バカシアイコントラクト 外伝
ボロボロの肌。
傷んだ薄水色の髪。
眼球は落ち、ぽっかりと真っ黒な眼孔のみ残る。
威厳も威光もとうの昔に地に落ちた。
微睡みながら彼女は思い返す。
遡る古い記憶。あれは何年前の事だっただろうか?
当時の私も神だった。
◯◯◯
「女神様、ルダ様、ご機嫌麗しゅう。近頃天候が恵まれず大地が乾いて作物が育ちません。どうか雨をお恵みください」
「女神様、流行り病が蔓延しているのです。このままでは身体の弱い子供達が厳しい冬を越えられません。どうか無垢なる彼等に芽吹きの春の祝福を」
「ルダ様、親切な神様。良縁を結んでください」
「かみさま!友達と喧嘩しちゃった……こういう時はどうしたらいいですか?」
「では、風で雲を導きましょう。澄んだ雨が作物を潤し、貴方がたの糧となるでしょう」
「それはいけませんね。エルドゥールの葉はわかりますね?その葉を月が注ぐ夜の間塩水に漬けて、甘いナミクサの実の汁と混ぜ合わせることで薬が作れます。エルドゥールの葉は渋みがあるので甘い実と混ぜることで子供達でも飲みやすくなるでしょう。秋の収穫で蓄えたものから作るのが良いでしょう」
「では、貴女の運命に祝福を。しかし結べるかどうかは貴女の頑張り次第です」
「ふふ、私に聞かずとも君はわかっているはずです。その友達と仲直りしたいなら何をすれば良いかはもう答えが出ていることでしょう。しかし、折角来てくれたのにこのまま帰すのも不親切ですね。ほら手を出してごらん、頑張れるおまじないです」
私という器に注がれているのは人々の信仰。期待。願い。希望……。
神に問われる物事は大きなものから小さなものまで様々だ。
人という生命は弱く、短命だ。
かつ思考に探求、欲望は神と並ぶほど深い。
神と並ぶほどの大きな力はないが、彼等の願いや願望は強い。
神と人間は持ちつ持たれつな関係性なのだ。
人間は願いを叶えて貰う。神は信仰を得る。
一つ一つは小さな願いは一つの対象に集約すれば大きな信仰に姿を変える。信仰は神にとっては必要不可欠な糧に他ならない。
神は人間を無下にはしないのだ。正確には信仰を得るためならば無下にするメリットは始めからないと言うことになる。
時折、神がそそのかして人間の争いが起こるが、神の思考には人間を減らしたいわけではない。より強い願いを叶えるために少しばかり犠牲はつきものということだ。
ーーけれど、私は他の神のように強い欲はありません。
謙虚に堅実にこの世界のバランスが保てればそれでいい。
いつしか人々は神に親しみと敬意を込めて名前をつけてくれた。
人を慈しみ、手を差し伸べ、導く親切な神。暖かな太陽が沈み、冷たい夜が訪れる刻、陽のように輝く宵の星。
『ルダ』
それが私の名前となった。
その名で呼ばれるのは悪くはなかった。
皆親しみを込めて呼んでくれていたのだからそれだけ信仰の結びつきがあったという証だ。
それは私にとって心の安寧をもたらしてくれたのだ。
◯◯◯
神は人間の欲深さと同等のモノを持っていた。
神と人間が信仰によって結びついているならば人間の願いこそ神を神たらしめる源なのではないだろうか?
神にも闘争心はある。全ての善性はいつ裏返るか分からない。
結びついていると言えども人との価値観が根本的に異なる私達はいつ何処で何が転換になるのか予想も出来ない。
ある明けの明星と呼ばれた神は人間のことを平等に愛していたが、人間による嫉妬で諍いが起こってしまった。
神の平等は人間から見たら不平等だったのかもしれない。
その神は世界のルールを冒した。
沢山の人間の血が流れ、沢山の命に神は手をかけたと聞いた。
私達は如何なる時でも人間を直接手をかけることは禁じられている。
それは契約である。
縛りでもある。
信仰に対して願いを叶える。
この持ちつ持たれつの関係性を冒したとき、裁きを受けるのは神なのだ。
ルールを犯したものの辿る路は光も差さない。
私は、かの神もとい悪魔に堕ちた神を不憫には思うが、人間に手をかけるのは同意できかねる。
私は、私だけは、この名に恥じぬ神で居よう。
より一層強く思った。
◯◯◯
どれくらい時が過ぎ、どれくらいの神が零落し、姿を消したのだろうか?
