蝶ノ光
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ゴールデンウィーク二日目、日曜日。
今日は仁王とお出かけの日だ。
「よし、これでいいかしら⋯⋯?」
私はお気に入りの服を着て、自室の鏡の前で念入りにチェックした。
両手でスカートの裾を掴み、軽く持ち上げる。何度確認しても、変なところがないか気になって仕方がない。仁王と一緒に下校やテニスをしたことはあるが、初めて私服で遊びに行くのだ。心が浮き立っても仕方がないだろう。
だが、待ち合わせの時間は刻一刻と迫ってきている。このままずっと鏡の前にいるわけにはいかない。
最後に髪が跳ねていないことを確認し、部屋から出た。
リビングへ行くと、兄の吹雪がいた。ちょうどご飯を食べ終わったところなのか、テーブルを拭いている。
「あ、兄さん」
「時雨⋯⋯どこか遊びに行くのか?」
「ええ」
「なっ⋯⋯!」
肯定すると吹雪は目を見開き、手に持っていたタオルを落とした。
驚くのも無理はない。立海に転校してからテニス部のマネージャーとなり、あまり遊ぶ時間はなかったのだから。
「だ、誰だ!? 蓮二、ではないな⋯⋯仁王というやつとデートか?」
「え!? ち、違うわよ。もう時間だから行くわね」
吹雪の口から仁王の名前が出たことに動揺し、声が裏返った。
何故彼の名前を知っているか疑問だが、聞いたら逆に今日のことを根掘り葉掘り聞かれそうなので止めておく。
なお、この数日後、吹雪が仁王にテニスの試合を申し込むことを知るのは、また別の話である。
*
待ち合わせの駅に着くと、駅前のベンチに仁王が座っていた。
慌てて向かおうとするが、仁王の前に一人の女の子がいるのが見えて、足が止まる。よく見ると、女の子は立海生だ。学校で見掛けたことがある。
女の子が気安く仁王に話しかけている様子を目の当たりにすると、胸が締め付けられるような気持ちになった。この気持ちは何だろう。
話している最中に割り込むのも悪いと思い、鞄から携帯を取り出した。
トークアプリを起動させ、『駅前に着いたよ!』と打つ。
その時、ふと昨日跡部に言われたことを思い出した。
――――「もし仁王が他の女と話していたら、私よりその人の方が大事か、と聞いてみたらどうだ?」
あれは単なる世間話だったが、脳裏から離れない。普段飄々としている仁王が、どんな反応をするか気になるのも事実。
『今日はせっかくのお出かけなのに、私よりその子の方が大事なの?』と追記してみる。
「⋯⋯⋯⋯」
恋人でもないし、重い。恥ずかしい。やっぱり、止めとこう。
追記した部分を消そうとすると、手首を掴まれた。
「なんじゃ、送ってくれんのか?」
「え!?」
耳元で声が聞こえた。肩が一瞬ビクりと上がり、心臓が早鐘を打つ。
さっきまでベンチにいたはずの仁王が、いつの間にか後ろにいた。彼の視線は、私の携帯に注がれている。
「さっきまでベンチにいたのに、いつから⋯⋯?」
「お前さんが携帯を取り出したあたりだったか」
つまり最初から気づいていたようだ。穴があったら入りたい。
「⋯⋯女の子と話してたじゃない」
思わず拗ねたような口調で言うと、仁王は目をパチクリさせ、手首の拘束を解いた。呆れられただろうか。
「向こうが一方的に話してただけだし、時雨の方が大事ぜよ。こうやってオフの日に連れ出すのは、お前さんだからじゃ」
仁王が目を弓なりに細め、私の頭をぽんぽんと撫でる。
「――さ、時間も限られているし、行くかのう」
手が離れ、仁王が改札に向かって歩く。
何が起きたかわからず固まってしまったが、ハッと我に返り、慌てて彼の背を追いかける。名残惜しいと思ったのは気のせいだ。
――――『時雨の方が大事ぜよ』
先ほどの言葉が、トークアプリに打ったメッセージの返答だと気づくのは、もう少し経ってからだった。
