彩られた世界
この世界を、見てみたいと思った
この世界を、見せたいと思った
* * *
*side JD
「おはようございます!」
「あぁ、おはよう」
「今日はとっても天気がいいので、あとで散歩に行きましょうね」
「うん」
真っ暗な部屋のカーテンを次々と開けて、室内を明るくしていく。郵便物を選り分けて、開封していく。寝具を整えて、部屋中に掃除機をかけていく。昨夜の食器を片付けて、昼食の準備をしていく。
僕の仕事は、イシンヒョンの家政夫だ。
ヒョンの身の回りのありとあらゆる家事が僕の仕事。
ヒョンの視線は、常に虚ろにさ迷っていて僕とは重なることがない。最初は驚いて戸惑ったけど、今はもう慣れたものだ。
「ヒョン、寝癖ついてます」って笑って教えてあげれば、ヒョンは恥ずかしそうに頬を染めてハニカミながら検討違いな場所を撫で付けた。
「ちょっと待ってください……はい!オッケーです」
ヒョンの柔らかな髪を何度か手櫛で解かして、撫で付けて、声を掛ける。少しだけ名残惜しく指に絡む髪の毛を手放せば、ふわりと心臓の辺りが暖かくなった。
「今日のお昼はなぁに?」
「えっと今日は、暑いから素麺にしました」
楽しみ、と笑窪を浮かべて笑うレイヒョンの瞳は、やっぱり僕とは重ならない。
生まれたときから景色を遮断しているヒョンの瞳は、とても清廉で綺麗なのに強い光以外は何も写し出さない。手術をすれば少しは見えるようになるらしいけど、角膜移植の順番はとても長いらしい。
そんなヒョンに神様が与えてくれた力は、音楽だったという。耳じゃなくて目でよかった、と前にヒョンは言っていた。
ヒョンは新しい曲を次から次へと生み出していく新進気鋭の作曲家だ。
今はデジタルの時代だから、手書きで譜面を起こさなくたって、機械と繋いでしまえば何だって残しておけるらしい。
素麺を食べて、食後に近くの公園を散歩した。
ヒョンは僕と歩くときは僕の腕を掴んで歩く。段差ですよとか、人が来ますよとか。それから、街路樹の葉が綺麗ですよとか、綺麗なお花が咲いてますとか、あの家の犬が今日は元気なさそうですとか。
ヒョンはそのいちいちに、「ありがとう」とか「そうだね」とか「いい匂い」とか相づちを打ってくれる。
そうしてきっとヒョンは音や匂いや感触で視覚情報を補っているのだと思う。
「天気よくて気持ちいいですよねぇ~。暑くないですか?」
「うん、大丈夫」
木陰のベンチで休んでいると、ヒョンは本当に楽しそうに笑みを浮かべて口を開いた。
「鳥の鳴き声に、木の葉の揺れる音。風の感触、土の匂い……本当に気持ちいいねぇ」
「はい」
「でも、僕がこの世で一番好きなのはジョンデの声かな。話すときの声も、笑うときの声も、たまに歌う鼻唄の声も。全部好き」
「あはは!鼻唄って、そんなのまで聞かれてたんですか?」
「うん、洗濯物干してるときが一番多いかなぁ」
「もぅ!恥ずかしいなぁ!」
横からがばりとヒョンに抱きついて笑いながら揺すると、ヒョンも楽しそうに声をあげて笑う。独特な引き笑いみたいなそれが、僕は大好きだ。
・・・・・
「おはようございます!」
「あぁ、おはよう」
「ヒョン、今日は雨ですよ」
「うん、ジョンデも雨の匂いがするねぇ」
いつものように部屋中のカーテンを開けていっても、外は雨だからあまり明るくはならない。それでも、僕は一日の始まりにはカーテンを開けていく。シャッと小気味いいリズムを刻みながら。
次は、これまたいつものようにいくつかの郵便物を選り分け開封していく。
仕事の書類とか、役所からの通知とか、光熱費の内訳とか。必要なものはヒョンに伝えて、不要なものは処分していく。中には点字の手紙もあって、僕も点字は読めるけど、それはヒョンに直接渡すようにしている。
そしてその一通の手紙は、病院からのものだった。
封筒に印字されているのはヒョンの掛かり付けの大きな大学病院。僕は点字で打たれた数枚の紙をヒョンへと渡した。
検査か何かの知らせだろうか。
そういえばそろそろだったかもしれないなぁなんて、呑気に考えていた自分を思いきり殴ってやりたい───
「ジョンデ、」
「はい?検査ですか?」
「いや。決まったって」
「何が?」
「移植。角膜移植の番、回ってきたって」
「え……」
「僕もやっと見えるようになるのかな……」
ふふふ、ってヒョンが嬉しそうに笑みをこぼして。僕は弾かれたようにヒョンに抱きついた。
「わっ!」
「ヒョン!!おめでとうございます!!」
「はは、ありがとう。適合するか分かんないけどね」
「大丈夫です!ヒョンの目は絶対に見えるようになります!」
「ありがとう、がんばるね」
「はい!」
「これでやっとジョンデの顔も見れる」
「え……?」
「ジョンデの顔、見たかったんだ」
そう言ってイシンヒョンは僕の顔に触れた。やんわりと目の形や眉、鼻筋、それから口元、順番に触れていく。
