記憶の片隅
「チェン、四番様早くしろ」
「はい、オーナー!」
この国の経済はおそよ10年で瞬く間に変わっていった。人々の乗り物は自転車や50ccバイク(俗に言うスクーターというもの)から高級外車へと変わり、いつ壊れるかもわからないバラックのような建物はきらびやかな装飾を施した巨大なビルへと変わっていった。
そうして人々は、お金を持つ者とそうでない者とに分けられるようになった。
僕はこの国に来て、15年以上が過ぎた。
5歳だか6歳だかの時に両親に連れられてきたこの国は、当時見たことがない文字が踊っていて聞いたことない言葉が飛び交っていた。噎せ返るような熱気の中で僕はひとりぼっちのような気がして心細かったのを覚えている。
あぁ、油のような腐敗臭が漂っていたのも覚えているな。
とにかく異様で強烈だった何かは、僕の言葉が母国のそれからこの国のそれへと変わっていったように、15年という月日の中であっさりと僕に馴染んでいった。
そうして今、僕はお金を持つ者たちが多く集まる夜の街で下働きとして働いている。
「お前、チェンっていったよな」
「はい」
この店の上客であるウーイーファンに引き止められて、僕は不思議に思いながらも10センチ以上も上にあるその顔を眺めた。
いつ見ても整っていると思う。すらりとしたスタイルに整った顔立ち。確か貿易会社かなにかの御曹司だと聞いた気がする。そんな人が、一介のボーイの僕に何の用だろうか。
「これを、しばらく預かっておいてくれないか」
そう言って差し出されたのはどこかのロッカーの鍵のようなもので。
「へ……?」
何となく、いいことではないような気がして手を伸ばせないでいる僕に、その人は「お前しかいないんだ」と懇願するような顔で無理やり僕の手に握らせた。
大事なものだから用心して欲しいと言っていたけど、だったら尚更預かりたくなんてなかった。
僕なんかが持っていてはいけないもののような気がする。
頼んだぞ、と言って笑った顔には、どこか見覚えがある気がした。
僕の母さんはこの国に来て二年が過ぎた頃にいなくなった。父さんは母さんのことは一切教えてくれず、その父さんもついには最近どこかへと消えた。
そんな僕はこの国の富裕層になんてなれるはずもなく、こうして一歩間違えば命すら危うい夜の街でひたすらに雑用係として走り回っている。
この国の夜が危険と隣り合わせなのは分かっている。だけどそうしないと生活できないのだから仕方ない。
日々開発が進むこの町で、なおも残る古びたスラム街。そこに建つアパートの一室で、僕はその日預かった鍵をテーブルの上にコトリと載せた。
どうしろっていうんだよ。
大事に仕舞っておけばいいのか。
それとも肌身離さず持っていればいいのか。
もう、そこからして分からない。
けれど、ただただ予感めいたものだけは感じ取っていて……
できればこの勘は当たらないで欲しいと願いながらも、自分の勘が十分に鋭いことを僕は知っている。
鍵を掴んでよく見れば、そこにはロッカーの番号だろうか。数字の羅列が刻まれていた。
"0921"
僕の誕生日。
ただの偶然?それとも何かの運命だろうか。
ぞわりと胸騒ぎがする。
何故だかウーイーファンの笑顔が脳裏にちらついて心臓がとくん跳ねた。
とにかく、僕はその鍵をチェーンへと通して首から下げた。なんだかそうするのがいいような気がしたから。
すでに通されているたったひとつの母さんの思い出である指輪とぶつかって、カチャリと音をたてて心臓の辺りで小さく揺れた。
**
それから半年が過ぎた頃だった。
ウーイーファンは店に現れてはいない。その代わ、と言ってはなんだけど最近やたらと通りで見かけるようになったのは、長身で黒づくめの怪しげな男だった。
カーブミラー越し、電柱の裏に潜む姿を何度か見かけた。僕はとにかくバイト先と家を知られないようにと、逃げ回る毎日が続いている。
いったい、何なんだよ!
