短編
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appassionato――音楽用語で、情熱的に、激情的に。
私は弦楽部の発表会で弾く曲の、とあるフレーズの奏法に困っていた。
発表会まで、あと一ヶ月。
部活が終わった後、私は音楽室に一人残ってヴァイオリンの自主練をしていた。
徐々に曲は仕上がってきている。しかしappassionatoと記されたフレーズは、納得のいく表現ができない。
顧問の先生に相談してみたところ、恋焦がれるように弾いてとアドバイスを頂いたのだが。
「燃えるような恋ってしたことないのよね……」
CDを聴いて研究してみたが、自分の音に落とし込めずにいた。
窓の外を見ると、もう日が落ちている。
最後に一回通して、今日の練習は終わりにしよう。
私はヴァイオリンを構え、音に身を委ねた。
「素晴らしい演奏だったよ」
曲を弾き終えると、後ろから拍手の音が聞こえた。
ヴァイオリンを肩からおろし、振り返る。すると音楽室の入口付近に、穏やかな笑みを浮かべた男性が立っていた。
「ありがとうございます……えと、あなたは?」
初対面なので、名前を尋ねる。どこかで見たことあるのだが、記憶の糸を手繰り寄せても思い出せない。
「はじめまして、俺は幸村精市。テニス部の部長を務めているよ」
「あなたが幸村くん。よくクラスメイトの柳くんから、テニス部のことを聞いているわ。私は――」
「雪宮時雨さん、だよね?」
「え?」
自己紹介をしようと思ったが、どうやら幸村は私の名前を知っているようだ。思わず首を傾げると、彼はクスリと笑った。
「君のヴァイオリンの腕前は、校内で有名だからね。教室に忘れ物を取りに来たら素敵なメロディーが聴こえたから、音楽室に足を運んでみたんだ」
そうだったのか。
自主練をするようになってから、時々扉付近に音楽室内に入りたそうな観客がいるとクラスメイトの柳が言っていたが、本当にいたとは。
「ところで雪宮さんは、悩み事があるのかい?」
「よく分かったわね。もしかして音に出てたかしら」
「……そうだね、途中で音に迷いがあったように聴こえたから」
幸村は運動部だが、きっと芸術方面も明るいのだろう。
思いきって相談してみることにした。
「あのね、少し相談があるんだけど……」
今弾いた曲の途中で、情熱的に弾くよう指示があり、幸村ならどういうイメージするか聞いた。すると彼は腕を組んで、しばらく考え込んだ。
「そうだな……その曲の印象からすると、好きな人が愛しくてたまらないんじゃないかな」
やはり恋焦がれるような弾くことが、今後の課題となりそうだ。
幸村は端正な顔立ちなので、きっとモテるのだろうな、とぼんやり考える。
「なるほど、相談に乗ってくれてありがとう。参考になったわ」
「それなら良かった。ところで、もう暗くなってきたけど、まだ練習するのかな?」
「いいえ、もう帰る予定よ」
「それなら、一緒に帰らないかい? 送っていくよ」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
こうして私は幸村と共に帰ることになった。
帰り道に好きな食べ物や趣味の話などをした。幸村はガーデニングが趣味で、屋上でも植物を育てているらしい。
今度昼休みに行ってみようかしら。
私の家が幸村の家と近いことが分かり、玄関の前まで送ってもらえることになった。
「家まで送ってくれてありがとう」
「暗くなってきたからね。雪宮さんと話すのが楽しかったから、どうってことないよ。それじゃあ、また」
幸村はふわりと微笑み、歩いた道を戻る。
私は心が温かくなるのを感じた。
そして彼の姿が見えなくなるまで、目で追うのだった。
翌日から部活後に音楽室で練習していると、幸村が時々訪れるようになった。
幸村曰く、私の演奏を聴いていると気分が安らぐらしい。
立海テニス部は強豪だし、きっと練習もハードなのだろう。彼の疲れが少しでも取れれば嬉しい。
恋焦がれるように弾くのはまだ上手くいかないので、一生懸命練習に励んだ。
私が練習している間、幸村は席に着いて読書したり練習風景を眺めたりして、リラックスしていることが多い。
ところが今日は練習の切りの良いところで、幸村から声がかかった。本を机の上に置いていたから、タイミングを見計らっていたようだ。
「雪宮さんは、明日の放課後空いてる? 部活が休みなんだ」
「ええ、空いているわ」
明日は弦楽部のオフの日だ。テニス部は毎日部活があるイメージだったので、オフの日と重なるなんて珍しい。
「オススメのお菓子屋があるんだけど、ついてきてくれないかな?」
「もちろん行くわ」
「即答だね」
だって甘いものが好きなんだもの。
心の中でツッコミをいれ、きゅっと口を結ぶ。
「ふふ、不貞腐れてても可愛いね。それじゃあ、明日の放課後、校門前に待ち合わせということで」
「え? わ、分かったわ……」
今、可愛いって言ったの?
