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記憶の片隅




「……はぁ、またか」



気配を感じてショーウィンドウのガラス越しに確認すると、瞬時に隠れる人影が見えた。やっぱり誰かにつけ回されている。初めは気のせいかとも思ったが、どう考えても気のせいではなさそうだ。




心当たりならたくさんある。
あの店で働いてることも、父さんが急に居なくなったことも、おそらく只者じゃあないルーハンと寝たことも。




でも一番はきっと……





ウーイーファンはどうして僕にこの鍵を預けたんだろう。
いつまで預かっていればいいのか。それからどうして刻まれたナンバーが僕の誕生日なのか。
何一つわからない。
もしかしたらすべて偶然なのかもしれないし、すべて意味があるのかもしれない。

でも、意味があったとしても僕なんかにはわかるはずもなくて……




この鍵を持っている限り、僕は狙われ続けるんだろうか。
そう考えると、さすがに少し怖くなった。





「あ……」



ポケットの中で震える画面を見ればルーハンからのメール。



『今日休みだよね?この前のホテルで待ってるから』



光るそれを消灯させてポケットへと仕舞い、視線を避けるように建物から建物へと通り抜け、僕はこの前のホテルへと向かった。





「早いじゃん」
「そうですか?」
「うん、優秀だね。あ、ねぇ、ご飯食べた?」
「いえ、まだです」


じゃあ何か頼もう、とルーハンは備え付けのメニュー表に目を通す。


「好き嫌いある?」
「いえ、特に」


次々と部屋に運ばれてきたのはこの国の高級料理で、僕なんかは初めて食べるような高価なものばかりが並んでいて、呆然と目を見開いていた。



「どうしたの?食べないの?」

「いえ……いただきます!」




夜と呼ぶにはまだ早い時間から紹興酒を煽って、その日のルーハンはよくしゃべった。僕は時折相槌を打ちながら彼の言葉を聞いていた。こんな風に和やかに誰かの話を聞くのはとても久しぶりな気がする。

とは言えルーハンがしゃべった内容はといえば、酷く下世話な話ばかりで。けれどそれは僕らの関係に何だか似合っているような気もした。




幾時間かが経った頃ふと沈黙が落ちて、僕はルーハンの表情を伺った。



「ねぇ、お前もしゃべってよ」



チェンの声が聴きたいんだ、とルーハンは呟いた。



「ルーハンさんの言葉、すごく綺麗だなぁと思って……聞き惚れてました」



ニコリと微笑んで言うとルーハンは仄かに頬を赤らめた。

現に、ルーハンのそれはとても綺麗だった。僅かに溢れる巻き舌は耳障りがいい。少し低い声もその魅力を倍増させたし、きらきらと光る丸い瞳がこれまた驚くほど綺麗で。僕は正に魅入っていたのだ。



「はは、北京の人間だからかな」
「え……あぁ!北京ですか。どうりで」


「行ったことある?」なんて聞かれて、いえ、と苦笑した。僕は幼い頃にこの町に来てから、一度たりとも出たことがない。



「閉鎖的な街だよ。威厳ばっかり拘って、新しいものを受け付けない。住みづらい街……」
「きっと自分達の街に誇りがあるんですね」
「誇り、か。そうなのかな」


懐かしいなぁ、とルーハンが呟いた。


「どうして上海に?」
「まぁ……、いろいろ?」


おどけたように笑って、ルーハンは紹興酒を煽った。


カタン、と音を響かせてグラスを置くと、そのまま手を引かれてベッドへと連れていかれる。
この前とは違う荒っぽいキスを仕掛けられて、押し倒された。一気に酒が回る。
二人とも酒が入っているせいで、吐息は熱いし、心拍数はぐんと上がる。

一旦キスをやめるとシャツに手を掛けられて。ボタンを外していくその手を、僕は目線で追いかけた。
徐々に露になってく胸元。


「ん……?」


不意にルーハンの手が止まった。


「なに、お前鍵っ子なの?」

「へ……?」


あ……。


酔っ払ったせいですっかり忘れていた。
鍵の存在。


うん。でもまぁ、ルーハンならいいか。


酔っ払いの思考なんていい加減なものだ。



「はは、違いますけど似たようなもんです」


なにそれ、とルーハンも笑う。


「じゃあこっちの指輪は?恋人?」
「違いますよ。母さんのです」
「へぇ。じゃあ外すか」


お前の母さんに見られてるみたいで恥ずかしい、なんてルーハンらしくもないことを言うもんだから、チェーンごと首から外して隣のナイトテーブルへと置いた。
ジャラリ、と音が響く。


