その他
昔から本を読むのは好きだった。
言ってみれば活字中毒みたいなもので。ジャンルはお構いなしだから、ただ無心に文字を追うという作業が好きなんだと思う。もちろん中にはとても感銘を受けたりするものもあるんだけど。
姉弟が年の離れた姉二人だったからだろうか。子供の頃から外で駆け回るよりは家の中でひっそりと本を読むのが好きだった。いつもいつも学校の図書室から本を借りてきては読んでいた気がする。
そんな習慣は大人になった今でもやっぱり染み付いていて、貧乏ダンサーの俺の習慣は、学校の図書室から街の図書館へと変わっただけだった。
小さすぎず大きすぎずのその図書館はわりと気に入っていて、たまに時間があればそのまま図書館で読んだり。静かなのに妙に他人の気配を感じるこの場所が、本を読むにはとても心地いい。
さて、今日は何を読もうか。なんて考えながら書棚の隙をぶらつく。時間があるから新規開拓でもしてみようか、なんてまだ読んだことのない作家の棚からタイトルの気になるものを抜き取っては検分する。あぁ、これちょっと面白そうかも、と思わず笑みがぼれそうになってひとり慌てていると、視界の隅に丸い頭が入って何となく視線をやった。
通路を挟んで向こう側の棚、司書の男が返却された本を棚に戻していた。
台車を押しながら本を戻していき、ついにはこちらの棚までやって来た。
俺はそれをぼんやりと眺めていた。
もちろん顔なら知っている。
貸出や返却の時、何度かカウンターで顔を合わせている。図書館司書は大抵が女の人だから印象に残っているといった方が正しいかもしれない。だけど、こんなにまじまじと見たのは初めてで。清潔に整えられた黒髪だとか、意外と小柄な体格だとか、使い古したエプロンだとか。新発見に戸惑った。
その人は俺が向かっている棚の背中側の棚で作業していて、じっと見てるのも変かと棚の方に向き直したけど、背中が妙にピリピリして動けなかった。心臓が、どこか辺鄙な場所に行ってしまったみたいだ。
「あ……」
小さく呟かれた声にびくりと反応して振り向くと、その人は背伸びをして一番上の棚に本を差し込んでいるところで。言っても170センチくらいはありそうだから届かないというわけではないんだろうけど、必死に背伸びして手を伸ばしていた。腕が、少し震えている。
あぁそうか。差し込むスペースが狭すぎるんだ。
俺は気づけば後ろから手を添えて、その本を押し込んでいた。
本が収まったところで、その人は驚いて後ろを振り返った。真ん丸な目が見開かれていて、こちらを見上げる。誰?何?って感じだろうか。
「あ、有難うございます」
「……いえ」
小さく頭を下げてその人はそそくさと台車を押し次の返却へと行ってしまった。ぺこりと頭を下げたとき、仄かに耳元が赤くなっていたような気がして、思わず自分まで恥ずかしくなった。妙なことをしてしまったせいか、心臓の鼓動が激しく動く。どっと疲れて、こっそりと息を吐き出した。
「あの……お願いします」
「あ、はい……」
今日の借りる分を持ってカウンターに行くと、そこにはさっきの男が真剣な眼差しでパソコンを操作していた。
渡した本を受け取ると、黒々とした髪の毛がさらりと揺れて、思わずその旋毛を凝視した。
「あの……カード……」
座った席からカウンター越しに見上げられ、ぽつりと呟かれる。
その瞳は射抜くような真っ直ぐな瞳で、黒々とした綺麗な瞳だった。
「あ……あぁ、すみません!」
見とれてた、という表現はきっと間違いじゃないと思う。我に返って慌てて財布を取りだしカード入れになっている部分を漁った。
あれ?
いつもの定位置にカードが見当たらず、焦って余計に手元が狂う。お目当てのものはやっぱり見つからない。
あ……
そういえば前回借りたとき、急いでいたのでそのまま鞄に放り投げたような気がしないでもない。
「……あの、カード忘れて……」
「あー、じゃあこの紙に住所と名前と電話番号書いてください」
差し出された小さな紙に、言われた通り書き記した。
するとその人は検索をして、そして……
「あれ、明日?」
「え……?」
「……誕生日」
「あぁ、はい」
少し照れながら返すと「一日早いですけど、おめでとうございます」だなんて意外な一言が返ってきて。だけどずっと無表情だから感情が読めない。どのテンションで返せばいいんだろうかと思案した。
「有難う、ございます」
どうにも戸惑いを隠せず社交辞令のように、あなたは?と聞くと、その人は少し考え込んで。
「……昨日。1月12日」
「え……おめでとう、ございます」
「ありがとうございます」
意外な事実に驚いてると、「じゃあ、再来週までの返却でお願いします」と定形句を口にされ、なぜか「はい」と返事をしてしまい、ふっ、と思わず吹き出した。
図書館を出て自転車に跨がる。
近くのコンビニを通り過ぎたところで───気がつけば俺は道を引き返していた。
「あのっ!」
その人はさっきと変わらずエプロンを着けてカウンター席に座っていて、ぎょっとした目で俺を見上げる。
「ご飯でも、行きませんか?」
「は……?」
「今日、ちょうど誕生日の真ん中の日だし」
あまりに突然のこと過ぎて、その人はそのままカチンと固まってしまったようだ。当たり前の話だけど、急に何言っちゃったんだろうと瞬時に自己嫌悪が押し寄せてくる。急に言われたって困るに決まってる。何とも恥ずかしくて、穴があったら入りたいくらいだ。
「……すみません、何でもないです!忘れてください」
あの人が俺の誕生日に気付いてくれたから。
しかもあの人も昨日が誕生日で。
それがなんだか妙に嬉しくて。
どうかしてたんだ。
さっさと消えようと背中を向けたとき、くいっとコートの裾を掴まれて。
俺は驚いて振り返った。
「あ、あの……!」
「はい……?」
「行く。行きます」
はにかんだその人の笑顔を見た瞬間、俺の心臓は大きく音をたてて飛び跳ねていた。
おわり
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