KOKOBOP
どきん、と心臓が跳ねたのは、初めてその人に会った時だ。
もしくは、ビリビリと落雷に撃たれたような。
あるいは、ふわりと10センチほど浮き足だってしまうような。
とにかくそれは、僕にとって一目惚れ以外のなにものでもなかった。
僕の世界が音を立てて生まれ変わった瞬間だった。
その日もいつものように行きつけのクラブで遊んでいると、やたらと目を引く人がふらりとフロアに入ってきた。
馴れたようにカウンターで談笑しながらアルコールを注文して、出てきた瓶を片手に体を揺らしながらフロアの中へと吸い込まれていく。
金色の髪、オーバーサイズのストライプシャツ。華奢な身体。無意識に吸い寄せられる視線。
僕は気がつくと人混みの中、見失いそうになる背中を必死に追いかけていた。
そうして不意に振り向いた顔は、僕と視線が重なると、ふにゃりと花開く。
瞬間─────
僕の思考は完全にフリーズした。
「あ!セフナじゃーん!」
甲高い声が耳に響く。
「来てたんなら声かけてよ」
きつい香水の匂い。
「あっちにみんないるから行こう」
凶器みたいに伸びた爪。
いつもなら何てことない会話なのに、どうして……
だってその人が僕を見てるから……
捕まった視線は、もう僕の意思ではどうにもできないんだ。
「……ごめん」
「え、ちょっとセフナ!」
掴まれた腕を外して、人混みをすり抜けるように僕はその人の元へと歩いていた。
「ふふ、いいの?彼女」
「全然……関係ない」
「そう」
「うん」
自然と近づいた距離に心臓が跳ねる。
近くで見ると、一層吸い込まれそうな目をしていた。
だからもう僕は何も言えなくなって。にこにこと楽しそうに笑うその人を、ただただ無言で見つめながら心の内がバレないように、身体を揺らすしか出来なかった。
そうして暫くすると、DJがアッパーな曲でフロアを揺らす。熱気がさらに増して、わぁ!と歓声が上がる。
その歓声に押されるように、その人の腰に手を回していた。
誰も僕らなんか見ていない。
密着した部分が熱を持つ。
まるで初めての感情だった。
「あ……」
呟いた瞬間、その人は背伸びをして僕の首に腕を回すと下から覗き込むように僕の唇にキスしていた。
その時、世界は二人だけで。
なんの音も聴こえなかった。
痺れるような感覚。
心臓が脈を打って苦しい。
息が、息が止まりそうだ。
「ねぇ、出る……?」
「……え?」
聞き返した僕に、その人はぎゅっと抱きついて耳元で「ホテル行く?」と怪しく呟く。
それからニヤっと笑顔をのせて。
もう、断ることなんて出来るはずがない。
但し、ひとつだけ誤算があったとすれば、僕はもうその時余裕がなくて。
いつもならすぐに出てくるはずの男同士で使えそうなホテルだとかを思い付けなかったことだ。
だからそう。
向かった先はクラブからそう遠くない僕の住む何もないアパートで。
部屋の端にベッドが一つ置いてあるだけの簡素な部屋だった。
「ウチでもいいですか?」と聞いたとき、その人は「もっといい!」と笑って、僕の腕に絡み付いた。
妙な心地だった。
早急に事に及ぶなら、あのクラブのトイレだってよかった。
みんなだってそうしてるし、僕だってそうしたこともある。
だけど今日、この人を連れて帰ったのは、ただ無性に連れて帰りたかったからだ。
だからきっといいホテルだとかも思い付けなかったんだと思う。
「あの……名前、聞いてもいいですか?」
恐る恐る尋ねるとその人は、んーとねぇ……、と溜めたあと「チェン」と名乗った。本当の名前じゃないことはすぐに分かった。でもそんな事、どうでも良かった。
「君は?」
「……セフン」
「おぉ!セフンかぁ」
セフンっぽいよ!と笑われたのでムッとして腕を引き剥がそうとすると、似合ってて格好いいってこと!と必死に抵抗するようにさらに腕に絡み付く。
なんだか可笑しくて、堪らずに笑った。
月明かりの綺麗な夜で、彼の金糸がキラキラと光っていた。
部屋に着くなり押し倒したのは、僕にとっては珍しいことかもしれない。
早く直に触れたくて、その体温を、感触を、味わいたくて仕方なかった。
普段ならこんな余裕のない真似絶対にしないのに。その日はすべてが狂っていたんだ。
チェンヒョンは煽るように僕を見るし、僕は抑えがきかなかった。
シングルの狭いベッドに押し倒して、キスをしながらシャツのボタンを外した。
見えた鎖骨が綺麗な形をしていて、酷く淫らなことに思えた。
華奢に見えた身体はちゃんと男らしく鍛え上げられていたし、女みたいに柔らかでもなかったのに、どうしてか欲をそそった。
それはきっとこの人の持つ色香のせいかもしれない。
身体中に散らばったホクロの数を数えるように、身体中に口づけた。
