
ピンポンと鳴ったインターホンを取れば、ほぼ7割の確率で玄関の向こうにルハンがいることが多くなった。
俺とベクだけの退屈だった世界は少しずつ色づき始めてる気がして、そう思うと酷くいたたまれなくなる。
ジョンデの世界を奪っておいて、こんな風に楽しく過ごしていいんだろうかって。いつまでも消えないジョンデの残像が俺に笑いかける度に、胸が引きちぎられそうになった。
「今度さぁ、インラインスケートの大会があるんだ」
もうすっかり馴染んだ風にルハンはソファーに座って、ベクと戯れている。
俺は、仕方ないなぁなんて思いながらもコーヒーを淹れて差し出せば、「ありがとう」とルハンはいつもの弾んだ声で返してくれた。
「ふーん、で?」
「で?じゃなくてさぁ、見に来てよ大会」
「俺が?」
「うん!絶対優勝するから!」
「……行かない。どうせ見えないし」
「もー!ミンソクが見えるか見えないかが重要なんじゃないんだって!」
その場に来てくれてるってことが重要なんだから!ってルハンは言う。
「なんで?」
「うーん、愛の力?」
「はは!なんだそりゃ」
「とにかくさ、たまには人が沢山いて楽しいところにも行かないと!」
「うーん……」
***
連れて行かれた会場は、たくさんの人がいるのが肌で分かるほど、歓声と熱気が漂っていた。
ここに座ってて、とルハンに言われた場所に腰かける。あとで友達が来るから、そいつといればいいよって。
何だかとても申し訳ないような気がしたけど、やって来たそいつはとてもいい奴で、少しだけ安心した。
「はじめまして、ルハニヒョンの友達のチャニョルです!」
生命力に溢れた声がする。
ジョンデと同じくらいの歳だろうか。
「すみません、俺のお守りなんか押し付けちゃって……」
「そんなことないですよ!」
「わぁー!!ラブラドールですか!?っと盲導犬ですよね?仕事中は撫でちゃいけないんだった」
「はは!大丈夫。今はいいですよ」
「マジすか!?」
そう言うと俺はベクのハーネスを外してやった。ベクは仕事中じゃなくなったと判断したのか、狭いベンチの間を忙しなく動き回る。チャニョルもそんなベクをわさわさと撫で回しているのか、ベクの尻尾が足に当たって嬉しそうに揺れているのが分かった。
音楽が鳴って、わぁー!と会場が揺れた。大会が始まったようだ。選手の名前がアナウンスされていく。技を決めたのか歓声が上がる。
こういう場所に来るのは、ひどく久し振りな気がした。日差しは高く、ジリジリと照らした。
「あの……ミンソクさんってもしかして、弟とかいます?」
「え……」
歓声の合間、チャニョルがぽつりと呟いた。
「ジョンデっていう……」
出てきた名前に心臓が音を立てて、ひゅっと吸い込んだ空気は喉で滞留して、身体はかちりと固まった。
「昔ジョンデに写真見せてもらったことがあって、そうかなって」
「……ジョンデのこと、知ってるの?」
「知ってるも何も、一緒にバンド組んでたんで」
「バンドって……あの日も?」
「……はい」
「そう……」
バンド組んだんだ!といつだかジョンデが嬉しそうに報告してきたことがあった。そのメンバー……
一度写真を見せてもらったことがあったっけ。俺は当時仕事を始めたばっかりで忙しくて結局生で見ることは叶わなかったんだ。
あの日だってライブ中は仕事で。終わる時間を見計らってジョンデは連絡を寄越したのだ。
そうか、ジョンデのバンドのメンバー……
そういえばチャニョルという名前に聞き覚えがある気がした。
「あいつ、どうしてます?俺最近お見舞いに行けてなくて……」
「さぁ……俺も行ってないから……」
ジョンデのお見舞いなんて、もう何年も行けてない。最初の頃に行ったきり。俺はやっぱり、今でもジョンデに会うのが怖いんだ。
「そう、なんですか……あいつお兄さんとすごく仲良いみたいにいつも言ってたんでてっきり……」
その言葉に対する答えは、何も言えなかった。
「母親から何も連絡来てないから、変わってない、と思う」
「そっかぁ、そうですよね。きっとあいつのことだから夢の中でもずっと歌ってて、楽しくて起きられないんだろうなぁーっていつもメンバーと話してるんです。でもずるいよなぁ。俺たちだってあいつの歌で一緒に演奏したいのに……あ!次ルハニヒョンの出番ですよ!」
パシパシと腕を叩かれて、俺は会場に意識をやった。歓声が上がって、ルハンの名前を呼ぶ声が聞こえる。
頭の片隅で俺は、ジョンデのことを思った。
起きたくないから起きない、か。
楽しそうに歌うジョンデが脳裏に甦る。きっとこんなふうにステージの上で歓声を受けていたに違いない。俺のかけがえのない弟。
***
「ルハナ……」
「ん?」
「俺さぁ、弟がいるんだ」
ルハンの大会が終わってみんなで近くの公園に移動した。
