あの日の僕
あぁ、好きかも。って。
この人が好きかも、って一番最初に思ったのはいつだったかな。
遥か昔のことで、もう思い出せない。
出会ってすぐのような気もするし、しばらく経ってからだったような気もする。
とにかく僕は、今現在も進行形の形でレイヒョンのことが好きだ。
***
初めて出会ったのは、まだ雪がこんもりと残っていた季節。
混雑する前の早朝の駅でぶつかって「すみません」って言った時に吐き出した吐息が、まだ白かったのを覚えている。
ヒョンが吐き出した息は白くて、さらに真っ白なヒョンの肌を見て、僕は寒気が増したんだ。この真っ白な肌は冷たいんだろうか、って思わず手を伸ばしそうになって、どくりと心臓が跳ねた。
『朝、いつも会うよね』ってヒョンは微笑んでいて、僕は『はい!』なんてマヌケな返事をしたんだっけ。
『学校?ずいぶん早いんだね。部活とか?』
『いえ、混んだ電車が苦手で』
『はは!僕と一緒だ』
『そうなんですか?』
『うん、朝から満員電車に詰め込まれると、サラリーマンの宿命みたいで一日の始まりがとてもブルーになっちゃうから』
朝はもっと清々しいものでしょ?と、ヒョンは僕を覗き込むように笑みを浮かべて見せた。
スーツを着たヒョンはとても大人っぽく見えていたのに、笑ったその顔はなんだか幼く見えたのを覚えている。
『君は?』
『あの……僕は、誰もいない朝の教室が好き、で……』
サラリーマンの大人のヒョンに比べると僕のその答えは酷く幼稚なような気がしたけれど、『どうして?』と真っ直ぐに聞かれたので、僕はびくりと震えてまた口を開いた。
『わかんないですけど、ぞろぞろと登校しはめてみんなが集まる教室を、その前に独り占めできるってうか……』
上手く伝えられずにモゴモゴしてたら、『なんかいいね』って笑ってくれた。
それからは朝会えば挨拶や少しの話をするようになって。
高校生の僕にはサラリーマンの知り合いなんて初めてだったから不思議だったけど、ヒョンは僕を変に子供扱いしたりしなくて、それがなんだか妙に嬉しかったんだ。
**
春が来て、僕は高校三年生になった。
ヒョンは進級おめでとうと言って、僕に高価な万年筆をくれた。
高校の進級なんて普通に通って赤点さえ取らなければ出来るようなものなのに、『じゃあこれで受験勉強頑張って』なんて笑って。大人からの厚意というのが分からなかった僕は、それが一体いくらの物なのかもわからず、ただただ恐縮しながら受けとった。万年筆なんて持ち慣れないものを持った僕は、少しだけ大人に近づけたような気がして単純に嬉しかった。
『使い心地どう?』
『はい、すごくいいです』
『じゃあきっと勉強も捗るね』
『それは、どうですかね……?』
僕が先に電車を降りるまでの少しの間、交わせる話はそれほど多くはないけど、日課のようなそれが僕の毎日の楽しみになっていた。
ある日は眠そうな顔で、またある日は疲れた顔で。社会人って大変なんだなぁ、なんてヒョンを見ながら思ったっけ。
『これ、万年筆のお礼です』
何かお返しをしたいな、と思っていた僕が選んだのは見てるだけで癒されるようなくったりとした恐竜のキーホルダーだった。万年筆とはあまりにも釣り合わないのは分かっていたけど、友人のギョンスに相談したら、きっとそういう物の方がいい、って。僕らが買える高価なものなんてたかが知れてるよ、って。恐竜にしたのは僕がクラスメートから恐竜に似てるって言われてたから。ヒョンのそばに置いて欲しいなって思って選んだことは今でもヒョンには内緒だ。
『ありがとう、かわいいね』
