僕らの関係
僕らの関係を正確に知っている人は少ない。
小学校4年生の夏休み、家族で海辺にキャンプに行ったときのことだった。
僕は瓦礫に紛れた薄汚れたビンを拾って。お母さんには「汚いからやめなさい」とか怒られたけどそんなことはお構いなしに興味津々でビンを開けて。そうして出てきた1枚の紙。
「To.」から始まっていたその紙は、幼い僕でも誰かに宛てた手紙だということくらいは分かった。だけど内容は全く分からなくて。その紙には見たこともない文字がびっしりと書き記されていた。「なにこれ!」と声を上げると、兄が中国語だなって教えてくれた。(兄はその頃中学生で、僕らの中学では中国語が必須になっていたから習いたての兄は少しだけ、挨拶文程度は読めたのだ)
「全部読める?」と聞くと「全部は無理だ」と言うので、どうすればいいか聞くと「辞書があれば何となく」と言ったので持って帰って辞書を引きながら兄と二人でその手紙を読み解いた。その作業はなんだか秘密の暗号書でも解読しているようで。ワクワクなのかドキドキなのか、とても興奮したのを覚えている。
その手紙は「名も知らぬあなたへ」という書き出しで始まっていた。
中には、その人が「チャンイーシン」という名前だということと10歳の少年だということが書いてあった。そして「この手紙を受け取った名も知らぬあなたが、幸せでありますように」と祈りの文のようなものが書いてあって、なんでか少し心が暖かくなった。だから僕はその人に返事を書いたんだ。兄に教えてもらいながら辞書を引いて、「イーシン君も幸せでありますように」と。
そうして始まった僕らの文通は気づけば何年も経っていた。入学式や卒業式や学芸会とか修学旅行とか。行事ごとに写真を添えたりなんかして。イーシンは韓国語で、僕は中国語で返事を書いて、拙いながらも意思の疎通を図った。初めは短い文章だったけど、少しずつ長くなっていって。いつからか中国語と韓国語で同じ内容を書くようになったりなんかした。それは僕らの語学の向上にとても役立った。
そんなイーシンが韓国に留学すると言ったのは高校生の頃だ。
韓国の芸能事務所のオーディションに合格したので、卒業したらソウルに行くと言った。イーシンはそれまでも地元のテレビで仕事をしていたのは知っていたけど、まさか韓国の事務所に入るだなんて。とても驚いたし、とても嬉しかった。手伝えることがあったらなんでも手伝うし、韓国に来たら必ず会おうね、と約束した。
そしてそれは案外簡単に叶った。
僕はその日、高鳴る胸を押さえて空港まで出迎えに行った。
到着ロビーで「歓迎 张艺兴」と書いた紙を掲げて。そしてゲートから出てきたイーシンを見た瞬間、何とも言えない感情が湧き出てきたのを覚えている。
初めて手紙を書いてから7年が経っていた。
子供の頃から幾度も手紙を交換して、高校の友達なんかよりもずっと長く友達なのに、初めて顔を合わせるという行為は、とてもぎこちなく、くすぐったくて、10代の僕には経験したことのないような感覚だった。
写真で見ていたその人が、目の前にいて笑っている。それがとても信じられなくて。
背は僕と同じくらい?体格は僕よりしっかりしてる?写真で見た通り笑うと右頬に笑窪が現れて嬉しくなる。
何故か最近もらった写真よりも、子供の頃にもらった写真を思い出していた。
こんにちは、と中国語で挨拶すると、その言葉を初めて声にしたことに気づいた。文字では何度も書いたはずなのに、言葉にすることなんてなかったから、口の中が異国の発音に戸惑っているようで。もっとスラスラとしゃべれると思っていた自分がとても恥ずかしい。
