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恋の期限は愛のはじまり


*****



四角いクッキーの缶を振ると、カサカサと音がした



僕はその音が愛しくて、何度も振った



決して多くはない量の絵葉書



僕の宝物




*****


はじまりのつづき


*****




アメリカの大学に移ってすぐの頃、僕は彼に何通も必死に手紙を書いた。
勉強は面白いとか、友達ができたとか、それからハンバーガーはやっぱりデカイとかそんなことまで。
だけど、彼はさっぱり返事をくれなくて。まぁ、彼が机に向かって手紙をしたためる所なんてまったく想像はできないんだけど。そんなわけでちょっと拗ねてみたりして。勉強が忙しくなってきたのと、何だか虚しくなってきたのとで、僕も徐々に回数が減っていった。そうして、文通、と呼ぶには酷く一方的なやり取りと僕らの関係は終息を見せたかに思えた。


ところが、ところがだ。


あれから何年経った頃だろう。『今、ベトナムにいる』と書かれた絵葉書がぽつりと届いたのだ。ただ一言、綺麗な絵葉書の裏に汚い字で書かれていて、名前を見た瞬間、僕の心臓は驚くほど跳び跳ねたのを覚えている。
それからは、本当にたまにだけど、こうして絵葉書が届くようになったのだ。


そしてポストを覗けば、今日も一通の絵葉書が入っていた。
これで何通目になるだろうか。
彼は国境を渡るたびに絵葉書を寄越すようになった。


綺麗な時計塔の写真の裏に、今はプラハにいると書かれたそれを、背負っていたリュックに丁寧に仕舞って、僕は自転車に跨がった。
アパートメントから大学までは自転車で10分ほどの距離だ。それを颯爽と駆け抜けるのが毎日のお気に入り。今ではもう、路面電車の信号にも戸惑わなくなった。

僕は未知の国であるプラハに思いを馳せて、ペダルを漕ぐ足に力を込めた。



「おはよう」

大学の研究室に入ってロッカーの前で白衣を羽織る。
僕は今、大学院で地質学について研究している。あの頃は数学が好きだったけど、大学で学ぶうちに気付けばあまり関係のない地質学の方に興味が移行していた。
そんなわけでノーベル賞はまだまだ遠いけど、いつか彼に見つけてもらえるくらいになれたらいいな、とは思う。



「おはよう、なんだか機嫌がいいね」


同じ研究室仲間のレイが僕を見るなり声をかけてきた。
今日もやっぱりふわりとしていて、朝からとても穏やかだ。


「そうなんだ、これ」


そう言ってリュックから取り出した絵葉書を見せると、レイは「あ!」と声をあげた。
クリスのことは僕が提供できる数少ないプライベートの話なので、もちろんレイも絵葉書の存在は知っていた。


「今プラハにいるんだって」
「へぇ、きれいな町並みだね。プラハといえば、音楽の都だっけ?」
「うん、確か」
「ブレーメンの音楽隊?」


特別音楽に明るい訳じゃない二人で当てずっぽうの話をしてると、「それはドイツだろ」と同じく研究室仲間のルハンがやって来て丸めたファイルでお尻を叩かれた。


「はは!そっか」
「プラハといえば、俺達だったらモルダウ川。でしょ?」
「あぁ、そうだね」
「それより、花崗岩のサンプル届いてたよ」
「あ、ほんと?ありがとう!」




あれから、もうすぐ8年が経つ。
月日というのは本当にあっという間なんだと思い知った。
懐かしむような青春時代を送れなかった僕にとって、あの二週間は今でも強烈な思い出だ。

クリスは僕の初めての友人で、初めての恋人で、たったひとりの大事な人。

あの二週間があったから僕は頑張れた。


高校生らしい恋がなんだったのか、実は未だによく分からない。確かにアメリカに来た当初は勉強に追われる毎日で恋愛どころではなかった。勉強に、大学に、アメリカという国に、慣れるのに必死だった。だけど、そういう色んなものに慣れた頃、ふと立ち止まってみると、僕は一体何をしてるんだろうと酷く虚しくなったりもして。
彼と、大事な人と離れて、がむしゃらに勉強して、僕は何になろうとしてるんだろうって。