ルハンは宣言通り優勝をして、その手にはトロフィーが握られている。賞金が出たから、今度みんなで飲みに行こうと言っていた。
一方ベクは、よっぽどチャニョルを気に入ったのか、久しぶりに駆け回って遊んでもらっている。俺は、ルハンと二人でベンチに座った。
「弟?」
「うん、もう三年以上眠ったままなんだけどね」
「……どういうこと?」
ゴトンとトロフィーをベンチに置く音がして、ルハンの手は俺の手に重なった。
「チャニョルと友達だったらしい。一緒にバンドを組んでたって言われた」
「え……それって……」
ルハンが息を飲んだのが分かった。
どうやらルハンも知ってるらしい。ということは、チャニョルもルハンも元はジョンデの友達だったということだ。
世間は狭いし、俺は結局逃げられないのか、なんて。
「運転していたお兄さんって……」
「やっぱりお前も知ってるんだな」
「もしかして、その目も……?」
「ん?あぁ……」
俺があいつを寝たきりにしたし、俺があいつの夢も奪った。
この目は少なからずその代償だ。
「もしかして、知ってて今日チャニョルを俺に会わせた?」
「違うよ!知ってたら……知ってたらもっと会わせたいやつは別にいるもん……」
「別に……?」
「あ……ううん!なんでもない!」
ルハンは声を張り上げる。
俺のためなのか、ルハンのためなのか。だけどその声に、少し救われた気がしたのは確かで。
繋いだ手が、ぎゅっと意思を持って握られる。
俺も、少しだけ握り返した。
****
side L
俺の友人は、今日も花束を持って病院へ行く。まるでいつもの、ルーティーンのように病院へ行って、出来立ての音楽を聴かせるんだ。そいつが目を覚ましてその曲を歌ってくれるようにと願いながら。
あの事故からもう3年になる、とこの前ミンソクが言っていた。
この友人は、一体もう何曲の歌を作ったのだろうか。
何本の花を届けたのだろうか。
数えようとしても虚しくなるからやめておいた。
友人に続いてガラリと個室のドアを開けた。俺がこの部屋を訪れるのは久しぶりだった。
「よぉ、ジョンデ!生きてるか?」
いつもと変わらない挨拶をすると、友人 ── イシンは苦笑しながらカーテンを開けた。
ベッドサイドまで丸椅子を引っ張って、眠ったままのジョンデを覗き込んだ。
イシンは背を向けて簡易キッチンで持ってきた花を活けている。
「今日はさ、お前に話があって来たんだ。俺さ、お前のヒョンに会ったよ」
「え……」
背中越しにイシンが呟いたのが聞こえた。
「実はさ、たまたま偶然知り合ったんだ。そしたらお前のヒョンだった。すごくない!?こんな偶然ってあるんだなってビックリしたよ!」
ははは、って俺の乾いた笑い声だけが、静かな病室に響き渡った。
「お前、しばらく会ってないんだろ?心配すんなって、元気にしてるから。でもさ、」
いい加減目覚ましてくんないかなぁ ───
管の繋がったジョンデの腕を突っついてみても、やっぱり反応はない。
「ミンソクもイシンも、俺の大事なやつ二人も縛り付けて。お前だけこんなに気持ちよさそうに寝たまんまなんて狡いよ……ミンソクがさぁ、言うんだ。弟の夢を奪っておいて自分だけ幸せになんてなれるわけないって。イシンは狂ったように曲作ってばっかだし。お前は目を覚ましてイシンが作ったたくさんの曲を歌わなきゃいけないんだろ?俺はミンソクにジョンデの夢は奪われてないって言わなきゃいけないんだ。だから……」
「ルゥ……」
ジョンデがミンソクを恨んだりしないことを、俺やイシンやジョンデの友人たちはみんな知っている。そのくらいアイツは兄が大好きで尊敬してて、口癖みたいに『うちのヒョンは』って言っていた。俺たちはそれを知っているのに、当の本人は、罪悪感で殻に閉じこもったままだなんて。
初めてミンソクを見た日、酷く寂しげに見えた。寂しいのに、それを隠すように威嚇していて。光を失った瞳は、光よりももっと大事なものを失っているように見えたんだ。
その理由が、この前やっとわかった気がした。
「イシン、ごめん俺帰るわ」
「ううん。ありがとう、きっとジョンデも喜んでると思う」
「……だといいな」
病室にはイシンが活けた花の香りが二人を優しく包んでいた。
俺はその足でミンソクの住むマンションへと向かった。
***
「ミンソガー!」
叫んでピンポンと鳴らしてから、預かった合鍵で勝手に入ることを許されている。
こう何度も来るなら、いちいち玄関まで行って開錠するのが面倒だと言われた。だから俺は、遠慮なくその鍵を使っている。
「はい、お土産」
「なに?」
「コーヒー豆。香りのいい豆が入荷してたから」
「ホントだ、いい香り」
ベクは俺のことを友達と思っているのか、足元に絡みつくようにじゃれてくる。これももう、いつものことだ。
ミンソクの部屋には、いつも小さくFMラジオが流れている。