でもそれはイーシンも同じだったようで、空港のロビーで二人して顔を真っ赤にして笑った。
二人の会話は相当にぎこちなかった。
もちろん照れもあったけど、それ以上に言葉が通じなかったのだ。書けるし意味もわかるけど発音を間違って覚えていたり、発音自体できなかったり。それから妙に文語体になっていたり。でもそれをひとつずつ互いに直していくのは面白かった。
声は思っていたよりも低い感じ。一番びっくりしたのは、しゃべるテンポの遅さ。中国人ってもっと早口でしゃべるんじゃないの?なんて不思議に思ったけど、のんびりゆったり話すイーシンの言葉はとても耳障りがよくて、想像以上に心地よかった。
二人して一生懸命がんばって会話をしながらソウルの事務所まで付いていって、事務所の前で別れた。色々な手続きがあって事務所の人に呼ばれているのだという。
僕らはまた改めて会おうと約束をした。
約束通り、僕らはイーシンの練習が休みの日、時間を作ってはソウルで遊んだ。僕も受験生だったからそんなに頻繁なわけではなかったけれど、時間が合えば会って話した。
聞きたいことも話したいこともたくさんあるのに言葉が追い付かなくて何度も笑った。でも結局、会話が噛み合わないときは筆談をすれば通じたから不便はなかった。そしてイーシンがソウルに来てからは手紙の代わりにメールになった。
イーシンは僕にとって、家族しか知らない秘密の友達だった。
僕がイーシンと同じ事務所のオーディションを受けたのは、高校を卒業して一年が過ぎた頃だ。
大学の音楽科の受験に失敗して、いくつものオーディションにも不合格で、もう本当にダメかもしれないと思ったとき、最後の賭けをしたのはイーシンのいる国内最大手の事務所だった。
音楽の世界に憧れを持ち始めたのはイーシンの影響だった。彼は昔から音楽が好きで手紙の中でいろんな話をしてくれた。中国の歌手や外国の歌手。歌。ピアノやギターの楽器。ダンス。魅力的なたくさんの話にいつしか僕も憧れるようになった。
けれど。大学に合格したら、オーディションに合格したら、言おう言おうと思っていたきっかけはずっと掴めなくて。
だからその事務所のオーディションを受けたこともイーシンには言っていなかった。いや、言えなかったんだ。韓国まで来て、毎日毎日練習して。先輩の代打でコンサートの舞台に立ったりなんかして。着実に前へ進んでるイーシンになんて、恥ずかしすぎて言えるはずもなかった。
だから事務所の練習室で初めて会ったとき、イーシンは盛大に驚いて目をまん丸くしていたのを思い出す。
僕が「初めまして」と挨拶すると、幾分かして彼も「初めまして」と呟いた。
ミンソギヒョンが「こいつ中国人なんだ」と教えてくれたので、僕は「そうなんですか!」と驚いたフリをして。笑いを堪えるのは結構大変だった。
その夜、家に着いた頃に待ってましたとばかりに電話が掛かってきて、「どういうこと?」「なんでいるの?」と矢継ぎ早に質問され、僕はただ「ふふふ」と笑ってごまかした。
「僕らが知り合いだってことは内緒にして?」
『なんで?』
「だってイーシンは3年も先輩なんだよ?馴れ馴れしくなんかして、僕目付けられたくないもん」
『でも……』
「いいじゃん、またここから新しい関係を作ろうよ。きっと楽しいよ?」
イーシンは中々納得してくれなかったけど、僕は彼との秘密の関係が好きだった。
学校の友達も事務所の人も誰も知らない、僕たちだけの関係。だけどお互いに、語学の先生はお互いだなんて何だか妙に面白いじゃない?
