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クリスとスホ


あぁ、俺の天使が飛び立ってしまいそうだ



どうしようもない不安に駆られて、前に立っていた丸い後頭部に咲く綺麗な旋毛に唇を落とした。
目の前の海は夕日に染められて真っ赤だ。


「なに?」

「いや……」


波が大きくうねる音。
浜辺の砂を引っ掻いて運び出す音。
夕暮れの風が吹いて小さく震えた恋人の背中を、広げたジャケットの中に閉じ込めた。
首を捻って後ろを振り返るので、その薄く控えめな唇を自分のそれで塞ぐ。


「ねぇ、」
「んー?」
「寒くなってきた」
「そうだな、そろそろ戻るか」
「うん……」


俺のジャケットから抜け出し、その代わりのように今度は俺の手に指を絡め、見上げて、ふふ、と浮かべた笑みが愛しくて絡められた指をぎゅっと握った。

少し歩いたところで、繋いだ手がクイっと引っ張られ「ちょっと待って、」と声がかかる。


「どうした?」
「靴に砂、入ったみたい」


肩貸して、と言うので近づくと、肩の辺りに手を置いて片方の靴を脱ぎ始める。
ふらふらとよろけながら靴をほろうので、思わず腰に手を掛けて支えると、「ありがと」とはにかんだ。


「やっぱり海に来るならクリスみたいにハイカットにすればよかった」
「はは。そのスニーカーも俺は好きだよ。お前っぽくて」
「そう?」


嬉しそうにはにかんでうつ向いた恋人の手をまた握り直して歩き始める。

砂浜から出たところにある駐車場は、穴場だったせいか俺の車しか停まっていなかった。
車に乗って、寒がる恋人のためにヒーターをつける。吹き出し口の近くで擦る小さく白い手は子供のそれのようで微笑ましく思えた。


「どこか寄るか?」
「ううん、大丈夫」
「じゃあ適当に走るか」
「うん」


気がつけば辺りはすっかり日が暮れて、夕闇に包まれていた。

ハンドルを掴む手とは別の方の手を差し出せば、その小さな両手で掴まれてやわやわと指を絡められた。体温はだいぶ戻ってきたようだ。
明かりといえば等間隔に道路を照らす街灯くらいしかなくて。人ひとり、車一台走っていない道路を、時折掠れるFMラジオに乗せて車を走らせた。





「あ、この曲……」
「ん?」


ラジオから流れ出した音楽に耳を傾けると、聞き覚えのある懐かしい曲が流れている。


「覚えてる?」
「あぁ、あの店で流れてた曲だろ?」
「うん」
「この曲を口ずさんでいたお前に、俺はあの時見とれたんだ」
「そうなの?」


古い話だ。俺たちが出会ったときの。
古い古い話。
もう何年前になるだろう。

初めて入ったバーでジュンミョンはグラスを揺らしながらBGMに流れていたこの曲を小さく口ずさんでいたんだ。その姿があまりにも物悲し気で心を奪われたのを今でもはっきりと覚えている。
一目惚れと呼ぶに相応しいものだった。
とても安易で、衝動的な感情だったのかもしれない。内側から溢れ出てくるような。
気がつけば俺はジュンミョンに声を掛けていて、そうしてもう何年も隣にいる。


「あの時、僕はもう世の中に飽き飽きしていたんだ。すべてがどうでもいいと思えるくらい。でも僕は、クリスに出会って救われたみたい」
「救われた?」
「うん、また頑張ってみようって思えた。君のお陰だね」
「それは光栄だな」


言ってくすりと笑えば、「もう!」と言って握られていた手を叩かれた。


「俺もだ、」
「え……?」
「同じようなことを思っていた。仕事が上手くいかなくて、自棄になって飲んでいた日に偶然入ったあの店でお前に出会った。天使がいると思ったよ」
「……なにそれ」


路肩に車を寄せて、シフトレバーをパーキングに入れる。どうしたの?と不思議そうな顔をする恋人に向き合うためにシートベルトを外した。


「お前は、神様が俺に遣わせてくれた天使だと思った」


まさか、と頬を赤く染めて恥ずかしがる姿が、いつまでも初々しくて心臓がぎゅっと締め付けられた。


「でも今はその羽をひとつ残らずむしり取ってしまいたい気分だな」
「なんで?」
「どこかに、逃げてしまいそうだから」

「──そんなの……そんなの僕だってそうだよ!」


不意に激昂したので驚きながらも赤く染めた目元を、親指でそっと拭った。


「どうして?」
「僕は……僕は今日、別れ話をされるんじゃないかってずっと不安だった……ついに突きつけられてしまうんじゃないかって……」
「別れ話……?」
「だって、ずっと連絡もなくて放っておかれて、やっと連絡が来たと思ったら海に行こうだなんて言うから……」
「海は別れ話をするところなのか?」
「そういう訳じゃないけど……」


今日一日ずっと流れていた妙な空気はそのせいだったのか、とやっと納得して少し可笑しかった。可笑しかった、というのはあまりにも他人事に聞こえるだろうか。
確かにここのところずっと仕事が立て込んでいて、何日も連絡が出来なかったし、こうして出掛けるのも言われてみれば久しぶりな気がする。それでも……


「俺がお前と別れられると思うか?」

「……知らない」


視線を反らす恋人に「おい」と鼻を摘まむ。


「痛い……」
「許さん」


やっと空気が緩んで、今日一日ポケットに転がっていた小さな存在を、俺はここに来てやっと取り出すことができた。
白く小さな手を取って、薬指に嵌める。
その様子を、ジュンミョンはじっと見つめていた。


「な、に……?」
「誕生日だろ?もうすぐ」
「あ……」
「プレゼント、って言ったら?」
「忘れてると思ってた……」
「甘いな。俺を誰だと思ってるんだ?」


お前の恋人様だぞ、と笑う。釣られるようにジュンミョンも目を細く吊り上げて笑みをこぼした。


「当日は仕事だから、少し早いけど」

おめでとう、ジュンミョナ。


きらりと光る目尻の涙を親指で拭って、ゆったりとその唇を塞いだ。




「ずっと俺のそばにいるよな?」


うんうん、と首を縦に降る姿が愛しくて、堪らずにもう一度口づけた。甘い痺れが全身を駆け巡る。それはまるで毒薬のようで、もう何年もかけて俺の体内を侵していた。今更、抜け出せるわけなんかないことを、ジュンミョンは一番知っていなくてはいけないのに。共にした何年もの時間が俺の気を緩めていたのは確かで。恋人がこんなにも不安に思っているとは知らなかった。


「俺が悪かった。もっと誠実になるよ」
「なにそれ……」
「お前がそんな事を考えなくて済むように」


指輪を嵌めた手をとって、そっと口づけた。


それは、まるで誓いのキスのようで───


この綺麗な天使を、
俺はきっと天へと返してはやれないのだろう


そんなことをふと思った。






おわり

HappyBirthday to Suho!! 2015.5.22
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