そう言ってヒョンはすぐに包みから出して鞄につけてくれた。『そこに付けるんですか!?』って驚いて言うと『なんで?』って不思議そうな顔。だってその鞄にはあまりにも不釣り合いだったから。僕らが背負ってるリュックとは訳が違う。革の使い込んだビジネスバッグ。そこに揺れる恐竜のキーホルダー。社会人としてアリかナシかなんて分からないけど、にっこりと笑ってくれたから、とにかく僕は喜ぶことにした。
**
夏が来て、そろそろ受験戦争が真実味をもって迫ってきた頃、ヒョンは出張でしばらくこの電車に乗れないと言ってきた。
大変ですね。無理しすぎないでくださいね。なんて言ったけど、もうすぐ僕は夏休みに入るからすれ違いで本当にしばらく会えなくなるんだなぁと思うと、急にすごく寂しくなってしまった。
『ヒョンが帰ってくる前に僕は夏休みに入っちゃうので、夏休みが明けるまで会えないですね』
『そっか、もうそんな季節かぁ。高校最後の夏休み、たくさん楽しんでね』
『はい……』
『ねぇ、連絡先教えてくれる?』
『え……?』
知り合ってから約半年、僕らはようやく連絡先を交換した。
連絡してもいいんですか?って聞いたら、ヒョンは笑顔で『もちろんだよ』と言ってくれて。嬉しくて恥ずかしくて思わずうつむくと、ヒョンの鞄には少し薄汚れた恐竜が揺れていて。それを見て僕はまた恥ずかしくなって笑った。
『出張から帰ってきたら、勉強の息抜きにどこか行こうか』
『え……?』
『日曜日だったら仕事も休みだし』
『…………はい!』
休みの日までヒョンに会えるなんて、僕は嬉しくてたまらなくなった。
多分この頃にはもう僕はヒョンのことが好きだったんだと思う。大人の余裕だとか優しい笑顔だとか。かと思えば心配になるほど天然で真っ直ぐなところだとか。次々と現れるヒョンの新たな一面が、憧れを通り越して恋慕の対象になっていた。この人ともっとずっと一緒にいたい、って。ヒョンを知るには朝の電車の時間は短すぎる。
だから休みの日に降車駅を気にせずにヒョンに会えるのはとても嬉しかった。
『帰ってきたんだけど、次の日曜日あたりどうかな?』
ヒョンからメールが来たのは、僕が夏休みに入って一週間が過ぎた頃だった。
受験勉強しなきゃなぁ、なんて思いながらもついつい暑さにかまけて始まったばかりの休みを満喫していた頃。ピロリンと鳴った携帯を開いたらヒョンからのメールで、僕は寝っ転がっていたベッドからすぐさま飛び起きた。
『はい!もちろんです!』なんて慌てて返信をして。それからあとは何を着ていくかとか、どこに行くんだろうとか、ヒョンのことばかりを考えていた。
車で駅まで迎えに来てくれると言っていたので、どこか遠いところに連れていってくれるんだろうか、なんてドキドキと高鳴る心臓と黙っていてもにやけてしまいそうな顔で、母親にまで訝しがられたんだっけ。
今思い出しても、やっぱり初々しくてにやけてしまう。
いつものジーパンに最近買ったお気に入りのTシャツを着て、お出掛け用のスニーカーを履いた。
相変わらずドキドキしながら駅の正面で待っていると、タクシープールの間の停車帯に1台の車が停まった。運転手を見ればレイヒョンで。僕は思わず笑顔が溢れる。
僕を見つけたヒョンは車の中から手を振っていて、慌てて駆け寄ると助手席の窓から『乗って』と声がかかった。
『お待たせ。ごめん、待った?』
なんて待ち合わせの定番の台詞もヒョンが言うと嫌味に聞こえないのは不思議だ。
ヒョンの車は、車に詳しくない僕でも知っているような一般的な乗用車で。特別高価なわけでもなく、拘ってるようでもなく。
後から聞いた話だけど、休みの日くらいしか乗らないから動けば何でもいいというスタンスらしい。そんなところもヒョンらしいなぁと思ったのを覚えている。
