半分の血
シフト制で働いているジョンインの休みは不定休で、今日は休みなのか僕が起きるとジョンインはまだ寝ていた。
起こさないようにそっとベッドを抜け出して支度をする。
油断すると踏んづけてしまいそうなワンルームの中で、服を着替えたりパンを焼いたり。
そういえばジョンインもいつもこうやって音を立てないように動き回っているのかもしれない。僕は彼の物音で起きたことはなかったから。
カチャン、とクローゼットのハンガーパイプとハンガーの金属部分がぶつかって音が鳴った。
意外と高く響いたその音にジョンインがゆっくりと寝返りを打つ。起こしちゃったかな?と一瞬動きを止めると、うーんと唸ったジョンインはゆっくりと瞼を押し上げた。
「ごめん、起こしちゃった?」
焦点が合ったジョンインに声をかけると、「いや」と掠れた声で呟く。
「休みなんだろ?まだ寝てたら?」
「うーん……」
布団から出る気はないのか、片腕を枕にして体勢を整えた彼は、僕が支度をするのをぼんやりと眺めていた。
「ジョンイナ、コーヒー飲むっけ?飲むなら多目に落としとくけど」
「いや……コーヒー苦手」
「はは!じゃあ牛乳でも飲んでろ」
「うん、そうする」
僕はコーヒーを淹れてトーストをかじりながら、布団の中のジョンインと会話する。
こんな朝も悪くない、かもしれない。
「ねぇ、ヒョン」
「なぁに?」
「俺さぁ、考えてみたら男と一緒に住むの初めてだわ」
「ん?あー、そっか」
時折失念しそうになるけれど、ジョンインのお父さんは僕の父だ。
「なんか変な感じ」
「それを言ったら僕だって、弟と生活するのなんて初めてだから変な感じだし」
「はは、そっか」
けれどジョンインとの生活は、驚くほどに違和感がなかったのも事実で。
これもやっぱり、血のせい……?
僕の食べ終わった姿を見て、ジョンインは「そのまま置いといていいよ」と言う。
あとで俺やっとくから、って。
「ありがとう」
「じゃあさ、その代わりお土産買ってきてよ」
「お土産?」
「うん、チキン食べたい」
「はは!わかったよ」
「やった!」
布団の中で無邪気にはしゃぐジョンインに「じゃあ行くね」と声をかけて、鞄と上着を掴んだ。
「うん、いってらっしゃい」
「いってきます」
駅に向かいながら考える。
チキンを買って帰るなんていつ振りだろう……
考えて不意に、昔父さんが誕生日に買ってきてくれていたパーティーバーレルを思い出した。
確かケーキは母が、チキンは父が担当だった。
食べきれないほどのチキンの山を見て胸を弾ませていた記憶が甦って、今日はそれを買って帰ろうと思った。
*********
約束通りチキンを買って帰れば、ジョンインは心底嬉しそうにその箱を受け取った。
「超懐かしい!」
「そうなの?」
「うん、これ親父もよく買ってきてくれてたから」
「そう、なんだ……」
どうしたの?ヒョン、と顔を覗かれて、思わず「何でもない」と笑顔を見せた。
なんて形容したらいいのか分からない。
このパーティーバーレルを抱えてジョンインの住む家へと向かっていた父。どっちの家族が好きだった?なんて子供染みた質問が頭を過って、バカみたいだと自嘲した。
テーブルにスタンバイして「食べていい?」と顔をあげるジョンインに、服を着替えながら「いいよ」と返す。
「いただきます」
「どうぞ」
部屋着に着替えて、帰りについでに買ってきたチューハイを取り出して、僕もジョンインの向かいに座った。
「ヒョン、飲むの?」
「え?まぁ、たまにね」
「いいなぁ……」
「お前はまだ未成年じゃん」
「いいじゃん家だし、ちょっとくらい」
「えー?飲んだことあるの?」
「もちろん」
「うーん……」
この場合、僕はこいつの保護者?だから、やっぱダメだよなぁ……なんて考えているうちにジョンインはちゃっかり僕の手から缶を奪い取って、あっという間に胃に収めていた。
「あ、ちょっと!」
「ははははは!」
旨いね、と憎たらしく笑うジョンインに僕は思いきり手を上げて叩く真似をする。
「いいじゃん!大丈夫だって!」
「もー!今日だけだからな!」
「分かってるって」
僕だってそんなに真面目だった訳じゃないからそこまで厳しく言うつもりはないけど、「あー旨い!」なんて笑顔でグビグビと飲んでいるジョンインを見やれば、その姿があまりにも馴染んでいて呆れるしかなかった。
「ねぇ、そういえば、」
「んー?」
聞こえているのか、いないのか。ジョンインは黙々とチキンを頬張っている。
「今日何してたの?」
「んー、洗濯とか掃除とか……」
言われて部屋を見渡せば、確かにきれいになってる気がするし、隅には洗濯物の畳まれた山がある。
「ありがと」
「別にやることなかったし」
家事を苦にしないのは、やっぱり母子家庭で育ったからだろうか、なんて。休みの日くらい出かければいいのにと思ったけど、自分もどちらかと言えば出不精の方だと思って思わず口を噤んだ。やっぱり兄弟だから似てるのかなぁ、とか。こんなところが?
