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幸せの理由



「あ、そうそう。明日から来る中国人の下宿生だけど」


「は……?」




就職して家を出た兄の部屋を下宿生に間借りさせるようになったのは3年ほど前から。明日から新しい人が来るという話は聞いていた。だけど、中国人だというのは初耳だ!


「え、中国人なの!?」
「そうよ、」


言ってなかったっけ?とトボケる母は小さなことは気にしない大雑把……元い、おおらかな人だ。


「だから中国語少しくらいは勉強しといてね」と笑顔で買い物に出掛けてしまった。



中国人って……言葉とか通じるのかな。文化とかさ。って考えてみたけど、まぁどうにかなるか、と楽天的な思考はきっと母の影響だ。







「はじめまして、チャンイーシンです。よろしくおねがいしマス」


ぎこちない韓国語を並べて挨拶をしたその人を見たとき、僕はなんだかちょっとキュンとした。考えながらゆっくりと話す片言の言葉がとても可愛く聞こえたのだ。


「こちらこそよろしくね、イーシンくん」


困ったことがあったらいつでも遠慮なく言ってね、と笑う母の隣で僕も笑みを浮かべた。

その人は僕の一つ年上で、僕の通う大学に1年間の交換留学で来たという。良さそうな人でよかった、と胸を撫で下ろした。


「大学でも困ったことがあったらいつでも言ってくださいね」
「あ、えっと……ありがとうゴザイマス」


部屋へ案内して、届いていた荷物の荷ほどきを手伝いながら少しだけ打ち解けた。


「そういえば、韓国語上手ですね」
「いや!まだまだデス!へたけそ?ですから」
「ん……?あぁ!」

下手くそ、と正しい発音を教えてあげると恥ずかしそうに笑窪を作って赤くなる。

「あぁ、そうだ!ヒョン」

ヒョン、と呼び掛けると「ぼく?」と自分を指差して首を傾げた。

「ヒョンでしょ?年上だから。ヒョンは明日何時に大学に行くことになってるんですか?」
「明日は、10時に学務課?に行くことになってます」
「お?僕明日は授業午後からなんで案内しますよ!」
「え……いいですか?」
「もちろん!」


面倒見がいいのも、母親譲りかもしれない。



次の日、10時に学務課に行って手続きをして、校内をぐるりと案内して、テラスで昼ごはんを食べていると、イーシンヒョン越しにミンソギヒョンが歩いているのが見えて僕は大きく手を振った。


「ミンソギヒョン!!」
「ん?あぁ、ジョンデか」
「ヒョン、珍しいですね」
「うん、あぁ。教授に呼ばれて」


ミンソギヒョンは四年生なのでもう殆ど単位は取り終えている。優秀なヒョンだ。


「ん?見ない顔だね」とミンソギヒョンがイーシンヒョンを見て首を傾げるので「昨日からうちに下宿してる中国人留学生のイーシンヒョンです」と教えると、「中国?」と呟いたあと「ニーハオ」と言葉にしてイーシンヒョンと僕は驚いて目を見開いた。
自己紹介と簡単な日常会話。
ミンソギヒョンはそれをして見せたのだ。

「ヒョン!中国語話せるんですか!?」
「うーん、まぁちょっとだけ。昔彼みたいに中国人留学生の友達がいたんだ」
「へぇー」

もう帰って二年くらい経つけどね、と笑ったミンソギヒョンの顔はなんだかちょっと淋しそうだ。

「でも上手デス!発音も」
「はは、ありがと。あなたも上手ですよ」

二年前なら僕が入学する前か、と考えながらミンソギヒョンの背中を見送った。



「僕もちゃんと勉強しようかな……」
「ん?ジョンデなんか言いましたか?」
「いえ。あぁヒョン!この後の予定は?」
「ぼくは教授に呼ばれてマス」
「そっか、僕もこの後は授業があるので。あぁそうだ!連絡先!何か困ったことがあったらいつでも言ってくださいね」

メールは打つの大変だろうから電話でもいいですよ、と連絡先を教えると、イーシンヒョンは嬉しそうに笑った。

「ジョンデいい人ですね」
「はは!そんなことないですよ。困ったときはお互い様ですから」
「おたごいさま?」
「助け合うって意味です」
「あぁ!おたごいさま!」
「それから晩ご飯は6時過ぎれば出来てるはずですから。要らないときとか、ものすごく遅くなるときは先に教えてくださいね」
「はい、ママさんのご飯楽しみデス」



イーシンヒョンと別れて僕は教室へと向かった。いつもの席に座るとギリギリで。滑り込みセーフ!

