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〇〇とチェン

160605 行方知れずの恋 ドチェン


アパートの雨ざらしの外階段の下に子猫を見つけたのはジョンデだった。



「うちでは飼えないよ?」
「分かってるよー。でもお腹空かせてるみたいだからさぁ」


ね?と笑うジョンデの笑顔に、僕は小さく溜め息をついて部屋に戻った。

確か、冷蔵庫の牛乳がもうすぐ期限が切れそうだった。飲みきれないかもしれないなぁなんて思ってたからちょうどよかったかもしれない。それだけの理由。

器に牛乳を入れて外に出るとジョンデは「さすがギョンス!」と笑って、器を差し出すと嬉しそうに受け取って縞模様のその猫に差し出していた。




高校の同級生であるジョンデとルームシェアを始めたのは去年の夏頃だ。
たまたま仕事帰りに行き合って飲みに行った時、お互いにそろそろアパートの更新時期だとかそんな話になって、じゃあ一緒に住む?と言ったのは確かジョンデの方だった。家賃の節約にもなるしとか理由をつけて、僕はその提案にのったんだ。
だから、その返事の裏にあった僕の下心について、ジョンデはまったく知らない。

その事についてたまに酷く罪悪感を感じてしまうのは、ジョンデが気になる人ができたとその猫みたいな瞳をキラキラと輝かせて言うたびに、ああでもないこうでもないとその相手の欠点になりそうなことを言って諦めさせているから。
僕の愛は酷く歪んでいる。
その自覚は十分にある。




猫はすっかり牛乳を飲み干して、ジョンデの足にすり寄っていた。
ごめんね、うちじゃ飼えないんだ。なんてジョンデは悲しそうに呟いていて。僕が悪い訳じゃないのに、どうしようもない罪悪感に襲われた。


「いい飼い主見つかるといいね」


そう言ってジョンデは立ち上がると、僕の方を向いて「行こっか」と眉を垂らした。

ばいばい、と小さく呟く声は、きっといつか僕に向けられるものなんだろうと想像して恐ろしくなった。


猫はジョンデに向かって、にゃあ、と鳴くと今度は僕の方をちらりと見て、冷たい視線を落として去っていった。







それから三日後だっただろうか。
猫はまだアパートの前で丸くなっていた。
飼い主を探すつもりなんてないのか、野良猫然として佇んでいる。


ちらりと猫と目があった。


僕はジョンデみたいに優しくなんかないから、お前を甘やかしたりなんかしない。

突き放したのは僕なはずなのに、"お前になんか頼まないよ"ってそんな風に目を背けられて、無性に苛立ちが募った。


アパートのドアを開けるとジョンデは先に帰宅していて、「おかえり」と元気な声がかかる。いつものように「ただいま」と言いながら靴を脱いで、自室でスーツを脱いだ。



「お風呂沸いてるよ。っていうか先に入っちゃった」


ごめんね、とジョンデは笑う。
別に謝ることなんてないのに、ジョンデは先に風呂に入ることをいつも申し訳なさそうに言うんだ。
ルームシェアを始めたときに、シャワーより湯船に浸かる方が好きだと言っていた。その方が疲れも取れるから、時間があるときはなるべくお風呂を沸かしたいんだけどいいかなぁ、って。
僕はどっちでもよかったのでそのまま答えたら、水道代とか気にするかなぁと思って、と眉を下げた。
そんなの、ルームシェアで折半なんだから前よりは安くなるんだし気にしないよ、と答えると安堵したように笑ったんだ。

ジョンデは、昔からそういう細かいところを気にするやつだった。何かの班決めだとかの時も自分の役割だけ楽な気がするとか、部屋を決めるときも僕の通勤距離よりも自分の通勤距離の方が短いような気がするとか。そんなの取るに足らないようなことなのに、いちいち気にしては申し訳なさそうに眉を垂らすんだ。
そのくせ、自分のことに関しては大雑把で、みんなで飲みに行ってもいつも割り勘敗けをするし、学生の時もいつもついでだからと言ってはみんなの飲み物まで頼まれて買いに行ったりしていた。

損な性格だと思う。
だけど、そこが愛おしくも思えるんだ。



「ご飯できたよ」


居間で洗濯物を畳んでいたジョンデに声をかけて、小さな食卓についた。

ご飯は僕の担当で、洗濯はジョンデの担当。
特に決めたわけでもないけど、いつの間にかそんな風になっていた。


「いただきます!」


ジョンデはいつも、きちんと声にする。
"いただきます"も"ごちそうさま"も"いってきます"も"ただいま"も。
一人暮らしで忘れていたそれは、酷く新鮮に思えた。


「そういえば、あの猫、まだいたね」
「うん」
「ギョンスも見た?」
「うん、ちらっとね」
「早く飼い主見つかるといいけど……」


あの猫が飼い主を探す気があるようには見えなかった。人間に飼われることが必ずしも幸せとは言い切れないから、僕もそれでいいと思っている。ただ気がかりがあるとすれば、ジョンデがずっと気にしているということだろうか。ジョンデの気を惹くあの猫が、僕は少しだけ羨ましく思えた。