弱肉強食の世界が神にもあった。
強い神は唯一神として祀られ、人々の注目を浴び始めた。
私は気せず目の前の人間の願いをコツコツ叶えていた。
取りこぼしがないように。誰もが幸せになれるように。小さなことも大きなことも何もかも。
私だけは大勢の中で弾かれてしまう者に手を差し伸べ続けたいと思う。
「近頃は女神も零落したな。人の願いの一つも叶えてくりゃしない。疫病で死者が山程出たのに澄ました顔をしてやがる」
「近頃の大地は乾き、不作が続く。昨年は洪水で作物は全滅と言って良いほどだ」
「神さま、本当に神さまなのかなー?いつも人に助言しかしない。力のない神さまなんて神さまって呼べるのかな」
「うちのところの神様はもう駄目ね。大国で崇められている◇◇◇様はあんなにも威厳があって、美しいのに、うちのはボロボロであれが象徴とか恥ずかしいったらありゃしない」
……あれ?
気付いた時にはもう遅かった。
私は気付けなかったのだ。
自身の信仰が薄れ、身体が朽ちていたことに気付きもしなかった。
そして、人々の声も聞こえなくなり、人々の姿も見えなくなっていた。
「待って、待ってください。こんな筈では、今から取り返しますから……!!なんでもしましょう。私に叶えられるものならば。それをする使命が私にはあるのですから」
人々の信仰に勝る、疑心。
名だけの神は信用するに値しないという失望の目だけがこちらを見ていた。
◯◯◯
名ばかりの神。名前すら忘れられつつある神。
親切な神。肩書きこそ立派だがそれに値しない神。
人々の疑心と失望は積み重なる。それにつれて身体は朽ちてボロボロになっていく。
悲しいことだが時代は変わっていくのだ。
「力の強い神が導くのならそれもまた運命なのでしょう」
ルダは悲しみながらも出来得る限り自身の役割を全うし続けた。
名に恥じぬ神であるように。
人々から望まれた親切な神であるように。
◯◯◯
彼女を信仰していた小さな国で戦争が起こった。
燻る炎と立ち上る煙。蹴散らされた人々の痕跡が残っていた。
嗚咽が、悲鳴が、理不尽だと悲しみの声が聞こえる。
大国が小国を侵略するなんてよくあること。多少の犠牲は仕方ない……だとしても、頭では理解していても、ルダには受け入れ難い光景だった。
生き残りも隷属させられ、奴隷と冷遇され、未来に希望なんてものはない。
ルダはそんな光景から一人でも救い出そうとボロボロの身体を動かしていた。
「良かった。君は生きていますね」
怪我を負った少女を見つけルダは声をかける。
「か……みさま」
か細い声で少女は懸命に運命から抗おうとしていた。神に縋ろうとしていた。
「ここから離れましょう。大丈夫。貴方は私が導きます」
ルダは安心させるためににこりと微笑んでみせた。
「かみさま……なん……」
焦点が合わない目、言葉に詰まりゲホゲホと咳き込む少女。
ルダは心配そうに駆け寄った。
目尻に溜まった涙は今にもボロボロと零れ落ちそうだった。
「ひぐっ……うう……かみさまなんて、いなかった」
そう絞り出した声がルダにもハッキリと聞こえ、少女を支えようとしたルダの手がすり抜けた。
少女は空を仰ぎながら絶望していた。
側にルダには目もくれず、小さな身体の生存本能が力尽きるまで少女を動かした、逃げて逃げてやがて大国の兵士に捕まって、その場で斬り殺された。
ルダを気にする者は居ない。
とうに見えるものは居ない。
人々の目から耳から存在自体届かなくなった。
呆然として、すり抜けた手を見てルダはへたりこむ。
おかしい。確かに自分は此処にいてハッキリと人間の声も助けて懇願する言葉も聞こえてるのに、人間に干渉できないなんて。
「…………私は、私は此処に居ます!居るのです!これ以上人々の命を潰すのならば、私を殺せばいいでしょう!!」
ルダは叫ぶ。
声が枯れるまで。
此処に居るのだと叫び続ける。
「せめてもの罰を!名に劣る神に裁きを!答えられなかった者に当然な報いを!」
そんな神の叫びに気付く者は誰一人居なくなっていた。
導く神はたった一人だけ。一神論が広まっていた大国には古い神という存在は抹消され、小国のわずかな信仰も底をつきた。
◯◯◯
年月が経ち、ルダと呼ばれていた神様は世界から切り離された感覚だった。
鏡に映る自身をみて一層虚しさが湧き上がる。
零落し、信仰さえなくした神に存在意義などあるのだろうか。
自責の念と信仰が潰えても死ぬことさえままならぬ身体を恨めしく思った。
もし自身がもっと強い願望があったのならば未来は違ったのだろうか?
