記憶の片隅
「……ファン!」
ルーハンの声がして慌てて目を開けると、そこにはウーイーファンが立っていて、銃を握る彼の腕を掴んでいた。
「あ……」
「間に合ってよかった」
そう言ってルーハンの手から銃を抜き取ると、今度は僕の腕を掴んで引き寄せられた。
掴まれた手の感触に何故だか既視感を覚える。
こんなときに……
こんなときだからこそ?
「なんで止めるんだよ!僕はこいつを殺さないと気が済まないんだから!」
「分かってるさ」
「だったら何で止めるんだ!」
「……俺が許さないから」
ウーイーファンの瞳は強く真っ直ぐだった。
「は……?」
「こいつを撃ったら俺はお前を撃つ」
「なに、言ってんだよ……」
「本当だ。あぁ、それともうすぐシウミンが着くぞ。イーシンがやっと見つけたんだ」
「え、うそ……シウミン見つかったの……?」
「あぁ。」
力が抜けたようにその場に崩れたルーハンにウーイーファンが「南埠頭だ」と声を掛けると直ぐ様立ち上がった。
「タオ、車!」
「うん!あっち!」
タオが指差すと急いで駆け出した。そんなルーハンを追ってタオも駆け出す。僕は呆気にとられてウーイーファンを見つめた。
「あの、どういうことですか?なんであなたがいるんですか?この鍵はなんなんですか!?」
混乱する頭で矢継ぎ早に尋ねた。
「あぁそうか。悪かったな。お前は何も知らないのか」
俺たちはみんな仲間なんだ、とウーイーファンは笑う。その笑みはやっぱり見覚えがあって。それから頭に血が昇るのが分かった。
「半年ほど前、ルーハンの恋人──シウミンがお前と間違われて拉致られた」
「……なん、で?」
どこから話せばいいんだ?と頭を捻ったあと、お前の両親が韓国マフィアの一員だったのは知ってるか?と尋ねられたので、僕は初めて知った事実に、思い切り頭を左右に振った。
「お前の母さんは向こうのボスの愛人だったんだ。だが、下っ端のお前の父さんとの子を身籠った。ジョンデ、つまりお前だ。最初は隠していたようだがその内にバレて逃げるようにこの国にやって来て、助けを求めるようにうちの組織に入った」
あぁ、それがこの国に来た理由だったのか、と僕は今更ながらに知ることになる。
必死に隠した本名や国籍。中国人になれ、と言った父さんの言葉。ひとつひとつが繋がっていく。
こっから先はあまり良い話じゃないんだが、と前置きをしてウーイーファンは続けた。
「でもお前の母さんは切れてなかったんだ。と言うより、スパイだったって言った方が分かりやすいな。全部向こうの会長の差し金だった。密かにうちの情報を流してたんだ。それがうちの会長、まぁ、俺の親父なんだが。それにバレて慌てて帰っていったのがそれから二年後のこと。スパイだったってのはお前の父さんも知らなかったらしい。確か相当な拷問を受けても何も出なかったから、まぁ、騙されてたんだろう」
他人の口から自分の人生を、それも知らなかった部分を聞かされて、何だか妙な気分だ。受け止めきれないほどの事実をどんどんと吹き込まれて、混乱を通り越してもはや他人事に近いくらいなのに、片方ではやっぱり酷く動揺していて。
それでもそれを話すウーイーファンの瞳はとても優しくて、それだけが僕の救いだった。
やっぱり、この瞳を知っている。
「そしてお前の父さんがそれを知ったのが、1年くらい前になるのか。俺の元にやって来て全て話したよ。殺されるかもしれないってのに。そして俺に預けたんだ」
「……?」
「鍵。お前に渡しただろ?」
はっとして胸元のチェーンを取り出す。
この鍵は父さんが預けたものだったのか……
遥か昔に見た父親の笑顔が蘇って、無性に胸が苦しくなった。
「そこにはお前の母さんの日記が入っている。向こうのボスの秘密も書いてあるから何かあったら使ってくれと言われたよ。それから、息子にも見せてやってくれ、と」
「僕に?」
「あぁ。」
「父さんは今、どこにいるんですか?」
恐れていたことを伺うように尋ねる。
ウーイーファンは僅かに表情を曇らせた。