『どこに行こうか』
気づいたらじっと見つめていた僕はヒョンの声に我に返り、慌てて『お任せします!』と叫んでいた。
『あはは!どうしたの?』
『いや、あの……スーツじゃないから……』
『あぁ、そっか。そう言われてみればそうだね。ジョンデくんも制服じゃないし』
休日のヒョンは、何て言うか思ってたよりもずっとラフで。僕と同じように着古したジーンズとTシャツなのに、何故かすごく決まってて。スーツよりも若く見えるのに大人って感じがした。やっぱり僕なんかよりずっとずっと大人だ。
『天気がいいからドライブでもどうかなって思ってたんだけど、どう?』
『はい!いいですね!』
『じゃあ、海の方でも行ってみようか』
そう言ってヒョンはハンドルを切った。
車なんて父親の運転以外では乗らないからとても不思議で。思わず運転する横顔をじっと見ていると、ヒョンにまた『どうしたの?』って笑われて。『なんか不思議で』ってもう赤面するしかなかった。
久しぶりに会ったヒョンは、やっぱり格好いい。
『受験勉強はどう?捗ってる?』
『はい……まぁ……』
『あはは!受験生も大変だね』
『いえ、ヒョンに比べれば全然』
『そう?高校生だって大変だと思うけど』
『あの……ヒョンって何歳なんですか?』
実はちょっとだけ気になっていたことを、この際だからと僕は思いきって聞いてみた。
だってヒョンは年齢が不詳だから。そもそも高校生の僕にとって、大人はみんな大人なんだ。だけど好きかもって思い始めてから、僕とヒョンとの間にある年齢差がちょっとだけすごく気になり始めてて。けれど大人の人に歳を聞くのは失礼かなって思っていたので、ずっと聞けずじまいだったというわけだ。
『26だよ』とヒョンはさらりとその答えを教えてくれた。
『26……?』
『そう、見えない?』
やっぱり僕、老けて見えるのかなぁ、って呟くヒョンに僕は『そんなことないです!』って声をあげた。
『あはは!ありがとう。ジョンデくんは今……』
『17です!9月で18』
『そっか。じゃあ、9コ離れてるんだね』
『8コじゃなくて?』
『僕は10月で27だから』
『そう、ですか……』
僕とヒョンとの年の差を改めて実感したようで、少しだけ切なくなった。
9コも年下だなんて、ヒョンにとってみたら僕はやっぱりただの子供なんだと思う。
僕はもうすぐ18歳で、少しだけ大人の仲間入りができるような気がしていたけど、そんなのはただの思い違いだ。
ヒョンは僕を子供扱いしたりはしないけど、恋愛対象になるかどうかはまた別の話のような気がするから。
そのくらい、子供の僕にだって分かるんだ。
『あとは?』
『あと?』
『うん、聞きたいこといっぱいありそうな顔してるから』
言い当てられた心情に、僕はまた赤面した。
だけど『何でも聞いて』とヒョンは言ってくれたので、思いきって色々と聞くことにした。
『あの、じゃあヒョンは休みの日とか何してますか?』
『うーん、休みの日は休んでるかなぁ』
『あはは!そうですよね!』
『ジョンデくんは?』
『うーん、僕は……友達と遊んだり、家族で出掛けたり……』
『今日はよかったの?』と信号待ちのヒョンがこちらに顔を向けて聞くので、僕はまた心臓がとくりと跳ねた。
やっぱり何度見ても照れ臭くなってしまうほどのイケメンだから。
『……はい!あの、今日は大丈夫です!』
『ふふ、そっか。よかった。あとは?』
『あとはー、ヒョンの仕事!どんなお仕事ですか?』
『仕事はねぇ、普通だよ。普通に医療機器メーカーの営業』
『医療機器メーカー……』