「そういえば、ジョンインって本当は人見知りなの?」
「なんで?」
「こないだベッキョンが来たとき随分大人しかったから」
「……あぁー」
「僕と初めて会ったときとは、えらい違いだなぁと思って」
先日のジョンインの姿を思い出して問えば、彼は食べ終えたチキンの骨を皿に避けて手を拭きながら顔を上げた。
それから、やっぱり慣れた風にチューハイをごくりと飲む。
「だってヒョンは知ってたし。前も言ったと思うけど、親父がいつもヒョンの写真見せてくれてて。『お前のヒョンだよ』って。だから……」
「ふーん」
ヒョン、か……
「ヒョンさ、どう思ってる?」
「なにが……?」
「俺のこと」
握っている缶は、いつの間にか互いに2本目だ。
「どうって……?」
「やっぱり迷惑だった?」
「うーん、迷惑って言うよりは戸惑ってるって感じかなぁ。急に弟ですって言われてもさぁ。本当に弟なのかもしれないけど、正直あんまり実感がないんだよねぇ。ずっと一人っ子だったから兄弟とかよく分かんないし」
「そうなんだ……」
見るからにしょんぼりとしてしまったジョンインを見て、なんだか申し訳なく思った。
「別にお前のことが嫌いとかじゃなくて、なんていうかさぁ……」
僕らの関係は、あまりにも複雑すぎるんだ。
「俺はずっとヒョンに会いたかったよ。どんな人だろうってずっと考えてた。もし会うことがあったら一番に何を話そうとか、一緒に何しようとか。子供の頃からずっと考えてた。優しい人だったらいいなぁとか、何が好きなのかなぁとか。でも実際会ってみたら……」
「会ってみたら……?」
「想像してたよりもずっと優しくていい人だった」
「はは!なにそれ」
「だって、いきなり押し掛けてきた俺のことすんなり受け入れてくれるし、何だかんだ面倒も見てくれるし。ホント優しくて、ジョンデヒョンが俺のヒョンでよかったなぁって」
それにチキンも買ってきてくれるし、なんて付け足してジョンインは照れ臭そうに笑う。
「ばーか」
視線を合わせて、あはは!って笑って。
頬張ったチキンは、思い出の味よりも美味しくなってるような気がするのは気のせいだろうか。
「ヒョンは笑ってる方がいいね!」
「生意気ー!」
僕たちは今からでも本当の兄弟になれるんだろうか。
半分だけ繋がった血は、どれくらいの濃度で僕らの体に流れているんだろう。
知らない人には人見知りだけど、僕には少しだけ図々しくて、でもとてもよく気が利くこの男は、どうやら本当に僕の弟らしい。
****
あの、二人でお酒を飲みながらチキンを食べた日以来、僕らの関係は少しずつ変わっていったような気がする。
壁のようなものが徐々に無くなっていき、ジョンインがいることが当たり前になっていった。
相変わらずジョンインの朝は早くて、顔を合わせるのは夜くらいしかないんだけど、寝るまでのあいだ話をしたりゲームをしたり、そうやって一緒に笑うようになった。
無愛想でぶっきらぼうで、でもそんなところが可愛いと思う。
ジョンインが居着くようになって、なんとなく互いの役割分担が出来ていた。
家賃や光熱費は僕が払う代わりに、晩ご飯はジョンインが用意してくれるし、洗濯や掃除は休みの日にお互いの分を纏めてする。
誰が言い出したわけでもないのに、なんとなくそんな風になっていた。
「ジョンイナ、土曜日の夜暇?」
「まぁ、バイトの後なら」
「じゃあさ、たまには外でご飯食べる?」
「え?」
「木曜日、給料日だから」
「マジで!?」