「そのネタを餌に揺するつもりか向こうに渡ったが、もうすでに遅かったらしい。秘密を知ったお前の父さんも消されたと知らせを受けた」
「そっ、か……」
父さんも母さんも、もう生きていないような気はしていた。だから僕の勘は当たるんだ。
大丈夫か?とウーイーファンが肩を撫でるので、僕はそっと抱きついた。
あぁ、だからこの既視感。
前にもこうして抱き締められたことがある。
僕はこの腕を知っている。
「聞いても、いいですか?」
「あぁ、なんだ」
「あなたは……僕のこと、知ってましたか?その、ずっと昔に……」
さっきからずっと、いや、鍵を渡されたあの時からずっと感じている既視感の正体を、この人は知っているんだろうか。
願いを込めて見つめると暫しの沈黙のあと、ウーイーファンは重い口を開いた。
「……お前の母さんが姿を消したすぐ後だったか。公園の砂場で一度会っている」
やっぱり……
「幼いお前はビービー泣いてて、あの時もこうやって抱き締めた気がするな」
「そっか、あれはあなただったんだ……」
僕の心の底で密やかに眠っていた記憶。
母さんがいなくて、砂場でひとりぼっちで、転んでも助けてくれる人もいなくて、悲しくて淋しくて泣きそうなのを必死で堪えて、への字口になってる僕を見て「変な顔だな」って笑ったんだ。馬鹿にされたようで堪えていたものが堰を切ったように溢れ出て、声をあげて泣いてる僕の腕を掴んで立ち上がらせてくれて、砂をほろってくれて、抱き締めて宥めてくれた。
あれはウーイーファンだったのか。
「……覚えてるのか?」
「忘れてました……でも、今思い出しました……」
「そうか」
何故だか、心が暖かくなるのを感じた。
ひとまず出よう、と言うので僕も黙って車に乗り込んだ。
運転席でハンドルを握るウーイーファンを横目で盗み見る。ルーハンとはタイプが違うが、彼もまた恐ろしく整った容姿をしている。
その横顔を見ながら、あの時のことを思い出すと、徐々に記憶が蘇ってきた。
顔も忘れていたあの少年のことを……
着いた先は僕のアパート近くの駅。ドアを開けられたので降りると、彼は黙って歩き出した。僕も黙って後につく。
黙々と前を行く彼がどこに向かっているのかときょろきょろしながら歩いていると、顔面からウーイーファンの背中にぶつかって思わず声をあげた。
「ちょっと!急に止まんないでくださいよ!」
「あぁ?悪い。着いたぞ」
顎で示す方を見れば、そこには規則的に並ぶおびただしい数のロッカー。
あぁ、そういうことか。
僕は胸元のチェーンを引き抜いて鍵を抜き取った。
ロッカーのナンバーは0921。僕の誕生日だ。
鍵を差し込んでゆっくりと回すとカチャリと音をたてて解錠を知らせる。
恐る恐る扉を開けると、古いダイアリーがぽつりと佇んでいた。
そっと震える手を伸ばした。
母さんの日記……
ほとんど覚えていないはずの母さんの温もりを思い出したようで、少しだけあの日の寂しさが蘇える。
行くぞ、と声がかかり、僕は日記帳を胸に抱えてまた後について車へと戻った。
そうして今度はどこに向かうのかと思えば、着いた先は大きなオフィスビルで。きっと表向きの貿易会社の方なんだろう。
役員室だろうか、豪華な個室へと通された。
楽にしてろ、と言うので遠慮がちに応接用のソファーに座らせてもらい、抱えていた日記帳に視線を落とした。
「見ないのか?」
「……見ても、良いんでしょうか?」
「あぁ?あー、ロッカーにいれる前に一通り目を通させてもらってるから、そこにある秘密なら俺はもう知っているんだ。見なくても予想はついていたようなことだが、お前自身のことでもあるから怖ければ無理にとは言わない」
「僕、自身?」
「あぁ。でも俺は、見るべきだと思う」
ウーイーファンは目を細めた。
それは安心するほどの優しげな笑み。
僕は意を決して、そっと表紙を開いた。
その日記は母さんが僕を身籠ったと知った日から始まっている。喜びや不安、そして僅かな葛藤。