今日はダンディーな声のDJがジャズ特集をしていて、それをBGMにミンソクはカタカタと慣れた手つきで特殊なパソコンをタイピングしていた。
そんな仕事中のミンソクを横目に、俺は買って来たばかりの豆を持ってキッチンへと入った。ミンソクはコーヒーが好きだけど、さすがに豆から自分で落とすには難しいらしく、いつも簡易的なドリップコーヒーかインスタントコーヒーを飲んでいた。だから俺は、ある時喜んでもらえるかと考えてハンドドリップするための道具一式揃えて持って行った。だけど驚きよりも困惑の方が大きくて。自分が出来ないことへの嫌悪なのか、不機嫌な表情を隠そうともしなくて、酷く頭を抱えたっけ。
それでも俺が淹れた引き立てのコーヒーはミンソクを黙らせるには十分だったのか、そのあとは何も言わなくなったので、こっそりとガッツポーズをしたのは俺とベクだけの内緒だ。
とにかく、そうして俺はミンソクの専属バリスタとなったので、今日もラジオから流れるジャズに合わせて鼻歌を歌いながら、新しい豆をミルにセットしてゴリゴリと小気味よい音を響かせた。
「今日さ、ジョンデに会って来たよ」
「え……」
まるでイシンと同じ反応だ。
カップに注いだコーヒーを差し出しながら豊かな香りが漂うのとは裏腹に、ミンソクの手はピタリと止まった。
「元気そうだったよ、っていうのもおかしいか」
くすくすと笑いながら伝える。
なるべく軽い感じで伝えたかった。ミンソクが思い詰めてしまうような類いのことではないのだ、と分かって欲しくて。
「相変わらず幸せそうに寝てたけど」
「幸せそう……?」
「うん」
ジョンデの寝顔はいつ見ても、不思議なくらい幸せそうな顔だ。多分先生の言うとおり、傷ならすべて治っているんだろう。痛みに顔を歪ませるでもなく、不健康にやつれて行くでもなく。本当にただ、楽しい夢でも見てるかのように眠っている。
それは、イシンが聴かせ続けてる新曲のお陰かもしれないし、あの部屋を包み込む花の香りのお陰かもしれない。
そこまで考えて、あぁそうか、ミンソクには見えないのか、と思った。
ジョンデが今寝ている姿を、ミンソクは見れないんだ。
「ねぇ、やっぱりさ、ミンソクに会わせたい人がいるんだけど」
ミンソクの小さな白い手を握りながら言う。
「誰……?」
「俺の親友、かな。ジョンデと一緒にバンドやってたヤツ」
「……ルハンが一緒なら」
呟いてもじもじとコーヒーを口に含んだミンソクを見て、俺は心臓の裏っかわがむず痒くなった。
「ね、コーヒー飲んだら外に遊びに行かない?今日天気いいよ」
コクリ、とまぁるい旋毛が揺れて、俺はくすりと笑った。
ベクもつられるように「わん!」と鳴いた。
****
side M
ルハンが俺を連れてきたのは、近くの広場だった。
ベンチに座らされて靴を履き替えさせられた。
「いや、いくらなんでも無理だって!」
「大丈夫、俺が教えるから!チャンピオンを信じてよ」
「そういう問題じゃないだろ!」
「俺のだからちょっと大きいけど我慢して!」
そう言ってルハンはインラインスケートを履いた俺の手を取った。
不安定な足元によろけそうになる。きっと不格好で酷い体勢なんだろうな、なんて考えたところで、どうせ俺にはルハンしか分からないんだから周りのことなんてどうでもいいかと思った。
しっかりと掴まれた手と、楽しそうな笑い声。からかうような言葉と、頬を擽るやわらかな風。
そのすべてが、ルハンを象徴するもののようで、いつの間にこんなに入り込んだんだろうと頭を抱えたくなった。ルハンといると、死にかけていた俺の感情が少しずつ蘇生されていくようで、息を吹き返して、芽吹いていく。青く若い感情が、俺がしたことを忘れそうになって怖くなる。
「ルハナ……、」
「なぁに?」
「……どうしてそんなに構うんだよ」
俺はお前に何も返せないのに。
繋いだ手が、いつかのようにぎゅっと握られた。力強くて、優しい手。
「そんなの……」
黙り込んでしまったルハンがどんな顔をしているのか、俺にはまったく分からない。
それがこんなにも歯痒いことだとは思わなかった。
***
約束の日、俺はルハンに連れられて駅前の喫茶店に来ていた。テーブルの下の足元では、ベクがおとなしく伏せている。
やっぱりお店で飲むコーヒーは美味しいな、なんて言っていたらルハンが小さな声で「来た」と呟いた。
「イシン!こっち!」
「ルゥ!」
相手からは柔らかな声が聴こえる。
年はきっと俺たちと変わらないくらい。身長はルハンより幾分か低いだろうか。そして発声からしてルハンよりも体格がしっかりしていそう。俺の第一所見はこんなところだ。
「ミンソガ、こいつ、イシン」
「はじめまして」
「俺の親友で、ジョンデのバンドのメンバーで……それからジョンデの恋人」
「え……」
恋人……?