チェンヒョンはくすぐったそうに笑っていた。
僕らは世界の片隅で、誰にも内緒で交わり合った。
艶やかに喘ぎながら時折こぼす笑みに、僕はその日何度撃ち抜かれただろう。
朝方まで混じりあって気を失うように眠りに落ちて、目を覚ますと狭いベッドで二人で抱き合っていた。
チェンヒョンの頭が乗った腕が、痺れている。けれど呼吸の度に金糸が目の前でふわふわと揺れるから、よけることも出来なかった。
「……んっ……んー」
瞼に沿って生え揃った睫毛が揺れる。
何度か瞬かせてゆっくりと開いた。
「セフナ……?」
舌ったらずな口調で呼ばれて、また心臓を撃ち抜かれた。
「おはよう……ございます」
「うん……おはよう……」
ふにゃりと笑う目元に、堪らなくなってキスを一つ落とした。
チェンヒョンはくすりと笑う。
カーテン越しに透ける太陽は、すでに西に傾き始めている気がした。
昨夜の余韻が残るベッドは心臓に悪いのだと改めて知る。
よれたシーツが二人の足に絡みついて、僕の欲をまた煽るからだ。
堪らずに組み敷くと、「元気だなぁ」と笑うチェンヒョン。
「ダメですか?」と聞き返す僕。
見つめあって笑って、結局またキスをした。
昨夜から何度なぞったか知れない口腔。
何度なぶったか知れない耳腔。
何度噛んだか知れない乳首。
何度触れたか知れない脇腹。
何度撫でたか知れない内腿。
何度突いたか知れない後腔。
それから、
何度撃ち抜かれたか知れない、
僕の心臓───
こんなに執着したくなったのは、初めてだ。
「はぁ……疲れたー!」
ティッシュの山がゴミ箱から溢れだした頃、僕らは漸く一息吐いた。
チェンヒョンのお腹が、ぐぅと鳴ったからだ。
「セフナー、水ちょうだーい」
うつ伏せたままチェンヒョンは気だるげに手を伸ばす。
僕はようやくベッドから抜け出すと、昨夜から床に置きっぱなしのぬるいペットボトルを取って渡した。
ヒョンは半分寝そべったまま飲むから、口の端から飲みきれなかった水が溢れて胸元を濡らす。
そんなことにも煽られそうになって、慌てて残り少ないティッシュを何枚か掴んで拭いてあげた。
「あーもー、ベッドまで濡れるじゃないですか」
「ひひ、ごめん」
振り向いて不意に見えた剥き出しの鎖骨。赤い痕。思わずドキッとする。
付けたのは自分だっていうのに。
「ねぇセフナー、シャワー浴びたいんだけど……」
「どうぞ」
「立てない」
この人は一体どこまで甘えれば気が済むんだ……なんて思いながらも結局僕は伸ばされた両腕を掴んでいた。
これってお姫様抱っこじゃない?と笑うヒョンに、そうですね、と仏頂面で返す僕。
「笑え!」と頬っぺたをつねられた。
そのあとも、セフナー、セフナーって歌うように何度も呼ばれて。
僕の気分はとても…………良かった。
チェンヒョンがシャワーを浴びている間、僕はシーツを剥いで、ゴミ箱を片した。
僕もお腹が空いたので冷蔵庫を開けたけど、相変わらずの空っぽだ。
「はぁ、」とため息をひとつ。
そのうちにドタドタと脱衣所から音がして、「セフナー!」とまた呼ばれたので「どうしましたー?」と声をあげながら向かえば、パンツ貸してって。まったく。
「新しいのないですよ」
「いいよ、洗濯さえしてあれば」
ケタケタと笑いながらバスタオルで頭をガシガシと拭いている姿は、裸だっていうのに、色気の一つもない。
不思議な人だ。
僕はクローゼットから一番マトモそうなパンツを出してヒョンに渡した。
「冷蔵庫何もないんで、後で一緒食べに行きます?」
「うん、いいよ」
「じゃあ頭乾かして待っててくださいね」
すれ違い様に濡れたコメカミにキスをひとつ落として、僕もシャワーへと向かった。
ああでも言っておかないと、知らない間に居なくなってしまいそうだったから。それはとても怖かったし、絶対に避けたかった。だから僕は約束するような、その言葉を残した。
それでも急いで汗を流して ──けれど平静を装うように髪を拭きながら出ると、ヒョンは楽しそうに僕のクローゼットを漁っている。
「なにやってるんですか?」
「んー、服借りようと思って」
何着か掛かっているシャツを見比べて、やっぱりこれかな!とヒョンは僕のシャツを手に取った。
お気に入りの白いYシャツだ。
「着てたやつしわくちゃだから、これ借りてもいい?」
「いいけど、長袖暑くないですか?」
「別に?」
そう言うと、ヒョンは素肌の上にそのYシャツを羽織る。
僕が着てもゆったりサイズのそれはヒョンにはだいぶ大きかったようで、袖口を折り返してもなお、余裕がありそうだ。ヒョン自身もそれが楽しいのか、バタバタと遊びながら「セフンのシャツもやっぱりデカいんだねぇ」と笑った。
え……?