会いたい。クリスに、会ってあの大きな腕で抱き締められて、僕のくだらない話を飽きるまで聞いてもらって、仕方ないなって呆れたみたいに笑われて。そうやってあの屋上で日が沈むのをぼんやりと眺めたい。


ずっと、会いたかった。
声も聞きたかったし、触れたかった。


彼から絵葉書が届いたのはそんなときだった。


本の世界を体感するために世界中をまわるのが夢だ、とクリスは言っていた。ベトナムから届いた絵葉書は、紛れもなくその事を差し示していて、僕はあの日、彼と再会したとき恥ずかしくない人間になってなくちゃ、と誓っていたことを思い出した。

僕は、あの頃描いた大人になれてるだろうか。





「世界旅行かぁ、いいなぁ」


夕方、研究室を出た僕たちは、大学近くのレストランに来ていた。

レイの呟いた言葉にルハンも頷く。


「確かに。俺も、行ってみたいところも見てみたいものもたくさんあるなぁ。いくら本や資料で知っていたって、実際にその場に行って感じることって無限大だと思うんだよ。そういうのを肌で感じるのって、貴重だろ?俺達の地質学はいつも顕微鏡の中だ」


確かに、と三人して笑った。


「さすが、ルハンは優秀だね」
「じゃあ、顕微鏡の中の世界に乾杯?」
「もちろん!顕微鏡の中の世界に乾杯!」
「「乾杯!」」


本の世界を体感、だなんて確かにクリスのやっていることは、とても馬鹿げてることかもしれない。でも一方でとても貴重な経験なんだろうな、とも想像する。
このアメリカですら母国とはまるで違うのだから、世界中をまわれば違うところだらけなんだろう。だけどそれが言葉でいうほど簡単じゃないことはきっと誰でも想像がつく。それを本当に実行してしまえるあたり、クリスはやっぱりただ者じゃあないんだな、って。なんせ、期間限定の恋人、なんて引き受けてしまうくらいなんだから。
提案したのは僕なのに、あまりの馬鹿馬鹿しさを思って苦笑した。



「なに、ひとりで笑って」


レイが面白そうな顔でつついてきた。


「いや、彼のことを思い出してさ」
「ジュンミョンの王子様ってどんな人なんだろうね」
「俺はこんな絵葉書なんか送ってくるくらいだから、きっとすごい気障なやつなんじゃないかって想像してるけど?」
「そうなのかなぁ、」


自分では正直よくわからない。


「そういえば、クリスって言やぁこんなことがあったんだ」とルハンが思い出したように話始めた。

なになに?とレイは興味津々で、僕は少し頭痛がした。



「ジュンミョンが編入してきてすぐの頃なんだけどさ、こいつ小指にピンキーリングっていうの?指輪をしてたんだ。ブルーの綺麗なトルコ石のやつ。それを講堂で無くしたって騒ぎだしてさ。まだこっちに来たばっかりでろくに知り合いもいない頃だよ。ないないって騒いで終いには泣き出すもんだから、みんなもう大慌てで。だってそうだろ?あんな幼い異国からの学生をみんな放っておけないじゃん。でも全然見つからないから、もう諦めたら?って言ったら絶対嫌だって言ってきかなくてさ。その内に騒ぎを聞き付けた教授やらまで出てきちゃうし」


あれはすごかったよな、とルハンは一息にしゃべって笑う。


「もー、やめてよ!恥ずかしいんだから!」
「あれはある意味伝説だろ?ブラウン教授まで出てきたんだから」
「うそ!ブラウン教授ってあの?」
「うん」


ブラウン教授、とは物理学の教授で堅物で有名なのだ。そんな教授まで出てきたとあれば、事の大きさが分かるだろうか。


「で、それが王子様とどんな関係があるの?」
「あぁ、その指輪だよ。クリスにもらったのにぃ~って泣いてたんだよな」


ルハンが冷やかすように笑うので、僕は思わず唇を尖らせた。


「ルハナ、もうその話はやめてよ~」
「だってあんまりにも可愛かったから。あの時のジュンミョンは本当に天使みたいだったよ」


そんなこと、それこそ天使の微笑みをもつルハンに言われたって、複雑になることに気付かないのだろうか。

ルハンは僕が編入したときにすでにこの大学の学生で、何を思ったのか僕の面倒をよく見てくれていた。なのでこの騒ぎのことはよく知っている。
一方でレイは、他の大学院から転籍して来たので、学生時代のことは知らないのだ。