「これでいいですか?」
「いいねぇ」


ルーハンはニヤリと笑みを浮かべると、今度こそ露になった胸を弄り始めた。
べろりと暖かな舌が這わされて思わず声が漏れる。


「はっ……あ……っ……」


びくびくと跳ねる身体。
それを持て余すように漏れる吐息。
僕は必死に堪えようと彼の背中に腕をまわした。


「る……、はんっ……」



ぎゅっとしがみつくように抱き締めて呟いた。




「……どう、しました?」




ルーハンの動きが止まったのだ。


なにか、不味いことでもしただろうか。
無言で俯くルーハンを前にサーっと血の気が引いていく。

揺れる前髪に隠れるその瞳を探るようにおずおずと見つめた。



「ごめん!飲みすぎたかな、今日ダメだわ!」



さっきまでの熱はどこへやら、動揺を隠すように声を張り上げて、ルーハンはそのまま起き上がった。



「あ、お前のだけやってやるよ!」なんておどけながら振り返った瞳がほんの少し赤く潤んでいて、僕は堪らず抱き締めていた。





「なんの、真似……?」


「なんでしょう……」




自分でもよくわからない。
でも、何だかそうしなくてはいけないような気がして……

あの、儚げに揺れる瞳を覚えていたからだろうか。




「離してくんない?」


「……嫌です」



抱き締める腕にさらに力を込める。



「ねぇ、お前何なの?恋人にでもなったつもり?」
「まさか!」
「だったら離してよ」
「ダメです!」



ルーハンは、はぁ、と溜め息を溢した。
びくりと肩が揺れる。



「僕、面倒くさいの嫌いなの」
「……わ、わかります!」

「……ったく、お前に何がわかるんだよ」


「え……?」


「シウミンみたいなしゃべり方で分かるとか言わないで」



もういいから、大丈夫だから、と背中を叩かれて渋々腕を離すと、ルーハンはいつもの顔で笑っていた。
なんだかほっとして、力が抜けた。




「あの……シウミンって、恋人ですか?」


聞いちゃいけないかな、とも思ったけど、その疑問は既に口から溢れていた。


「そ。急に居なくなっちゃったけどねぇ」


苦笑混じりにルーハンが呟く。




──あぁ、だからか。



『絶対に急にいなくならないでね』



初めて寝た日に言われた言葉。



「寂しいんですか?」

「はは!なに言ってんの?」


ルーハン様を見くびらないで、なんて笑っているけど、僕はなんだかその寂しさがわかる気がして少しだけ切なくなった。
大切な人が急にいなくなった寂しさを埋めることは、簡単なことじゃない。その人が近ければ近いほど尚更。

ナイトテーブルに転がる指輪にそっと視線を移した。




母さんが書き置きを残して居なくなった日、僕は一日中泣いていた。自分は捨てられたのだという事実が幼かった僕にのし掛かって、まるで絶望の縁に立たされているような気がしたんだ。幼かった僕が受け止めるには大きすぎる出来事だったから。
そして、父さんが居なくなった日。僕はかつての父さんがそうだったように、何事もなく過ごした。淡々と。昨日をそのまま繰り返すように。あの時悲しまない父さんを見て何て冷徹なんだと罵ったけど、それが最善の方法なんだとその時初めて知ることになった。

だって泣いたって大事な人は戻ってこないから。

僕を捨てた人たちに、僕は傷付けられたりなんかしないんだ。


そう心に誓った。





そういえば、母さんが居なくなった次の日だったか。父さんの用事を待つため公園でひとり遊んでいたとき、見知らぬ男の子に声をかけられたことを、ふと思い出した。



もう顔も覚えていない、名も知らぬ少年。年上だっただろうか。
けれど、優しかったあの手だけは覚えている。

砂場で足をとられて転んだ僕を、その子は立たせてくれて砂をほろってくれたんだっけ。その子も誰かを待っていると言っていた気がする。
あの頃の記憶は酷く朧気だ。



「どうしたんだよ」
「いえ、なんだか急に昔のことを思い出して」
「昔のこと?」
「えぇ、母さんに捨てられたときのこと、です」


言うとルーハンもナイトテーブルの上へと視線を向けて一瞬悲しそうな目をした。
それから、「僕は別に捨てられた訳じゃないからね!」と声をあげたので、途端に可笑しくなって二人して声をあげて笑った。


彼の目はほんの少し切なさが滲んでいて、つられるように切なさが胸を覆った。



どうかルーハンも、


そんなことで傷付かないでほしい。



**



最悪なときは、いつも突然にやって来る。



映画だって小説だって。
それから現実だって。
相場はそうと決まっているらしい。




明け方ホテルを出た僕の前に一人の男が立ちはだかった。
全身を黒で纏めていて、すらりと長い手足に鋭い目つき。随分と分かりやすく危険な香りのする男だ。


「見ーつけた」


その言葉から僕をつけ回していたのはやっぱりこの男だったのか、と悟った。

ついに捕まってしまったんだ。



「……何、か?」

「あなたの名前はキムジョンデ……あたり?」



その容貌とは似つかわしくない幼げなしゃべり方で懐かしい名前を呼ばれて、思わず目を見開いた。



「やった!あたりだね」

「……何で、知ってるんだ」



絞り出した言葉は予想以上に低く強張っていた。

僕はこの国で生きていくために、国籍の違う本名は常に隠してきたんだ。だからその名前は両親以外は知り得るはずがないのに……




「さぁ、なんででしょう。まぁとにかく、THE ENDだよ」

「は……?」




THE END……

僕はやっぱり……死ぬの?




