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半分の血

『ヒョン、いい?』
『……うん』
『いくよ?』
『待って……んぁ、……あっ……!』





がばり、と勢いよく布団を押し上げて目を覚ました。



「夢……?」



まだ日が上りきってない薄闇の中で、跳ねる心臓の音を聴きながら妙な脂汗を感じる。
横を見ればすやすやと眠るジョンインの姿。


なんて夢を見たんだ……


僕は、弟に組み敷かれる夢を見た。
妙に生々しかったそれを恐る恐る反芻する。
低く囁くような声や、しっとりと触れた手。深い眼差し。触れたいと思ったものがそこにあった。


はぁ、と深く吐いた溜め息は、どんよりと重たい。
きっと疲れていたんだ。
弟相手に欲情してしまうくらいには。

分かっている。
分かっているのに。

ベッドの脇で眠る弟。いけないと警鐘する頭。

触れてはいけないと思うのに、その手を伸ばすことを止められない。早急に鳴る心臓の音。
掬った前髪は、昨夜僕が乾かしてあげたもの。
「よかった」と呟いた弟のその意味をぼんやりと考える。

それはどう考えたって、兄弟以上のそれにはぶつからなくて。こっそりと胸を撫で下ろした。




ジョンインは、腹違いの弟。

父さんがよそで作った子供だ。



越えてはいけない線を、僕は知っている。



*********


「お先しまーす」


定時を回って会社を後にすると、僕は駅前の広場へと走った。
ベッキョンと飲みに行く約束をしていたのだ。

あの夢を見て以来、何となくジョンインと顔を合わせるのが気まずい。
酷く一方的な理由なのは分かっているけど、仕方ないものは仕方ないのだと言い聞かせて、今日はベッキョンを誘い出した。


「お待たせー!」
「おぉ、お疲れ!」


どこにするー?なんて言いながら繁華街をぶらぶらと歩く。
「安いとこがいいなぁ」とか「焼き鳥食いたい」とか騒ぎながら歩いているとベッキョンが急に立ち止まって腕を叩かれた。


「おい、」
「痛いよ、なに」
「あれ……そうじゃない?」


言われた方を見やれば、人垣の向こうには見慣れた後ろ姿。「あ……」と呟いて声をかけようか迷っていると、横には綺麗な女の子の姿が見えた。

「可愛い子連れてんじゃん」とベッキョンが笑う。

僕は咄嗟に後ろを向いて、ジョンインとは逆方向に歩みを進めた。


「なに、どうしたんだよ」
「なんでもない」
「はぁ?」
「いいから!」

ベッキョンの手を引いて無理矢理適当な店へと連れ込んだ。


彼女……いたんだ……


よかった、って言ってたくせに。
さすが愛人の息子だな、なんて思ってもないことが頭を過って、自分の性格の悪さに辟易した。


「おい、ジョンデ」
「……なに?」
「なにって、お前……泣いてんの?」
「なに言ってんの、そんなわけないじゃん」


言って無理矢理笑えば、お前バカだなぁ、ってベッキョンが乱暴に頭を撫でるもんだから、心臓が苦しくて沸き上がるものを必死で堪えた。


どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
いつの間にかあの部屋居着いたように、僕の中にもするりと入り込んで。無視できないほどの存在感で、僕の片隅に入り込んで居ついていたって言うのか。



ジョンインは、弟。
半分血の繋がった、腹違いの弟だ。


ここ何日もずっと繰返し唱えているそれを、僕はまた頭の中で繰り返した。


ヒョン、って笑う無邪気な笑顔。
クールな外見のわりに甘えたがりの性格。
可愛いと思い始めていた。兄として。そんな風に在りたいって。どこかで足を踏み外さなければ、そうなるはずだったんだ。





*********


飲んだって大して酔えるわけもなくて。
適当に解散して帰った先。恐る恐るとアパートを見る。

一階の一角。
電気が点いていて、思わず胸を撫で下ろした。

帰ってた……

帰ったって最近はジョンインを避けてるせいで大した話もしていないのに。それでも、帰ってないんじゃないかと思うと恐かった。
彼女の元から帰ってくるジョンインを迎え入れる勇気がなかったんだ。


こんな思いに名前をつけたって仕方ないのに。



全部あの夢のせいだ。
僕がこんなふうに思うのも、全部。




「ただいま」
「あ、おかえり。早かったね」
「うん、まぁ……」


ジョンインを避けるように、僕は浴室へと逃げ込んだ。狭い部屋じゃ行き場もないっていうのに。
極力ふたりの時間を減らすために、ゆっくりと長めのシャワーを浴びる。
何食わぬ顔で冷蔵庫へ直行して水を飲みながら、背中越しに「そろそろ寝たら?」なんて声をかけた。


「ヒョン、」
「なに?」

振り向かずに答えれば、いつまでたってもその返事がない。
妙な空気の中、がさりと音がして足音が近づいてくるのが分かった。


「ヒョン……」


ジョンインに、後ろから抱き締められた。




「……な、に?」



「ヒョン、もしかして避けてる?」
「え……?」
「俺のこと、避けてるよね?」


ことり、と肩越しに頭が触れたのが分かった。
心臓はいつにないほど世話しなく動く。


「そんなこと……」
「迷惑になったなら言って。俺、いつでも出てくから」


ヒョンの迷惑にはなりたくない、と呟く声は酷く寂しげだ。


「迷惑だなんて、思ってないよ」
「じゃあなんで避けるの?」
「避けてる訳じゃ……」
「避けてるじゃん、ずっと」


肩越しに響く声。
不埒な心臓。


半分だけどお前は血の繋がった大事な弟だと思ってるよ────って、そう言おうと思ったのに。
開いた口から溢れた言葉は全然違うものだった。


「彼女、いたんだね」
「は……?」
「勝手にいないもんだと思ってたんだけど。可愛い子じゃん。さすが僕の弟だな」
「なに、言ってんの……?」


回された腕をほどいて振り向けば、意味がわからないといった顔で僕を見下ろしていた。

僕は一体、何を言ってるんだろう。
止まらない口が恨めしい。

「ちゃんと紹介しろよ!お前ばっかりズルいなぁ」
「ヒョン、なに言ってんの……?」
「なにって、だからジョンインの彼女。今日見たんだ」
「今日?」
「うん、繁華街で。仲良さそうに歩いてたじゃん」