『あんまり馴染みがないと思うけど、ただの営業だよ。格好いい仕事じゃなくてごめんね』
『そんな!そんなことないです!ヒョンがいつも頑張って働いてるの知ってますから』
『ふふ、ジョンデくんは優しいね』
そう言ってヒョンは僕の頭をふわりと撫でてくれた。思わずビクリと震えたのが伝わってしまったかもしれない。心臓が口から飛び出そうで、車内で薄く流れている知らない洋楽が意味もなく僕の脳みそをなぞっていった。
『あぁ、そうだ!後ろにある紙袋取ってくれない?』
ヒョンは楽しそうに笑みをこぼして僕に問いかけた。シートベルトをしたまま体を捻って後部座席を覗いてみれば、確かに小さな紙袋がぽつんと置いてある。腕を伸ばして掴んで『これですか?』とヒョンに見せると『そう』と頷いた。
『それね、ジョンデくんにお土産』
『僕に?』
『そう。大したものじゃないんだけどね、可愛かったからつい』
『……開けても、いいですか?』
『もちろん』
僕は言葉の通り簡単に閉じられていた紙袋を開けた。
中には羊のキーホルダーがひとつ。
『ひつじ……?』
『そう。ほら、ジョンデくん前に恐竜のキーホルダーくれたでしょ?だから僕からは羊のキーホルダー』
目の前に持ち上げてぶらぶらと揺らしてみると、羊は嬉しそうに笑った気がした。
『ふふ、ありがとうございます!あ、この羊ヒョンに似てますね』
『あはは、ありがとう。僕、昔から羊が好きなんだ。のんびりしてて可愛いでしょ?だからジョンデくんにあげたいと思って』
『え……?』
『ん?』
『いえ、』
だから……?
ヒョンが好きなものだから?
それとも僕がのんびりしてるから?
少しだけ引っ掛かった疑問は、なんだか聞いてはいけないような気がして、僕はそのまま会話を続けた。
『じゃあ僕も通学用のリュックに付けますね!』
『ありがとう』
→
この人が好きかも、って一番最初に思ったのはいつだったかな。
遥か昔のことで、もう思い出せない。
出会ってすぐのような気もするし、しばらく経ってからだったような気もする。
とにかく僕は、今現在も進行形の形でレイヒョンのことが好きだ。
***
初めて出会ったのは、まだ雪がこんもりと残っていた季節。
混雑する前の早朝の駅でぶつかって「すみません」って言った時に吐き出した吐息が、まだ白かったのを覚えている。
ヒョンが吐き出した息は白くて、さらに真っ白なヒョンの肌を見て、僕は寒気が増したんだ。この真っ白な肌は冷たいんだろうか、って思わず手を伸ばしそうになって、どくりと心臓が跳ねた。
『朝、いつも会うよね』ってヒョンは微笑んでいて、僕は『はい!』なんてマヌケな返事をしたんだっけ。
『学校?ずいぶん早いんだね。部活とか?』
『いえ、混んだ電車が苦手で』
『はは!僕と一緒だ』
『そうなんですか?』
『うん、朝から満員電車に詰め込まれると、サラリーマンの宿命みたいで一日の始まりがとてもブルーになっちゃうから』
朝はもっと清々しいものでしょ?と、ヒョンは僕を覗き込むように笑みを浮かべて見せた。
スーツを着たヒョンはとても大人っぽく見えていたのに、笑ったその顔はなんだか幼く見えたのを覚えている。
『君は?』
『あの……僕は、誰もいない朝の教室が好き、で……』
サラリーマンの大人のヒョンに比べると僕のその答えは酷く幼稚なような気がしたけれど、『どうして?』と真っ直ぐに聞かれたので、僕はびくりと震えてまた口を開いた。
『わかんないですけど、ぞろぞろと登校しはめてみんなが集まる教室を、その前に独り占めできるってうか……』
上手く伝えられずにモゴモゴしてたら、『なんかいいね』って笑ってくれた。