「マジで。いつもご飯作ってくれるから、たまには外で食べるのもいいかなぁと思って」
「やったぁ!」
子供みたいにはしゃぐジョンインを笑って、僕らは就寝の準備をする。最近じゃあ僕もジョンインに合わせて早寝になった。
「何食べたいか考えといて」
「焼き肉、ステーキ、お寿司、」
「こらっ!」
手を上げると頭を抱えて。
あはは!って笑う父親似の低い声。
兄弟ってこういうことなのかなって。
だけどその時、僕はまだ気づいてなかったんだ。
とてもとても大事なことに。
*******
土曜日、近くの駅で待ち合わせして僕らは合流した。
僕は今日は休みだし、ジョンインは朝から働いてるので夕方前には終わる。晩ご飯まではまだ時間があるからと、適当にお店をぶらぶらと歩いて買い物をした。
久しぶりに服やら靴やら見て歩いて、ゲームセンターでゲームをした。大して可愛くもないようなぬいぐるみを取って、ジョンインははしゃいでいた。
ジョンインについて分かったこと。
彼は機嫌がいいと饒舌になるらしい。
不機嫌だったり眠くなると途端に無口になるくせに、機嫌がいいときはおしゃべりな僕でさえも呆れるほどずっと喋っているのだ。
そして今日もそうだったのか、ジョンインは楽しそうにずっと喋っていた。
"ねぇヒョンこれは?"
"ねぇヒョンあれやろう!"
"ねぇヒョンあっちにもあるよ!"
僕よりもデカいくせに僕の腕を掴んではしゃぐ姿は、まるで小学生みたいで。気がつけば僕もジョンインのペースに飲まれていた。
「そろそろお腹空いたしご飯食べる?」
「うん」
地下のレストランに入って、結局僕らはオムライスとハンバーグを頼んだ。
料理が運ばれる前にスマートフォンを確認する。メールを一件受信していた。
差出人は母親。
僕は何となくジョンインには見えないように画面を傾けた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
開いた画面には『変わりない?』といういつもの文字。
やっぱり何となくジョンインの前では返事を打ちづらくて、そのまま画面を消灯してポケットに突っ込んだ。
それから、運ばれてきた料理を食べながら、あのゲームはあぁだったこうだったと話をして、二人してたくさん笑った。
帰り道、ジョンインが僕の肩に腕を回して。ずっしりとのし掛かった重みは、まるでそれが兄弟の重みだと言っているようでくすぐったかった。
なのに「ヒョン?」と覗き込まれてあまりの近さに心臓飛び跳ねて。慌てて笑顔を作ると、ジョンインも照れ臭そうに笑った。
時折迷子の子供みたいな顔をするジョンインを、僕は何となく突き放すことができなくて。兄弟だから、という理由をつければ僕のモヤモヤは全部隠せてしまえるような気がしていた。
家に着いて順番にシャワーを浴びる。
最初に僕が浴びて、そのあとにジョンインが浴びた。
ジョンインのシャワーの音を聞きながら、僕はスマートフォンを取り出す。
さっきのメールの返信をするためだ。
『変わりないよ。母さんは?』
『こっちも変わりないわ。たまには顔見せなさい』
『うん、そのうちね』
何通かのやり取りをして一段落ついたとき、シャワーを終えたジョンインがタオルを被って出てきた。
僕はごとりとテーブルにそれを乗せた。
「……メール?」
「うん」
「彼女?」
「はぁ……?」
思っても見なかった言葉に思わず変な声が出た。
「なわけないじゃん!」
あはは、と笑って返すと「じゃあ誰?」って。