固まる俺の脳みそに、「初めまして」と先程と同じやわらかな声が降ってくる。
「……って本当は初めてじゃないんだけどね」
「そうなの?」
「うん。最初の頃、病院の廊下で何度かすれ違ったことあるんだ」
「そう、ですか……」
気づかずにすみません、なんて呟いてみて何が "すみません" なのか意味がわからなくて困惑した。
「こいつとこないだ会ったチャニョルと、それからギョンスってやつとジョンデ。その4人でバンド組んでたんだ。俺もあの日ライブを見に行ってたし、イシンを通じてジョンデとも親しかったよ」
ルハンが懐かしそうに口を開く。
どれも確かにジョンデの口から聞いたことある名前のような気がした。あの日、あの車の中でも言っていただろうか。あの日の記憶は曖昧だ。
俺は、結局ジョンデに恋人がいたことすら知らなかった。本当はなにも知らなかったのかもしれないと思うと、やりきれなさが募る。
俺はジョンデの恋人に、今さら何を言えばいいんだ。なんて許しを乞えばいいんだ。
「とにかくさ、ミンソクはイシンに……あ、いや、イシンはミンソクに?うんまぁ、とにかく二人は会っておくべきだって思って。二人ともジョンデの大事な人ってことだろうし。ミンソクはさ、ジョンデがどんな顔で眠ってるか知らないんだ。今でもあの事故に縛られ続けてる。そんなのって絶対ダメだと思って」
「だって……」
ジョンデの夢を奪って未来を壊したのは俺だから。
「ねぇ、お兄さん」
ジョンデの恋人はふわりと軽やかに、それでいて力強く言う。
「ジョンデは起きてまた歌いますよ」って。
「そのために僕は毎日曲を作り続けてるし、ジョンデが起きて歌いたくなるような曲を作らなきゃって思ってます。だってジョンデは生きてるから」
あまりに真っ直ぐな言葉に、思わずうつむいて「ごめん……」と呟くと、やっぱりルハンの手が俺の手に重なった。いつだって暖かくて優しい手だ。
「あ!そうだ!こないだね、ルゥが来てくれた日、ジョンデが少しだけ反応したんだ」
「え!?」
「本当にちょっとだけだけど、指がピクッて」
多分ルゥからお兄さんの話聞いたからだと思う、って。
俺は思わずルハンの方を見ていた。
いや、見えてはいないから、きっとお門違いな方向を見ていたかもしれない。
「はは!別に大したこと言ってないよ!ただミンソクと偶然知り合ったって言っただけで……そっか。やっと起きる準備ができてきたのかな、あいつ」
寝過ぎなんだよ、とルハンは笑った。
それは本当に親しくしていたんだと分かるような親愛の情が込められていて。
なぁ、ジョンデ。
お前のまわりにはいいやつがいっぱいいたんだな。ヒョンは何も知らなかったみたいだ。
この人が言うようにお前が目を覚ましてまた歌い始めたら、俺もなにか変われるんだろうか。
俺はあの事故から初めて、この世界をまた見てみたいと思った。
うっすらと見える光の先に、きっとルハンがいるのだろう。いればいいな、と思った。
「いつかまたお見舞いに行ってあげてください。きっと喜ぶから」
ジョンデの恋人の声は酷く優しい声だった。
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「ミンソガー!」
「ルハナ……また来たの?」
「はは!いいじゃん、暇でしょ?」
ピンポンと鳴ったインターホンを取れば、ほぼ7割の確率で玄関の向こうにルハンがいることが多くなった。
俺とベクだけの退屈だった世界は少しずつ色づき始めてる気がして、そう思うと酷くいたたまれなくなる。
ジョンデの世界を奪っておいて、こんな風に楽しく過ごしていいんだろうかって。いつまでも消えないジョンデの残像が俺に笑いかける度に、胸が引きちぎられそうになった。
「今度さぁ、インラインスケートの大会があるんだ」
もうすっかり馴染んだ風にルハンはソファーに座って、ベクと戯れている。
俺は、仕方ないなぁなんて思いながらもコーヒーを淹れて差し出せば、「ありがとう」とルハンはいつもの弾んだ声で返してくれた。
「ふーん、で?」
「で?じゃなくてさぁ、見に来てよ大会」
「俺が?」
「うん!絶対優勝するから!」
「……行かない。どうせ見えないし」
「もー!ミンソクが見えるか見えないかが重要なんじゃないんだって!」
その場に来てくれてるってことが重要なんだから!ってルハンは言う。
「なんで?」
「うーん、愛の力?」
「はは!なんだそりゃ」
「とにかくさ、たまには人が沢山いて楽しいところにも行かないと!」
「うーん……」