電車に揺られ、仁王と他愛もない会話をしていると、学校の最寄り駅に停車した。いつもならここで降りるところが、今日はそのまま乗車している。
いったいどこへ向かっているのだろう。気になるものの、跡部のアドバイスに従い、目的地は聞いていない。
「降りるぜよ」
窓から海を眺めていると、仁王に声をかけられた。どうやら目的の駅に着いたようだ。
下車して改札を出ると、人だかりができていた。通学路の乗換駅は観光地で、駅前は人であふれかえっているが、ここも同じくらい多い。
気をつけないと、仁王とはぐれそうだ。
そう思い、案内に従っていつもより早く歩いていたが、気づけば仁王と景色を楽しみながら、ゆったりと歩いていた。仁王が、私の普段の歩幅に合わせてくれているからだろう。無理して歩くスピードを変えなくて良いし、私を気にかけてくれるのが嬉しい。
彼と一緒に過ごすのが楽しく、自然と口角が上がった。
「まずは、ここじゃ」
仁王が人差し指で目の前の建物を指す。
白を基調としたモダンで開放的なデザイン。変わった見た目で、何の施設か想像つかない。
建物の中に入り、近くに設置されたエスカレーターで二階へ上がった。
入口で仁王が入場チケットを購入し、一枚チケットを受け取る。チケットの左上には、英語でアクアリウムと書かれていた。
「ここ、水族館なのね」
今まで行った水族館と雰囲気が異なったので、息が漏れた。
「アートと共存したアクアリウムらしくてのう。俺も気になって来てみたかったんじゃ」
早速展示ゾーンに足を踏み入れると、和の世界が広がっていた。ガラスに覆われた床のすぐ下を鯉が泳ぎ、壁面には切り絵が投影されている。まるで日本庭園の上を歩いているかのよう。
不思議な空間に、ただただ圧倒された。
「あ」
前をよく見ず歩いていたからか、足がもつれ、反射的に目を瞑った。視界が真っ黒に染まる。
「おっと」
転ぶかと思ったが、いつまで経っても痛みがやってこない。
不思議に思い、目を開け、顔を上げると仁王と視線がぶつかった。
彼が私の背中を支えてくれたため、転けずに済んだのだ。つまり私は彼の腕の中にいるわけで――。
至近距離なせいか、じわじわと顔が熱くなるのを感じる。
「ご、ごめんなさい。ありがとう」
「いや、構わんぜよ。⋯⋯何だか初めて会った時を思い出すのう」
「え?」
背中に回された腕が離れ、今度は右手を握られる。
目の前の光景に既視感を覚える。
そのまま仁王に手を引かれ、私は後をついて行く。
初めて会った時――始業式の日は初対面だったこともあり、仁王は立ち上がってから、すぐ目の前を去っていった。一ヶ月くらい前のことなのに、懐かしい気持ちになる。
テニス部と関わりたくないと決意したはずが、マネージャーになっているし、成り行きとはいえダブルス大会に参加。
あの頃の私に言っても信じないだろう。
「今だから言うけど、初日からテニス部の人と遭遇して、これからどうしようって思ってたの」
「ああ、確かに。ぶつかった後、テニスボールを見て顔が引きつってたからのう」
「私の視線の先まで見てたの?」
たった数秒だったのに、そこまで見られていたとは驚いた。
「珍しい反応だったからな。真田を前にした赤也じゃあるまいし、テニス部を見てげんなりするのは新鮮じゃろ」
「たしかに⋯⋯?」
テニス部はファンクラブがあるくらいだし、大半の人は部員と会ったら喜ぶのかもしれないと思い、私は曖昧に頷いた。
エリアが変わったようで、先ほどの和のエリアより暗くなり、中央には球体水槽が配置されていた。中にはクラゲがふよふよと穏やかに舞っている。
「あの頃は目を離したら、時雨がどっか行ってしまうのではないかと思ったが⋯⋯今は大丈夫じゃな」
水槽から仁王に視線を移すと、彼は正面を向いたまま微笑んでいた。
出会った頃は飄々としている印象だったが、今は意外と表情豊かだと思う。もし距離が縮まったからだと言うなら、これ以上喜ばしいことはない。