責めるような声でボソボソと呟くにから驚いて視線を合わせると、濡れた前髪の隙間からは淋しそうな瞳が覗いている。
「お前の知らない人だよ」
そもそも知ってる知り合いなんてベッキョンくらいしかいないけど。
とにかく、母さんだとは言えなくて……
僕はその時、
僕らは兄弟だけど家族ではないのだと思い知った。
僕には僕の、ジョンインにはジョンインの、家族がいるということ。それは絶対的な線引きで、平和に解決なんて出来ないのかもしれない。僕はその時弟を、ジョンインを、突き放すことが出来るんだろうか。
「そこ座って」
「……なに?」
「髪、乾かしてあげる」
ドライヤーを取りに行ってジョンインの元へと近寄る。
ベッドの脇に座らせて、僕はベッドの上からジョンインの濡れた髪を掴んだ。
黒くて真っ直ぐな髪は、やっぱり父親と似ている。誰かの髪にドライヤーを掛けたことなんて初めてだったけど、それはまさに兄弟のような距離感に思えた。擬似的な感情かもしれないけれど。
「ヒョン、」
「んー?」
「ヒョンって彼女とかいないの?」
ドライヤーの風の音の隙間からポツリとそんな事を言うもんだから、僕は「まだその話する?」と笑った。
「いないし、予定もない。淋しいこと言わすなよ!」
「そっか……よかった……」
「え……?」
呟かれた声は、安堵の様にも聞こえて。思わず動きが止まる。
「熱いってば!」
「……あ、あぁ!ごめん!」
ねぇ今、何て言った?
よかった、って?
どういう意味だよ……
どくん、と高鳴った心臓を持て余すように、僕はドライヤーを握り直す。
さらりと指の間を流れていった髪の毛にすら温度を感じた。柔らかな耳の裏や綺麗な首筋や、広い肩幅や少しだけ猫背の背中。
たとえばこんな時、後ろから抱き締めるのは兄弟の距離?
だから兄弟って何?
僕にはやっぱり難しい。
→
起こさないようにそっとベッドを抜け出して支度をする。
油断すると踏んづけてしまいそうなワンルームの中で、服を着替えたりパンを焼いたり。
そういえばジョンインもいつもこうやって音を立てないように動き回っているのかもしれない。僕は彼の物音で起きたことはなかったから。
カチャン、とクローゼットのハンガーパイプとハンガーの金属部分がぶつかって音が鳴った。
意外と高く響いたその音にジョンインがゆっくりと寝返りを打つ。起こしちゃったかな?と一瞬動きを止めると、うーんと唸ったジョンインはゆっくりと瞼を押し上げた。
「ごめん、起こしちゃった?」
焦点が合ったジョンインに声をかけると、「いや」と掠れた声で呟く。
「休みなんだろ?まだ寝てたら?」
「うーん……」
布団から出る気はないのか、片腕を枕にして体勢を整えた彼は、僕が支度をするのをぼんやりと眺めていた。
「ジョンイナ、コーヒー飲むっけ?飲むなら多目に落としとくけど」
「いや……コーヒー苦手」
「はは!じゃあ牛乳でも飲んでろ」
「うん、そうする」
僕はコーヒーを淹れてトーストをかじりながら、布団の中のジョンインと会話する。
こんな朝も悪くない、かもしれない。
「ねぇ、ヒョン」
「なぁに?」
「俺さぁ、考えてみたら男と一緒に住むの初めてだわ」
「ん?あー、そっか」
時折失念しそうになるけれど、ジョンインのお父さんは僕の父だ。
「なんか変な感じ」
「それを言ったら僕だって、弟と生活するのなんて初めてだから変な感じだし」
「はは、そっか」
けれどジョンインとの生活は、驚くほどに違和感がなかったのも事実で。
これもやっぱり、血のせい……?