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連れて行かれた会場は、たくさんの人がいるのが肌で分かるほど、歓声と熱気が漂っていた。
ここに座ってて、とルハンに言われた場所に腰かける。あとで友達が来るから、そいつといればいいよって。
何だかとても申し訳ないような気がしたけど、やって来たそいつはとてもいい奴で、少しだけ安心した。
「はじめまして、ルハニヒョンの友達のチャニョルです!」
生命力に溢れた声がする。
ジョンデと同じくらいの歳だろうか。
「すみません、俺のお守りなんか押し付けちゃって……」
「そんなことないですよ!」
「わぁー!!ラブラドールですか!?っと盲導犬ですよね?仕事中は撫でちゃいけないんだった」
「はは!大丈夫。今はいいですよ」
「マジすか!?」
そう言うと俺はベクのハーネスを外してやった。ベクは仕事中じゃなくなったと判断したのか、狭いベンチの間を忙しなく動き回る。チャニョルもそんなベクをわさわさと撫で回しているのか、ベクの尻尾が足に当たって嬉しそうに揺れているのが分かった。
音楽が鳴って、わぁー!と会場が揺れた。大会が始まったようだ。選手の名前がアナウンスされていく。技を決めたのか歓声が上がる。
こういう場所に来るのは、ひどく久し振りな気がした。日差しは高く、ジリジリと照らした。
「あの……ミンソクさんってもしかして、弟とかいます?」
「え……」
歓声の合間、チャニョルがぽつりと呟いた。
「ジョンデっていう……」
出てきた名前に心臓が音を立てて、ひゅっと吸い込んだ空気は喉で滞留して、身体はかちりと固まった。
「昔ジョンデに写真見せてもらったことがあって、そうかなって」
「……ジョンデのこと、知ってるの?」
「知ってるも何も、一緒にバンド組んでたんで」
「バンドって……あの日も?」
「……はい」
「そう……」
バンド組んだんだ!といつだかジョンデが嬉しそうに報告してきたことがあった。そのメンバー……
一度写真を見せてもらったことがあったっけ。俺は当時仕事を始めたばっかりで忙しくて結局生で見ることは叶わなかったんだ。
あの日だってライブ中は仕事で。終わる時間を見計らってジョンデは連絡を寄越したのだ。
そうか、ジョンデのバンドのメンバー……
そういえばチャニョルという名前に聞き覚えがある気がした。
「あいつ、どうしてます?俺最近お見舞いに行けてなくて……」
「さぁ……俺も行ってないから……」
ジョンデのお見舞いなんて、もう何年も行けてない。最初の頃に行ったきり。俺はやっぱり、今でもジョンデに会うのが怖いんだ。
「そう、なんですか……あいつお兄さんとすごく仲良いみたいにいつも言ってたんでてっきり……」
その言葉に対する答えは、何も言えなかった。
「母親から何も連絡来てないから、変わってない、と思う」
「そっかぁ、そうですよね。きっとあいつのことだから夢の中でもずっと歌ってて、楽しくて起きられないんだろうなぁーっていつもメンバーと話してるんです。でもずるいよなぁ。俺たちだってあいつの歌で一緒に演奏したいのに……あ!次ルハニヒョンの出番ですよ!」
パシパシと腕を叩かれて、俺は会場に意識をやった。歓声が上がって、ルハンの名前を呼ぶ声が聞こえる。
頭の片隅で俺は、ジョンデのことを思った。
起きたくないから起きない、か。
楽しそうに歌うジョンデが脳裏に甦る。きっとこんなふうにステージの上で歓声を受けていたに違いない。俺のかけがえのない弟。
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「ルハナ……」
「ん?」
「俺さぁ、弟がいるんだ」
ルハンの大会が終わってみんなで近くの公園に移動した。
ルハンは宣言通り優勝をして、その手にはトロフィーが握られている。賞金が出たから、今度みんなで飲みに行こうと言っていた。
一方ベクは、よっぽどチャニョルを気に入ったのか、久しぶりに駆け回って遊んでもらっている。俺は、ルハンと二人でベンチに座った。
「弟?」
「うん、もう三年以上眠ったままなんだけどね」
「……どういうこと?」
ゴトンとトロフィーをベンチに置く音がして、ルハンの手は俺の手に重なった。
「チャニョルと友達だったらしい。一緒にバンドを組んでたって言われた」
「え……それって……」
ルハンが息を飲んだのが分かった。
どうやらルハンも知ってるらしい。ということは、チャニョルもルハンも元はジョンデの友達だったということだ。
世間は狭いし、俺は結局逃げられないのか、なんて。