幸村を二度見するが、何事もなかったかのように読書に戻っているし、気のせいだったかもしれない。
私もヴァイオリンの練習を再開させた。ミスタッチが多かったのは、気のせいだと思いたい。
悶々と練習していたので、幸村がそんな私を見て、口元が綻んでいるのに気づかなかったのだった。
そして次の日。
教室掃除が終わり、校門へ向かうと幸村の姿が見えた。慌てて駆け寄ろうとしたが、足が止まる。幸村と話している女の子が見えたからだ。楽しそうに話しているし、待っていた方が良さそうだ。
それにしても胸がモヤモヤしているのは何故だろう。変なものでも食べたかしら。
近くの木へ移動しようとしたら、左手首を軽く掴まれた。
「雪宮さん、どこへ行くの?」
「あれ、女の子と話してたんじゃ……?」
恐る恐る返すと、幸村は目をぱちくりさせた。
「ああ、さっきの子はただのクラスメイトだよ。安心した?」
「そうだったんだ。楽しそうに話していたから、そこの木の近くで待っていようと思ったの」
「うーん、手強いな……」
「どうかしたの?」
「なんでもないよ。それじゃあ行こうか」
「ええ」
幸村の前では何事もなかったように装う。しかし先程の女の子が彼女じゃないと分かり、どこかホッとしている自分がいた。
幸村と話しながら、彼がオススメだというお菓子屋へ向かう。
お菓子屋がある商店街は、行楽客で賑わっていた。この通りは観光スポットとして有名な場所なのである。向かい側から来る人を避けながら進むが、いかんせん人が多く、幸村を見失わないか心配だ。
「平日だから多少人が少ないと思ってたけど、やはり多いね」
「時々幸村くんとはぐれないか心配になるわ」
「それなら――」
幸村がそっと私の手を握る。彼の手は温かかった。
「幸村くん?」
「これならはぐれないだろう?」
「そ、そうね……」
私は動揺を隠すのに必死なのに、幸村は余裕そうに笑っている。きっと、からかって私の反応を楽しんでいるのだ。
自分だけが意識しているのも悔しかったので、お菓子屋に着くまで表情を繕おうとしたのだが――。
「それじゃあ行こうか」
幸村が嬉しそうな表情で手を引くので、私も釣られて頬が緩むのだった。
部活やお気に入りのお店などについて話していたら、あっという間にお菓子屋へ着いた。店の前に設置されている看板を見ると、どうやら焼き菓子の店らしい。
ふと、初めて幸村と一緒に帰った日のことを思い出した。あの日、私は焼き菓子が好きであることを彼に伝えた。
もしかして覚えていてくれたのだろうか。胸がじんわりと熱くなるのを感じた。
「わあ……美味しそう!」
店内に入り、ショーケースに目を向けると、そこには焼き菓子が並んでいた。フィナンシェ、タルト、ガレットなど並んでいるが、どれも手のひらサイズで可愛い。しかもお手頃価格なので、色んな種類のお菓子が買えそうだ。とはいえ種類が豊富なので、どれにしようか迷う。贅沢な悩みである。
私はショーケースの前で焼き菓子とにらめっこする。可能であれば、全種類制覇したい勢いだ。
「雪宮さんが良ければ、また来ない? そうすれば色んな種類のが食べられるだろう?」
「……良いの?」
全種類制覇したいことが見透かされているようで、頬が熱くなった。
迷いに迷ってプレーン、アールグレイ、抹茶味のフィナンシェとガレットを購入し、お店を後にする。
幸村は私が悩んでいる間に購入していたらしい。彼の手には私が持っているのと同じ袋が握られていた。
「その様子だと喜んでもらえたみたいだね」
「ええ、連れてきてくれてありがとう!」
「どういたしまして。それじゃあ帰ろうか」
駅に着くまでの道も、気付けば手を繋ぎながら歩いていた。
端から見たら恋人のように見えるだろう。
嫌ではない。むしろ逆である。
心音がうるさく、幸村に伝わっていないか心配になる。私は彼の顔を見れずにいた。
どうやら彼のことが好きになってしまったらしい。
*
「音に深みが増して良くなったわ。この調子で頑張ってね」
「はい、ありがとうございます!」
お菓子屋に行った翌日。