答えの出ない毎日の中で、問題の鍵はなおも心臓の辺りで揺れている。
「チェン!二番のボックス片付けて」
「はい!」
客が帰ったあとの片付けをするため、清掃用具を持って二番のボックスに入った。
個室のボックスはVIP席のため、特に上客のお客様が使われる。後暗い商談からちょっとした密売まで、使われ方は様々だ。
「ねぇ、」
入り口のドアに凭れて声をかけてきた男は、たしかルーハンという最近よく見かける客だ。とても美しく女性のような顔つきだが、それに負けないほどの美女をいつも引き連れている。
「はい、なにか?」
「君さ、以前どこかで会ったことない?」
「は?」
こんな美人、店の外で会っていれば忘れるはずがない。それほどルーハンの容貌は強烈なのだ。
「ない、と思いますけど……」
訝しげに思いながらも笑顔を張り付けて答えると、彼は目を細めてくしゃりと笑った。
「はは!ねぇ分かんないかなぁ。これ、ナンパなんだけど」
「は……?」
「デートしようよって言ってるの、僕と」
「な、なんでですか?」
「うーん、」
気に入ったから?なんて言ってその人はキラキラと輝く瞳を三日月型にして目尻を下げてくしゃりと笑う。何故こんな金持ちの何でも持っていそうなイケメンが、金持ちでも何でもないどころか最下層の僕なんかとデートしなきゃいけないんだろう。
「……すみません、仕事中ですから」
営業スマイルを貼り付けて、僕は仕事へと戻り、グラスや灰皿の片付けを再開した。
お客様である以上あまり無下にも出来ないが、店の性質上その客のほとんどは酒が入っているため適当にあしらうことも多々あるのだ。といってもそのほとんどが上流階級の人たちなので、丁重に対応はするのだけれど。
「ね、終わるの何時?」
「はい?」
「まぁどうせ明け方でしょ?」
その頃電話するから!
そう言ってルーハンは僕のポケットに彼の携帯電話を滑り込ませた。その仕草があまりにスマートで、また突拍子もなかったせいか、「待ってください」とも言えず、僕はただ立ち尽くしていた。
人当たりがいい自覚はある。
それにどちらかと言えば振る舞いは社交的な方。だからといって、今この状況がその言葉ですべて片付けられるかといえば、それはないと思う。
「シャワー、浴びてきなよ」
来馴れない高級ホテルの一室で、仕事明けの僕は何故だかシャワーを浴びる羽目になっていた。
もう夜の街も朝日を浴び始めた頃、店を出る僕を阻むようにその携帯は鳴った。他人の携帯電話を預かることほど気持ち悪いことはないので仕方なく出ると、今すぐホテルに持ってきてと言うので、言われるがままに指定されたホテルの最上階客室へと向かった。
場違い過ぎるほどの豪華な設え。
靴底が埋まるようなふかふかな絨毯。
ホテルマンには怪訝な視線を向けられたばかりだ。
足取りは、酷く重い。
そうして部屋を訪ねれば重い扉を開けた先、ルーハンはエンジ色のローブを纏って寛いでいて……そして言ったのだ。
シャワーを浴びてこい、と。
唐突すぎるほどの言葉をかけられたけど、この場合抵抗することが得策じゃないことくらいは判断がつく。この手の人間は機嫌を損ねれば何をするか分からないんだ。
だけどそうじゃなくて。
そんな頭で考えるようなことじゃなくて。
何故だか操られるように、無意識のうちに頷いていた。その瞳があまりにもキラキラと輝いていたからだろうか。
押しやられた脱衣場で服に手を掛ける。かちゃりと音がして、胸元で揺れた鍵はペンダントごと財布の中へと仕舞った。
端的にいうと、ルーハンとのそれはとてもよかった。酷く軽い口振りとは反対に、その手は紳士的で、そしてたまに朧気に遠くを見つめているような瞳がどこか儚げで、神秘的にさえ思えた。
「僕たち、相性いいと思わない?」
「え?あぁー、うーん……」
事後の余韻を残したベッドの中でルーハンは呟く。
「お前さ、僕のになりなよ。お金に困らない生活できるよ?」
「──な、なりません!」
「はは!そう言うと思った」
綺麗な顔を僅かに歪めて眉を下げて笑う様は何故か少し痛々しい。
「じゃあさ、こうしてまた会って?それならいいでしょ?」
こうして──
それはつまりは今日のようにベッドを共にという意味だ。
僕はしばし考えて答えを出す。
「いいですよ」
「……よかった。その代わりさ、絶対急にいなくならないでね」
