天使の死神
あれから、2年が経っていた。
ジョンデが突然姿を消したあの日から。
元気でいてくれればいいと思う。
あの頃みたいに一人で道の端に寝てるんじゃなくて。周りに人がいて、元気に笑って、楽しそうに歌っていてくれれば。
だけどその笑顔を、その歌声を、そばで聴く知らない誰かを思う度に胸は張り裂けそうに苦しかった。
思えば僕がジョンデと暮らした期間なんてほんの1ヶ月にも満たないくらいで。話をするようになってから数えたって、それは僕の人生のほんの僅かな期間だ。
それなのに僕は彼を忘れられない。
2年経った今でも、彼を想えば酷く苦しくて、虚しくて、悲しくなる。
ただ会いたくて堪らなかった。
今にも忘れてしまいそうなあの声、あの笑顔、あの涙、腕の中の温もり。
僕の可愛いジョンデ。
彼は僕の天使だった────
僕はあれから、またボランティアを始めて、何人かの人を見送った。あの頃とは違って何人かには薬も渡した。それで快復した人もいたし、そうはいかなかった人もいた。
それでもここの人たちのために祈って、ここの人たちに寄り添った。
ジョンデがいつかひょっこり顔を出すんじゃないかという仄かな期待がなかったと言えば嘘になる。それも含めて、僕はここに通った。
そうして今日もまた一人見送った僕は、河川敷で川を見つめながらジョンデを想っていた。そんな僕に声を掛けたのは、あの日ジョンデのことを教えてくれたおじさんだった。
「また一人仲間が減ったって聞いてな」
「……はい。僕はまた何も出来ませんでした」
「そんなことないさ。こうして胸を痛めてくれてるじゃないか。誰かの死を引き受けるってのは、そう簡単なもんじゃない。みんな感謝してるさ。いつもいつも辛い役回りをさせて悪かったな」
「そんなこと、ないです……」
「なぁ、死神さんよ」
川の向こうの対岸を見つめながら、おじさんはゆったりと話し始めた。
「あんたの罪がどんなものかは知らないけど、もう許されたんじゃないのか?」
「え……?」
「あんたは俺たちのために充分やったよ。これからは前を向いたって誰も怒りはしない。死神の役回りは俺が引き受けるから、あんたはそろそろ歩き始めろ。な?」
「でも……」
突然の言葉に言い淀む僕に、「年寄りの言うことは利くもんだ」と笑ったおじさんの顔が遠い昔に一緒に遊んだ父親の顔と重なって、僕は思わず涙を溢していた。
喧嘩別れした父。あの人の笑顔を最後に見たのはいつだったのか、もう思い出すこともできない。けれど確かにあったはずの父親の温もりを思い出して、涙が止まらなかった。
僕が物心付いた頃には母はもう亡くなっていて、ずっと父と二人だった。大変なこともあったけど、楽しかったことも確かにあった。
テストでいい点をとると酒を飲んでは上機嫌に鼻唄を歌ったり、音楽で習ったピアニカを聴かせれば「天才だ!」と頭を撫でて抱きついてきたり。ダンスの大会で優勝したときは、珍しく寿司を買ってきてお祝いしてくれたこともあった。
僕はそうした色んなことを、ずっと忘れていたんだ。
父は、父は優しい人だった。
ねぇ、ジョンデ。
僕はやっと許されたと思ってもいいのかなぁ。
ねぇ、ジョンデも許してくれる?