そして、その中に紛れるようにあった目を見張る一文は、僕の本当の父さんは向こうのボスだったということ。そしてそのボスの指示で父さんの子として産み育てることになったこと。いつかスパイとして送られるかもしれないと。向こうのボスは母さんが裏切らないように、わざと僕を産ませたんだ。
僕は人質。生まれたときから人質だったんだ。子の父親を裏切らないために。
恐らくその辺が父さんのいう向こうへの脅迫材料だったのだろう。
そしてやっぱり父さんには全部隠していたようで、秘密にしてるのが辛くなってきた、とも記されていた。
裏切り続けるその人が子に注ぐ愛情。
それでも母さんに捨てられたと思っていた僕には、余りあるほどの愛情が書かれていた。
僕は、母さんとは10年も一緒に暮らせなかった。なんだかそれが今更に悔やまれて、その文字を追う作業は胸が詰まるほどの思いだった。
そして最後のページ。
父さんが、恐らく後から書き足した一文。
──それでもジョンデは誰がなんと言おうと俺のたった一人の息子だ──
僕は知らずに涙を溢していた。
母さんにも父さんにも捨てられたと思っていた僕は、なんて親不孝な息子なんだろう。
こんなにも愛されていた。
ウーイーファンが隣に座って、僕は暖かな胸に包まれて、あの子どもの頃のように声をあげて泣いた。
二度と戻らない家族の日々。
「あのー、お邪魔して悪いんだけど……」
見知らぬ声に、慌ててウーイーファンの胸から離れて必死に涙を拭った。
「あ!赤くなっちゃうからそんなふうに擦らないで」
ちょっと待ってて、と言ったあと再び戻ってくると、はい、と温かい濡れタオルを差し出されて、不躾にもその人物を見つめた。
「イーシン、戻ったのか」
「うん、今みんなも来るよ」
「悪かったな、お疲れ」
「いえいえ、隊長様の初恋のためですから」
「初恋……?」
「イーシン、おいっ!」
ウーイーファンが声を荒げたにもかかわらず、その人はゆったりとした動作で「隊長様」と彼を指し「の、初恋」と今度は僕を指す。
ウーイーファンは唸りながら頭を抱えてしまい、僕は思わず吹き出した。
彼はチャンイーシンといって、ウーイーファンの右腕らしい。そしてウーイーファン曰く「こいつのリズムはハーフビートずれてるからあまり真面目に相手にするな。疲れるだけだぞ」ということらしいけど、悪い人では無さそうで安心した。
悪い人ではない、という表現が合っているのかはこの際考えないでおこう。
コンコン、とノックの音と同時に開いた扉からぞろぞろと人が入ってきて、「これじゃノックの意味がないだろう」とウーイーファンが呟く。
僕はその中にルーハンを見つけて「あ、」と呟いた。
「チェン、さっきはごめんね」
ホントですよ!と笑うと、ルーハンも苦笑いを溢した。
ルーハンに手を引かれた人物を見て「その人がシウミンさん?」と尋ねる。するとルーハンは嬉しそうに頷いていて、こちらまで嬉しくなった。
あぁ、やっぱりルーハンは笑顔が似合う。
目尻の皺はその人への愛情の深さを物語っていた。
「君がチェン?」
「はい、そうです。僕の代わりに、すみませんでした」
「いや、それはいいんだ。それより、親父さん助けてやれなくて悪かったな」
父さん……
その言葉に一気に気分が沈む。
「……いえ。もう死んでるような気はしたんで」
なのに。うつ向きながらそう答えると、シウミンは不思議そうに「んー?」と高い声で首を傾げた。
「親父さん、多分死んでないぞ」
「へ……?」
「逃げたって言ってたから」
「そんな……!」
「いやいや本当。それで誘き出すために息子のお前を拉致ようって計画したみたいだし」
「そう、ですか……」
生きてるんだ……
じゃあまたどこかで会えるかもしれない。
親孝行できるチャンスがくるかもしれない。
僕は思わず喜びに胸を撫で下ろした。
すると大きな手でそっと頭を撫でられて、さらに心が暖かくなる。
「なに?いつの間にそういうことになってるの?」
「まぁ、いつの間にっていうか、隊長様の初恋だから」