「それで、指輪は見つかったの?」
「あぁ、椅子の隙間に落ちてたんだ。どうやったらあんなところに落ちるのか、未だに謎だけどな」


そう、あの指輪は無事僕のもとへと戻ってきたのだ。あれ以来無くすのが怖くて大事にしまったきりだ。
僕はなんだか久し振りにあの指輪を眺めたくなった。


彼はアクセサリーが好きなのか、あの大きな手にはいつもゴツゴツとした指輪やブレスレットが並んでいた。他にもネックレスやらピアスやら。シルバーの厳ついものがほとんどだったけど、あの指輪だけは特別だった。小さなブルーのトルコ石が綴ってあって、彼らしくないそれがとても綺麗だったんだ。



*




「ジョンイナ、帰ってたの?」
「あぁうん。ヒョンこそ遅かったね」
「うん、研究室のみんなでご飯食べてきたから」
「そっか」


この、浅黒い肌の青年ジョンインと僕は、ルームシェアをしている。
父の知り合いの息子だとかで、近々ご子息がダンス留学をするんだと聞いて、それならうちの息子と一緒に住まわせればいい、と父が勝手に決めてしまったのだ。
初めて会った彼は最初とても無口だったけど、今ではすっかり懐いてくれている。良くも悪くも。


「ジョンイナはご飯食べた?」
「えぇ、適当に」
「そっか」

「あの、ヒョン……!」
「ん?なに?」


キッチンで水を飲んでいると不意にジョンインに呼ばれたので驚きつつも振り返る。なのに彼は「いえ、なんでもないです……」と弱気に答えるので、僕は不思議に思って首をかしげた。


「……そ?」
「はい」


まぁ、急を要さないなら言いたくなったら勝手に言うか、なんてこの時僕は呑気に構えていたんだ。




「……ジュンミョニヒョン」


冷蔵庫にボトルを戻そうと手を掛けたとき、背後から柔らかな温もりに包まれた。


「ジョンイナ……」


僕は小さく溜め息をこぼし、その手をとんとんと叩く。
こんなことしちゃダメだよ、って。

ジョンインが僕に寄せている淡い気持ちを、僕はこれでも知っているつもりだ。言葉にはしないけれど時折こうして包まれる温もりから痛いほどに伝わってくるのだ。お互いに明確にはしてこなかった思いが、もはやそこら中に漂っている。

僕の心の真ん中には、今でも彼が鎮座いている。

だからゆっくりと腕をほどいて、自室へと戻った。


「おやすみ」


リビングの向こうではジョンインが掛けていた音楽がうっすらと流れていた。












「はぁ……」


自室に戻ってベッドの上、また小さく溜め息をこぼした。
自分にとってジョンインは弟のようなもので。それ以上でもそれ以下でもない。

ナイトテーブルの引き出しの二番目。
そこをゆっくりと開けると鈍く輝くクッキーの缶。
それをそっと取り出して蓋を開けた。
もう何枚になるだろう。
鮮やかな絵葉書はだいぶ嵩を増してきた。
僕はそこに、今朝届いたプラハからの葉書を乗せた。




「リスや……どうしたらいいんだろうね」


数式のように簡単には解けない問題を彼に委ねる。


「お前が僕を迎えに来てくれたら全部片付くのに……」


なんて、そんなわけないのに。


さっき抱き締められた腕はいつもよりも力強くて、呟かれた名前は酷く苦しそうで、僕は不覚にも心臓が高鳴りそうだった。けれどジョンインにそうされればされれるほど、僕はクリスを思い出す。あの優しい笑顔を。暖かい腕を。


あの頃、恋が何かも知らなかった少年は、いつの間にか言葉にされずとも気づけるまでになっていた。



絵葉書の下に潜り込んでいた指輪を取って、久しぶりに嵌めてみた。
あの時のように天に翳して今は蛍光灯に当ててみる。
淡いブルーは少しも変わらずに輝いていて、胸を覆う彼への想いも変わらずそこで主張しているようだった。


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