顧問に聴いてもらったところ、音が良くなったと褒められた。しかも弾き方に悩んでいたフレーズが特に褒められ、居たたまれなくなった。
心当たりが一つしか思い付かない。
この日から部活後の練習は家で行うようになった。
理由は明白。幸村と向き合う自信がなかったからだ。
部活が終わりそのまま家へ帰ると、幸村に会うこともなくなった。
幸村とは別のクラスだし、もともと彼が音楽室を訪れなければ知り合うこともなかったのだ。
ただ、親しくなれたのに連絡先を交換しなかったことを思い出し、寂しい気持ちになった。
部活後は家で練習するようになってから一週間。
「雪宮、少し良いか?」
「……? どうしたの?」
昼休みとなり、窓の外をぼんやりと眺めていたら、クラスメイトの柳に肩を軽く叩かれた。
「精市が呼んでいる」
「えっ」
顔はそのままの位置で目線だけ教室のドアに向けると、そこには幸村がいた。
「どうして幸村くんがここに……」
「どうして幸村くんがここに……とお前は言うが、心当たりがあるんじゃないか?」
「それは……」
「精市はお前の姿が見えなくなったことを心配している。一度話し合ってみたらどうだ」
部活後に音楽室で練習しなくなったことだろう。幸村が柳に相談したのか、全て見透かされているような気分になる。
「ええ、そうね。幸村くんと話してみるわ」
私は席から立ち上がり、幸村のもとへ向かった。
「やあ、雪宮さん。久しぶり」
「久しぶり」
彼と会うのは一週間ぶりだというのに、どこか懐かしい気持ちになる。
「君とゆっくり話をしたいし、空き教室に行こうか」
「……そうね」
周りの視線も気になるし、その方がありがたい。
こうして少し話している間だけでも、廊下にいる女子たちの視線を肌で感じるのだ。幸村の人気の高さが垣間見れる。
私は彼の背中を黙ってついてゆくのだった。
空き教室に入ると、幸村の纏う雰囲気が変わった。空気がピンと張り詰める。
「ねえ、雪宮さん」
「は、はい」
幸村が教室のドアを閉め、振り返る。
一瞬目が合ったが、気まずくてすぐさま視線を落としてしまう。
「部活後に音楽室で練習しなくなったようだけど、悩み事は解決したのかい?」
「ええ、顧問の先生にも褒められたの。音に深みが増したって。それに――」
「へえ、それは好きな人ができた、もしくはそれに近い感情を抱いているってこと?」
「えっ……?」
幸村が一歩踏み出す。私は思わず一歩下がる。
それでも彼は気にせず、一歩踏み出した。また一歩、また一歩――。
ついに背中が壁にあたる。私がその場から動けずにいると、幸村の手が壁に添えられた。
「雪宮さんが悩んでいたのは、appassionatoと指示されたフレーズ。以前相談に乗って応えた通り、好きな人が愛しくてたまらない――思い焦がれている音を出す必要がある。それに、あの曲は愛の歌だ。とある女性の内に秘めた情熱を――――」
淡々と曲の解説をする幸村。しかし彼の瞳の奥に、青い炎が見えた気がした。
「なんで……」
そんなに詳しいの。そう言いたかったのに、掠れて音にならなかった。
「俺が曲について知らずに、君に近づいたとでも?」
耳元で囁かれ、ゾクリとする。
「時雨が好きだ。俺と付き合ってほしい。誰にも君を渡したくない」
「あ……」
壁に添えていた手は、今度は私の腰を抱き寄せる。私は幸村の胸にポスンと引き寄せられ、もう片方の手も添えられた。
トクン、トクンと彼の心臓の刻む音がする。
「君の応えを聴かせて?」
私は告白に応えるため、彼を抱きしめ返した。
私は弦楽部の発表会で弾く曲の、とあるフレーズの奏法に困っていた。
発表会まで、あと一ヶ月。
部活が終わった後、私は音楽室に一人残ってヴァイオリンの自主練をしていた。
徐々に曲は仕上がってきている。しかしappassionatoと記されたフレーズは、納得のいく表現ができない。
顧問の先生に相談してみたところ、恋焦がれるように弾いてとアドバイスを頂いたのだが。
「燃えるような恋ってしたことないのよね……」
CDを聴いて研究してみたが、自分の音に落とし込めずにいた。
窓の外を見ると、もう日が落ちている。
最後に一回通して、今日の練習は終わりにしよう。