ルーハンの言葉に先程のようにチャンイーシンが指を指しながら答えると、ルーハン以外の皆は一斉に「あぁ!」と声をあげた。
「「砂場の天使!」」
あはは、と上がる声の中で、ウーイーファンはひとり気まずそうに「悪いか」と呟いていた。その耳が少しだけ赤くなっている。僕までつられて赤面した。
だってそれは、僕にとってもきっと初恋だったから。
あの日ひとりぼっちの恐怖を埋めてくれた優しい手。忘れていた自分があまりに情けなくなるほどに。
それほど、この手はすんなりと僕に馴染んだ。
一方で、みんなの影でルーハンだけは「マジか……」と頭を抱えて呟いていた。
「それにしても、よく無事だったな」
ウーイーファンが話を変えるようにシウミンに問いかけた。
「ん?あぁ。途中まではやばかったよ」
「途中?」
「おぉ。運よくスホに会えてな。俺に何かあったらルーハンが黙ってないぞって脅してやった」
「はは、そうか。あいつ元気だったか?」
「まぁ、相変わらず」
「だろうな」
「そのうちファンに来させるって言っといたから頼んだぞ」
「わかった」
お前も行くか?とウーイーファンに急に話を振られて、流れについていけない僕は眉を垂らして困り顔で返した。
「お前の本当の父さんは向こうのボスだから、時期会長のスホはお前の兄さんだ。母親は違うが、半分血が繋がっている」
会いたいなら連れて行くが?と言うので、考えて「今はまだいいです」と断った。
「そうか」
今はまだいい。僕は父さんの子でいたいから。だけど、この世に僕の兄がいると言うなら、いつか会ってみるのもいいかもしれない。そんなふうに思えたときにはきっと連れていってもらおう。なんて密かに思った。
「そう言えば、なんでシウミンさんが僕に間違われたんですか?全然似てないのに」
僕は浮かんでいた疑問をふと口にした。
似てるといえば身長くらいだろうか。
それでもひょろりとした僕とガッチリとした彼とでは似ても似つかない。顔だってそうだ。彼は一重の大きな瞳で僕はぱっちりとした二重だし、唇だって彼は薄くて控えめな唇で僕はぽってりとしたアヒル口。それ以外のパーツも全くもって正反対。間違われたくらいだから似ているのだろうと勝手に想像していたのに、まるで違うシウミンを見て僕は疑問に思っていた。
「あぁ、それは、」
と言ってシウミンの口から続いた言葉は酷く懐かしい響きを持って僕の鼓膜を震わせた。
母国、と言えば聞こえはいいが、僕にはもうあの国の記憶はほとんど残っていない。
父さんも使わなくなっていたその言語を、僕が今さら聞き取るなんてことはどうやら難しいようで、残念ながら「こんにちは、キムミンソクです」と発した冒頭の部分しか聞き取れなかった。
「シウミンはお前と同じ韓国人なんだ。だから中国語にすこーしだけ訛りがある。ほとんどの人間は気づかない程度だけどね」
お前と一緒だよ、とルーハンが笑った。
あぁ、だから僕の声を聞きたいと言ったのか!
どんどん点と点が繋がっていき、徐々に朧気な線を描き始めた。
「そうだ!シャオルー、チェンチェンのこと知ってたよね!なんで?」
だけどさ、少なくとも今その一言は必要なかったと思うよ。
あぁ、なんだかものすごーく嫌な予感がする。
だから僕の勘は当たるんだってば。
「ん?そうなのか?」
ウーイーファンが声をあげた。
「へぇ、そうなのー?」
チャンイーシンが声をあげた。
「どういうことだ?」
シウミンが声をあげた。
そしてルーハンを見やると、盛大に苦笑を浮かべていて……
「……し、知らなかったんだよ、たまたまね!たまたま!」
「たまたま、なに?」
「もー!シウミンが急にいなくなるから!」
しどろもどろになりながらも「そろそろ行こうよ!ね?」とルーハンはシウミンの腕を掴んで背中を押した。
バタバタと部屋を後にして、なんだかな、と胸を撫で下ろしたのも束の間。
ルーハンは戻ってきて爆弾を投下した。
「チェンの右側のお尻、ホクロ三つ!」
「ルーハンさん!!!」
おわり