「運転していたお兄さんって……」
「やっぱりお前も知ってるんだな」
「もしかして、その目も……?」
「ん?あぁ……」
俺があいつを寝たきりにしたし、俺があいつの夢も奪った。
この目は少なからずその代償だ。
「もしかして、知ってて今日チャニョルを俺に会わせた?」
「違うよ!知ってたら……知ってたらもっと会わせたいやつは別にいるもん……」
「別に……?」
「あ……ううん!なんでもない!」
ルハンは声を張り上げる。
俺のためなのか、ルハンのためなのか。だけどその声に、少し救われた気がしたのは確かで。
繋いだ手が、ぎゅっと意思を持って握られる。
俺も、少しだけ握り返した。
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俺の友人は、今日も花束を持って病院へ行く。まるでいつもの、ルーティーンのように病院へ行って、出来立ての音楽を聴かせるんだ。そいつが目を覚ましてその曲を歌ってくれるようにと願いながら。
あの事故からもう3年になる、とこの前ミンソクが言っていた。
この友人は、一体もう何曲の歌を作ったのだろうか。
何本の花を届けたのだろうか。
数えようとしても虚しくなるからやめておいた。
友人に続いてガラリと個室のドアを開けた。俺がこの部屋を訪れるのは久しぶりだった。
「よぉ、ジョンデ!生きてるか?」
いつもと変わらない挨拶をすると、友人 ── イシンは苦笑しながらカーテンを開けた。
ベッドサイドまで丸椅子を引っ張って、眠ったままのジョンデを覗き込んだ。
イシンは背を向けて簡易キッチンで持ってきた花を活けている。
「今日はさ、お前に話があって来たんだ。俺さ、お前のヒョンに会ったよ」
「え……」
背中越しにイシンが呟いたのが聞こえた。
「実はさ、たまたま偶然知り合ったんだ。そしたらお前のヒョンだった。すごくない!?こんな偶然ってあるんだなってビックリしたよ!」
ははは、って俺の乾いた笑い声だけが、静かな病室に響き渡った。
「お前、しばらく会ってないんだろ?心配すんなって、元気にしてるから。でもさ、」
いい加減目覚ましてくんないかなぁ ───
管の繋がったジョンデの腕を突っついてみても、やっぱり反応はない。
「ミンソクもイシンも、俺の大事なやつ二人も縛り付けて。お前だけこんなに気持ちよさそうに寝たまんまなんて狡いよ……ミンソクがさぁ、言うんだ。弟の夢を奪っておいて自分だけ幸せになんてなれるわけないって。イシンは狂ったように曲作ってばっかだし。お前は目を覚ましてイシンが作ったたくさんの曲を歌わなきゃいけないんだろ?俺はミンソクにジョンデの夢は奪われてないって言わなきゃいけないんだ。だから……」
「ルゥ……」
ジョンデがミンソクを恨んだりしないことを、俺やイシンやジョンデの友人たちはみんな知っている。そのくらいアイツは兄が大好きで尊敬してて、口癖みたいに『うちのヒョンは』って言っていた。俺たちはそれを知っているのに、当の本人は、罪悪感で殻に閉じこもったままだなんて。
初めてミンソクを見た日、酷く寂しげに見えた。寂しいのに、それを隠すように威嚇していて。光を失った瞳は、光よりももっと大事なものを失っているように見えたんだ。
その理由が、この前やっとわかった気がした。
「イシン、ごめん俺帰るわ」
「ううん。ありがとう、きっとジョンデも喜んでると思う」
「……だといいな」
病室にはイシンが活けた花の香りが二人を優しく包んでいた。
俺はその足でミンソクの住むマンションへと向かった。
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「ミンソガー!」
叫んでピンポンと鳴らしてから、預かった合鍵で勝手に入ることを許されている。
こう何度も来るなら、いちいち玄関まで行って開錠するのが面倒だと言われた。だから俺は、遠慮なくその鍵を使っている。
「はい、お土産」
「なに?」
「コーヒー豆。香りのいい豆が入荷してたから」
「ホントだ、いい香り」
ベクは俺のことを友達と思っているのか、足元に絡みつくようにじゃれてくる。これももう、いつものことだ。
ミンソクの部屋には、いつも小さくFMラジオが流れている。
今日はダンディーな声のDJがジャズ特集をしていて、それをBGMにミンソクはカタカタと慣れた手つきで特殊なパソコンをタイピングしていた。