お風呂から上がると、「先に寝るね」と言っていた通り、居間にはジョンデの姿はなかった。

蛇口を捻って、コップに注いだ水を一気に飲み干す。
渇いているのは喉だけの問題なんだろうか。
急速に体内に取り込まれた水道水は、戸惑いながらも胃の中へ落ちていった。
どくり、と心臓が脈を打つ。

こんな生活、いつまで続くんだろうか。
いや、いつまで続けるんだろうか。

それは幸せなことなはずなのに、出口の見えないトンネルの中のようにも思えた。
吐き出されることのない想い。
勇気のない自分。

わざとかけ違えたボタンに、ジョンデはいつだって知らないふりをする。気付いているはずの僕の想いに気づかないふりをして、優しい嘘をつくんだ。



そっと開いたドアの向こうで、ジョンデは静かに寝息をたてていた。
ゆっくりと近づいて、その寝顔を覗き見る。
ドアの隙間から差し込む灯りが、ぼんやりと僕らの姿を照らしていた。
じっと、じっと見つめて今日もジョンデがそこにいることを確かめる。
いつか無くなってしまう未来のために。
僕は今夜もジョンデを見つめる。


綺麗に伏せられた睫毛がもぞりと動いて、僕は部屋を後にした。





ぱたん、と静かにドアの閉じる音がして、ゆっくりと目を開いた。



真っ暗な世界。
ゆっくりと、細く長い息を吐き出した。


今夜もギョンスがそこにいたことを示すものは、ふわりと漂うシャンプーの残り香以外は何もない。


ほぼ毎日のように繰り返されるそれを、僕は寝たふりをしてやり過ごすことに決めている。心地よく突き刺さる視線が僕の血液を少しだけ沸騰させるんだ。


あの頃──学生の頃、もしかして……と思っていたものは、ルームシェアをすることによって確信へと切り替わっていった。

毎晩の突き刺さる視線。じわりと感じる想い。それを確認するためにわざわざ先に寝ることを告げてみたりして。それから、ギョンスにジリジリと反対されることを期待して、女の子の名前を出してみたり。バレたらきっと怒られるだろうけど、そうやって確認してみたりもするんだ。


あぁ、まだ僕を見てくれてる、って。



そんなつもりはなかったのに、僕はもうギョンスがボタンを掛け違えてくれることを待っていた。ただひたすらに。モジモジと心臓の裏がくすぐったくなるような気持ちで。





「おはよう」


朝起きると、ギョンスは先に起きて朝食の準備をしていた。
コーヒーのいい匂いがする。
ギョンスが淹れるときは大抵がインスタントだ。ああ見えて意外とコーヒーにこだわりはないんだと言っていたのが少し意外だった。僕も朝は忙しいからそれでいいと言っている。本格的なコーヒーが飲みたくなったらミンソギヒョンのお店にでも行くからいいよ、と言ったら、ギョンスは少しだけ拗ねていた。


シーツやらパジャマやら、洗濯機に放り込んでボタンを押すと、そのまま隣の洗面台で顔を洗った。

食卓にはトーストとサラダとコーヒーが並んでいて、僕はいつものように「いただきます」と声をあげた。


「朝起きてさぁ、すぐに誰かがいるのっていいよね」


トーストを噛じりながらそんなことを言うと、ギョンスは驚いたのか、「何、急に」と訝しげな視線を寄越した。


「別に、何となく思っただけだけど」
「そう」
「うん。今更なんだけどね。楽しいなぁと思って」


"友達"と言う括りにむず痒く思いながら、そこから抜け出せずにいる僕らが、なんだか酷く滑稽で、それでいて愛らしく思えた。
今日はそんな朝だったんだ。
だから僕は、少しだけギョンスをからかった。


僕とギョンスの未来は、どうとでも変えられるような気がして。けれどそれは、僕ら二人の内どちらかにしか出来ないことで。僕はギョンスが未来を変えてくれることを、少しだけ期待している。

ほんの少しの切っ掛けさえあれば、僕らは簡単に転がれるはずなのに。そしたら絶対もっと楽しくなれるのに。ギョンスに意気地がないように、僕にも意気地がなかった。僕らの関係は、照れとか気恥ずかしさとか気まずさとか、そんなどうしようもないもので溢れているんだ。