「ってまぁ、生きるか死ぬかは知らないけどねぇ~」



軽薄な笑顔とは裏腹に酷く物騒なことを言われて、眉間にシワが寄るのが分かった。



「あぁ、そうだ!鍵!あれなに?なんの鍵?」



瞬間、服の中で揺れる鍵に神経が集中する。


やっぱりこの鍵はヤバい鍵だったのか……


後悔したってもう手遅れみたいだけど。




『大事なものだから用心して欲しい』




ウーイーファンの言葉が脳裏を過った。


「だから鍵だって。隊長から預かったでしょ?僕知ってるんだから」



無言で佇む僕に苛立ちを露にしながら「あとでご褒美もらわないと」なんて言って目の前の男は電話を取りだし操作を始めた。
その隙に逃げようか、とも考えたけど、あぁきっと無理だろうな。この、明かに只者じゃない男からはきっともう逃げれない。本能が察知する。むしろ今までよく逃げてきたもんだ。


なんだって、僕の人生はこんななんだ。
目立たず真面目に生きてきたはずなのに。
僕は、さっきまで隣に眠っていたルーハンの寝顔を思い出していた。とても綺麗な寝顔で、まるで天使でも見てるみたいだと感心した。美人はやっぱり寝顔も綺麗なんだ、なんて納得して。なんだかとても幸せだったような気がする。なのにこの落差はなんなんだと笑いたくなった。

あぁ、そうか。冥土の土産?



それから、僕に鍵を預けたウーイーファンを呪いたくなった。突然現れていきなり鍵を押し付けて。

僕の誕生日と同じ番号を持つ鍵。
偶然か必然か。


そう考えるとこの鍵が僕のもとにやって来た時から、既に僕のカウントダウンは始まっていたのかもしれない。







「チェーン!」



ホテルの方から声が聞こえて、僕は咄嗟に振り向いた。ルーハンだ。



こんな時に……



とにかくここへ来てはいけない、と合図を送ろうとしたのに、今度は目の前から声が上がる。




「あ!シャオルー!」
「タオ……?」
「今ちょうど連絡しようと思ったのに!」
「なんだよ、こんなとこで」




親しげに話す二人を見て、僕は驚愕した。



どういうことだ……?



「えっとねぇ、見つけたよ!ほら」




そう言ってタオと呼ばれたその男が僕を指す。




「何言ってんだよ……、こいつはチェンだろ」

「そうじゃなくて!この人に間違われてKに拉致られちゃったんだって。それに隊長からなんかの鍵も預かってるみたいだし。きっとなんか知ってるよ」



ルーハンの表情はみるみる内に強張っていく。



「え……」

「あの、ルーハンさん……?」



青ざめた顔のルーハンに恐る恐る声をかけた。



「シウミンは、チェンの代わり……?」


「ほら!ここまで調べたんだからご褒美ちょうだいね!」



聞き覚えのあるその名前に、心臓がどくりと跳ねた。
どうやらルーハンの恋人とやらは僕に間違われたようで、しかも拉致だなんて物騒なことに巻き込まれたみたいだ。それで急にいなくなったのか。
理解力が高いというのはこんな時にも発揮されるのか、なんて呆れてる場合ではない。穏やかではないのだ。そもそも間違われさえしなければ、その拉致は僕だったということなんだから。


ルーハンの瞳がまた、儚げに揺れた。



「おいタオ!向こうに行く手配しろ!」

「え!直接行くの!?」

「そうだよ!スホのところに殴り込みだ!!」



渋い顔でタオから視線をずらすと、ルーハンは「それから、」と続けた。



「ごめんね、お前のことは好きだけど、死んでくれないと僕の気が収まらないかも」


よりにもよってお前だったなんて……


言って腰のあたりから取り出したのは──1丁の拳銃。


「え……、」



その銃口は紛れもなく僕に向いている。





「え、シャオルーが殺しちゃうの?なんか知ってるかもしれないじゃん。それに人質交換じゃないの?」
「あいつらにはそんなもん要らないよ。シウミンの身代わりだったなんてホントは僕が死にたいくらいだけど。あーもー!腹立つ!自分に!」
「なんで?」
「チェンがいいやつだから!」



よくわからないけど、あぁ、僕の人生はここで終わるのか、と悟った。




ルーハンに殺されるならそれもいいかもしれない。


見ず知らずのやつに殺されるより、ずっと。



そう思える程には、僕もルーハンのことを好きになり始めていたらしい。




だって、その瞳が赤く潤み始めていたから。





彼の綺麗な指がトリガーに掛かる。







僕はゆっくりと、目を閉じた。



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