「一番最初に見るのは、ジョンデの顔がいいな……」
ゆっくりとまた抱きつかれたけど、僕は固まってしまって動けなかった。
もしヒョンの世界が鮮やかに色を映したら、僕はもう必要なくなってしまうのかもしれない。そう思うと、ものすごく怖くなった。
ひとりで何でも出来るようになって、世界中の美しいものをその目に写して。そうして世界が広がった人間が、今までの世界を──僕を、つまらなく思うことなんて、よくある話だ。
よくある、本当によくある話───
家政夫だって要らなくなって、僕はヒョンにとって不必要な人間になってしまうんだろう。
僕は、とても怖くなった。
それからの毎日は検査やらなんやらで、次々とスケジュールが組まれていった。
その時は、確実に近づいてくる。
音を愛するヒョン。
音に愛されたヒョン。
ヒョンの世界が広がっていく。
・・・・・
「いよいよですね」
「うん、緊張する……」
「大丈夫ですよ、きっと成功しますから」
「うん……がんばるね」
「はい、ずっと祈ってますね」
ヒョンの手を握って、ぎゅっと力を込めてヒョンのために祈った。
どうか、ヒョンの手術が成功しますようにって。
「いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
握られた手が解かれて、ヒョンは手術室へと運ばれていった。
*side YX
手術が終わって麻酔が切れても、僕の目には包帯が巻かれていたから何も見えない。
それでも先生は、手術自体は成功したと言っていた。あとは経過をみて問題なければ包帯は外れて、目を開けることができると。
「先生、ジョンデは……?」
「あぁ付き添いの?」
「はい……」
「さっき麻酔が切れる前に手術は無事に終わったよって言ったら安心して帰っていったみたいだけど」
「え……」
ジョンデが帰った?
僕の意識が戻るのも待たずに?
なんだかジョンデらしくなく信じられないような気がして、きっと着替えとか取りに行ってくれただけだ、とかいいように考えることにした。
例えばほら、
シャワーを浴びに帰ったのかもしれない。
お腹が空いててご飯を食べに出たのかもしれない。
急用を思い出したのかもしれない。
体調でも崩したのかもしれない。
だけどどんなことを考えてみても、何一つ正解ではないような気がした。
結局、数日後包帯を取るときになってもジョンデは現れなかった。
『一番最初に見るのは、ジョンデの顔がいいな……』
そう言った僕に、ジョンデはあの時なんて返事をしてくれたんだっけ───
思い出そうにも思い出せなかった。
「じゃあいくよ?いい?」
同い年だという若いドクターが僕に向かって優しく問いかける。
「はい、お願いします」
包帯はゆっくりと外されていき、締め付けが緩くなると共に瞼の奥には今まで感じたこともない明かりを感じた。
「ゆっくり開けてみて?」
微かに震える瞼を押し上げる。
たくさんの光が目の前に飛び込んできて、怖くなった僕はすぐにまた目を閉じてしまった。
大丈夫だよ、とドクターが僕の肩を擦る。
「瞬きをしながらゆっくりでいいから」
言われた通り、徐々にゆっくりと押し上げると、強い光と見たこともない景色。
脳内の処理が追い付かない。
「どう?」
「はい、見えます……」
「じゃあちょっと検査するね」
眼孔に強い光を当てられて驚いているうちに、ドクターは「大丈夫そうだね」と言った。
「ちゃんと反応してるみたいだから。あとは光に慣れてきたらまた詳しく検査をしよう」
怖いからって閉じていちゃダメだよ。
色んな物を見て慣れなきゃ。
ドクターはそう言って、部屋をあとにした。
周りの物を見渡してみる。
ぼやぼやと揺れる光に手を伸ばしてみたりして。触れた感触で、それが何なのかを理解した。布団やディッシュや箸やスプーンや。みんなが見ていたのはこういうものだったのか、と一つずつ確認した。
かつて"ティッシュは白"と教えてくれたのは誰だったっけ。
色も分からない、字も読めない。色んな物を1から覚えなくちゃいけない僕は、子供にでも返ったみたいだ。
ふと、サイドテーブルの上にあった物が目に入った。気になって手を伸ばしてみる。
ふかふかの感触。手に馴染んだそれ。
「ジョンデ……」
ジョンデがそれを家に持ってきた日のことを思い出した。『恐竜のぬいぐるみです』と手の上に乗せて、『来る途中にゲームセンターで取ったんです』と笑っていた。
『恐竜?』
『はい、僕恐竜に似てるって言われるんで。もし僕が来れないときがあったら、この子に何でも言ってください』
なんちゃって、と楽しそうに笑っていたのは、確か手術日が決まった次の日のことだ。
それを思い出して、僕は何故だか、もうジョンデには会えないような気がした。
ねぇジョンデ、恐竜ってこんな姿だったんだね。
涙が、つーっと頬を伝った。