もっと神らしく絶対的な存在だったのなら、救われない人々に手を差し伸べられたのだろうか?
親切な神様。その名に相応しい神になれたのだろうか?
ぐるぐる答えの出せぬ思考と希死念慮が募り、涙が溢れる。
「やり直したいと思うのですか?」
鏡に映る自分が話しかけてきた。かつてまだ信仰があった美しい姿の私が問いかけてきた。
「やり直したい。けれど、起こってしまった過去は変えられない」
目を伏せながら答えるルダを見つめてなるほどぉっと考え込む自分。
「そうですねぇ……ならば、賭けてみるのはどうですかぁ?」
賭ける?何を?
「ふふ。私にお任せください。貴女の悲しみの分、私が働いて見せましょう!貴女を救ってみせましょう!私が頑張って貴女の望む未来へ導きましょう!それが私の存在意義なのだから」
にこやかに自信あふれる鏡の中の自身が羨ましく思えた。
ルダは人々に施しや導きを与えども、自身が救い与えられる対象とは思っても居なかった。
「おや、疑ってますぅ?無理だって思ってます?私なら出来ます。どんな困難でもやってみせましょうとも。親切な神様ですから」
鏡の自分が喋りだすというのもおかしな話かもしれないが自身に賭けてみようと思った。
ルダは疲れていたのだ。この押しつぶされてしまいそうな重責から逃れたかった。
「貴女は新しい世界を夢見て休むといいでしょう。今までよく頑張りましたねルダ。新しい世界になるまでの時間、ここから先は"私"が代わってあげましょう」
優しい鏡の自分。頼りがいのある自分。
どうかお願い事をしてもいい??
「はい、なんなりと。貴女から生まれたのが私。貴女の願いは私の願いでもあります」
どうか救われない運命の、溢れてしまう弱い者。絶望を抱えた子を見捨てないで。助けてあげて。私が導いてあげて。
「……その願い確かに承りましたよ。ええ、世界に救済にやることは沢山あって骨が折れそうな気もしますが、なにより私に託された願い。いいでしょう!私は親切な神様ですからねぇ」
良かった。お言葉に甘えてちょっとだけ休もうと思う。
ありがとう自分。
そう言って鏡に手を合わせてルダは目を閉じる。
鏡の中の神はルダと同じように手をあわせて、おやすみなさいとにこりと笑った。
「安心して待ち望んでいてくださいもう一人の私。ここから先は貴女のなりたかった姿。親切な神様こと、この私。アルスが導きましょうとも!」
こうして神は反転した。
善性をすり減らした者が裏返ったら、残されていた欲望、隠されていた悪性が姿を現す。
理性や倫理の枷が壊れたナニカ。
欲望、快楽、他者を弄ぶ純粋な本能を持ったナニカ。
願いを叶えることのみ固執し、その先の事など考えることすら出来ない空っぽの神様が生まれたのだった。
傷んだ薄水色の髪。
眼球は落ち、ぽっかりと真っ黒な眼孔のみ残る。
威厳も威光もとうの昔に地に落ちた。
微睡みながら彼女は思い返す。
遡る古い記憶。あれは何年前の事だっただろうか?