狡く浅ましかった僕のことを。
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僕は今日も庭に咲く花を摘んで、歩き慣れたその道を歩く。もう毎日の日課だ。
今日は春紫苑が可愛らしく咲いていた。白く小さなその花の花言葉を教えてくれたのは、僕がここに来てお世話になっているおばさんだ。
『追想の愛』
その花言葉は僕にぴったりだった。
2年前、レイヒョンの家を飛び出して、僕はこの村に辿り着いた。いや、辿り着いたという言葉はちょっと違うかもしれない。
山間部にある小さな村。
僕は僕の意思でここへ来た。
「あ!ミンソギヒョン!おはようございます!」
「あぁ、ジョンデか。おはよ」
「相変わらず忙しそうですね」
「ん?まぁ。来週プール開きなんだ。それの準備に追われてるよ」
「はは!手伝いに行きますか?」
「おぉ、助かる。うちは万年人手不足だからな。若人歓迎!」
ミンソギヒョンとは、もちろんこの村に来て知り合った。村の数少ない若者の内の一人で、村唯一の小学校で教師をしている。
「あ、そういえば運動会の写真貼り出されてたから、その時ついでに見てけよ」
欲しいのあったら焼き増ししてやるから、なんていたずらに笑って。
先月あった運動会は、小さな村らしく村民総出で参加だった。親も子供も教師も村人も関係なく全員参加だったので、もちろん僕も呼ばれて参加した。自分が子供の頃の運動会にはいい思い出がなかったので、運動会という枠の思い出が上塗りされたようで嬉しかった。誰ともなくみんなを応援して、おばさんが作ってきてくれた海苔巻きを頬張った。楽しかった。
この村の人は、みんな優しい。
僕に知らなかった家族の温もりをくれるんだ。
2年前、僕はこの村に来たとき、本当にお金がなかった。なけなしのお金で鈍行を乗り継いでここまで来て、すっかり日も暮れた頃、この小学校の前に辿り着いた。
そして、ミンソギヒョンと出会った。
ミンソギヒョンは校門の前で突っ立っている僕に声をかけて来たのだ。
『うちの学校に、なにか用事ですか?この村の人……じゃないですよね?』
『え?あぁ!すみません!怪しい者じゃないですから!!』
『いや、そんな風には思ってないけど』
ヒョンはくすくすと笑って、その笑顔に僕も苦笑いを返した。
『……知り合いが、ここの卒業生みたいで』
『卒業生?そいつ何歳なの?』
『あ、いや、正確には分かんないです……僕より何個か年上だとは思うんですけど……』
『じゃあ君は何歳?』
『21歳です』
『ふーん、じゃあ俺と同じくらいかな』
『え……?歳上なんですか!?』
『ったく……当たり前だろ。23だ』
『うっそ……同い年か年下だと思ってました……なんかすみません……』
『謝るなよ。余計虚しくなんだろ』
ミンソギヒョンはくすくすと笑って、『で、名前は?その人の名前』と尋ねてきた。
僕は別に人探しをしてる訳じゃなかった。
あ、いや、探しているには探しているんだけど…… だから何て言うか……
そう、手掛かり──
あの人にぶつかる何か手掛かりみたいなもの。この小学校以外で。そんなものは確かに欲しいと思っていた。
『──レイヒョン、です……レイって名前しか知らないんですけど……』
ぽつりと言うとヒョンは大きく目を見開いた。
『レイ?』
『知ってるんですか!?何年か前にお父さんが亡くなってるはずなんですけど……』
『知ってるも何も……』
幼馴染みだよ。
そう言ってミンソギヒョンは苦笑した。
『そうかぁ。レイの知り合いかぁ。あいつ元気でやってんの?親父さんの葬式以来全然連絡寄越さないからさ。心配してたんだよ』
『え、あ、はい……多分……』
『多分?知り合いなんじゃないの?』
ヒョンは訝しげにこちらを見た。
『知り合いというか、とてもお世話になった人で……でも何も言わずに勝手に来ちゃったから……』
『はは!そっか。ワケアリなんだな』
おおらかに笑うヒョンに、なんかすみません、と頭を下げたとき、無情にも僕のお腹は警告音を鳴り響かせて、羞恥に頬を染めるはめになった。
