このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

クリスとスホ



砂を掴む───


砂を掴むようなものだ。
報われないことが全てで、でも結局のところあの頃の僕はそれを望んでいたのかもしれない。


大学時代、友人のレイはいつもそんな僕を見ては笑っていた。そんなのは不幸体質過ぎる、と。報われない恋に酔っていたのかと聞かれれば、そんな気もするけれど。それでも何度も胸を焦がしたのも事実だ。


『お前は危なっかしくて目が離せない』

クリスはいつだかそんなことを言っていた。
だったら目を離さなければいい、と思うのは僕の我儘だっただろうか。けれど実際にはそんな言葉は口にできるはずもなくて。僕はいつも恨めしそうに彼を見るだけだった。

いつだったか学園祭の時に、僕らは純文学同好会のみんなで出店を出したことがあった。地味な活動とは反対に出店したのはチョコバナナとかかき氷とか、酷くジャンク的なものたったように思う。確か、レイがチョコバナナが好きでどうしてもそれがいいと言ったんだっけ。ディオが作るチョコバナナはとても芸術的で、レイが作るチョコバナナはとても破壊的だった。とにかく、その打ち上げで僕はクリスに言ったんだ。「もしも僕が女だったら、僕は君と付き合いたかった」って。そしたらクリスはにべもなく「断る」ってただ一言言って。だから僕はもう笑うしかなくて。そんなにまで可能性がないのかってその夜少しだけ泣いたんだっけ。

触れる度に、触れられる度に、その箇所がじんわりと熱くなって意識が飛びそうになったのを今でも覚えている。緊張が伝わるんじゃないかと萎縮しながらも、いっそ伝わればいいのにと逆のことを考えてみたりして。でも鈍感なあいつは、いつも僕を大きな包容力でもって包み込むだけで。僕の想いはもう注いでも注いでもぼろぼろとこぼれ出すばかりだった。だから、伝わってほしいと思う一方で、臆病にもバレないようにとひた隠しにしたんだ。


僕の学生時代はそんなだった。



僕は今社会人で、あの頃さんざん悩んだマイノリティとしての葛藤なんかはふとした瞬間に弾け飛んで、同性愛者としてはその手のバーで適当にお相手を引っかけたりなんかしながら真っ当に生きている。有り難いことに僕はそこそこモテるみたいで、相手に困ったことは一度もなかった。けれど僕が好む相手はいつもどこかクリスに似ていて。見上げるほど高い背、広く大きな背中、怪物みたいに大きな手、そして笑うと少しだけ垂れる目尻。だけどいくら彼に似てる人を探しても、みんな所詮は偽物で。掴んでも掴んでも、やっぱりこぼれていくばかりだ。





「まだそんなことしてるの?」


大衆居酒屋よりも少しだけ高級なお店で、ワイングラスを傾けながら向かいの席に座るレイは哀れみの表情を浮かべて苦笑した。色白と言うには十分な僕よりもさらに白いレイの頬はアルコールによって仄かに赤く色づいている。

「スホはいつになったら幸せになれるんだろうね」

随分と久し振りに会ったというのに、そのおっとりとしたしゃべり方とは裏腹に鋭い一言を溢す性格は変わってないらしい。僕は思わず苦笑した。
レイは昔から僕がクリスを好きだということを知っている唯一の人間だ。彼の純粋な丸い瞳に見つめられると嘘をつけなくなってしまうという僕の残念な性格のせい。

「別に、十分幸せだよ」

こうして美味しいお酒も飲めてるし、なんて笑えばレイは呆れた顔をした。

「そんなことだろうと思って、プレゼント用意したんだ」
「え?プレゼント?」

不思議に思って目を見開くと、レイは綺麗に微笑んだ。

「そろそろ誕生日だったよね?」
「あぁ、うん……」
「一番必要なものかと思って」

うまくやってね、と言い残してレイは席を立つ。

そうして入れ代わるようにやって来たのは、僕が思いを馳せた正にその人で……


あのころよりさらに凛々しくなっただろうか。いや、老けたのかな。あぁ、それはお互い様か。髪が少し伸びたからかな。猫背は治ってないんだね。それに、格好つけて片手をポケットに入れて歩く癖も。


「……おい」

「へ?」
「挨拶くらいしたらどうだ?じろじろ見てないで」


相変わらずだな、とクリスは笑った。
ん?という顔で首を傾げると、「物言いたそうな目も尖らせる唇も、昔のままだ」と苦笑した。クリスはさっきまでレイが座っていた席に座った。つまり僕の向かいの座席。そうして「久しぶりだな」と笑う。