当時の私も神だった。
◯◯◯
「女神様、ルダ様、ご機嫌麗しゅう。近頃天候が恵まれず大地が乾いて作物が育ちません。どうか雨をお恵みください」
「女神様、流行り病が蔓延しているのです。このままでは身体の弱い子供達が厳しい冬を越えられません。どうか無垢なる彼等に芽吹きの春の祝福を」
「ルダ様、親切な神様。良縁を結んでください」
「かみさま!友達と喧嘩しちゃった……こういう時はどうしたらいいですか?」
「では、風で雲を導きましょう。澄んだ雨が作物を潤し、貴方がたの糧となるでしょう」
「それはいけませんね。エルドゥールの葉はわかりますね?その葉を月が注ぐ夜の間塩水に漬けて、甘いナミクサの実の汁と混ぜ合わせることで薬が作れます。エルドゥールの葉は渋みがあるので甘い実と混ぜることで子供達でも飲みやすくなるでしょう。秋の収穫で蓄えたものから作るのが良いでしょう」
「では、貴女の運命に祝福を。しかし結べるかどうかは貴女の頑張り次第です」
「ふふ、私に聞かずとも君はわかっているはずです。その友達と仲直りしたいなら何をすれば良いかはもう答えが出ていることでしょう。しかし、折角来てくれたのにこのまま帰すのも不親切ですね。ほら手を出してごらん、頑張れるおまじないです」
私という器に注がれているのは人々の信仰。期待。願い。希望……。
神に問われる物事は大きなものから小さなものまで様々だ。
人という生命は弱く、短命だ。
かつ思考に探求、欲望は神と並ぶほど深い。
神と並ぶほどの大きな力はないが、彼等の願いや願望は強い。
神と人間は持ちつ持たれつな関係性なのだ。
人間は願いを叶えて貰う。神は信仰を得る。
一つ一つは小さな願いは一つの対象に集約すれば大きな信仰に姿を変える。信仰は神にとっては必要不可欠な糧に他ならない。
神は人間を無下にはしないのだ。正確には信仰を得るためならば無下にするメリットは始めからないと言うことになる。
時折、神がそそのかして人間の争いが起こるが、神の思考には人間を減らしたいわけではない。より強い願いを叶えるために少しばかり犠牲はつきものということだ。
ーーけれど、私は他の神のように強い欲はありません。
謙虚に堅実にこの世界のバランスが保てればそれでいい。
いつしか人々は神に親しみと敬意を込めて名前をつけてくれた。
人を慈しみ、手を差し伸べ、導く親切な神。暖かな太陽が沈み、冷たい夜が訪れる刻、陽のように輝く宵の星。
『ルダ』
それが私の名前となった。
その名で呼ばれるのは悪くはなかった。
皆親しみを込めて呼んでくれていたのだからそれだけ信仰の結びつきがあったという証だ。
それは私にとって心の安寧をもたらしてくれたのだ。
◯◯◯
神は人間の欲深さと同等のモノを持っていた。
神と人間が信仰によって結びついているならば人間の願いこそ神を神たらしめる源なのではないだろうか?
神にも闘争心はある。全ての善性はいつ裏返るか分からない。
結びついていると言えども人との価値観が根本的に異なる私達はいつ何処で何が転換になるのか予想も出来ない。
ある明けの明星と呼ばれた神は人間のことを平等に愛していたが、人間による嫉妬で諍いが起こってしまった。
神の平等は人間から見たら不平等だったのかもしれない。
その神は世界のルールを冒した。
沢山の人間の血が流れ、沢山の命に神は手をかけたと聞いた。
私達は如何なる時でも人間を直接手をかけることは禁じられている。
それは契約である。
縛りでもある。
信仰に対して願いを叶える。
この持ちつ持たれつの関係性を冒したとき、裁きを受けるのは神なのだ。
ルールを犯したものの辿る路は光も差さない。
私は、かの神もとい悪魔に堕ちた神を不憫には思うが、人間に手をかけるのは同意できかねる。
私は、私だけは、この名に恥じぬ神で居よう。
より一層強く思った。
◯◯◯
どれくらい時が過ぎ、どれくらいの神が零落し、姿を消したのだろうか?