そうしてヒョンは元来の面倒見のよさなのか、レイヒョンの知り合いだという僕に近くの食堂でご飯を奢ってくれ、さらに行く宛もお金もない僕に食堂のおじちゃんは、本家の母屋が空き家になってるから嫌じゃなければ暫くそこに住めばいいと言ってくれ、さらにさらに土いじりが苦手じゃないなら村外れのばあさんの畑仕事を手伝ってやってくれと仕事までくれた。おばあさんの畑仕事、と簡単に言うが出荷もしてる大きな農家だ。だからお給料もちゃんとくれるし、なんなら美味しい野菜も分けてくれる。ミンソギヒョンも『若い労働力は貴重なんだよ』と笑っていた。
僕はみんなの優しさに、気付けばわんわんと泣いていた。
泣くのはレイヒョンからお父さんの話を聞いたとき以来だった。
ヒョンの温もりを思い出して、なんだか胸がずきずきと痛んだ。
そうして僕はこの村に住むことになった。
レイヒョンが生まれ育ったこの村に───
その日はミンソギヒョンの家に泊めてもらうことになって、ヒョンに倣って歩いていると、ふと一軒の家の前で立ち止まった。
『どうしたんですか?』
『ここ……あいつんち……』
『え……』
『もし入るんだったら鍵はうちの母ちゃん持ってるから……』
『いえ、いいです。っていうか何言ってんですか!僕、不審者かもしれないんですよ!?』
『え?あ……あぁ、そうか。そうだよな』
ヒョンは苦笑いして、『不審者なのか?』と言うので『違います!』とはっきりと断って笑った。
『嬉しいしとても有り難いですけど、ここの人たちはみんな優しすぎです……こんなどこの誰かもわかんない人間に良くしてくれて……』
『まぁ、でもレイの知り合いだろ?それだけで充分だよ。俺はあいつが心配なんだ……親父さんが死んだことを自分のせいみたいに言って、この家にもすっかり寄り付かなくなっちゃって。あいつほら、気持ちが優しすぎるから』
『そうですね……優しすぎます……』
その時僕はレイヒョンが僕にくれたたくさんの優しさを思って、無性に寂しくなったのを覚えている。
レイヒョンの家にいたとき、いつだか小学校の卒業アルバムを見つけて見せてもらったことがあった。幼い頃の写真を見ながら、ヒョンはずっと帰っていないんだと酷く寂しそうな目で言っていた。帰らなきゃいけないのは分かっているのに帰れないんだ、と。
僕はきっと、ヒョンを感じていたかったのかもしれない。
ヒョンが帰れないと言うこの村で、僕は何をしようとしてるんだろう。
こんなに長く住むはずじゃなかったのに。
この村の人たちはみんな優しくて、家族のいない僕には眩しすぎるほど暖かいんだ。
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久しぶりに降り立った故郷は、空気がとても澄んでいるような気がした。
電車を乗り継がなきゃいけないこの村は、都会からじゃ移動だけでも1日かかる。早朝に出たというのに、着いた頃にはすっかり日が暮れていた。
久しぶりの実家。懐かしく思いながらドアを開けると、室内は思っていたよりもずっと綺麗に片付いていた。おそらく鍵を預けているミンソギヒョンのおばさんがたまに掃除をして空気を入れ換えてくれてるのだろう。
ふう、と一呼吸おいて閉じられていた仏壇を開いた。ゆっくりと眺める。
ずっと来れなかったことを詫びて、たくさん後悔したことを伝えた。こんな親不孝な自分を許してくれるだろうかと考えたところで、ふと、そもそも恨んでなんかいないのかもしれないと思った。子供を恨む親なんていないのかもしれない。だとすれば、僕はただずっと後ろめたかっただけなのか……
喧嘩別れしてしまった父への後ろめたさ。
それをボランティアを盾にして言い訳していたかっただけだ。気づいてしまえば酷く呆気なくて、バカな自分。
それに気づくのにこんなにも時間がかかった。けれどこうしてここに来れるようになるまでに、僕にはジョンデや河川敷のおじさんの助けが必要だったんだ。
ごめんなさい、と父に向かって呟く。
遠い昔の笑顔が返ってきたような気がした。
仏壇の前にすっかり座り込んでると、ピンポーンとチャイムの音が鳴ってガチャリとドアを開ける音がした。
「おーい、誰かいるのかー?」
馴染んだ声が聞こえてバタバタと玄関に向かう。
「ミンソギヒョン……!」
「レイか!」
幼馴染みのミンソギヒョンがいて目をまん丸くして立っていた。
「電気が点いてるから誰かと思えば……いつ戻ってきたんだよ!」
「今日。さっき着いたんだ」
