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天使の死神



あの日──ジョンデを初めて見た日、彼は河原で歌っていた。
そこでの生活に悲観してるでも蔑んでるでもなく、楽しそうに鼻歌を歌いながら笑っていたんだ。

その日も僕はまたひとり見送った日で。そんな時はどうしたって気分が沈むんだけど、名も知らぬ彼の声にとてもとても救われたんだ。
誰に言われたわけでもなく、ボランティアなんて言うには酷くおこがましいただの自己満足。独りで逝かせてしまった父への懺悔。どうしてもっと早く連絡を取らなかったんだろう、なんて考え始めれば止まらない。
僕がしていることに意味があるとも思えないけど、何かせずにはいられなかった。

誰かを送って酷く心が引っ張られるとき、彼の歌を思い出すと、不思議と次の一歩を踏み出せるような気がした。青く高い夏の空のように心が晴れていく歌声。暖炉の中で揺らめく炎のように暖かく柔らかな歌声。
気分が沈むといつもこの河川敷で彼を探した。




「狭くてごめんね」


そう言って彼を連れてアパートへと戻った。
お風呂を沸かしてまずは身体を温めて、その間に簡単なご飯を作った。
心が、僅かに弾む。

遠慮がちに佇むジョンデの手を引いて食べさせてあげれば、嬉しそうに頬を上げて、僕が好きな笑顔を作った。


「遠慮しないで」
「……でも」
「君は病人なんだから、遠慮しちゃダメだよ。早く良くなることだけ考えなきゃ」


小さく頷く彼がとても可愛かった。
遠慮する彼を無理矢理ベッドに寝かせて、僕は何時間もその寝顔を眺めていた。長い睫毛が綺麗に伏せられて、上がった口角がなんとも言えなくチャーミングだ。

可愛い僕のジョンデ。


気付いたらそのまま寝ていたのか、目を覚ますとベッドの脇に伏せていた。そのままの体制でまだ眠るジョンデを眺めて、本当に彼がここにいるんだと実感する。
彼の頬にそっと手を乗せて、高い頬骨を撫でて、そのまま張り出たエラを撫でて、あの綺麗な歌声を作る喉元へと手を滑らせた。心がふわっと暖かくなる。


「……レイ、さん?」
「あ、起こしちゃった?ごめんね」
「いえ……あの、ベッド……すみません」
「ふふ。いいんだよ」
「でも……」


酷く申し訳なさそうにする彼に、僕は甘い視線を送る。

「じゃあ、」

そう言って、僕は彼が眠るベッドへと潜り込んだ。


「え……、」
「これならいい?」


間近で見る彼の顔はやっぱり睫毛が長くて、二重が綺麗な可愛い顔をしている。
起きるにはまだ早い時間、僕は戸惑う彼を抱き締めて眠りについた。






「あ、起きた?」


台所で朝食の準備をしてると彼が起きてきて、「おはようございます」と呟いた。


「おはよう。今、朝食作ってるからもう少し待って」

「すみません……」とうつ向く彼に近づいて頬を撫でる。

「ねぇ、ジョンデ。遠慮しないでって言ったでしょ?」
「でも……」
「いい?もうここは君の家でもあるんだ。僕は僕の判断で君を連れてきたんだから、うんと甘えればいいんだよ」

言って微笑みかければ、ジョンデは困ったように眉を下げた。

「だいぶ顔色良くなったね。よかった」
「レイさんのお陰です」
「早く元気になってね」

もう少しで出来るから座ってて、と促して、居間と呼ぶにはちっぽけなテーブルの前に座らせた。
僕は最後の仕上げに取りかかって、朝食を完成させた。


「さ、いっぱい食べてね」

テーブルの上にところ狭しと広げた器の品々は、朝食と言うには手が込みすぎているかもしれない。
ジョンデは驚いて固まっていた。

「嫌いなものとかあった?」
「あ、いや……ないです……」
「よかった!じゃあいっぱい食べてね」
「こんなにたくさん……?」
「うん?だって早く元気にならなくちゃ!あ、もしかして朝はパン派?」

パン焼こうか?と言うと、彼は慌てて「大丈夫です!」と僕の腕を掴んだ。
僕は朝はしっかり食べる派だからいつものように、否いつも以上に作ったんだけど、そうか。病人のジョンデには少し多かったかもしれない。

「残してもいいからね」と言うと、「じゃあ、後で食べてもいいですか?」と遠慮がちに言うので思わず笑った。


朝食を終えると僕は仕事へと出掛けた。仕事、と言っても子供たちにダンスを教えるもので、それだけでは生活できないので工場で積み荷のアルバイトなんかもしている。今となっては、アルバイトの方が本職になってる気もするけど。
ジョンデを部屋に残して行くのは不安だったけど、大丈夫と言うので後ろ髪を引かれる思いで後にした。