「さて、水族館の他にも行きたいところはあるし、少しペースを上げて回るぜよ」
仁王が振り向き、視線が交わる。少し恥ずかしげに笑う彼を前に、私は胸が熱くなるのを感じた。
*
水族館を見終わった後は、休憩がてらカフェへ行くことになった。
店内に入ると、海と島の空気感をそのまま取り込んだ、開放的で落ち着いた空間が広がっていた。
窓際の席に案内され、仁王と向かい合って座る。
店員にメニューを注文し、ひと息ついた。
「水族館楽しかったわ。連れってくれて、ありがとう」
「俺も一度行ってみたかったから、時雨と来れて良かったぜよ」
「あのね、仁王くん」
「ん?」
仁王が小首を傾げて私を見る。その姿が、少し可愛いと思ったのは秘密だ。
私は鞄の中から動物がプリントされた袋を取り出し、仁王へ渡す。
実は水族館のショップで、仁王に内緒でプレゼントを買ったのだ。
「これ⋯⋯いつも一緒にテニスに付き合ってくれるお礼、です」
慣れていないことをしているせいか、心臓がバクバクとうるさい。
受け取ってもらえなかったら、どうしよう。
仁王の顔がまともに見れず、テーブルに視線を落とす。
その時、手が優しく包まれ、彼の温度を感じた。ハッと顔を上げると、仁王が目尻を下げて微笑んでいた。
「ありがとさん。早速じゃが、開けても良いか?」
「も、もちろん!」
仁王が袋のテープを剥がして、中に手を入れる。
目の前で反応を伺うのは、緊張でどうにかなりそうだ。
仁王のことを考えながら選んだので、喜んで貰えると嬉しいのだが――――。
「これは⋯⋯ペンギンさんのぬいぐるみか?」
「ええ、そうよ。前に、ひよこのマスコットを机に乗せてたから、好きなのかと思って」
水族館のショップを歩いていると、棚に置いてあるペンギンのぬいぐるみと目が合った。水族館限定商品とポップが貼ってあったので、記念にと思ったのだ。
ぬいぐるみはカラーバリエーションがあったが、真っ先に選んだのは青色をベースとしたもの。仁王の好きな色である。
「フ、もこもこして可愛いのう。家帰ったら飾らせてもらうぜよ」
仁王がテーブルにぬいぐるみを置き、頭を突っつく。どうやら気に入ってもらえたようで、ホッと胸を撫で下ろした。
「そうじゃ、渡したいものがあるぜよ」
「え?」
「ほら、これ。俺も水族館で時雨へのプレゼントを買ってのう」
仁王がテーブルの上に、先ほど私が渡したのと同じデザインの袋を置いた。
予想外の展開に、私はジワリと目を見開く。まさか仁王も、プレゼントを選んでくれているとは思わなかった。胸がほんわかと温かくなる。
袋の上から触ってみると柔らかい感触が伝わってくるが、何が入っているのだろう。
そっと袋を開けてみると、シャチのぬいぐるみが顔を覗かせていた。
「か、可愛い⋯⋯」
袋から出してみると、ペンギンのぬいぐるみより一回り大きかった。ふわふわして手触りが良い。
「お前さん、水族館でシャチを一番熱心に見てたじゃろ?」
シャチが見られる水族館は少ないらしいので、たしかにはしゃいで見ていた。しかし、その姿を間近で見られていたと思うと、今更ながら恥ずかしくなってきた。
「まあ、それだけで選んだわけじゃないが」
頬杖をつきながら、クスクスと笑う仁王。
「シャチは海の王者と呼ばれるじゃろ。立海も王者と呼ばれているから親近感が湧いてな。お前さんも立海テニス部の一員だから⋯⋯というのもあるんじゃが、今日の記念にと思ってのう」
「ありがとう! これ大事にするわね」
仁王からぬいぐるみを貰えたことが嬉しいし、なにより「立海テニス部の一員」という言葉が心が響いた。
以前、真田にも言ってもらえたが、立海でマネージャーをやって良かったと安心する。実際に言葉にしてもらえると、自信に繋がるのだ。
きっとぬいぐるみを見る度に、今日のことを思い出すだろう。彼の期待に応えられるような自分でありたい。
*
仁王とカフェを後にしてからは歴史ある商店街を楽しみ、集合場所であった駅で別れた。