そんな仕事中のミンソクを横目に、俺は買って来たばかりの豆を持ってキッチンへと入った。ミンソクはコーヒーが好きだけど、さすがに豆から自分で落とすには難しいらしく、いつも簡易的なドリップコーヒーかインスタントコーヒーを飲んでいた。だから俺は、ある時喜んでもらえるかと考えてハンドドリップするための道具一式揃えて持って行った。だけど驚きよりも困惑の方が大きくて。自分が出来ないことへの嫌悪なのか、不機嫌な表情を隠そうともしなくて、酷く頭を抱えたっけ。
それでも俺が淹れた引き立てのコーヒーはミンソクを黙らせるには十分だったのか、そのあとは何も言わなくなったので、こっそりとガッツポーズをしたのは俺とベクだけの内緒だ。
とにかく、そうして俺はミンソクの専属バリスタとなったので、今日もラジオから流れるジャズに合わせて鼻歌を歌いながら、新しい豆をミルにセットしてゴリゴリと小気味よい音を響かせた。
「今日さ、ジョンデに会って来たよ」
「え……」
まるでイシンと同じ反応だ。
カップに注いだコーヒーを差し出しながら豊かな香りが漂うのとは裏腹に、ミンソクの手はピタリと止まった。
「元気そうだったよ、っていうのもおかしいか」
くすくすと笑いながら伝える。
なるべく軽い感じで伝えたかった。ミンソクが思い詰めてしまうような類いのことではないのだ、と分かって欲しくて。
「相変わらず幸せそうに寝てたけど」
「幸せそう……?」
「うん」
ジョンデの寝顔はいつ見ても、不思議なくらい幸せそうな顔だ。多分先生の言うとおり、傷ならすべて治っているんだろう。痛みに顔を歪ませるでもなく、不健康にやつれて行くでもなく。本当にただ、楽しい夢でも見てるかのように眠っている。
それは、イシンが聴かせ続けてる新曲のお陰かもしれないし、あの部屋を包み込む花の香りのお陰かもしれない。
そこまで考えて、あぁそうか、ミンソクには見えないのか、と思った。
ジョンデが今寝ている姿を、ミンソクは見れないんだ。
「ねぇ、やっぱりさ、ミンソクに会わせたい人がいるんだけど」
ミンソクの小さな白い手を握りながら言う。
「誰……?」
「俺の親友、かな。ジョンデと一緒にバンドやってたヤツ」
「……ルハンが一緒なら」
呟いてもじもじとコーヒーを口に含んだミンソクを見て、俺は心臓の裏っかわがむず痒くなった。
「ね、コーヒー飲んだら外に遊びに行かない?今日天気いいよ」
コクリ、とまぁるい旋毛が揺れて、俺はくすりと笑った。
ベクもつられるように「わん!」と鳴いた。
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side M
ルハンが俺を連れてきたのは、近くの広場だった。
ベンチに座らされて靴を履き替えさせられた。
「いや、いくらなんでも無理だって!」
「大丈夫、俺が教えるから!チャンピオンを信じてよ」
「そういう問題じゃないだろ!」
「俺のだからちょっと大きいけど我慢して!」
そう言ってルハンはインラインスケートを履いた俺の手を取った。
不安定な足元によろけそうになる。きっと不格好で酷い体勢なんだろうな、なんて考えたところで、どうせ俺にはルハンしか分からないんだから周りのことなんてどうでもいいかと思った。
しっかりと掴まれた手と、楽しそうな笑い声。からかうような言葉と、頬を擽るやわらかな風。
そのすべてが、ルハンを象徴するもののようで、いつの間にこんなに入り込んだんだろうと頭を抱えたくなった。ルハンといると、死にかけていた俺の感情が少しずつ蘇生されていくようで、息を吹き返して、芽吹いていく。青く若い感情が、俺がしたことを忘れそうになって怖くなる。
「ルハナ……、」
「なぁに?」
「……どうしてそんなに構うんだよ」
俺はお前に何も返せないのに。
繋いだ手が、いつかのようにぎゅっと握られた。力強くて、優しい手。
「そんなの……」
黙り込んでしまったルハンがどんな顔をしているのか、俺にはまったく分からない。
それがこんなにも歯痒いことだとは思わなかった。
***
約束の日、俺はルハンに連れられて駅前の喫茶店に来ていた。テーブルの下の足元では、ベクがおとなしく伏せている。
やっぱりお店で飲むコーヒーは美味しいな、なんて言っていたらルハンが小さな声で「来た」と呟いた。
「イシン!こっち!」
「ルゥ!」
相手からは柔らかな声が聴こえる。
年はきっと俺たちと変わらないくらい。身長はルハンより幾分か低いだろうか。そして発声からしてルハンよりも体格がしっかりしていそう。俺の第一所見はこんなところだ。
「ミンソガ、こいつ、イシン」
「はじめまして」
「俺の親友で、ジョンデのバンドのメンバーで……それからジョンデの恋人」
「え……」
恋人……?