仕事中もずっと彼のことを考えていた。彼の笑顔を、歌声を、優しさを。思い浮かべれば心はいつでも暖かくなって。そして彼が流してくれた涙を思えば、心臓の奥がぎゅっと苦しくなるようだった。

家に帰れば「おかえりなさい」と迎えてくれて。そうやって何日か過ごした頃には、ジョンデは少しずつ体調を回復させていた。



「ヒョン、僕そろそろ仕事探そうかと思います」

いつものようにジョンデを腕の中に閉じ込めて眠る布団の中で、彼は呟いた。

「もう?」
「はい、ヒョンに頼ってばっかりいられませんし……」
「ダメ。まだダメだよ」
「そんな……」
「だってまだこんなに痩せてる」

言って抱き締める腕に力を込める。すっぽりと納まってしまう彼はまだまだ痩せっぽっちだ。

「それは……元々です。昔からあまり肉がつかなくて──」

抱き心地悪いですよね、とジョンデは苦笑いを浮かべた。

「そんなことないよ」

君の身体は僕にぴったりハマるみたいだ。だってこんなにもちょうどいい。

少し癖のある髪の毛を梳いてその頭に口づけると、小さく身体を震わせた。

昔から誰かと深く関わるのは、あまり得意ではなかった。警戒心が極端に少ない僕は、信じやすい性格のせいか、よくからかわれたり騙されたりして。みんなの言うことがどこまで本気なのかと、裏を読むのが苦手だった。そのせいか、他人との距離の取り方が分からなくて、何度も失敗した。
ジョンデに近づいたときもそう。初めは顔を見せなくなった彼が心配で少しだけ様子を伺うつもりでいたのに、その懐っこい笑顔に僕はあっという間に吸い寄せられた。心配せずにはいられなくなって、ダンス教室と積み荷のアルバイトを梯子する時間を使ってはジョンデに会いに行った。

今になって考えれば、どうしてこうもすんなりといったのかよく分からない。ただ、毎日彼に会いたかったし、一日会わないでいると不安で仕方なかった。彼にどう思われるかということよりも、自分自身が会わずにはいられなかったんだ。


ジョンデは猫みたいに僕の懐に擦り寄る。
安心しきって身を委ねる姿が堪らなく可愛かった。



-------

人の温もりがこんなにも優しくて暖かいものだということを、僕は初めてレイヒョンに教えられた。

初めは驚いて緊張もしていたけど、抱き締められて寝ることにも漸く馴れて。そしたらその後来るのは、ほっとする温もりだった。安心感とか包容力とか。この腕に許されてるというのが、酷く心地よくて。
だけど、この愛情を知ってしまえば、僕はもう抜け出せないかもしれない。
そんな恐怖も同時にあって……


ヒョンのいない空間はとても寂しかった。今までずっと一人で生きてきたっていうのに、寂しくてつまらなくて、少しだけ怖かった。
体調が回復したら。仕事が決まったら。出ていく理由ならいくらでも作れる。だけどそうしない僕を、神様は怒るのかな。こんな甘えるだけの生活を続けていて良いわけなんてないのに。誰かが離れていく虚しさを僕は痛いほど知っているはずなのに。

そして、レイヒョンが最近あのボランティアに行っていないことも気になっていた。ヒョンは段ボールハウスで最期を迎える人たちの天使だったのに。その天使を僕は今、独り占めしている。

ヒョンの視線が甘くなるほどに、僕は罪悪感が募った。


「ヒョン、ボランティア行かないんですか?」

食事をしながら訪ねると、ヒョンはそれまであった笑顔を曇らせた。

「あぁ、うん……」
「どうして?」
「……ちょっとお休み」
「そう、ですか……」

それからは妙に気まずくて、話を繋げなかった。

ヒョンはあのボランティアを『罪滅ぼし』だと言った。喧嘩別れみたいになってしまったお父さんへの。その機会を僕が奪ってるようで、情けなさが込み上げる。

僕はそろそろ出ないといけないのかもしれない。
───この暖かい場所から。



ヒョンが仕事に行っている間、僕は仕事を探した。すぐに働けて、できれば住み込みのところ。旅館でも居酒屋でも何でもいい。


「ジョンデか?」

久しぶりに河川敷の近くを通ると見知ったおじさんが話しかけてきた。

「あ、おじさん!」
「久しぶりだな。顔見せなくなったらみんな心配してたんだ」

えへへ、と笑う。
ここの人たちはみんな気のいい人たちだ。

「部屋、見つかったのか?」
「あぁ……まぁ……」
「元気ないな。またお前の歌が聞きたいってみんな言ってたぞ」
「はは!ありがとうございます!」
「そういえば……橋の下のじいさんが、この前亡くなったんだ」
「え……」