私はヴァイオリンを構え、音に身を委ねた。
「素晴らしい演奏だったよ」
曲を弾き終えると、後ろから拍手の音が聞こえた。
ヴァイオリンを肩からおろし、振り返る。すると音楽室の入口付近に、穏やかな笑みを浮かべた男性が立っていた。
「ありがとうございます……えと、あなたは?」
初対面なので、名前を尋ねる。どこかで見たことあるのだが、記憶の糸を手繰り寄せても思い出せない。
「はじめまして、俺は幸村精市。テニス部の部長を務めているよ」
「あなたが幸村くん。よくクラスメイトの柳くんから、テニス部のことを聞いているわ。私は――」
「雪宮時雨さん、だよね?」
「え?」
自己紹介をしようと思ったが、どうやら幸村は私の名前を知っているようだ。思わず首を傾げると、彼はクスリと笑った。
「君のヴァイオリンの腕前は、校内で有名だからね。教室に忘れ物を取りに来たら素敵なメロディーが聴こえたから、音楽室に足を運んでみたんだ」
そうだったのか。
自主練をするようになってから、時々扉付近に音楽室内に入りたそうな観客がいるとクラスメイトの柳が言っていたが、本当にいたとは。
「ところで雪宮さんは、悩み事があるのかい?」
「よく分かったわね。もしかして音に出てたかしら」
「……そうだね、途中で音に迷いがあったように聴こえたから」
幸村は運動部だが、きっと芸術方面も明るいのだろう。
思いきって相談してみることにした。
「あのね、少し相談があるんだけど……」
今弾いた曲の途中で、情熱的に弾くよう指示があり、幸村ならどういうイメージするか聞いた。すると彼は腕を組んで、しばらく考え込んだ。
「そうだな……その曲の印象からすると、好きな人が愛しくてたまらないんじゃないかな」
やはり恋焦がれるような弾くことが、今後の課題となりそうだ。
幸村は端正な顔立ちなので、きっとモテるのだろうな、とぼんやり考える。
「なるほど、相談に乗ってくれてありがとう。参考になったわ」
「それなら良かった。ところで、もう暗くなってきたけど、まだ練習するのかな?」
「いいえ、もう帰る予定よ」
「それなら、一緒に帰らないかい? 送っていくよ」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
こうして私は幸村と共に帰ることになった。
帰り道に好きな食べ物や趣味の話などをした。幸村はガーデニングが趣味で、屋上でも植物を育てているらしい。
今度昼休みに行ってみようかしら。
私の家が幸村の家と近いことが分かり、玄関の前まで送ってもらえることになった。
「家まで送ってくれてありがとう」
「暗くなってきたからね。雪宮さんと話すのが楽しかったから、どうってことないよ。それじゃあ、また」
幸村はふわりと微笑み、歩いた道を戻る。
私は心が温かくなるのを感じた。
そして彼の姿が見えなくなるまで、目で追うのだった。
翌日から部活後に音楽室で練習していると、幸村が時々訪れるようになった。
幸村曰く、私の演奏を聴いていると気分が安らぐらしい。
立海テニス部は強豪だし、きっと練習もハードなのだろう。彼の疲れが少しでも取れれば嬉しい。
恋焦がれるように弾くのはまだ上手くいかないので、一生懸命練習に励んだ。
私が練習している間、幸村は席に着いて読書したり練習風景を眺めたりして、リラックスしていることが多い。
ところが今日は練習の切りの良いところで、幸村から声がかかった。本を机の上に置いていたから、タイミングを見計らっていたようだ。
「雪宮さんは、明日の放課後空いてる? 部活が休みなんだ」
「ええ、空いているわ」
明日は弦楽部のオフの日だ。テニス部は毎日部活があるイメージだったので、オフの日と重なるなんて珍しい。
「オススメのお菓子屋があるんだけど、ついてきてくれないかな?」
「もちろん行くわ」
「即答だね」
だって甘いものが好きなんだもの。
心の中でツッコミをいれ、きゅっと口を結ぶ。
「ふふ、不貞腐れてても可愛いね。それじゃあ、明日の放課後、校門前に待ち合わせということで」
「え? わ、分かったわ……」
今、可愛いって言ったの?