「遅いの珍しいね」
「うん、ちょっとね」

隣に座るギョンスは不思議そうな顔をしていた。

イーシンヒョンは面白い。中国人が物珍しいのもあるけど、今まで出会ったことのないタイプの人だと思う。ゆったりと話して、ふわりと笑って。あぁ、この人に負の感情なんてないんだろうな、って。僕まで幸せになる。思い返して思わずにやけるとギョンスが怪訝な顔で僕を見ていた。



僕とヒョンは火曜日と金曜日の授業が3限までということで、ふたりで待ち合わせしては出掛けたりするようになった。日用品を買いに行ったり、近場の観光地を案内したり、喫茶店で課題を片付けたり。夕飯までのなんてことない時間を潰す。ヒョンは目につくありとあらゆるものに興味を示した。それを僕が教えたり、分からないことは二人で図書館で調べたり。文化の違いや風習の違いを教えてもらったり。面倒を見てるのか見られてるのか……そんな不思議な関係だ。





その日、繁華街をぶらぶらと歩いて楽器屋さんの前を通ったとき、ヒョンはふと足を止めた。


「ヒョン、どうしました?」
「うん……ちょっと見てもいいですか?」
「ん……?もちろん」

言うとイーシンヒョンは早速自動ドアの向こうへ消えた。ずんずんと進んで行くヒョンの後をきょろきょろと辺りを見回しながら付いて歩いた。楽器屋さんなんて初めてだ。
お目当てのコーナーはピアノだったのか、ヒョンは愛おしそうに鍵盤を撫でた。


「ヒョン、ピアノ弾くんですか?」

「ひく?」と首を傾げるヒョンに、僕は空中で弾く真似をして見せる。


「あぁ!うん、少しだけです。でも見たら久しぶりにやりたくなりました」
「わぁ!弾いてください!聴きたいです!」
「ずっとやってないですから、うまく出来るか分かんないですけど」

そう言ってヒョンはゆったりと鍵盤に指を乗せる。ヒョンらしい柔らかなメロディーが流れ出して。僕は、少しだけなんて嘘じゃん、と心の中で思った。楽しそうに笑みを浮かべて、自分の世界に入り込んでしまったのか、夢中になってピアノを弾くヒョンはキラキラと輝いて見えた。


演奏が終わって、わぁ!と拍手をすると「やっぱり指がうまく動きません」とヒョンはしょんぼりと項垂れた。

「そうですか?僕感動しましたけど」
「うーん……でもやっぱり楽しいですね。ぼくはピアノが好きです!」

照れくさそうに笑ったヒョンの頬はほんのりピンクに染まっていて、とても綺麗だ。


「あ!あとギターもします!」

お次はギターコーナー。
壁に吊るされてるのを指差して店員さんに下ろしてもらって、椅子に座って爪弾き始める。


「ギターも弾けるんですか!」
「はい、少しだけです」

楽しそうにじゃらりと弦を弾いて、いい音です、と呟く。そんなヒョンの前にしゃがみこんで、僕はそれを眺めていた。




「はぁ、楽しかったです!」

お店を出るとイーシンヒョンは晴々とした顔で。本当に音楽が好きなんだなぁと思った。
ギターにピアノに。多分どっちもかなり上手かった。

「ヒョンは、音楽が好きなんですね」
「はい、好きです!」
「あとは何が好きなんですか?」
「えーと……ピアノにギターに……あとダンスも。それから曲を作ったり……」
「え!作るんですか?」
「はい、作りますよ?10曲くらい作りました」
「すごーい!今度聴かせてくださいね!」
「はい、もちろん!あ、でも楽器がないです……」
「あぁそっか……あ!チャニョルに借りましょう!」
「ちゃ、のる?」
「はい、大学の友達です。軽音部なので色んな楽器ありますよ!」
「けーおんぶー?」

音楽のサークルです、と説明すれば、あぁ!と納得していた。
それから「ダンスもするんですね」と話すと、「ダンスも好きです」と小さくステップを踏んでくれて。
その日の僕は本当に楽しかった。




それから、僕は軽音部のチャニョルを紹介して、チャニョルは「楽器が弾きたくなったらいつでも来て自由に使ってください」と笑ってくれた。ついでに「本格的に踊りたくなったらダンス部に行けば後輩がいつも踊ってるから話つけときますね」とダンス部に所属している後輩のジョンインも紹介してくれて、イーシンヒョンはとても喜んでいた。


「チャニョラ、ありがとう」
「いえいえ、お安いご用ですよ。ジョンデのためなら」
「ははは!もー!なに言ってんの!」


軽音部の部室の隅でチャニョルとふざけて話していると、さっきまでキーボードを弾いていたはずのイーシンヒョンがやって来て、もじもじと僕を伺う。「どうしました?」と聞くと「あ、えっと……晩ごはんの時間になります」と。

「あぁ!そうですね!そろそろ帰りますか」

じゃあ、とチャニョルに挨拶をして部室を出る間際、「今度飯奢れよ~」とチャニョルに後から抱きつかれ首を絞められた。
もー!なんなんだ!