・・・・
世の中は、こんなにも物で溢れているのだということに、僕は初めて気がついた。
検査が終わって、回復しきれない視力を補うため僕は眼鏡を掛けることになった。
眼鏡を通して見た世界は、更にはっきりと景色を写し出したけど、それでもまだぼんやりとしていて、今のところはこれが精一杯だとドクターは言っていた。
僕が初めて見た顔は、結局誰だったのかな。
ドクターだったのか、それとも看護師だろうか。ジョンデでないことだけははっきりとしていた。
退院後初めてマンションへ帰ると、これまた不思議な感覚だった。
今までは当たり前に生活していた空間なのに初めての所みたいで、様々なものを掴んでは感触で確かめた。
暫くは音楽事務所で担当してくれてるミンソギヒョンが時間を見ては訪ねてくれて、何かと世話をしてくれた。
「仕事の方は調整してあるから、暫くはゆっくりしてろ」
「ありがとう。ねぇ、ヒョン」
「んー?」
「ジョンデって……」
言葉を濁して伝えると、ヒョンは苦笑を浮かべた。
実はジョンデを紹介してくれたのはミンソギヒョンだった。家の事情で一人暮らしを始めた僕を見かねて、家政婦でも雇えって言ってくれた。男でもいいなら、後輩紹介するけどって。
そうして連れられてこられたのがジョンデだった。
真面目で、気が利いて、いつも楽しそうで。僕はジョンデといるのがとても心地よかった。
「連絡先とか知ってる?」
「いや……」
ごめんな、とミンソギヒョンは口にした。
「ううん、ヒョンのせいじゃないよ」
僕は、視力と引き換えにジョンデを失ってしまったのかもしれない。
ジョンデの笑顔を見たかった。
ジョンデと同じものを見たかった。
・・・・・
手術から、何ヵ月が過ぎただろう。
季節は冬に向かっていて、ニュースで聞いていた「冬支度」というものを実感している。
人混みはまだまだ苦手だ。
色んな情報が飛び込んできて、気持ち悪くなるときがあるから。
だけどドクターもミンソギヒョンも、「慣れろ」と言うので、リハビリがてら定期的に街へと出ることにしている。生い茂っていた葉が赤く色を変え、これが冬になるということか、と実感しながら公園のベンチに座った。
木枯らしがひゅーっと音を立ててすり抜けていった。
ふと視線を感じて目をやると、
誰かが僕を見ていた。
知ってる人だろうか、と僕も見つめた。
目が見えるようになる前に会っている人なら、声を聞かないと分からない。
「なにか?」と声をかけると、その人は何も言わず踵を返して走っていった。
だけど、その走る音を知っている───
僕は、足音ひとつでだって君のことなら分かるんだよ。
だから逃げないで、どうか戻ってきてよ。
僕は立ち上がって追いかけた。
「ジョンデ……!」
その愛しい背中に向かって叫ぶと、ピタリと止まって。
「ジョンデでしょ?ねぇ、」
「どうして……」
雑多に紛れるように微かに聞こえた大好きな声は、涙混じりの酷く小さな音だった。
だけど僕の聴力は、他の人より優れているんだ。
「分かるよ。ジョンデの音なら。声だって、足音だって、ジョンデから出る音は全部記憶されてる。匂いだってそう。視覚以外ならすべての感覚でジョンデのことを覚えてるんだから」
その背中は、酷く淋しげに見えた。
「だから僕には、君がジョンデだって分かる」
掴んだ右腕の感触。
ほら、やっぱりジョンデだ。
何度も掴んだその腕の感触。
僕の身体中の感覚がジョンデを覚えている。
「こっち向いて?」
「……いやです」
「どうして?僕はジョンデのことを見たいのに」
「僕は見られたくありません……離してください……」
「嫌だよ。やっと捕まえたのに」
「離して……っ!」
僕の手を振りほどこうとするジョンデに、僕は居ても立ってもいられなくなって、結局そのまま腕を引いて強引に振り向かせた。
「あ……」
「やっと見えた」
うつ向こうとする顔を掴んで持ち上げて、これまた強引に視線を合わせる。
「見える、んですか……?」
「うん、見えるよ」
「どうですか……?がっかりしたでしょ?」
「どうして?」
「だって僕、ヒョンみたいにイケメンじゃないから……」
「イケメン?」
「綺麗、ってこと……」
「綺麗?僕が?……よく分かんないけど。下がった眉も、跳ね上がった目尻と口角も、僕が知ってるジョンデだよ」
ひとつひとつ確かめるように触れると、ジョンデはびくりと肩を震わせた。
今までもそんな可愛い表情してたんだね。
「ずるい……そんなの……」
「どうして?」
「だって……僕はヒョンに不必要だと思われるのが怖くて……なのに、そんな大事そうに……」
「不必要?」
「見えるようになったら、僕なんていらないじゃないですか……」
「そんなこと……」
そんなことないよ。
だって君がいないと全然曲が書けないんだ。
それって僕にとってとても重大なことだと思わない?
