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天使の死神


さて、どうしようか。


頭を抱えているわりにはどこか楽観的なのは元々の性格だろうか。だって悩んだって仕方がないことが世の中にはたくさんあるということを僕は知っているから。恵まれた人生じゃなかったけど、それに対してどうこう思ったり誰かを──例えば僕を捨てた両親とかを恨んだりしたことはない。だって仕方ないことだから。

そう、仕方のないことなんだ。
だから家賃を払えなくなってアパートを追い出されたって頼る人もいないから路上生活者になったって、仕方のないことなんだ。
これは僕の持って生まれた運の無さだから。

少しの間だけ河川敷の一角を借りて、早いうちに住み込みの仕事でも探そう。そう思って始めた生活、段ボールの寝床にも慣れた頃、僕は一人体調を崩していた。

まだ冬と言うには早い季節で夜もそこまで寒くはなかったけど、ご飯を食べてなかったからきっとこそから来たんだろうな、なんて考えてみたり。あぁ、僕はこのまま死ぬのかな、ってちょっとだけ頭を過った。

こんな生活をしてたって誰に恥じることもないし、むしろ心配してるれるような親戚も友人も僕にはいないし。だから、ここで独りで死んでいったって誰の迷惑にもならない。あ、市役所の人の迷惑にはなるのかな。まぁ、せめて身元のわかるものとごめんなさいというメモ書きくらいは残してておこうか。なんて考えていた時、酷くのんびりとした声が掛かった。


「あの、大丈夫ですか?」


ベッドというには酷く陳腐な段ボールのそれに横たわる僕に、その人は声をかけてきた。


「どこか具合悪いの?」


色白で綺麗な顔をした男の人だった。
その人を見て頭に過った言葉は───死神。いつだか同じ段ボールハウスの住人のおじさんが教えてくれた。

嘘か本当か、死期が近付いて来るとその人はどこからともなく現れて、最期を看取っていくのだ、と。それで、その人が来ると死ぬというところから死神と呼ばれるようになった、と。

確か名前は───


「……レイ、さん?」
「僕を知ってるの?」
「死神、ですよね?」
「死神……そうか。そうかもしれないね」


そう言って、その人は綺麗な笑みを浮かべた。
その人が僕のところに来たということは、理由はひとつ。


「僕、死ぬんですか?」


言葉にしてやっと恐怖が生まれてきた。
自分の生死と向き合うということ。現実味のなかったものが、一気に色をつけていく。


「え?……さぁ、僕には分からないよ」
「だってあなたが来たってことはそういうことなんですよね?」
「僕はただ、君が心配で。だから声をかけただけ。君の名前は何て言うの?」
「ジョンデ……キムジョンデ」


それは両親からもらった最初で最後の贈り物。


「ジョンデ、いい名前だね」


久しぶりに誰かに呼ばれた自分の名前は、何故か特別なものに感じた。


「ゲホッ、ゲホッ……」


名前を呼ばれたのが久しぶりなら、誰かと会話したのも久しぶりだ。慣れないことに咳が止まらない。レイさんは「大丈夫?」と心配そうに背中を撫でてくれた。


あ、何日もお風呂入ってないのに……


思ったのに声に出せなかったのは体力と共に心も弱ってるからだろうか。他人の温もりなんて酷く久しぶりで、その暖かさに思わず目の奥がツンとした。


「ジョンデくんも、帰るところがないの?」


レイさんは心許ないような顔で僕を見つめた。


「えぇ。両親には幼い頃に捨てられました。施設も中学を卒業したら追い出されてちゃって。アパートに住んでたんですけど色々あって家賃も払えなくなって。仕事も、中卒じゃ中々難しいし……はは」
「そうなんだ……」
「体を売ろうにもこんな貧相な体じゃ誰も相手にしてくれないですしね……中々上手くいかないもんです」


そう言って笑うと、レイさんは僅かに表情を歪ませたあと優しく手を握ってくれた。

とても、とても暖かい手。

ポツポツと話していると、他人の温もりに安堵してか徐々に瞼が重くなってきた。


「大丈夫?」

「なんかちょっと眠くなってきました……話し疲れたみたいで……」

「そうだね。無理しないで。君はまだ死なないから大丈夫」


安心して眠って───



レイさんのその言葉に、僕はなんだか酷く救われたような気がして、その日は久し振りにぐっすりと眠った。
近頃は冗談半分にしても死が差し迫っているような気がして、体調の悪さと重なってあまり寝付けなかった。
だから、「まだ死なないから」というその言葉に、僕はただ、とても安心したんだ。





それから、レイさんは毎日のように顔を見せてくれるようになった。

いつも少しだけ話をして、あとは黙ってそばにいてくれる。ある時、どうしてこんなことをしているのかと聞いたら「ただの自己満足だよ」とレイさんは自嘲の笑みを浮かべていた。