ジョンインは、ぐるりと思考をなぞったのか少しして「あぁ、」と声を上げた。


「それ彼女じゃないんだけど」
「え……」
「ダンス仲間」
「なん、だ……」


がっくりと肩を落とすとジョンインは盛大に笑った。それからいつぞやのように片方の口角を上げて。


「で?ヒョンが避けてた理由は?」
「だから避けてないってば」
「避けてたじゃん、絶対」
「気のせい!」
「気のせいじゃないし!」


見つめられた瞳は、あの夢のときのように深い。



「ヒョン……」




じっとりとした空気が肌を掠める。


徐々に近づく唇を避けることなんかできなくて。


重なったあとは、深さを増すだけだった。




理性の箍が外れたんだと思った。


父さんとか母さんとか、兄弟とか血とか。
全部どうでもいいような気がして。
ただひたすらに、夢中になってその唇を追いかけた。


ジョンインの手が僕のシャツに潜り込む間、僕は彼の頭を掻き抱いた。
それは狭い台所の冷蔵庫の前。
何が正しいとか、何が間違ってるとか。
この思いがなんなのかとか。
分かったことは何一つない。

ぶつけ合うような激しいキスと愛撫の嵐。

僕らは理性を投げ捨てただけの、ただの人間だった。





互いにのぼり詰めて一緒に白濁を吐き出したあと、ジョンインは「ごめん」と呟いた。


「なんで謝るの?僕だって一緒になって盛り上がっちゃったじゃん」
「そうだけど……」


男同士でなんて考えたこともなかったけど、僕らは互いに触れて高めあっていた。

この血が惹き合うのだろうか。
半分だけ同じだっていう、この血が。

兄弟の悪ふざけというには過ぎるそれを、どうやって消化すればいいのかわからなくて。なんてことないふうに誤魔化すしかなかった。


「ヒョン、抱き締めてもいい?」
「聞くなよ」
「うん……」


長い腕が伸びてきて、座り込んだ足の間に引きずり込まれる。


「ヒョン、」
「なに……?」
「なんでもない……」


ぎゅっと抱き締められた腕の中、気まずさだけがいつまでも残っていた。



********


勘違いしてはいけないことがある。



僕らの間に愛なんてものは芽生えてはいけないということ。芽生えるべきは、たとえばそう。兄弟としての情とかで。

家族愛なんてものも芽生えてはいけないものだ。
僕の家族は今は母さんただ一人だけなんだから。


おかしな感情は、ジョンインに抱き締められる度に増しているような気がした。世界中に僕らふたりだけだったらいいのにとか、もしくはもっと違う形で出会っていればよかったのに、とか。

恋人ごっこのような甘い蜜月を勘違いしないようにと何度も言い聞かせた。


結局僕が見たあの夢のように抱き合ったことは一度や二度ではない。ジョンインの布団は何日も畳まれたまま使われる機会を失い続けていて、僕らはひとつのベッドで裸になって眠ることが当たり前になった。

いっそ兄弟であることを忘れてしまった方が早いんじゃないかって。無意味なことを考える。




「……ジョンイナ、」
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「うん……」
「まだ寝てなよ」


仕事へ行くためにと早起きのジョンインがベッドから抜け出す。朝の微睡みの中で、僕はジョンインの浅黒い背中をぼんやりと眺めた。
彼の骨格は何度見ても綺麗だと思う。


「ジョンイナ~」
「なに?」


仕度をする背中に声をかけると、眠そうな顔で振り向く。笑え!と念じると、擽ったそうに笑ったので、僕も思わず笑みをこぼした。


「今日チキン買ってくるね~」
「マジで!?」
「マジで」

ジョンインの口癖を真似て言うのは、僕の癖になってきた。

「早く帰れると思うから」
「絶対?」
「うん」


支度を終えたジョンインはベッドにもぐる僕に近づいて、くしゃりと頭を撫でた。それからキスをひとつ。「いってきます」と呟いて玄関へと向かう。
僕も「いってらっしゃ~い」と声を上げて布団から抜け出た。




********


いつものチキンを買って「ただいま」と声をかけると、「おかえり」と同時にジョンインが現れて、僕の手からチキンを奪っていく。
僕はその姿が可笑しくて笑いがこぼれた。


「どんだけ腹減ってんだよ!」
「しょうがないじゃん、チキンなんだから。そういうもんでしょ?」
「そうだけどさぁ」


僕はただ、こんな毎日が楽しくって楽しくって。
それが誰にも言えない関係だとか、そんなことはどうでもよくなっていた。

好きだなんて言ったことも言われたこともないけど、考えなければ、多くを求めなければ平気だと思った。

このままこの生活が続けば。
ジョンインと笑って、楽しく。

隔離された空間が心地好いものであれば、ただそれだけで───



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