『橋の下のじいさん』とは、特に僕を可愛がってくれた河川敷の長老だ。この寒さでやられたんだろう、とおじさんは言った。

「あまりに急で死神すら来なかったよ」
「そんな……」

おじいさんが独りだったのは僕のせいかもしれない。
そんな思いが脳裏を掠めた。
僕がヒョンの面倒になっていなかったら、おじいさんは独りで逝かなくてすんだのかもしれない。やっぱり僕がヒョンを独り占めしている。

僕は急いで部屋へ戻ると、ほんの少しだけの荷物を持ってアパートを後にした。



──ごめんなさい。それから、ありがとうございました。


そんな書き置きを残して。


--------


積み荷の仕事を終えて家に帰ると、部屋は真っ暗だった。
また体調でも崩して寝てるのかな?とか、朝は元気だったはずだけどな、とか。色々と頭を巡らせながら居間の電気をつけた。

「ジョンデー?」

控えめに呼び掛けながら寝室のドアを開けるとベッドの上には誰もいなくて、しん、と空気の流れる音だけが聞こえた。
あれ?出掛けたのかな、なんて呑気に考えていられたのは一枚のメモ用紙を見つけるまでだ。テーブルにそっと置かれたそれを見た瞬間、僕は目の前が真っ白になった。

握った紙はくしゃくしゃで。
僕は、鍵も掛けずに飛び出していた。


真っ先に向かったのは、あの河川敷だった。
だって僕たちにはあの河川敷しか接点がないんだ。夜だというのに駆けずり回って、おじさんたちの顔をの覗き込んで。起こしちゃった人には「ジョンデ知りませんか?」って声をかけて。だけど当たり前にみんな相手にしてくれなくて。僕はジョンデのことを何も知らなかったんだと、悲しくなった。

何も、何も知らない。
彼がこの世に生まれてからのこと、何も。
僕は腕の中に閉じ込めていたくて必死だったんだ。ただそばにさえいてくれれば。
彼の笑顔に、僕は救われようとしていた。許して欲しかった。父のことも。この河川敷に行かなくなったことも。

僕がまた逃げようとしていることに、ジョンデは気づいていたのかもしれない。



河川敷の石段に腰掛けて頭を抱えていると、一人のおじさんが近づいてきた。


「死神さんがジョンデのこと探し回ってるって聞いてな」

こんな夜中に何事だい?とおじさんは苦笑する。

「ジョンデのこと知ってるんですか!?」
「まぁ、ここにいたからな。仲間だよ」
「今どこにいるんですか!?」

詰め寄る僕におじさんは、そんなに慌ててどうしたんだい、と驚いた後、はっとして表情を曇らせた。

「もしかして……あの子も死ぬのか?」
「え……?」
「だってあんたが探してるってことはお迎えってことだろ?」

動揺するおじさんに、僕はもう呆れるしかなかった。

「ジョンデは死んだりなんかしません!やっと元気になってきたんですから!僕が死神って呼ばれてるのは知ってます……でもだからって、僕は別に何の能力もないのに。ただ最期のお見送りをさせてもらってただけで……」

うつ向いて話すと「はは、そうかい。それは失礼したね」とおじさんは小さく笑った。

「あ、いや、ここにいる奴らみんな、そんなことは知っているよ。みんなあんたに感謝してるくらいさ。あんたがいたから最期は安心して逝けるんだ。気を悪くさせちゃってすまないね。ただあまりにも必死にあの子のことを探してるから、何かあったのかと思って……」

「ジョンデは……ずっと……今朝まで僕の部屋にいました。でも仕事から帰ったらいなくなってて……」

悲しみを思い出して胸が苦しくなる。僕はもうジョンデには会えないんだろうか。もうあの笑顔は見れないの?僕はまた、大切な人を失ったんだろうか。喪失感なんてもの、早々には埋められないことを僕は誰よりも知っているはずなのに。


そんな項垂れる僕に、実はな、とおじさんが続けた言葉に思わず目を見開いた。


「昼間来たんだよ、あの子。橋の下のじいさんが死んだことを酷く残念がっていてな。お前はまだ若いんだから向こうに戻れるチャンスはいくらでもあるだろって言ってやったんだ。こんな死に損ないのじいさんたちと一緒になんかいるな、ってな」

「そう、ですか……」


やっぱりジョンデはここに来ていた。
見送れなかったおじいさんの話を聞いてきっと心を痛めただろう。そして僕が許されたいと彼にすがっていたことに、気づいたのかもしれない。僕の甘えを、ジョンデは軽蔑しただろうか。彼にだけは嫌われたくなかった。
僕は、救われたかった。

無限にも思えたこの後悔の海から。





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