それからは朝会えば挨拶や少しの話をするようになって。
高校生の僕にはサラリーマンの知り合いなんて初めてだったから不思議だったけど、ヒョンは僕を変に子供扱いしたりしなくて、それがなんだか妙に嬉しかったんだ。
**
春が来て、僕は高校三年生になった。
ヒョンは進級おめでとうと言って、僕に高価な万年筆をくれた。
高校の進級なんて普通に通って赤点さえ取らなければ出来るようなものなのに、『じゃあこれで受験勉強頑張って』なんて笑って。大人からの厚意というのが分からなかった僕は、それが一体いくらの物なのかもわからず、ただただ恐縮しながら受けとった。万年筆なんて持ち慣れないものを持った僕は、少しだけ大人に近づけたような気がして単純に嬉しかった。
『使い心地どう?』
『はい、すごくいいです』
『じゃあきっと勉強も捗るね』
『それは、どうですかね……?』
僕が先に電車を降りるまでの少しの間、交わせる話はそれほど多くはないけど、日課のようなそれが僕の毎日の楽しみになっていた。
ある日は眠そうな顔で、またある日は疲れた顔で。社会人って大変なんだなぁ、なんてヒョンを見ながら思ったっけ。
『これ、万年筆のお礼です』
何かお返しをしたいな、と思っていた僕が選んだのは見てるだけで癒されるようなくったりとした恐竜のキーホルダーだった。万年筆とはあまりにも釣り合わないのは分かっていたけど、友人のギョンスに相談したら、きっとそういう物の方がいい、って。僕らが買える高価なものなんてたかが知れてるよ、って。恐竜にしたのは僕がクラスメートから恐竜に似てるって言われてたから。ヒョンのそばに置いて欲しいなって思って選んだことは今でもヒョンには内緒だ。
『ありがとう、かわいいね』
そう言ってヒョンはすぐに包みから出して鞄につけてくれた。『そこに付けるんですか!?』って驚いて言うと『なんで?』って不思議そうな顔。だってその鞄にはあまりにも不釣り合いだったから。僕らが背負ってるリュックとは訳が違う。革の使い込んだビジネスバッグ。そこに揺れる恐竜のキーホルダー。社会人としてアリかナシかなんて分からないけど、にっこりと笑ってくれたから、とにかく僕は喜ぶことにした。
**
夏が来て、そろそろ受験戦争が真実味をもって迫ってきた頃、ヒョンは出張でしばらくこの電車に乗れないと言ってきた。
大変ですね。無理しすぎないでくださいね。なんて言ったけど、もうすぐ僕は夏休みに入るからすれ違いで本当にしばらく会えなくなるんだなぁと思うと、急にすごく寂しくなってしまった。
『ヒョンが帰ってくる前に僕は夏休みに入っちゃうので、夏休みが明けるまで会えないですね』
『そっか、もうそんな季節かぁ。高校最後の夏休み、たくさん楽しんでね』
『はい……』
『ねぇ、連絡先教えてくれる?』
『え……?』
知り合ってから約半年、僕らはようやく連絡先を交換した。
連絡してもいいんですか?って聞いたら、ヒョンは笑顔で『もちろんだよ』と言ってくれて。嬉しくて恥ずかしくて思わずうつむくと、ヒョンの鞄には少し薄汚れた恐竜が揺れていて。それを見て僕はまた恥ずかしくなって笑った。
『出張から帰ってきたら、勉強の息抜きにどこか行こうか』
『え……?』
『日曜日だったら仕事も休みだし』
『…………はい!』
休みの日までヒョンに会えるなんて、僕は嬉しくてたまらなくなった。
多分この頃にはもう僕はヒョンのことが好きだったんだと思う。大人の余裕だとか優しい笑顔だとか。かと思えば心配になるほど天然で真っ直ぐなところだとか。次々と現れるヒョンの新たな一面が、憧れを通り越して恋慕の対象になっていた。この人ともっとずっと一緒にいたい、って。ヒョンを知るには朝の電車の時間は短すぎる。
