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あの日の僕

*


『あ!海!』


山を越えて下り坂に差し掛かると、道路の先にはオーシャンブルーの海がキラキラと光っている。空も晴れ渡った青で、真っ白な雲が綿菓子のようにふわふわと浮いていた。

『やっぱり少し混んでるかな』
『天気もいいから仕方ないですね』

僕らが向かっていたのは海水浴場ではなく岩場の方だったけど、それでも所々で家族連れが遊んでいたり釣り人が釣りをしているのが見えた。と言ってもきっと海水浴場よりは全然マシで。友人のチャニョルやベッキョンも今日は海に行くって言ってたくらいだから、海水浴場は黒山の人だかりが目に浮かぶ。


駐車場に車を停めて降りると、僕は一気に潮の匂いを吸い込んだ。

『うみー!!うみだー!!』
『あはは!』

僕はとにかく楽しくてはしゃいじゃったけど、ヒョンも楽しそうに見えたからちょっぴり安心。

『向こうまで行ってもいいですか?』
『もちろん。気を付けてね』
『はい!』

駐車場から海の方へと歩けば、足元はゴツゴツとした岩場で。僕はついさっきあれほどしっかりとした返事をしたのにもかかわらず足元の岩場で躓いてしまい、『わぁ!』なんて声をあげてよろけてしまった。


『ジョンデ!』


そんな僕を背中ごと支えてくれたのはもちろんレイヒョンで。がっしりとした体は、やっぱり大人の男だなぁって、ドキドキよりも羨ましく思った。

『えへへ、すみません』

ヒョンの手に支えられて立て直してお礼を言うと、『大丈夫だよ』と笑顔を見せてくれたのに、ヒョンはそのまま僕の手を握っていて。そのまま歩き出してしまった。当然僕は混乱で。

『ヒョン……、あの、手……』
『ん?なに?』
『手……』
『あぁ、こうしてれば安心でしょ?』


僕はこれでも一応もうすぐ18になる高校生で。手を引かれて歩かなきゃいけないくらい子供なわけじゃないのに。がっしりと握られた手はヒョンの笑顔とは似つかないほど力強くて。そういえば車の中でも頭を撫でられたり……やっぱり僕はヒョンにとってはただの子供なんだろうな、なんて一気に悲しくなってしまった。ヒョンは僕のこと子供扱いはしてないと思ってたのに。


そうやって歩いて波打ち際まで行くと、ヒョンはパッと手を離してしまった。
それはそれでちょっと淋しくて、僕はもう訳が分からない。

『見て!綺麗だね!』
『そうですね……』
『ジョンデくん?』

どうかした?ってヒョンは僕の顔を覗き混む。それもやっぱり小さな子供にしてるみたいに見えて、子供である自分に悲しくなった。

『いえ、なんでもないです……』
『楽しくなかった?』
『そんなことないです……』

尚もうつむいたままの僕を見て、ヒョンはおどおどとしながら『参ったなぁ』と首の後ろを掻いていた。
こんな駄々っ子は、それこそ本当にただの子供だ。なんて分かっているのに悲しくて仕方ない。子供扱いされることが嫌なんじゃない。恋愛対象として見てもらえないことが嫌なんだ。
僕はもう、告白もしてないのに振られたような、そんな残酷な気分だった。


そうして黙り混んでしまった僕に、ヒョンは一生懸命頭を捻って、『お腹痛い?』とか『寒い?』とか聞いてくれて、さすがに申し訳なくなってしまった僕は『大丈夫です、すみません』と笑うしかなかった。
そんな僕を見てヒョンは安心したように胸を撫で下ろしていて。本当に悪いことしちゃったなぁ、なんて。嫌われちゃったらどうしようって思ったのに、やっぱり優しく笑うから、僕の心臓は何度だって内側を叩いた。


『僕、海来たの久しぶりです!』

塞ぎ込んでしまった気持ちを振り払うように腕を広げて呼吸をした。
少しだけ風が強くて、髪の毛が揺れる。
僕より長いヒョンの髪も同じように揺れて靡いたけど、僕よりもボサボサになって二人して顔を見合わせて笑った。