弱肉強食の世界が神にもあった。
強い神は唯一神として祀られ、人々の注目を浴び始めた。
私は気せず目の前の人間の願いをコツコツ叶えていた。
取りこぼしがないように。誰もが幸せになれるように。小さなことも大きなことも何もかも。
私だけは大勢の中で弾かれてしまう者に手を差し伸べ続けたいと思う。
「近頃は女神も零落したな。人の願いの一つも叶えてくりゃしない。疫病で死者が山程出たのに澄ました顔をしてやがる」
「近頃の大地は乾き、不作が続く。昨年は洪水で作物は全滅と言って良いほどだ」
「神さま、本当に神さまなのかなー?いつも人に助言しかしない。力のない神さまなんて神さまって呼べるのかな」
「うちのところの神様はもう駄目ね。大国で崇められている◇◇◇様はあんなにも威厳があって、美しいのに、うちのはボロボロであれが象徴とか恥ずかしいったらありゃしない」
……あれ?
気付いた時にはもう遅かった。
私は気付けなかったのだ。
自身の信仰が薄れ、身体が朽ちていたことに気付きもしなかった。
そして、人々の声も聞こえなくなり、人々の姿も見えなくなっていた。
「待って、待ってください。こんな筈では、今から取り返しますから……!!なんでもしましょう。私に叶えられるものならば。それをする使命が私にはあるのですから」
人々の信仰に勝る、疑心。
名だけの神は信用するに値しないという失望の目だけがこちらを見ていた。
◯◯◯
名ばかりの神。名前すら忘れられつつある神。
親切な神。肩書きこそ立派だがそれに値しない神。
人々の疑心と失望は積み重なる。それにつれて身体は朽ちてボロボロになっていく。
悲しいことだが時代は変わっていくのだ。
「力の強い神が導くのならそれもまた運命なのでしょう」
ルダは悲しみながらも出来得る限り自身の役割を全うし続けた。
名に恥じぬ神であるように。
人々から望まれた親切な神であるように。
◯◯◯
彼女を信仰していた小さな国で戦争が起こった。
燻る炎と立ち上る煙。蹴散らされた人々の痕跡が残っていた。
嗚咽が、悲鳴が、理不尽だと悲しみの声が聞こえる。
大国が小国を侵略するなんてよくあること。多少の犠牲は仕方ない……だとしても、頭では理解していても、ルダには受け入れ難い光景だった。
生き残りも隷属させられ、奴隷と冷遇され、未来に希望なんてものはない。
ルダはそんな光景から一人でも救い出そうとボロボロの身体を動かしていた。
「良かった。君は生きていますね」
怪我を負った少女を見つけルダは声をかける。
「か……みさま」
か細い声で少女は懸命に運命から抗おうとしていた。神に縋ろうとしていた。
「ここから離れましょう。大丈夫。貴方は私が導きます」
ルダは安心させるためににこりと微笑んでみせた。
「かみさま……なん……」
焦点が合わない目、言葉に詰まりゲホゲホと咳き込む少女。
ルダは心配そうに駆け寄った。
目尻に溜まった涙は今にもボロボロと零れ落ちそうだった。
「ひぐっ……うう……かみさまなんて、いなかった」
そう絞り出した声がルダにもハッキリと聞こえ、少女を支えようとしたルダの手がすり抜けた。
少女は空を仰ぎながら絶望していた。
側にルダには目もくれず、小さな身体の生存本能が力尽きるまで少女を動かした、逃げて逃げてやがて大国の兵士に捕まって、その場で斬り殺された。
ルダを気にする者は居ない。
とうに見えるものは居ない。
人々の目から耳から存在自体届かなくなった。
呆然として、すり抜けた手を見てルダはへたりこむ。
おかしい。確かに自分は此処にいてハッキリと人間の声も助けて懇願する言葉も聞こえてるのに、人間に干渉できないなんて。
「…………私は、私は此処に居ます!居るのです!これ以上人々の命を潰すのならば、私を殺せばいいでしょう!!」
ルダは叫ぶ。
声が枯れるまで。
此処に居るのだと叫び続ける。
「せめてもの罰を!名に劣る神に裁きを!答えられなかった者に当然な報いを!」
そんな神の叫びに気付く者は誰一人居なくなっていた。
導く神はたった一人だけ。一神論が広まっていた大国には古い神という存在は抹消され、小国のわずかな信仰も底をつきた。
◯◯◯
年月が経ち、ルダと呼ばれていた神様は世界から切り離された感覚だった。
鏡に映る自身をみて一層虚しさが湧き上がる。
零落し、信仰さえなくした神に存在意義などあるのだろうか。
自責の念と信仰が潰えても死ぬことさえままならぬ身体を恨めしく思った。
もし自身がもっと強い願望があったのならば未来は違ったのだろうか?