「父親の死に目に会えなかったんだ。僕ね、母親を早くに亡くして父子家庭だったんだけど、父親の反対を押しきってダンサーになるために高校を中退して上京したんだ。最後まで反対していて、喧嘩するみたいに家出して。成功するまでは連絡もしないって決めてたからずっと連絡出来なくて。そしたら病気だったみたいで、独りで部屋で死んじゃった」


だからその罪滅ぼしかな。


過ぎたことだというように、さらりと話すもんだから、聞いてる僕は余計に辛くなった。
レイさんが、どんな想いで死に逝く人たちと向き合っているのか。どんな想いで見送ってるのか。きっとそれは懺悔にも似たものなんだろう。父親を看取れなかった代わりに、名も知らぬ人の最期に立ち会う。最期くらいは人の温もりを感じたい、その想いは僕にも分かるから。その人たちはそっと寄り添うレイさんの暖かさを感じて、幸せに逝くことが出来ただろう。

彼は死神なんかじゃなくて、天使だったんだ。


「ジョンデくん……泣かないで……」


僕は知らず涙を流していた。


「だって、レイさんが優しいから……」
「優しくなんかないよ、ただの自己満足だって言ったでしょ?」
「そんなことない、です……きっとみんな幸せだったと思います……」


だって僕は、幸せだから。
あなたがいてくれて、幸せだから。


涙を必死に堪えながら言葉を紡ぐ。

僕はあなたに出会えて幸せだ。
例えそれが僕の終わりを示していたとしても。レイさんの暖かさは幸せと呼ぶには充分なものだ。

いつも遠慮気味に握ってくれる手も、柔らかな微笑みも。暖かくて優しくて。神様に僕の我が儘を聞いてもらえるなら、僕はもう少しこの人と一緒にいたい、と思ってしまったんだ。それほどに、レイさんの存在は僕にとって大きくなっていた。


「レイさん……、僕、死にたくないです……もっとあなたと一緒にいたい……」


これが、僕にとって人生ではじめての我が儘。すべてを諦めてきた僕の。最初で最後の我が儘なんだ。でも……


レイさんは目を見開いて戸惑いを浮かべていた。



「……なんて、嘘、です」


ごめんなさい。分かってます。
僕の立場も、あなたの立場も。

レイさんにすがるということは、レイさんの優しさを踏みにじるってことだから。それがいけないことだってことくらいは僕にだって分かる。


もっとちゃんと元気に生活できてるときに、あなたと出会いたかった。


そしたら僕はもっと幸せになれてたのかな。





「ねぇ、ジョンデくん……」


少しの沈黙のあとレイさんは口を開いた。


「……はい」

「今から言うことはね、本当は僕のポリシーに反することなんだ。でもポリシーなんてそんなの最初から自己満足の上に成り立ってるものだって気づいたから。それに、こんなこと言うのはやっぱり僕の自己満足なんだけど。だからその、よかったら──」




僕の家に来ない?




レイさんは恥ずかしそうに、それでもやっぱり綺麗な笑みを浮かべて言った。



「え……」


「ただの僕のボランティアだと思って構わないから。君を放っておけないんだ……仕事が見つかるまで……ううん、せめて体調が良くなるまで。どうかな?」

「そんな……、だって僕、もうすぐ死ぬのに……」


言って、悲しくなった。
そう。どんなに近づいても、僕はもうすぐ死ぬんだ。そんなことはきっとレイさんが一番知っている。


「ねぇ、言ったでしょ?君は死なないって。ジョンデくんはまだ死なないよ。だから……」
「でも……レイさんが僕のとこに来たってことは、そういうことなんですよね……?」


迷惑は掛けられません。

そう言ってうつ向くと、はぁ、とため息が聞こえて、乾いたはずの目元がまた潤みだしていた。ツキンと心臓の奥が痛んで。僕はレイさんの好意をどう受け止めたらいいのか、考えあぐねていたんだ。


「僕は確かに、ここの人たちにとっては死神かもしれないけど、何か特別な力がある訳じゃないし。それにもうすぐ死ぬだろうと思って君に近づいたわけじゃないんだ」
「え……」
「うーん。本当はちょっと恥ずかしいんだけど」


そう言って「種明かしだよ」、とレイさんは頬を染めた。



「君の声に一目惚れしたんだ。君が楽しそうに口ずさんでいた歌声に、僕はある日恋をした。だから君が心配で近づいただけ。ただの下心だよ」


レイさんはふわりと笑った。


「そんな……」


固まる僕に「それでもよかったらうちに来ない?」なんてはにかんで言うもんだから、僕はうっかり頷いていて……


「早く元気になって僕にまたあの歌声を聴かせてね」


握られた手の温もりは、果てしなく優しくて。

その暖かさは、僕の胸を締め付けるには十分なものだった。





おわり
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