胸がぞわりとざわめいた。


あぁこの感じ、すごく久しぶりだ。



「あ……あぁうん。久しぶり」

向けた笑顔はちゃんと笑えてるだろうか。
目の前のその人は、僕が記憶に留めていた彼よりも何倍も、何十倍もいい男になっているように思えて、心臓は鳴りっぱなしだ。いや、もしかしたらこれは飲みすぎたワインのせいかもしれなくて。ただ、血液の循環が通常の倍速になっていることだけは確かで。
とにかく僕らは久しぶりの再会を祝した。何故ここにクリスがいるのかなんて、そんなの愚問なんだ。そんなの僕のいいように解釈すればいい。



今何してるの?という当たり障りない会話から始まって、昔話に花を咲かせながら気付けばもう2本目のボトルを空けていた。


「うげぇ……飲みすぎたかも……」
「そうだな、確かにお前は飲みすぎだ」
「久し振りなんだから仕方ないじゃん。嬉しくてお酒が進むんだもん」
「はは、それは光栄だな」

クリスは笑った。

「他に何か言うことないの?」
「他に?ないな」
「けち」

ぶぅと膨れると、お前の膨れっ面は歳を取らないのか?と頬をつねられた。

「痛っ!もー、クリスの仏頂面だって変わらないだろ」
「あぁ?そうか?」

じゃあお互い様だな、と言うので二人して笑った。



あぁ、好きだ。

このくだらないやり取りが、ゆったりと流れる空気が。

やっぱり、何年経っても好きだと思った。

欲しくて欲しくて堪らないのに手を出せない大事な人。あの頃より経験を重ねた今だったらもっと簡単に誘えるのかもしれないとも思っていたけど、やっぱり僕には難しくて。たとえ先に進めたとしても、きっと僕はそれを選ぶことができない。
僕はずっと、この関係を壊すことが怖いんじゃない。先を知ることが怖いんだ。この先にあるもの。それを知ることが怖い。触れた先にあるもの。通じた先にあるもの。それを知って、知られて、時に喜んで、時に幻滅して。そうして僕らの関係が、僕の中のクリスという男が、変わっていくのが怖い。
分かってはいたけど、僕は存外に臆病なんだ。


そろそろ帰ろうか、というので会計を済ませて店を出た。思いの外足元が覚束なくて、彼に抱えられるように通りまでの道程を歩きはじめた。伝わる体温が心地よくて、酒のせいだろうか、心が緩み始める気がした。



クリスという男は寡黙だ。
僕が喋らなければ会話なんかはなくて、この男から話し始めるということはまずない。だけど僕が話すことには丁寧に耳を傾けてくれる。面倒くさそうな表情を浮かべながら。
だから僕はいつも隙間を埋めるように喋り続けた。沈黙が怖いわけではなく、僕がそばにいるということを意識してほしかったからだ、ということを今思い出した。彼の視界に入っていたかったのだ。そうして目が離せないといった通り、目を離さないでいて欲しかった。


「君はどうしていつもスマートなんだ!」

酔っ払いの僕を抱える仕草が、あまりにスマートで腹が立っていた。隣で喋り続ける僕に適度に相槌を入れながら、時折よろけそうになる僕を支えて、それでも周りに目を配らせながら通行人にぶつかりそうになれば引き寄せられる。その行動のすべてがスマートで、それは昔から変わりなくて、その度にどきまぎする自分が酷く情けなかった。あらゆる期待をして、先に進もうとして、結局足踏みをせざるを得なくなる。しんどくて腹が立つ。これはただの酔っ払いの思考だなと呆れた。


ちらり、広場に佇む時計塔に目をやる。
このまま駅まで歩けばギリギリ終電に間に合う時間だ。

歩みを緩めようか。
このまま酔った勢いですべて壊してしまおうか。
先のことなんか考えなければいい。
この一回ですべてを終わらせればいい。そうすれば少なくともこれからの僕は彼に似た人を追い続けずに済むかもしれない。