もっと神らしく絶対的な存在だったのなら、救われない人々に手を差し伸べられたのだろうか?
親切な神様。その名に相応しい神になれたのだろうか?
ぐるぐる答えの出せぬ思考と希死念慮が募り、涙が溢れる。
「やり直したいと思うのですか?」
鏡に映る自分が話しかけてきた。かつてまだ信仰があった美しい姿の私が問いかけてきた。
「やり直したい。けれど、起こってしまった過去は変えられない」
目を伏せながら答えるルダを見つめてなるほどぉっと考え込む自分。
「そうですねぇ……ならば、賭けてみるのはどうですかぁ?」
賭ける?何を?
「ふふ。私にお任せください。貴女の悲しみの分、私が働いて見せましょう!貴女を救ってみせましょう!私が頑張って貴女の望む未来へ導きましょう!それが私の存在意義なのだから」
にこやかに自信あふれる鏡の中の自身が羨ましく思えた。
ルダは人々に施しや導きを与えども、自身が救い与えられる対象とは思っても居なかった。
「おや、疑ってますぅ?無理だって思ってます?私なら出来ます。どんな困難でもやってみせましょうとも。親切な神様ですから」
鏡の自分が喋りだすというのもおかしな話かもしれないが自身に賭けてみようと思った。
ルダは疲れていたのだ。この押しつぶされてしまいそうな重責から逃れたかった。
「貴女は新しい世界を夢見て休むといいでしょう。今までよく頑張りましたねルダ。新しい世界になるまでの時間、ここから先は"私"が代わってあげましょう」
優しい鏡の自分。頼りがいのある自分。
どうかお願い事をしてもいい??
「はい、なんなりと。貴女から生まれたのが私。貴女の願いは私の願いでもあります」
どうか救われない運命の、溢れてしまう弱い者。絶望を抱えた子を見捨てないで。助けてあげて。私が導いてあげて。
「……その願い確かに承りましたよ。ええ、世界に救済にやることは沢山あって骨が折れそうな気もしますが、なにより私に託された願い。いいでしょう!私は親切な神様ですからねぇ」
良かった。お言葉に甘えてちょっとだけ休もうと思う。
ありがとう自分。
そう言って鏡に手を合わせてルダは目を閉じる。
鏡の中の神はルダと同じように手をあわせて、おやすみなさいとにこりと笑った。
「安心して待ち望んでいてくださいもう一人の私。ここから先は貴女のなりたかった姿。親切な神様こと、この私。アルスが導きましょうとも!」
こうして神は反転した。
善性をすり減らした者が裏返ったら、残されていた欲望、隠されていた悪性が姿を現す。
理性や倫理の枷が壊れたナニカ。
欲望、快楽、他者を弄ぶ純粋な本能を持ったナニカ。
願いを叶えることのみ固執し、その先の事など考えることすら出来ない空っぽの神様が生まれたのだった。
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