「ヒョン……」
うつ向いて涙をこぼすジョンデを抱き締めて、よしよしと頭を撫でると、ふわりと香る匂いはやっぱりよく知ったジョンデの匂いだった。
*side JD
「汚っ!」
久しぶりに訪ねたヒョンの部屋は、とてつもなく汚れていた。
足の踏み場もない、とはこのことか?
「だって片付け方とかよく分かんないし」
「そんなの元あった場所に戻すだけじゃないですか」
「わかってるけど……見えると思うと、戻さなくてもいいような気がして……」
「もー!」
ぷんすかと怒りながらもごみを拾いながら進んでいく。脱いだ服とか、散らかった小物とか。拾い集めて掃除機をかける。
「ジョンデの音がする」
呑気に呟かれた方に目をやると、ヒョンはソファーに座って、目を閉じて耳を済ませてるようだった。
「僕ね、ジョンデがカーテンを開ける音が好きだったんだ。あと洗濯物をパンパンって叩く音とか、包丁で大根を刻む音とか。目を閉じるとあの頃に戻ったみたい」
ふふふって目を瞑って楽しそうに笑っているヒョンを見つめる。
「でも、その姿を見れる方がもっと幸せ」
パッと瞼を押し上げてそう言うので、不意に視線が重なって、僕は思わず反らしてしまった。
「他の情報は揃ってるから、あとは今日からジョンデのことをたくさん見て視覚で覚えるね」
「なっ……!」
何を言ってるか分かってるの!?
「ふふ、照れてるジョンデも可愛い」
もー!なんて言って、ずらした視線の先に恐竜のぬいぐるみがあって、心臓がぎゅっと締め付けられた。
留守中はありがとう、なんてね。
あの頃僕は、ヒョンが見えるようになることをきちんと理解していなかったのかもしれない。ただ漠然と、綺麗な景色を見たときとかに、ヒョンにも見て欲しいなぁって思ったくらいで。だけどヒョンの聴覚や嗅覚はきちんと視覚を補ってくれていたから、その願望はあまり真実味がなかったんだ。
ヒョンと視線が重なって、真っ直ぐに笑顔を向けてくれるヒョンを見ながらふと思った。
僕はヒョンの視線に映りたかったんだって。
その綺麗な瞳に、捕らえて欲しかったんだ。
だけどその瞳に捕まえられたら最後、僕は逃げられなくなるということも本能で分かっていて。だから僕は怖かったのかもしれない。
その瞳に拒絶されることが。
けれど僕の危惧とは反して、ヒョンの瞳はやわらかに僕を包み込む。ふわりと笑って、僕を映す。
あぁ、やっぱり逃げられないのかって。
僕は諦めたようにヒョンへと近づいた。
「ヒョン、」
「なぁに?」
真っ直ぐに重なったヒョンと僕の視線。
「僕のこと、たくさん見てください」
「うん、もちろん」
「それで、その目でも僕のこと覚えてください」
「うん、がんばる」
ジョンデ、とヒョンが手を伸ばすから、僕は大人しくヒョンに捕まえられることにした。
嘘、僕が捕まえられに行ったんだ。
ヒョンの膝に跨がって首もとにぎゅっと抱きつくと、ヒョンも背中に腕をまわしてくれる。
「ジョンデ、もう何処にも行かないで」
「はい……」
やっと、彩られたヒョンの世界に入れたような気がした。
* * *
君の世界を、見てみたいと思った
ヒョンの世界に、映りたいと思った
おわり