僕の食べ終わった姿を見て、ジョンインは「そのまま置いといていいよ」と言う。
あとで俺やっとくから、って。
「ありがとう」
「じゃあさ、その代わりお土産買ってきてよ」
「お土産?」
「うん、チキン食べたい」
「はは!わかったよ」
「やった!」
布団の中で無邪気にはしゃぐジョンインに「じゃあ行くね」と声をかけて、鞄と上着を掴んだ。
「うん、いってらっしゃい」
「いってきます」
駅に向かいながら考える。
チキンを買って帰るなんていつ振りだろう……
考えて不意に、昔父さんが誕生日に買ってきてくれていたパーティーバーレルを思い出した。
確かケーキは母が、チキンは父が担当だった。
食べきれないほどのチキンの山を見て胸を弾ませていた記憶が甦って、今日はそれを買って帰ろうと思った。
*********
約束通りチキンを買って帰れば、ジョンインは心底嬉しそうにその箱を受け取った。
「超懐かしい!」
「そうなの?」
「うん、これ親父もよく買ってきてくれてたから」
「そう、なんだ……」
どうしたの?ヒョン、と顔を覗かれて、思わず「何でもない」と笑顔を見せた。
なんて形容したらいいのか分からない。
このパーティーバーレルを抱えてジョンインの住む家へと向かっていた父。どっちの家族が好きだった?なんて子供染みた質問が頭を過って、バカみたいだと自嘲した。
テーブルにスタンバイして「食べていい?」と顔をあげるジョンインに、服を着替えながら「いいよ」と返す。
「いただきます」
「どうぞ」
部屋着に着替えて、帰りについでに買ってきたチューハイを取り出して、僕もジョンインの向かいに座った。
「ヒョン、飲むの?」
「え?まぁ、たまにね」
「いいなぁ……」
「お前はまだ未成年じゃん」
「いいじゃん家だし、ちょっとくらい」
「えー?飲んだことあるの?」
「もちろん」
「うーん……」
この場合、僕はこいつの保護者?だから、やっぱダメだよなぁ……なんて考えているうちにジョンインはちゃっかり僕の手から缶を奪い取って、あっという間に胃に収めていた。
「あ、ちょっと!」
「ははははは!」
旨いね、と憎たらしく笑うジョンインに僕は思いきり手を上げて叩く真似をする。
「いいじゃん!大丈夫だって!」
「もー!今日だけだからな!」
「分かってるって」
僕だってそんなに真面目だった訳じゃないからそこまで厳しく言うつもりはないけど、「あー旨い!」なんて笑顔でグビグビと飲んでいるジョンインを見やれば、その姿があまりにも馴染んでいて呆れるしかなかった。
「ねぇ、そういえば、」
「んー?」
聞こえているのか、いないのか。ジョンインは黙々とチキンを頬張っている。
「今日何してたの?」
「んー、洗濯とか掃除とか……」
言われて部屋を見渡せば、確かにきれいになってる気がするし、隅には洗濯物の畳まれた山がある。
「ありがと」
「別にやることなかったし」
家事を苦にしないのは、やっぱり母子家庭で育ったからだろうか、なんて。休みの日くらい出かければいいのにと思ったけど、自分もどちらかと言えば出不精の方だと思って思わず口を噤んだ。やっぱり兄弟だから似てるのかなぁ、とか。こんなところが?