行きましょう、とイーシンヒョンの腕を掴んで逃げ出す。ヒョンは楽しそうに笑っていた。



「チャニョルとジョンデは仲いいですね」
「うん、まぁ友達ですから」
「そっか、うらやましいデス」
「はは!でも今はヒョンと一番仲いいですよ?」
「そうなんですか?」
「はい!」

にこりと笑うとヒョンは驚いた顔で目を丸くしていて、僕はまたくすりと笑う。

「あ!ジョンデに僕の作った曲聴かせるの忘れました」
「あぁ、そうですね。勿体ないのでまた今度でいいですよ」
「もったい?」
「大事ってことです」
「あぁ!じゃあ、二人の時にジョンデにだけ聴かせてあげます」
「お?いいですね。嬉しいです」

ふふ、と笑ってイーシンヒョンの肩に腕を回した。なんとなく、くっつきたかったんだ。そしたらヒョンも僕の腰に腕を回してくれて。必然的にくっついた体温は暖かくて安心する温もりだった。


そのまま家に帰ったら「あら、仲いいわね」と母にからかわれて、二人して笑った。



ヒョンは下宿というよりほとんどホームステイに近い感じだ。言ってみればウチはホストファミリーで。ヒョンは家族のようにウチに馴染んでいた。母の作る料理を美味しいと言って食べ、父の晩酌に甘い紅茶で付き合う。息子がひとり増えたみたいだ、とは父の言葉。今度はジョンデが僕の家においで、とヒョンも言ってくれた。
なのに僕はといえば、ヒョンがひとり増えた、という感覚とは違っている気がして。
なんだか釈然としない。




大学のテラスでギョンスとチャニョルとご飯を食べてるときだった。僕とギョンスは弁当組でチャニョルは定食組。もうひとりの定食組のベッキョンは今日は午後から休講らしく帰ってゲームの続きをやるんだと速攻帰ってしまった。昼ご飯くらい一緒に食べてけばいいのに。


「イーシンさんは元気?」
「うん、元気だよ。部室行ったりしてる?」
「いや、俺はかち合ってないんだけど、ベッキョンがサボってたときに来てビックリしたって言ってた」
「あはは!目に浮かぶー!」
「イーシンさんって、例の下宿人?」
「そう、中国人の」

昼ごはんをつつきながらの今日の話題は、どうやらイーシンヒョンのことらしい。
今朝は時間もバラバラだったので家で朝の挨拶くらいしか話していないからちょっと淋しいな、なんて。

「チャニョルは会ったことあるんだ?」
「あぁ」
「楽器が弾きたいっていうから、連れてったの。ここなら思う存分弾いていいですよーって」
「あぁ、それで。どんな人?」

ギョンスがチャニョルに向かって問うとチャニョルは、「どんなって?」と首を傾げた。

「なんとなく気になって……」
「うーん、普通に優しそうなイケメン?」
「あはははは!確かにそうかもー!優しいし、笑うと笑窪ができてね、すっごい可愛いいんだ」
「……なんかデレデレだね」
「あぁー、うん。まぁ実際、イーシンさんといるときのジョンデってすっごいデレッデレだし」
「えー?そう?」


そうかなぁ、と首を傾げる。
あんまり自覚はないけれど、強いていうなら、うん。確かにヒョンといるときは幸せだからそうなるのも仕方ない気がする。


「ふーん、今度僕にも紹介して」
「もちろん!」


……って、言ってるそばからイーシンヒョン発見!!!



「あ!」と声をあげて手を振ると、ギョンスもチャニョルも振り向いて同じ方向を向いた。僕の視線の先にはもちろんイーシンヒョン。


「ヒョンだよ」と二人に伝えて「ヒョーン!」と手を振るとヒョンも気付いて笑顔で近づいて来た。

「ジョンデ!」
「ヒョン!珍しいですね、偶然会うの」
「そうですね、ふふ」
「わぁー!ヒョンだー!」

僕は側に来たヒョンに座ったままギュッと抱きついた。
ニコッと笑って見上げると、ヒョンもニコッと笑ってくれて。あぁ、やっぱりヒョンといると幸せだ。


「ほらね」
「うん、なるほど……すごいね 」


ひそひそと話してるチャニョルとギョンスに気付いて視線を向けると、若干引かれてるような気がするのは気のせいだろうか。


「あ、チャニョル!こんにちは」
「こんにちは、ってイーシンさん気づくの遅すぎ!」
「あ、えっ?」
「いいのいいの、気にしないでください。こっちは同じ学部の友達でギョンスです」
「はじめまして、チャンイーシンです。よろしくおねがいします」


定型文みたいな挨拶をして、ヒョンはお辞儀をする。その姿が仰々しく写ったのか、ギョンスも慌てて椅子から立ち上がり「よろしくおねがいします」と頭を下げた。二人のやり取りが可笑しくて、チャニョルと二人で笑っているとヒョンは恥ずかしそうに真っ赤になった首の裏を掻いていた。



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