『ヒョン、ボサボサ!』
『だって風がぁ』

手櫛で直していくヒョンを見て、僕も手伝おうと手を伸ばす。なのに直せど直せど風が吹いて、結局可笑しくてまた笑った。


それから少し歩いて人の少ない岩場の端の方まで行って、僕らは二人で座った。
ごつごつとお尻が痛かったけど、少しひんやりとして気持ちいい。
海は綺麗で、ヒョンは大人で。
僕は子供だけどやっぱりヒョンが好きだし近づきたいし、このままずっと一緒にいたいなぁなんて。そんな風に願わずにはいられないくらい、僕はヒョンが好きなんだ、と改めて思った。

ごろんとそのまま寝転ぶと、ヒョンも同じように寝転んだ。

『空が綺麗ですねぇ』
『そうだねぇ。時が止まってるみたい』

ごつごつと痛い背中よりも、ヒョンと二人だけの世界みたいな方が気になって、本当にこのまま時間が止まってしまえばいいのにって思った。

『ヒョンってやっぱり大人ですね』
『そう?』
『はい、すごーく大人で羨ましい。僕も早く大人になりたいなぁ』

そしたら少しでもヒョンに近づけるのかなぁ、なんて。


『そんなに急ぐこともないと思うけど。嫌でもみんな年は取るんだし』
『でもそれじゃあ一生ヒョンに追い付けないじゃないですか』
『僕に追い付きたいの?』


何気なく放った言葉を正確に拾われて、思わず言葉に詰まった。


『……何でもないです!』
『あはは、可愛いね』
『もー!子供扱いしないでくださいよー!』
『別に子供だなんて思ってないけど?』
『え……!?』


思わず顔を横に向けてヒョンを見ると、ヒョンも僕の方に顔を向けていて。そしたら意外と近い距離に、体が飛び跳ねそうになった。
今まで見たことないような距離にヒョンの顔があって、視線が重なる。僕は金縛りにでもあったみたいに動けなくなってしまった。

そんな僕を見てヒョンは起き上がると『そろそろお腹空いたしどっか行こうか』って。拍子抜けしたみたいに僕は『はい』って返事をして起き上がろうとすると、ヒョンは腕を掴んで立ち上がらせてくれた。

『ありがとうございます』
『どういてしまして』

そのままヒョンは僕の背中やお尻や頭をほろってくれて、『行こうか』と言ってまた手を繋いでくれた。
僕の頭は相変わらず嬉しさと切なさがぐちゃぐちゃに合わさって複雑だった。なのに来るときよりもドキドキが強い気がして恥ずかしいのを必死に堪えた。
ついさっき間近で見たヒョンの真っ直ぐな瞳が忘れられないせいだろうか。




車に乗り込むとヒョンは『何が食べたい?』と聞いてくれた。

『お店決めてなくて』

無計画なのがバレちゃうね、って。
だから僕は『僕もそういうのの方が好きです』って笑ったら『じゃあ適当に』って笑ってくれて。
僕はまた運転するヒョンの横顔を眺めた。


『ヒョン、また質問してもいいですか?』
『ふふ、なぁに?』
『えっと……じゃあ、兄弟は?』
『いないよ。一人っ子なんだ』
『へぇ。なんかぽいですね』
『そう?のんびりしてるからかなぁ。ジョンデくんは?』
『僕は二つ上の兄がいます』
『ぽいね』
『あはは!そうですか?』
『うん、うらやましい』
『えー!ケンカばっかりですよ』
『ケンカする相手がいるってことでしょ?』
『まぁ、そうですけど……』
『兄弟がいる友達を見ていつも羨ましいなって思ってたなぁ』
『僕は、一人っ子いいなって思いますけど』
『ふふふ、お互いに無い物ねだりだね。でもこうしてジョンデくんといると、僕も弟ができたみたいで嬉しいな』

何気ない会話の途中、僕の心臓はもれなく痛みを訴える。
弟か……って。

『僕もレイヒョンが本当のヒョンだったらよかったのに』

思ってもいない言葉がこぼれて、僕は自己嫌悪に陥るしかなかった。


『あ、あそこはどう?』って指されたファミリーレストランに頷いて、車は駐車場へと入った。
店内へ入ってヒョンはハンバーグのセットを頼んで、僕はオムライスを頼む。

『仕事ってやっぱり大変ですか?』
『うーん、お金をもらうんだから簡単なことではないけど、楽しいと思えることを見つけられれば楽しいんじゃないかなぁ。ジョンデくんは何かやりたいことあるの?』
『やりたいこと……』