ちょっと待った。
今なんて?
セフンのシャツも、って言った?
じゃあ他に誰のシャツ着てるんですか……?って、そういえば昨夜着てたベッドの脇に脱ぎ捨てられてるシャツもオーバーサイズだった気がする……
あぁ、神様。
たった一晩で芽生えたこの独占欲を、僕は一体どうしたらいいんでしょうか。
「……それって、このシャツも誰かのってこと……ですか?」
拾い上げたマルチストライプのしわくちゃなシャツは、確かに僕が着ても良さそうなサイズだ。
「うん、それはチャニョリの」
へ……?
「チャニョリって、あの、クラブでDJやってるチャニョリヒョン……?」
「うん、そう。セフンも知ってるんだ?」
「えぇ、ま……ぁ……」
よりにもよって、あの人のお手付きかよ……
バレたら殺されるかな、とか。
いや、もう昨夜見られてバレてるかな、とか。
とりあえずベッキョニヒョンに泣きつけばいいかな、とかいろんな事が頭を過る。
「セフナー?行かないの?」
「え?」
「だから、ご飯!お腹空いたんだけど」
「あ……あぁ!ご飯!行きましょう!」
ま、考えたって仕方ないか。
腹が減ってはなんとやら、ってさ。
とにかく僕らは空腹を満たすべく、近所の中華料理店へと駆け込んだ。
ラーメンと餃子と炒飯とビールと。
二人して競うように食べた。
僕の白いYシャツを着崩したヒョンから溢れだす色香が、油臭いこの大衆食堂と似合わなすぎて笑った。
「なに……?」
「なんでもないですけど?」
「なんだよ……」
テーブルの下でガコンと足を蹴られる。
「だから、なんでもないですってば」
「だって笑ってるじゃん」
「笑ってないですよ……」
「笑ってるよ!ほらぁ!」
堪えきれずににやける僕の頬を摘まんで、ヒョンは唇を尖らせる。
「あーもー、チェンヒョンが、あまりにも可愛いからつい……」
諦めたように正直に言ったのに、ヒョンは「嘘だ」とムキになる。
「ホントですよ。このお店に似合わないくらい可愛いです」
昨夜あてられた色香は、貫いた衝撃は、嘘じゃなかったのだと思う。
だって今、目の前でラーメンを啜る姿さえ愛おしいのだから。
店を出ると、向かいの喫茶店を目に止めたヒョンはアイスコーヒーが飲みたい、と僕を引っ張った。
仕方ないですねってアイスコーヒーを2つテイクアウトして、飲みながらぷらぷらと歩く。ヒョンは天才的なほど自然に、僕の手を握った。
こうやって、知れば知るほどハマっていく。危険信号を知らせるランプはもう壊れているのかもしれない。
それからまた僕のアパートに戻って、テレビを見ながら二人で微睡んでいたら、ヒョンはいきなりさっきまで見ていたテレビを消して、僕の上に跨がるとキスを仕掛けてきた。
僕は拒む理由なんてないから、受け止めて背中からシャツの中に手を差し入れた。
色っぽく揺れる腰。
うっとりとした眼差し。
また煽るように笑みを浮かべて、僕の頭を掻き抱く腕。
僕らはまたあっという間に裸になって、ベッドへと逆戻り。
何度煽られたって、欲は治まらない。
この人がいる限り。
「ねぇ、」
「ん?」
「……なんでもない」
ずっとここにいて欲しい、とは言えなかった。
言っちゃいけない気がした。
チャニョリヒョンのシャツも、チェンという名前も、きっと今だけの泡だから。
あっという間に消えてなくなる。
だったら僕は伝わるように。
この想いが溶け出すように。
何度も何度も熱をぶつけた。
朝起きて、その人がいないことは、
何となく分かっていた。
絶望ではない。
ただの幻だったんだ。
ふと見ると投げ捨てられたままのマルチストライプのシャツ。
あの人が、僕のシャツを着ていってくれたことだけが、たまらなく嬉しくて、たまらなく苦しかった。