考えたけれど、やっぱり臆病者はそう簡単には治らないらしい。歩みを緩めることは出来なかった。


なのに、その歩みを緩めたのはクリスの方だった。


ふと立ち止まったので、僕は彼の腕の中でずるりと滑り落ちた。

「なに?危ないじゃないか!」

唇を尖らせて横から見上げて抗議する。

クリスはじっとこちらを見下ろしていた。
不思議に思って恐る恐ると伺う。

「……終電出ちゃうよ?」
「うん、あぁ……」

見上げる先では、押し黙って何か考えているような表情だった。その視線は真っ直ぐにこちらを向いていて、僕は何だかいたたまれずに下を向いた。

「帰るのか?」
「え……?」
「お前は、このまま帰るのか?」

そっと吐き出されたその言葉に、ゆっくりと視線を上げる。

「俺たちは、ここで別れて、またお前は連絡も寄越さずに過ぎていくのか?」
「……なに、言ってるの?」
「だから。俺たちはまたこれっきりになるのかと聞いてる。俺はスマートなんかじゃないし、ついでに言えば酔ってもいる」

だからその目で見るな。

苛立ちを隠せないといった表情でそう言って、クリスは顔を背けた。
僕は意味が分からず、彼の視線を探る。下から覗いた彼の表情は酷くやるせないといった感じだった。

この状況がなんだかとんでもないことくらいは僕にも分かる。進んだ先には何がある?掴もうとしてるものは砂?それとも……


先に、進む。進まない。進む。進まない。


響く心臓の鼓動のように幾度も繰り返される言葉。


どうせ今は酒に酔っていて、気分は高揚している。知ればいい。何もかも面倒くさい思考はかなぐり捨てて、勢いのまま。それで全部終わらせればいい。この、とうが立ちすぎた想いなんて。すべては一瞬なんだ。



震える手で、そっと彼の頬に触れた。


瞬間、僕が好きなあの瞳が見開かれて、びくりと震えた反応が掌に伝わる。
火傷しそうなほど火照ったその手に、ゆっくりと彼の大きな手が重なった。
交じりあう視線はとても甘くて、心臓が飛び出そうなほど高鳴る。


あぁ……飲み込まれる。

濁流がすぐそこまで……



ゆっくりと吸い寄せられるように、

抗うことも出来ずに、

僕らの唇は、重なった。



彼の頬に添えていた手は、重ねられたその大きな手によって彼の肩へと移され、その大きな手のほうは僕の後頭部へと収まった。



ゆっくりと唇が離されて、そっと瞼を開いた。ごく至近で重なる視線。放心したように彼を見つめた。
事実、僕は放心状態だ。受け止めきれずにあぶれてるこの状態を、どうしていいのか分からない。もっと言えば、何が起こったのかさえ正確には把握しきれずにいる。それほど僕の心臓は締め付けられて、頭は真っ白だった。
甘い甘い痺れ。
掴んだ砂が僅かに掌に残っている。
酔っ払いの幻想かもしれない。



口を開いたのはクリスだった。


「レイに、そろそろ回収してくれと言われた」
「は……?」
「お前を、野放しにしておくなと」

だから今日回収しに来た、とクリスは呟く。


そうして抱きとめられた腕の中は、酷く暖かかくて。どうしてこんなに心地いいんだ。ピタリと重なる。


「回収って……なんだよそれ」
「だめか?」
「ダメじゃないけど……」
「けど?」
「君は僕のことなんか好きじゃないだろ?」

そうだ。クリスは僕なんかとは付き合いたくないと言っていた。レイが何を言ったか知らないが、遊びなら初めからそう言っておいて欲しい。これ以上期待をしないように。

「なんでそう思うんだ?」
「だって、昔言ったじゃないか。僕が女だったとしても断るって……」
「言ったか?」

肩越しに響く低い声が、心地いい。

「言ったよ。だから僕は振られたと思たのに」
「そりゃそうだろ」
「ん…………?」
「俺が好きなのは男のお前なんだから、女である必要がどこにある」


さらりと言ってのけた言葉に、僕の思考はストップする。あまりの驚きに肩から離れてクリスの顔を見やった。瞬きを繰り返して見つめるが、不思議そうに見つめ返された。

とりあえず、僕の今までの人生はなんだったんだ!

報われないと思っていた想いは、掴めないと思っていた想いは、既に掌にあったというのか?

「……わ、分かりづらい!!」
「そうか?すまない」

そう謝ったあと、じゃあ分かりやすく、何て言ってその唇が再び近づいてきたので、僕は甘んじて受け止めることにした。




あぁ、最終電車が出た頃だ。


僕はもう、きっとこれから知ることになるだろう「その先」からは、怖れていようが何だろうが、逃げることはできない。



だって掴んでしまったのだから。



遠くの方で電車の走る音が聞こえて、僕は抱き締める腕にいっそう力を込めた。





おわり
5/8ページ
スキ