だから休みの日に降車駅を気にせずにヒョンに会えるのはとても嬉しかった。
『帰ってきたんだけど、次の日曜日あたりどうかな?』
ヒョンからメールが来たのは、僕が夏休みに入って一週間が過ぎた頃だった。
受験勉強しなきゃなぁ、なんて思いながらもついつい暑さにかまけて始まったばかりの休みを満喫していた頃。ピロリンと鳴った携帯を開いたらヒョンからのメールで、僕は寝っ転がっていたベッドからすぐさま飛び起きた。
『はい!もちろんです!』なんて慌てて返信をして。それからあとは何を着ていくかとか、どこに行くんだろうとか、ヒョンのことばかりを考えていた。
車で駅まで迎えに来てくれると言っていたので、どこか遠いところに連れていってくれるんだろうか、なんてドキドキと高鳴る心臓と黙っていてもにやけてしまいそうな顔で、母親にまで訝しがられたんだっけ。
今思い出しても、やっぱり初々しくてにやけてしまう。
いつものジーパンに最近買ったお気に入りのTシャツを着て、お出掛け用のスニーカーを履いた。
相変わらずドキドキしながら駅の正面で待っていると、タクシープールの間の停車帯に1台の車が停まった。運転手を見ればレイヒョンで。僕は思わず笑顔が溢れる。
僕を見つけたヒョンは車の中から手を振っていて、慌てて駆け寄ると助手席の窓から『乗って』と声がかかった。
『お待たせ。ごめん、待った?』
なんて待ち合わせの定番の台詞もヒョンが言うと嫌味に聞こえないのは不思議だ。
ヒョンの車は、車に詳しくない僕でも知っているような一般的な乗用車で。特別高価なわけでもなく、拘ってるようでもなく。
後から聞いた話だけど、休みの日くらいしか乗らないから動けば何でもいいというスタンスらしい。そんなところもヒョンらしいなぁと思ったのを覚えている。
『どこに行こうか』
気づいたらじっと見つめていた僕はヒョンの声に我に返り、慌てて『お任せします!』と叫んでいた。
『あはは!どうしたの?』
『いや、あの……スーツじゃないから……』
『あぁ、そっか。そう言われてみればそうだね。ジョンデくんも制服じゃないし』
休日のヒョンは、何て言うか思ってたよりもずっとラフで。僕と同じように着古したジーンズとTシャツなのに、何故かすごく決まってて。スーツよりも若く見えるのに大人って感じがした。やっぱり僕なんかよりずっとずっと大人だ。
『天気がいいからドライブでもどうかなって思ってたんだけど、どう?』
『はい!いいですね!』
『じゃあ、海の方でも行ってみようか』
そう言ってヒョンはハンドルを切った。
車なんて父親の運転以外では乗らないからとても不思議で。思わず運転する横顔をじっと見ていると、ヒョンにまた『どうしたの?』って笑われて。『なんか不思議で』ってもう赤面するしかなかった。
久しぶりに会ったヒョンは、やっぱり格好いい。
『受験勉強はどう?捗ってる?』
『はい……まぁ……』
『あはは!受験生も大変だね』
『いえ、ヒョンに比べれば全然』
『そう?高校生だって大変だと思うけど』
『あの……ヒョンって何歳なんですか?』
実はちょっとだけ気になっていたことを、この際だからと僕は思いきって聞いてみた。
だってヒョンは年齢が不詳だから。そもそも高校生の僕にとって、大人はみんな大人なんだ。だけど好きかもって思い始めてから、僕とヒョンとの間にある年齢差がちょっとだけすごく気になり始めてて。けれど大人の人に歳を聞くのは失礼かなって思っていたので、ずっと聞けずじまいだったというわけだ。
『26だよ』とヒョンはさらりとその答えを教えてくれた。