「そうか、元気だったか?みんな心配してたんだぞ」
「へへ、ごめんね。明日ヒョンのところに行こうと思ってたんだけど。おばさんにお礼も言わなきゃいけないし」
「そっか。暫くいるのか?」
「うん、多分……」
ミンソギヒョンは嬉しそうに笑ってくれて、やっぱりここは僕の帰る場所なんだろうと思った。
「そういえば、帰って来て誰かに会った?」
「誰かって?」
「うーん……ほら、村の人とか!」
「いや、誰も会ってないけど……?」
「そっか」
あー、やっぱり一緒に連れて帰ってくるべきだったな、と呟いたヒョンに僕は頭を傾げる。
「なんの話?」
「いや、こっちの話」
「ふーん」
なんだかよく分からないけどとりあえず返事をする。
「ヒョンは?今学校の帰り?」
「あぁ、来週プール開きでさ。その準備に追われてるよ」
「そっかぁ、相変わらず忙しそうだね」
「万年人手不足だから。お前は?ダンスやってんの?」
「うーん、ぼちぼちかな」
ヒョンの問いかけに思わず苦笑いを返した。
大見得を切った割には未だ結果を出せてない自分に恥ずかしさが募る。いや、それとは別に今のスクール講師の仕事が性に合っていて楽しいと思い始めてるから、夢が変わってきたというのはあるんだけど。
それでもやっぱり胸を張れるほどのことは出来ていない気がするのだ。
いい惑う僕に、そういえば、とヒョンが口を開いた。
「墓参りは行ったのか?」
「ううん、まだ。明日辺り行こうかと思ってるけど」
「そうか!じゃあ悪いこと言わないから明日朝イチで行け!」
「朝イチ?」
「おう!朝早くに墓参りに行けばきっといいことがあるから。俺から言えるのはとりあえずそんだけ」
「ふーん、うん……わかった」
朝イチに何があるんだろう。
そのときの僕は特に何も考えていなかった。ただヒョンの言うがまま。早朝の散歩もたまにはいいかな、なんてそんな程度で……
久しぶりに眠った自分のベッドは思っていたよりもずっと身体に馴染んでいたようで、ぐっすりと眠った。
お陰で翌朝早くにセットしたアラームは鳴る前に目覚めていた。外に出れば天気なんか最高によくて。あぁ、いい朝だなって。
墓地までの馴染んだ道を歩けば、思い出されるのは葬式の日のこと。駆けつけて呆然としていた僕にミンソギヒョンはなにかと気を回してくれた。
晴れとも曇りとも言い難い空の下、骨壺を抱えて歩いたこの道。
骨になった父を実感もなく抱えていたのを思い出す。
不揃いに並ぶ墓石の数々。
その奥まった一画。
父が眠る場所。
そこは綺麗に手入れがされていて、墓石は朝の光を浴びてキラキラと光るほどで、手向けられていた花はまだ新しかった。
誰が手入れしてくれているのだろう。
親戚か……ミンソギヒョンのおばさん……?
そっと触れた石は、ひんやりと硬質なのに暖かく柔かな気がして。
この下に埋る父の骨を思った。
ごめんなさい、ともう一度心の中で呟く。
やっと来れた。そう思ったと同時に、もう父はいないのだと実感した。
会いたかった。もう一度話したかった。
一緒にお酒でも飲みたかった。
後悔してももう遅いことは分かっているのに、後悔の念に押し潰されそうになるのだ。
そして今、僕には後悔を残してる人がもう一人いる。
このまま、父のように彼までも失ってはいけないと、心が警鐘を鳴らしていた。
でもだからって、どうしたらいいのかも分からない。
父さん、もし僕の願いを聞いてもらえるなら、どうかもう一度ジョンデに会わせてください。勝手なお願いだってわかってるけど、どうか……
胸に去来する想いは、もう僕の手には負えないんだ。
その時、
「レイ、ヒョン…………?」
投げ掛けられた言葉に、ゆっくりと振り向いた。
そこで目を見開いていたのは────
僕の天使。
彼は泣きそうにふにゃりと笑って。
その手には少しの花束を握って。
朝日の下に佇んでいた。
「ジョンデ……?ホンモノ……?」
「はい……」
「なんで?」
「分かりません……でも、今分かりました」
僕はここでヒョンを待っていたんだと思います。
そう言って目を潤ませたジョンデを、僕は堪らず抱き締めていた。
空は気持ちがいいほど晴れていて。
へにゃりと笑った笑顔はあの頃とちっとも変わっていなくて。
彼はやっぱり僕の天使だと思った。
死神だった僕の天使。
おわり