とにかく、僕らは他人のフリをした。だけどこっそり交わすアイコンタクトはとても楽しくて。練習室で会ったとき、廊下ですれ違ったとき、僕らはこっそり視線を交わした。
夜にはメールやたまには電話をしたりして、その時のことを話しては笑った。
僕はみんなの前ではみんなと同じように「イシンヒョン」と呼ぶようになったけど、電話やメールでは変わらずに「イーシン」と呼んだ。そういうちょっとしたことが楽しかった。
そうして間も無くして僕らは同じグループでデビューが決まったのだ。
ここからはみんなが知ってる通り。
僕はもちろんMに志願して、イーシンと同じチームになった。
気づけば僕らが知り合って、10年以上が過ぎていた。
「ねぇ、僕らってすごくない??」
『何が??』
家に着いていつものやり取り。さすがにこんな日は電話だった。
デビューが決まってもうすぐ僕も宿舎に入るから、こんなやり取りも無くなるのかもしれない。
「だってさ、文通を始めたときこんなことになるって思ってた?」
『あーそういうこと?もちろん思わなかったよ。ジョンデなんか僕に隠れてオーディション受けたりなんかしてさ』
「ははは!だって、なんか恥ずかしかったし。それまでもたくさん失敗してたから」
『それなら尚更言って欲しかった。何か力になれたかもしれないじゃない』
「でも、結果オーライでしょ?」
『そうだけど……僕は思い出すと今でもちょっとムカツク』
ムカツクなんて言葉、どこで覚えたんだ?なんて思いながら電話越しイーシンの話に相槌を打つ。
「そうだ!今度の休み、遊びに行かない?」
『いいけど?』
「お祝いしようよ!忙しくなる前に」
『うーん……』
「ダメー??」
『誰かに見つからない?』
「見つかったっていいじゃん。今はもう練習生の先輩後輩なんだから」
しかも仲の良い、なんて付け加えるとイーシンは困ったように苦笑した。
「僕の家に来てよ!お母さんが会いたがってるんだ」
『そうなの?』
「うん。お母さんの手料理食べさせたいし」
それなら、とイーシンは了承した。
きっとこれからはこんなことも出来なくなる。それが良いことなのか悪いことなのか、その時の僕らにはまだ判断できなかったけれど、それだけは何となく分かっていた。
少しして僕らデビュー組に最後の休みが与えられた。みんな実家に帰ったり友達と会ったり。思い思いに過ごす休日。
イーシンは我が家に来ていた。
「いらっしゃい!会いたかったわ!」とお母さんが盛大に歓迎して、「あなたは家の息子みたいなもんなんだから、なんでも甘えなさい」と言って抱き締めた時、イーシンは少しだけ涙ぐんでいた気がする。
僕は苦笑しながらそっと背中を押して部屋へと案内した。そこは完全に僕の領域で、イーシンがいることが何だか不思議だ。
「これ」
そう言って差し出したのは今までやり取りした手紙の束。これは絶対に見せたかったものだ。僕らの歴史。誰も知らない二人だけの宝物。その片割れ。
イーシンは「わぁ!」と目を丸くして、愛おしそうに微笑んだ。
心臓が、ぞわりと高鳴る。
「懐かしいねぇ!僕も全部取ってあるよ」
「あはは!恥ずかしいな」
「そう?昔のジョンデの手紙、可愛いんだよ。いっぱい間違ってるけど一生懸命書いてあって」
「そんなこと言ったら、イーシンだって!」
ほら!と差し出したのは送られてきた小学校の卒業式の写真。
「はは!僕まんまるだね」
可愛かったでしょ?と問うと、複雑そうな顔をするので可笑しくて笑った。
「懐かしいなぁ。この便箋もこの便箋も、全部覚えてるよ。さすがに中身はもう覚えてないけど、手紙が届いた時の気持ちは覚えてる。いつも楽しみにしてたから」
「僕も。返事が来るのいつも待ってた。可笑しいのがさ、出した次の日にはもうポスト覗いてるの。まだイーシンの所にすら届いてないのにね!」
「僕ね、あの瓶がまさか韓国にまで行くとは思わなかったんだ。映画で見てずっとやってみたくて。でも海は遠くて。だから旅行で上海に行った時、お父さんにお願いしてやっと海に流したんだ。どこかの誰かに届けばいいな、とは思ったけど、それを読むのはきっと中国人だと思ってた」
だってそうじゃない?とイーシンが興奮ぎみに言葉を続ける。
「あんな子供に外国の人と繋がるなんて想像できないもん。でも現実には対岸の韓国まで届いててジョンデと繋がった!不思議だよね」
「しかも同じグループでデビューするし?」
「そうそう!!」
僕らはきっと何かの縁で繋がってるんだね。
イーシンがそう言ったとき、僕は、それは正に運命っていうんじゃないかな、なんて心の中で思った。運命ならいい。僕らの関係が、もっと神秘的で絶対的なものだったなら。
僕はイーシンのために中国語を勉強したし、イーシンもきっと僕のために韓国語を勉強した。デビューのためではなかった。もっとお互いを知りたいという想いだけが、僕らに言語を学ばせた。もっと、もっと。異国の彼が何を思い、何を感じているのか。何が好きで、どんな人なのか。ただその一心だったはずだ。
「がんばろうね、これから」
「うん。イーシンがいるなら、僕は頑張れる」
「僕も、ジョンデがいるなら」
僕らの関係は、絶対だった。
幼馴染みみたいな感じ?いや、きっともっと強固だ。だって頑張らないと繋がっていられない関係だったから。
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