幸村を二度見するが、何事もなかったかのように読書に戻っているし、気のせいだったかもしれない。
私もヴァイオリンの練習を再開させた。ミスタッチが多かったのは、気のせいだと思いたい。
悶々と練習していたので、幸村がそんな私を見て、口元が綻んでいるのに気づかなかったのだった。
そして次の日。
教室掃除が終わり、校門へ向かうと幸村の姿が見えた。慌てて駆け寄ろうとしたが、足が止まる。幸村と話している女の子が見えたからだ。楽しそうに話しているし、待っていた方が良さそうだ。
それにしても胸がモヤモヤしているのは何故だろう。変なものでも食べたかしら。
近くの木へ移動しようとしたら、左手首を軽く掴まれた。
「雪宮さん、どこへ行くの?」
「あれ、女の子と話してたんじゃ……?」
恐る恐る返すと、幸村は目をぱちくりさせた。
「ああ、さっきの子はただのクラスメイトだよ。安心した?」
「そうだったんだ。楽しそうに話していたから、そこの木の近くで待っていようと思ったの」
「うーん、手強いな……」
「どうかしたの?」
「なんでもないよ。それじゃあ行こうか」
「ええ」
幸村の前では何事もなかったように装う。しかし先程の女の子が彼女じゃないと分かり、どこかホッとしている自分がいた。
幸村と話しながら、彼がオススメだというお菓子屋へ向かう。
お菓子屋がある商店街は、行楽客で賑わっていた。この通りは観光スポットとして有名な場所なのである。向かい側から来る人を避けながら進むが、いかんせん人が多く、幸村を見失わないか心配だ。
「平日だから多少人が少ないと思ってたけど、やはり多いね」
「時々幸村くんとはぐれないか心配になるわ」
「それなら――」
幸村がそっと私の手を握る。彼の手は温かかった。
「幸村くん?」
「これならはぐれないだろう?」
「そ、そうね……」
私は動揺を隠すのに必死なのに、幸村は余裕そうに笑っている。きっと、からかって私の反応を楽しんでいるのだ。
自分だけが意識しているのも悔しかったので、お菓子屋に着くまで表情を繕おうとしたのだが――。
「それじゃあ行こうか」
幸村が嬉しそうな表情で手を引くので、私も釣られて頬が緩むのだった。
部活やお気に入りのお店などについて話していたら、あっという間にお菓子屋へ着いた。店の前に設置されている看板を見ると、どうやら焼き菓子の店らしい。
ふと、初めて幸村と一緒に帰った日のことを思い出した。あの日、私は焼き菓子が好きであることを彼に伝えた。
もしかして覚えていてくれたのだろうか。胸がじんわりと熱くなるのを感じた。
「わあ……美味しそう!」
店内に入り、ショーケースに目を向けると、そこには焼き菓子が並んでいた。フィナンシェ、タルト、ガレットなど並んでいるが、どれも手のひらサイズで可愛い。しかもお手頃価格なので、色んな種類のお菓子が買えそうだ。とはいえ種類が豊富なので、どれにしようか迷う。贅沢な悩みである。
私はショーケースの前で焼き菓子とにらめっこする。可能であれば、全種類制覇したい勢いだ。
「雪宮さんが良ければ、また来ない? そうすれば色んな種類のが食べられるだろう?」
「……良いの?」
全種類制覇したいことが見透かされているようで、頬が熱くなった。
迷いに迷ってプレーン、アールグレイ、抹茶味のフィナンシェとガレットを購入し、お店を後にする。
幸村は私が悩んでいる間に購入していたらしい。彼の手には私が持っているのと同じ袋が握られていた。
「その様子だと喜んでもらえたみたいだね」
「ええ、連れてきてくれてありがとう!」
「どういたしまして。それじゃあ帰ろうか」
駅に着くまでの道も、気付けば手を繋ぎながら歩いていた。
端から見たら恋人のように見えるだろう。
嫌ではない。むしろ逆である。
心音がうるさく、幸村に伝わっていないか心配になる。私は彼の顔を見れずにいた。