「ごちそうさまでした」と食器を流しに下げて、支度を調える。それから洗濯終了の合図を鳴らす洗濯機に駆け寄って、洗濯物を干していく。
今日は一日天気が良さそうだったので、シーツはベランダへ干すことにした。窓を開ければ、朝の新鮮な空気が頬をかすった。照りつける朝日がはためくシーツを揺らす。ギョンスの分と2枚。気持ち良さそうにはためいた。


「よしっ!洗濯終了!」


声をあげれば、ギョンスもちょうど支度を終えたところで、僕らは揃って玄関を後にした。


カンカン、とリズミカルに鳴る階段。少し急勾配のそれを慣れた風に掛け降りて、僕は辺りを見回した。

「にゃあ」と聞こえて振り向けば、いつものように階段の下で踞っている縞模様の塊。「おはよう」と声を掛けるとゆっくりと立ち上がって僕の方へと近寄ってくる。そのまま足元に身体を擦り付けて、名残惜しそうに尻尾で足元を撫でていった。


「あんまり餌付けすると大家さんに怒られるよ?」
「うーん、まぁそうなんだけどねぇ……」


分かってはいるけど何でか見捨てられないんだ。猫なんて、元々好きなわけでもないのに。そこにいるから見捨てられないという理由なら、僕らだって似たようなものかもしれい。そばにいるから、一緒にいるから、見捨てられない。そんな愛情があったっていいと思う。




仕事から帰る途中、通りを曲がって坂道を登っていると、奥にギョンスの姿が見えた。
僕は駆け寄って「おかえり!」と声を掛ける。


「ただいま、おかえり」
「ただいま!」


お互いに言い合って、笑顔を向ける。
少し勾配のきつい坂を登りながら二人で並んだ。電柱の先に付いている街灯が等間隔にぼんやりと辺りを照らしていた。


「さっきさぁ、コンビニでシマのエサ買ってきたんだ」


袋を掲げて言うと、ギョンスは「シマ?」と首を捻った。


「うん、シマ。だってほら、シマシマでしょ?」
「シマシマ……あぁ、猫か」


名前なんか付けたら愛着湧くよ?とギョンスは心配げに眉を寄せる。


「大丈夫だって!飼い主見つかるまでだから」
「ならいいけど……」


名前、なんて大それたものじゃない。
何となく付けた愛称みたいなものだし、ただ自分の中で便宜上そう呼んでるだけのものだ。僕は本気でいい飼い主が見つかればいいと思っている。



ゆっくりと坂を登ると、次の電柱が辺りを照らしていた。


その先に見える人影。


踞ったその人の腕の中には、甘えるシマの姿───



その人はシマのことを"ミィ"と呼んでいた。



「あ……」と立ち止まって僕が声をあげれば、ギョンスも気づいたのか一緒に立ち止まった。


ほんの一瞬重なる視線。
すぐに素っ気なく目の前のご主人様にすり寄るシマ。



シマは野良猫だ。
僕の猫ではない。


そんなの……そんなの分かっている。


ぎゅっと握り込んだせいで、コンビニの袋がカサリと揺れた。


「……行こう」


立ち止まって動けない僕を、ギョンスは腕を掴んで動かした。


「う、うん……」


すれ違うときにも見向きもしないシマを見つめながら、僕はギョンスに腕を引かれてアパートまで戻った。



「飼い主が見つかったんならよかっただろ」
「そうだけど……」
「うちじゃ飼えないんだからどうしようもないんだし」
「そうだけど……」


どんなに理屈を並べたって、割りきれない感情ってのはあると思うんだ。
そう、僕らの関係のように……


「エサ、無駄になっちゃったかな……」
「そうかもね」

少しだけ寂しくて、少しだけやるせない。


力なく食卓の椅子に座った僕の前にギョンスが立って、憐れむように僕を見下ろす。だから言わんこっちゃない、ってそんな目で見ないでよ。僕だって分かってるんだから。

仕方ないね、って笑うと、ギョンスは僕の頭をそっと撫でてくれた。その手つきがあまりにも優しくて、僕は……僕はもう片方のギョンスの手をぎゅっと握った。


行方知れずの恋に落ちていたのは、僕の方だったのかもしれない。



僕は、ゆっくりと落ちてきたキスの意味を考えながら、ご主人様にすり寄るシマの姿を思い出していた。




おわり
『お題ったー』より3つのお題
・行方知れずの恋
・猫が見ている
・わざと掛け違えたボタン

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