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カイとディオ


あの頃の恋心をたとえるならソーダ水。

僕の想いは簡単に弾けとんだ。


しなやかな背中、凛とした眼差し、褐色の肌。
そのどれもが、あの頃の僕を魅了して止まなかった。
ヒョン、って言ってたまに見せるはにかんだ笑顔は彼が年下であることを思い出す。



彼との出会いは突然だった。
彼は地下鉄の階段で横たわるようにしゃがみこんでて。怪我か病気かと焦って駆け寄って。僕が、大丈夫ですか、と声をかけたのがはじまり。


「お腹、空いた……」


あぁ、そっちか。って胸を撫で下ろして、それと同時に少し怒りが沸いて、僕は怪訝な眼差しを向けた。
お金がないならと千円札でも渡して適当にあしらうこともできたのに、腕を掴まれて見上げられた瞳により叶わなかった。

見ず知らずの人間を家に上げるなんて無用心にも程がある。高価なものなんて特にないけど、金品の一つや二つ盗まれるかもしれない。そんなこと考えなかった訳じゃないけど。だけど、それでもいいとその時は思った。そうなったらそうなっただ。僕の見る目がなかっただけ。人殺しはしないなってあの瞳を見た瞬間に思ったから、それでよかった。

ご飯を食べさせてやるだけだったはずなのに、気付けばそれは日常となり、ご飯の時間を狙っては来るようになった。そのまま泊まる日もあれば、帰っていく日もあって。僕はその背中を何度引き留めようと思ったことか知れない。「ごちそうさま」って言って。「ヒョンの飯、やっぱサイコー」って小さくはにかんで。
ドアの向こうに消えた背中を見て、僕は彼が好きなんだと自覚した。




「今日泊まっていい?」
「別に、いいけど……」


一人暮らしのアパートに客用布団なんてあるはずもなくて。仕方なく僕のベッドで並んで眠った。背中を向けあって、多くはない言葉を交わして。泊まるときはいつもそうして寝た。だから当然その日もそうして寝るはずだったんだけど。


「寝ないの?」


シャワーを浴びてベッドに行くと彼はもう布団の中にいて。その彼を見下ろしてると、視線に気付いたのか、彼がそう尋ねてきた。


「うん、寝るよ」


何度も同じベッドで寝たことはあるはずなのに、今日に限ってそれが戸惑われるのはきっと僕の胸に巣食った感情のせいだ。

自分のベッドだというのに、酷く遠慮がちに入った。ベッドの際で背を向けて寝ると、「落ちるよ」って言って腕を引かれて。
掴まれたところが熱い。
僕を引き上げると彼はまた背中を向けてしまった。


「ねぇ、ジョンイナ」
「なに……?」
「……いや、なんでもない」


おやすみ、と言うと彼は少し笑って「おやすみ」と呟いた。



呆気ないものだ。

僕がそのあと彼の方に向きなおして、彼の背中に触れて身を寄せたら、簡単に組み敷かれた。


そうして、僕らはたまに身体を重ねるようになった。




彼のことはジョンインという名前と、おそらく年下であろうことしか知らない。ここへ来るとき以外は何をやってるのかとか、怖くて聞けなかった。後になってとても後悔したけど、その時は聞けなかったんだ。僕がもしあの時、彼についてもう少し聞いていれば、少しは変わってたのかもしれない。
或いは、僕が彼に好きだと伝えていたなら。



習慣化していたそれは、ある時急に音もなく消えていった。

彼が、ジョンインが来なくなった。


そろそろ来るかなと待ちわびて半年。彼はもうここへは来ないのだと悟った。

彼との日常が当たり前になりすぎてて、最後の日に何を話していたのかも覚えていない。他愛もないことだったような気がする。
探そうにもどこを探したらいいかもわからず、僕はひたすら二人分のご飯を作って待った。
彼が好きだったソーダ水を常備して。

僕の生活は何一つ変わらない。彼がいないということ以外は、何も。いつも通り働いて、いつも通りご飯を食べて、いつも通り寝る。同じ毎日を繰り返すだけ。

ただ、彼の真似して風呂上がりにソーダ水を飲むときだけは、少しだけ胸が苦しくなった。だけどそんなのはきっと炭酸のせいで。飲み慣れないものを飲むから。
彼と過ごした日々はこのソーダ水のように、味気なくほろ苦くて、ただ僕の心を痛いくらいに弾けとんだ。

そうして彼がいないことが日常になり始めた頃のこと。








その知らせが届くのと、インターホンが鳴るのは同時だった。



『ローザンヌ国際バレエコンクール入賞者、キムジョンインさん帰国』



終わり
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