固まる俺の脳みそに、「初めまして」と先程と同じやわらかな声が降ってくる。
「……って本当は初めてじゃないんだけどね」
「そうなの?」
「うん。最初の頃、病院の廊下で何度かすれ違ったことあるんだ」
「そう、ですか……」
気づかずにすみません、なんて呟いてみて何が "すみません" なのか意味がわからなくて困惑した。
「こいつとこないだ会ったチャニョルと、それからギョンスってやつとジョンデ。その4人でバンド組んでたんだ。俺もあの日ライブを見に行ってたし、イシンを通じてジョンデとも親しかったよ」
ルハンが懐かしそうに口を開く。
どれも確かにジョンデの口から聞いたことある名前のような気がした。あの日、あの車の中でも言っていただろうか。あの日の記憶は曖昧だ。
俺は、結局ジョンデに恋人がいたことすら知らなかった。本当はなにも知らなかったのかもしれないと思うと、やりきれなさが募る。
俺はジョンデの恋人に、今さら何を言えばいいんだ。なんて許しを乞えばいいんだ。
「とにかくさ、ミンソクはイシンに……あ、いや、イシンはミンソクに?うんまぁ、とにかく二人は会っておくべきだって思って。二人ともジョンデの大事な人ってことだろうし。ミンソクはさ、ジョンデがどんな顔で眠ってるか知らないんだ。今でもあの事故に縛られ続けてる。そんなのって絶対ダメだと思って」
「だって……」
ジョンデの夢を奪って未来を壊したのは俺だから。
「ねぇ、お兄さん」
ジョンデの恋人はふわりと軽やかに、それでいて力強く言う。
「ジョンデは起きてまた歌いますよ」って。
「そのために僕は毎日曲を作り続けてるし、ジョンデが起きて歌いたくなるような曲を作らなきゃって思ってます。だってジョンデは生きてるから」
あまりに真っ直ぐな言葉に、思わずうつむいて「ごめん……」と呟くと、やっぱりルハンの手が俺の手に重なった。いつだって暖かくて優しい手だ。
「あ!そうだ!こないだね、ルゥが来てくれた日、ジョンデが少しだけ反応したんだ」
「え!?」
「本当にちょっとだけだけど、指がピクッて」
多分ルゥからお兄さんの話聞いたからだと思う、って。
俺は思わずルハンの方を見ていた。
いや、見えてはいないから、きっとお門違いな方向を見ていたかもしれない。
「はは!別に大したこと言ってないよ!ただミンソクと偶然知り合ったって言っただけで……そっか。やっと起きる準備ができてきたのかな、あいつ」
寝過ぎなんだよ、とルハンは笑った。
それは本当に親しくしていたんだと分かるような親愛の情が込められていて。
なぁ、ジョンデ。
お前のまわりにはいいやつがいっぱいいたんだな。ヒョンは何も知らなかったみたいだ。
この人が言うようにお前が目を覚ましてまた歌い始めたら、俺もなにか変われるんだろうか。
俺はあの事故から初めて、この世界をまた見てみたいと思った。
うっすらと見える光の先に、きっとルハンがいるのだろう。いればいいな、と思った。
「いつかまたお見舞いに行ってあげてください。きっと喜ぶから」
ジョンデの恋人の声は酷く優しい声だった。
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