呟いた瞳は酷く悲しそうで。
あぁ、だから僕は断れなかったのか、と思い知る。
僕はこの、何でも持っていそうなのに何故か寂しそうなこの人を、なんとなく見放せなかったんだ。
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「はい、オーナー!」
この国の経済はおそよ10年で瞬く間に変わっていった。人々の乗り物は自転車や50ccバイク(俗に言うスクーターというもの)から高級外車へと変わり、いつ壊れるかもわからないバラックのような建物はきらびやかな装飾を施した巨大なビルへと変わっていった。
そうして人々は、お金を持つ者とそうでない者とに分けられるようになった。
僕はこの国に来て、15年以上が過ぎた。
5歳だか6歳だかの時に両親に連れられてきたこの国は、当時見たことがない文字が踊っていて聞いたことない言葉が飛び交っていた。噎せ返るような熱気の中で僕はひとりぼっちのような気がして心細かったのを覚えている。
あぁ、油のような腐敗臭が漂っていたのも覚えているな。
とにかく異様で強烈だった何かは、僕の言葉が母国のそれからこの国のそれへと変わっていったように、15年という月日の中であっさりと僕に馴染んでいった。
そうして今、僕はお金を持つ者たちが多く集まる夜の街で下働きとして働いている。
「お前、チェンっていったよな」
「はい」
この店の上客であるウーイーファンに引き止められて、僕は不思議に思いながらも10センチ以上も上にあるその顔を眺めた。
いつ見ても整っていると思う。すらりとしたスタイルに整った顔立ち。確か貿易会社かなにかの御曹司だと聞いた気がする。そんな人が、一介のボーイの僕に何の用だろうか。
「これを、しばらく預かっておいてくれないか」
そう言って差し出されたのはどこかのロッカーの鍵のようなもので。
「へ……?」
何となく、いいことではないような気がして手を伸ばせないでいる僕に、その人は「お前しかいないんだ」と懇願するような顔で無理やり僕の手に握らせた。
大事なものだから用心して欲しいと言っていたけど、だったら尚更預かりたくなんてなかった。
僕なんかが持っていてはいけないもののような気がする。
頼んだぞ、と言って笑った顔には、どこか見覚えがある気がした。
僕の母さんはこの国に来て二年が過ぎた頃にいなくなった。父さんは母さんのことは一切教えてくれず、その父さんもついには最近どこかへと消えた。
そんな僕はこの国の富裕層になんてなれるはずもなく、こうして一歩間違えば命すら危うい夜の街でひたすらに雑用係として走り回っている。
この国の夜が危険と隣り合わせなのは分かっている。だけどそうしないと生活できないのだから仕方ない。
日々開発が進むこの町で、なおも残る古びたスラム街。そこに建つアパートの一室で、僕はその日預かった鍵をテーブルの上にコトリと載せた。
どうしろっていうんだよ。
大事に仕舞っておけばいいのか。
それとも肌身離さず持っていればいいのか。
もう、そこからして分からない。
けれど、ただただ予感めいたものだけは感じ取っていて……
できればこの勘は当たらないで欲しいと願いながらも、自分の勘が十分に鋭いことを僕は知っている。
鍵を掴んでよく見れば、そこにはロッカーの番号だろうか。数字の羅列が刻まれていた。
"0921"
僕の誕生日。
ただの偶然?それとも何かの運命だろうか。
ぞわりと胸騒ぎがする。
何故だかウーイーファンの笑顔が脳裏にちらついて心臓がとくん跳ねた。
とにかく、僕はその鍵をチェーンへと通して首から下げた。なんだかそうするのがいいような気がしたから。
すでに通されているたったひとつの母さんの思い出である指輪とぶつかって、カチャリと音をたてて心臓の辺りで小さく揺れた。
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それから半年が過ぎた頃だった。
ウーイーファンは店に現れてはいない。その代わ、と言ってはなんだけど最近やたらと通りで見かけるようになったのは、長身で黒づくめの怪しげな男だった。
カーブミラー越し、電柱の裏に潜む姿を何度か見かけた。僕はとにかくバイト先と家を知られないようにと、逃げ回る毎日が続いている。
いったい、何なんだよ!