どうやら彼のことが好きになってしまったらしい。
*
「音に深みが増して良くなったわ。この調子で頑張ってね」
「はい、ありがとうございます!」
お菓子屋に行った翌日。
顧問に聴いてもらったところ、音が良くなったと褒められた。しかも弾き方に悩んでいたフレーズが特に褒められ、居たたまれなくなった。
心当たりが一つしか思い付かない。
この日から部活後の練習は家で行うようになった。
理由は明白。幸村と向き合う自信がなかったからだ。
部活が終わりそのまま家へ帰ると、幸村に会うこともなくなった。
幸村とは別のクラスだし、もともと彼が音楽室を訪れなければ知り合うこともなかったのだ。
ただ、親しくなれたのに連絡先を交換しなかったことを思い出し、寂しい気持ちになった。
部活後は家で練習するようになってから一週間。
「雪宮、少し良いか?」
「……? どうしたの?」
昼休みとなり、窓の外をぼんやりと眺めていたら、クラスメイトの柳に肩を軽く叩かれた。
「精市が呼んでいる」
「えっ」
顔はそのままの位置で目線だけ教室のドアに向けると、そこには幸村がいた。
「どうして幸村くんがここに……」
「どうして幸村くんがここに……とお前は言うが、心当たりがあるんじゃないか?」
「それは……」
「精市はお前の姿が見えなくなったことを心配している。一度話し合ってみたらどうだ」
部活後に音楽室で練習しなくなったことだろう。幸村が柳に相談したのか、全て見透かされているような気分になる。
「ええ、そうね。幸村くんと話してみるわ」
私は席から立ち上がり、幸村のもとへ向かった。
「やあ、雪宮さん。久しぶり」
「久しぶり」
彼と会うのは一週間ぶりだというのに、どこか懐かしい気持ちになる。
「君とゆっくり話をしたいし、空き教室に行こうか」
「……そうね」
周りの視線も気になるし、その方がありがたい。
こうして少し話している間だけでも、廊下にいる女子たちの視線を肌で感じるのだ。幸村の人気の高さが垣間見れる。
私は彼の背中を黙ってついてゆくのだった。
空き教室に入ると、幸村の纏う雰囲気が変わった。空気がピンと張り詰める。
「ねえ、雪宮さん」
「は、はい」
幸村が教室のドアを閉め、振り返る。
一瞬目が合ったが、気まずくてすぐさま視線を落としてしまう。
「部活後に音楽室で練習しなくなったようだけど、悩み事は解決したのかい?」
「ええ、顧問の先生にも褒められたの。音に深みが増したって。それに――」
「へえ、それは好きな人ができた、もしくはそれに近い感情を抱いているってこと?」
「えっ……?」
幸村が一歩踏み出す。私は思わず一歩下がる。
それでも彼は気にせず、一歩踏み出した。また一歩、また一歩――。
ついに背中が壁にあたる。私がその場から動けずにいると、幸村の手が壁に添えられた。
「雪宮さんが悩んでいたのは、appassionatoと指示されたフレーズ。以前相談に乗って応えた通り、好きな人が愛しくてたまらない――思い焦がれている音を出す必要がある。それに、あの曲は愛の歌だ。とある女性の内に秘めた情熱を――――」
淡々と曲の解説をする幸村。しかし彼の瞳の奥に、青い炎が見えた気がした。
「なんで……」
そんなに詳しいの。そう言いたかったのに、掠れて音にならなかった。
「俺が曲について知らずに、君に近づいたとでも?」
耳元で囁かれ、ゾクリとする。
「時雨が好きだ。俺と付き合ってほしい。誰にも君を渡したくない」
「あ……」
壁に添えていた手は、今度は私の腰を抱き寄せる。私は幸村の胸にポスンと引き寄せられ、もう片方の手も添えられた。
トクン、トクンと彼の心臓の刻む音がする。
「君の応えを聴かせて?」
私は告白に応えるため、彼を抱きしめ返した。
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