「そういえば、ジョンインって本当は人見知りなの?」
「なんで?」
「こないだベッキョンが来たとき随分大人しかったから」
「……あぁー」
「僕と初めて会ったときとは、えらい違いだなぁと思って」
先日のジョンインの姿を思い出して問えば、彼は食べ終えたチキンの骨を皿に避けて手を拭きながら顔を上げた。
それから、やっぱり慣れた風にチューハイをごくりと飲む。
「だってヒョンは知ってたし。前も言ったと思うけど、親父がいつもヒョンの写真見せてくれてて。『お前のヒョンだよ』って。だから……」
「ふーん」
ヒョン、か……
「ヒョンさ、どう思ってる?」
「なにが……?」
「俺のこと」
握っている缶は、いつの間にか互いに2本目だ。
「どうって……?」
「やっぱり迷惑だった?」
「うーん、迷惑って言うよりは戸惑ってるって感じかなぁ。急に弟ですって言われてもさぁ。本当に弟なのかもしれないけど、正直あんまり実感がないんだよねぇ。ずっと一人っ子だったから兄弟とかよく分かんないし」
「そうなんだ……」
見るからにしょんぼりとしてしまったジョンインを見て、なんだか申し訳なく思った。
「別にお前のことが嫌いとかじゃなくて、なんていうかさぁ……」
僕らの関係は、あまりにも複雑すぎるんだ。
「俺はずっとヒョンに会いたかったよ。どんな人だろうってずっと考えてた。もし会うことがあったら一番に何を話そうとか、一緒に何しようとか。子供の頃からずっと考えてた。優しい人だったらいいなぁとか、何が好きなのかなぁとか。でも実際会ってみたら……」
「会ってみたら……?」
「想像してたよりもずっと優しくていい人だった」
「はは!なにそれ」
「だって、いきなり押し掛けてきた俺のことすんなり受け入れてくれるし、何だかんだ面倒も見てくれるし。ホント優しくて、ジョンデヒョンが俺のヒョンでよかったなぁって」
それにチキンも買ってきてくれるし、なんて付け足してジョンインは照れ臭そうに笑う。
「ばーか」
視線を合わせて、あはは!って笑って。
頬張ったチキンは、思い出の味よりも美味しくなってるような気がするのは気のせいだろうか。
「ヒョンは笑ってる方がいいね!」
「生意気ー!」
僕たちは今からでも本当の兄弟になれるんだろうか。
半分だけ繋がった血は、どれくらいの濃度で僕らの体に流れているんだろう。
知らない人には人見知りだけど、僕には少しだけ図々しくて、でもとてもよく気が利くこの男は、どうやら本当に僕の弟らしい。
****
あの、二人でお酒を飲みながらチキンを食べた日以来、僕らの関係は少しずつ変わっていったような気がする。
壁のようなものが徐々に無くなっていき、ジョンインがいることが当たり前になっていった。
相変わらずジョンインの朝は早くて、顔を合わせるのは夜くらいしかないんだけど、寝るまでのあいだ話をしたりゲームをしたり、そうやって一緒に笑うようになった。
無愛想でぶっきらぼうで、でもそんなところが可愛いと思う。
ジョンインが居着くようになって、なんとなく互いの役割分担が出来ていた。
家賃や光熱費は僕が払う代わりに、晩ご飯はジョンインが用意してくれるし、洗濯や掃除は休みの日にお互いの分を纏めてする。
誰が言い出したわけでもないのに、なんとなくそんな風になっていた。
「ジョンイナ、土曜日の夜暇?」
「まぁ、バイトの後なら」
「じゃあさ、たまには外でご飯食べる?」
「え?」
「木曜日、給料日だから」
「マジで!?」
「マジで。いつもご飯作ってくれるから、たまには外で食べるのもいいかなぁと思って」
「やったぁ!」
子供みたいにはしゃぐジョンインを笑って、僕らは就寝の準備をする。最近じゃあ僕もジョンインに合わせて早寝になった。
「何食べたいか考えといて」
「焼き肉、ステーキ、お寿司、」
「こらっ!」
手を上げると頭を抱えて。
あはは!って笑う父親似の低い声。
兄弟ってこういうことなのかなって。
だけどその時、僕はまだ気づいてなかったんだ。
とてもとても大事なことに。
*******
土曜日、近くの駅で待ち合わせして僕らは合流した。
僕は今日は休みだし、ジョンインは朝から働いてるので夕方前には終わる。晩ご飯まではまだ時間があるからと、適当にお店をぶらぶらと歩いて買い物をした。
久しぶりに服やら靴やら見て歩いて、ゲームセンターでゲームをした。大して可愛くもないようなぬいぐるみを取って、ジョンインははしゃいでいた。
ジョンインについて分かったこと。
彼は機嫌がいいと饒舌になるらしい。
不機嫌だったり眠くなると途端に無口になるくせに、機嫌がいいときはおしゃべりな僕でさえも呆れるほどずっと喋っているのだ。
そして今日もそうだったのか、ジョンインは楽しそうにずっと喋っていた。
"ねぇヒョンこれは?"
"ねぇヒョンあれやろう!"