答えの出ない毎日の中で、問題の鍵はなおも心臓の辺りで揺れている。
「チェン!二番のボックス片付けて」
「はい!」
客が帰ったあとの片付けをするため、清掃用具を持って二番のボックスに入った。
個室のボックスはVIP席のため、特に上客のお客様が使われる。後暗い商談からちょっとした密売まで、使われ方は様々だ。
「ねぇ、」
入り口のドアに凭れて声をかけてきた男は、たしかルーハンという最近よく見かける客だ。とても美しく女性のような顔つきだが、それに負けないほどの美女をいつも引き連れている。
「はい、なにか?」
「君さ、以前どこかで会ったことない?」
「は?」
こんな美人、店の外で会っていれば忘れるはずがない。それほどルーハンの容貌は強烈なのだ。
「ない、と思いますけど……」
訝しげに思いながらも笑顔を張り付けて答えると、彼は目を細めてくしゃりと笑った。
「はは!ねぇ分かんないかなぁ。これ、ナンパなんだけど」
「は……?」
「デートしようよって言ってるの、僕と」
「な、なんでですか?」
「うーん、」
気に入ったから?なんて言ってその人はキラキラと輝く瞳を三日月型にして目尻を下げてくしゃりと笑う。何故こんな金持ちの何でも持っていそうなイケメンが、金持ちでも何でもないどころか最下層の僕なんかとデートしなきゃいけないんだろう。
「……すみません、仕事中ですから」
営業スマイルを貼り付けて、僕は仕事へと戻り、グラスや灰皿の片付けを再開した。
お客様である以上あまり無下にも出来ないが、店の性質上その客のほとんどは酒が入っているため適当にあしらうことも多々あるのだ。といってもそのほとんどが上流階級の人たちなので、丁重に対応はするのだけれど。
「ね、終わるの何時?」
「はい?」
「まぁどうせ明け方でしょ?」
その頃電話するから!
そう言ってルーハンは僕のポケットに彼の携帯電話を滑り込ませた。その仕草があまりにスマートで、また突拍子もなかったせいか、「待ってください」とも言えず、僕はただ立ち尽くしていた。
人当たりがいい自覚はある。
それにどちらかと言えば振る舞いは社交的な方。だからといって、今この状況がその言葉ですべて片付けられるかといえば、それはないと思う。
「シャワー、浴びてきなよ」
来馴れない高級ホテルの一室で、仕事明けの僕は何故だかシャワーを浴びる羽目になっていた。
もう夜の街も朝日を浴び始めた頃、店を出る僕を阻むようにその携帯は鳴った。他人の携帯電話を預かることほど気持ち悪いことはないので仕方なく出ると、今すぐホテルに持ってきてと言うので、言われるがままに指定されたホテルの最上階客室へと向かった。
場違い過ぎるほどの豪華な設え。
靴底が埋まるようなふかふかな絨毯。
ホテルマンには怪訝な視線を向けられたばかりだ。
足取りは、酷く重い。
そうして部屋を訪ねれば重い扉を開けた先、ルーハンはエンジ色のローブを纏って寛いでいて……そして言ったのだ。
シャワーを浴びてこい、と。
唐突すぎるほどの言葉をかけられたけど、この場合抵抗することが得策じゃないことくらいは判断がつく。この手の人間は機嫌を損ねれば何をするか分からないんだ。
だけどそうじゃなくて。
そんな頭で考えるようなことじゃなくて。
何故だか操られるように、無意識のうちに頷いていた。その瞳があまりにもキラキラと輝いていたからだろうか。
押しやられた脱衣場で服に手を掛ける。かちゃりと音がして、胸元で揺れた鍵はペンダントごと財布の中へと仕舞った。
端的にいうと、ルーハンとのそれはとてもよかった。酷く軽い口振りとは反対に、その手は紳士的で、そしてたまに朧気に遠くを見つめているような瞳がどこか儚げで、神秘的にさえ思えた。
「僕たち、相性いいと思わない?」
「え?あぁー、うーん……」
事後の余韻を残したベッドの中でルーハンは呟く。
「お前さ、僕のになりなよ。お金に困らない生活できるよ?」
「──な、なりません!」
「はは!そう言うと思った」
綺麗な顔を僅かに歪めて眉を下げて笑う様は何故か少し痛々しい。
「じゃあさ、こうしてまた会って?それならいいでしょ?」
こうして──
それはつまりは今日のようにベッドを共にという意味だ。
僕はしばし考えて答えを出す。
「いいですよ」
「……よかった。その代わりさ、絶対急にいなくならないでね」
呟いた瞳は酷く悲しそうで。
あぁ、だから僕は断れなかったのか、と思い知る。
僕はこの、何でも持っていそうなのに何故か寂しそうなこの人を、なんとなく見放せなかったんだ。
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