漠然としすぎててよく分からないのが正直なところだ。

『みんなは色々言ってるけど、僕はまだ、よく分からなくて……』
『そっかぁ』

何になるんだろうねぇ、ってヒョンは綺麗な笑みを浮かべた。

『ヒョンは何になりたかったですか?』
『うーん、僕も高校の頃は漠然としてたかなぁ。誰かの役にたちたいとは思ってたけど、ちゃんと決めたのは大学に入ってからだったと思う』
『そうなんですね。あ!ヒョンってどこの大学に通ってたんですか?』
『M大だよ』
『M大!?』
『うん、そうだけど……?』
『あの、僕もM大受けたいなって思ってたんです!』
『へぇ、そうなんだ。そしたらジョンデくんも後輩になるね』

後輩……
その言葉は僕とヒョンとの間に明確な関係ができそうで、僕の胸をとてもときめかせた。
本当はM大は僕にとっては少しだけランクが上で。だけど大学の雰囲気とか見て素敵だったから行きたいなぁって思ってたけどやっぱり無理かなぁって弱気になってた大学だ。今からM大を目指すのは無理ではないけどもっと頑張って勉強しなければいけない感じ。どうしようかな、って……いつも悩んでいたような。
だけどヒョンの後輩になれるなら……

『じゃあ、僕もM大目指して頑張ります!』
『ふふ、頑張ってね』

なんだか単純すぎて、この時ばかりは自分でも笑えた。


『あの……ヒョンは、ヒョンも僕に質問とかありますか?』

こんなこと聞くのはなんだかすごく恥ずかしかったけど自分ばっかりな気がして言うと、ヒョンは『うーん』と真剣に質問を考えてくれて、僕は期待を込めてヒョンを見つめた。ヒョンも少しでも僕を知りたいと思ってくれたらいいなって。


『じゃあ……彼女はいる?』
『え……?』
『彼女。付き合ってるコいるのかなぁって』
『いえ、いません……』

恋人なんていたことないのに、それがなんだかすごく子供っぽく思えて途端に恥ずかしくなった。なのに。

『そっか。よかった』

ヒョンは笑顔でそんなことを言うから、僕の頭はついていけない。

『え……?』
『ううん、何でもない』
『……ヒョンは?』
『僕もいないよ』

機嫌の良さそうなヒョンがにこりと笑う。

『そう、なんですか……』
『うん。今はジョンデくんがいるから楽しいしねぇ』
『え!?』

驚いて声をあげるとヒョンは相変わらずにこにこと笑っていて。『もー!からかうの止めてください!』ってふくれた。こんな仕草、あまりにも子供っぽ過ぎるのは分かっていたけど、それがどんな意味だろうと僕にとっては嬉しすぎて恥ずかしすぎて、それが精一杯の抵抗だった。


ご飯を食べて、そのあとはそのままお店でしばらくのんびりと話をして、気がつけばもう夕方だった。
ヒョンは僕のくだらない質問にまで丁寧に答えてくれて、その日僕はヒョンのことをたくさん知ることができた。一気に距離が縮まったような気がして、とても楽しかった。


『家まで送るね』っていう言葉に甘えてヒョンに送ってもらう途中、到着間際にヒョンは『大学生になったらもう少し遠くまでドライブしようね』って言ってくれた。
僕はもちろん『はい』って答えて嬉しくてたまらなくなった。
だってその言葉はこれからもずっとヒョンとの関係が続くってことだと思ったから。


『今日はありがとうございました。楽しかったです』

家の前で停まって降りる前にお礼をいうと、ヒョンは『こちらこそ楽しかったよ』って笑みを浮かべて。それから僕の手を握ったことが今でも忘れられないほどの思い出だ。
その時僕はびくりと震えて、ドキドキと心臓が破裂しそうになったのを覚えている。
だってヒョンの握り方はとても優しかったから。名残惜しそうに触れて、ぎゅっと握ってくれて。だから僕もぎゅって握り返して。そしたらヒョンが切なそうに僕を見るから、僕は思わず泣きそうになったのを必死に堪えた。

『……またどこか連れてってくれますか?』
『もちろんだよ』
『夏休みの間、メールしてもいい?』
『もちろん』
『ヒョンもたまには、連絡くれますか?』
『うん、そうする』
『声が聞きたくなったら、』
『電話して?』

『帰らなきゃ……』
『そうだね……』
『ヒョン、』
『うん?』

『なんでもないです』
『そっか』


僕はその時、好きですって言ってしまいそうだった。ヒョンが好きですって。
だけど同時に怖くもなって。
僕は堪えるしかなかった。


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