"ねぇヒョンあっちにもあるよ!"
僕よりもデカいくせに僕の腕を掴んではしゃぐ姿は、まるで小学生みたいで。気がつけば僕もジョンインのペースに飲まれていた。
「そろそろお腹空いたしご飯食べる?」
「うん」
地下のレストランに入って、結局僕らはオムライスとハンバーグを頼んだ。
料理が運ばれる前にスマートフォンを確認する。メールを一件受信していた。
差出人は母親。
僕は何となくジョンインには見えないように画面を傾けた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
開いた画面には『変わりない?』といういつもの文字。
やっぱり何となくジョンインの前では返事を打ちづらくて、そのまま画面を消灯してポケットに突っ込んだ。
それから、運ばれてきた料理を食べながら、あのゲームはあぁだったこうだったと話をして、二人してたくさん笑った。
帰り道、ジョンインが僕の肩に腕を回して。ずっしりとのし掛かった重みは、まるでそれが兄弟の重みだと言っているようでくすぐったかった。
なのに「ヒョン?」と覗き込まれてあまりの近さに心臓飛び跳ねて。慌てて笑顔を作ると、ジョンインも照れ臭そうに笑った。
時折迷子の子供みたいな顔をするジョンインを、僕は何となく突き放すことができなくて。兄弟だから、という理由をつければ僕のモヤモヤは全部隠せてしまえるような気がしていた。
家に着いて順番にシャワーを浴びる。
最初に僕が浴びて、そのあとにジョンインが浴びた。
ジョンインのシャワーの音を聞きながら、僕はスマートフォンを取り出す。
さっきのメールの返信をするためだ。
『変わりないよ。母さんは?』
『こっちも変わりないわ。たまには顔見せなさい』
『うん、そのうちね』
何通かのやり取りをして一段落ついたとき、シャワーを終えたジョンインがタオルを被って出てきた。
僕はごとりとテーブルにそれを乗せた。
「……メール?」
「うん」
「彼女?」
「はぁ……?」
思っても見なかった言葉に思わず変な声が出た。
「なわけないじゃん!」
あはは、と笑って返すと「じゃあ誰?」って。
責めるような声でボソボソと呟くにから驚いて視線を合わせると、濡れた前髪の隙間からは淋しそうな瞳が覗いている。
「お前の知らない人だよ」
そもそも知ってる知り合いなんてベッキョンくらいしかいないけど。
とにかく、母さんだとは言えなくて……
僕はその時、
僕らは兄弟だけど家族ではないのだと思い知った。
僕には僕の、ジョンインにはジョンインの、家族がいるということ。それは絶対的な線引きで、平和に解決なんて出来ないのかもしれない。僕はその時弟を、ジョンインを、突き放すことが出来るんだろうか。
「そこ座って」
「……なに?」
「髪、乾かしてあげる」
ドライヤーを取りに行ってジョンインの元へと近寄る。
ベッドの脇に座らせて、僕はベッドの上からジョンインの濡れた髪を掴んだ。
黒くて真っ直ぐな髪は、やっぱり父親と似ている。誰かの髪にドライヤーを掛けたことなんて初めてだったけど、それはまさに兄弟のような距離感に思えた。擬似的な感情かもしれないけれど。
「ヒョン、」
「んー?」
「ヒョンって彼女とかいないの?」
ドライヤーの風の音の隙間からポツリとそんな事を言うもんだから、僕は「まだその話する?」と笑った。
「いないし、予定もない。淋しいこと言わすなよ!」
「そっか……よかった……」
「え……?」
呟かれた声は、安堵の様にも聞こえて。思わず動きが止まる。
「熱いってば!」
「……あ、あぁ!ごめん!」
ねぇ今、何て言った?
よかった、って?
どういう意味だよ……
どくん、と高鳴った心臓を持て余すように、僕はドライヤーを握り直す。
さらりと指の間を流れていった髪の毛にすら温度を感じた。柔らかな耳の裏や綺麗な首筋や、広い肩幅や少しだけ猫背の背中。
たとえばこんな時、後ろから抱き締めるのは兄弟の距離?
だから兄弟って何?
僕にはやっぱり難しい。
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