『26……?』
『そう、見えない?』
やっぱり僕、老けて見えるのかなぁ、って呟くヒョンに僕は『そんなことないです!』って声をあげた。
『あはは!ありがとう。ジョンデくんは今……』
『17です!9月で18』
『そっか。じゃあ、9コ離れてるんだね』
『8コじゃなくて?』
『僕は10月で27だから』
『そう、ですか……』
僕とヒョンとの年の差を改めて実感したようで、少しだけ切なくなった。
9コも年下だなんて、ヒョンにとってみたら僕はやっぱりただの子供なんだと思う。
僕はもうすぐ18歳で、少しだけ大人の仲間入りができるような気がしていたけど、そんなのはただの思い違いだ。
ヒョンは僕を子供扱いしたりはしないけど、恋愛対象になるかどうかはまた別の話のような気がするから。
そのくらい、子供の僕にだって分かるんだ。
『あとは?』
『あと?』
『うん、聞きたいこといっぱいありそうな顔してるから』
言い当てられた心情に、僕はまた赤面した。
だけど『何でも聞いて』とヒョンは言ってくれたので、思いきって色々と聞くことにした。
『あの、じゃあヒョンは休みの日とか何してますか?』
『うーん、休みの日は休んでるかなぁ』
『あはは!そうですよね!』
『ジョンデくんは?』
『うーん、僕は……友達と遊んだり、家族で出掛けたり……』
『今日はよかったの?』と信号待ちのヒョンがこちらに顔を向けて聞くので、僕はまた心臓がとくりと跳ねた。
やっぱり何度見ても照れ臭くなってしまうほどのイケメンだから。
『……はい!あの、今日は大丈夫です!』
『ふふ、そっか。よかった。あとは?』
『あとはー、ヒョンの仕事!どんなお仕事ですか?』
『仕事はねぇ、普通だよ。普通に医療機器メーカーの営業』
『医療機器メーカー……』
『あんまり馴染みがないと思うけど、ただの営業だよ。格好いい仕事じゃなくてごめんね』
『そんな!そんなことないです!ヒョンがいつも頑張って働いてるの知ってますから』
『ふふ、ジョンデくんは優しいね』
そう言ってヒョンは僕の頭をふわりと撫でてくれた。思わずビクリと震えたのが伝わってしまったかもしれない。心臓が口から飛び出そうで、車内で薄く流れている知らない洋楽が意味もなく僕の脳みそをなぞっていった。
『あぁ、そうだ!後ろにある紙袋取ってくれない?』
ヒョンは楽しそうに笑みをこぼして僕に問いかけた。シートベルトをしたまま体を捻って後部座席を覗いてみれば、確かに小さな紙袋がぽつんと置いてある。腕を伸ばして掴んで『これですか?』とヒョンに見せると『そう』と頷いた。
『それね、ジョンデくんにお土産』
『僕に?』
『そう。大したものじゃないんだけどね、可愛かったからつい』
『……開けても、いいですか?』
『もちろん』
僕は言葉の通り簡単に閉じられていた紙袋を開けた。
中には羊のキーホルダーがひとつ。
『ひつじ……?』
『そう。ほら、ジョンデくん前に恐竜のキーホルダーくれたでしょ?だから僕からは羊のキーホルダー』
目の前に持ち上げてぶらぶらと揺らしてみると、羊は嬉しそうに笑った気がした。
『ふふ、ありがとうございます!あ、この羊ヒョンに似てますね』
『あはは、ありがとう。僕、昔から羊が好きなんだ。のんびりしてて可愛いでしょ?だからジョンデくんにあげたいと思って』
『え……?』
『ん?』
『いえ、』
だから……?
ヒョンが好きなものだから?
それとも僕がのんびりしてるから?
少しだけ引っ掛かった疑問は、なんだか聞いてはいけないような気がして、僕はそのまま会話を続けた。
『じゃあ僕も通学用のリュックに付けますね!』
『ありがとう』
→