「ただいま」
家に帰り、リビングに向けて声を出す。
トマトの香ばしい匂いがしたから、今日の夕飯は好物のトマト系パスタじゃないかと心を弾ませる。
手洗いうがいをして、自分の部屋へ直行した。
鞄からシャチのぬいぐるみを取り出して、机の上に飾る。
「ふふ、可愛いなあ」
今日のことを思い出しながら、ぬいぐるみの頭を撫でる。側にいるだけで、背中を押してくれる感じがする。
仁王が私のことを立海の一員だ、と言ってくれたからかもしれない。
ぬいぐるみを見ていると、頬が緩む。
だから、部屋の向こうからやってくる足音や、ノック音に気づかなかった。
「おーい、母さんが夕飯出来た⋯⋯って、どうした。良いことでもあったのか?」
突如、部屋のドアが開き、私は目をパチクリさせた。
「え? なんで兄さんが、私の部屋にいるの」
「何度もノックしたぞ。その様子だと、気づいてなかったようだが」
やれやれと呆れた様子で、吹雪はため息をついた。
「しょ、しょうがないじゃない。ぬいぐるみが可愛いのだもの」
机に置いていたぬいぐるみを手に乗せて、吹雪に見せた。すると彼は手を顎にそえて、まじまじとぬいぐるみを観察する。
「シャチ⋯⋯時雨が好きそうなぬいぐるみだな。水族館に行ったのか?」
「ええ。アクアリウムとアートが融合していて、面白かったわ」
「珍しい水族館だな。まあ、その緩みきった顔を見れば、楽しめたのは分かる」
「⋯⋯誰と行ったか聞かないの?」
家から出発する時は聞いたのに。
恐る恐る聞くと、吹雪はゴホンと咳払いをし、そっと目を逸らした。
「立海テニス部の誰かだろう? 時雨がテニス仲間と笑顔でいられれば、それでいい。まあ、後で蓮二に聞くかもしれないが⋯⋯」
「うん!」
「母さんと父さんが待ってるから、早く行くぞ」
私はぬいぐるみを机に置き、吹雪と一緒にリビングへ向かった。
今日は仁王とお出かけの日だ。
「よし、これでいいかしら⋯⋯?」
私はお気に入りの服を着て、自室の鏡の前で念入りにチェックした。
両手でスカートの裾を掴み、軽く持ち上げる。何度確認しても、変なところがないか気になって仕方がない。仁王と一緒に下校やテニスをしたことはあるが、初めて私服で遊びに行くのだ。心が浮き立っても仕方がないだろう。
だが、待ち合わせの時間は刻一刻と迫ってきている。このままずっと鏡の前にいるわけにはいかない。
最後に髪が跳ねていないことを確認し、部屋から出た。
リビングへ行くと、兄の吹雪がいた。ちょうどご飯を食べ終わったところなのか、テーブルを拭いている。
「あ、兄さん」
「時雨⋯⋯どこか遊びに行くのか?」
「ええ」
「なっ⋯⋯!」
肯定すると吹雪は目を見開き、手に持っていたタオルを落とした。
驚くのも無理はない。立海に転校してからテニス部のマネージャーとなり、あまり遊ぶ時間はなかったのだから。
「だ、誰だ!? 蓮二、ではないな⋯⋯仁王というやつとデートか?」
「え!? ち、違うわよ。もう時間だから行くわね」
吹雪の口から仁王の名前が出たことに動揺し、声が裏返った。
何故彼の名前を知っているか疑問だが、聞いたら逆に今日のことを根掘り葉掘り聞かれそうなので止めておく。
なお、この数日後、吹雪が仁王にテニスの試合を申し込むことを知るのは、また別の話である。
*
待ち合わせの駅に着くと、駅前のベンチに仁王が座っていた。
慌てて向かおうとするが、仁王の前に一人の女の子がいるのが見えて、足が止まる。よく見ると、女の子は立海生だ。学校で見掛けたことがある。
女の子が気安く仁王に話しかけている様子を目の当たりにすると、胸が締め付けられるような気持ちになった。この気持ちは何だろう。
話している最中に割り込むのも悪いと思い、鞄から携帯を取り出した。
トークアプリを起動させ、『駅前に着いたよ!』と打つ。
その時、ふと昨日跡部に言われたことを思い出した。
――――「もし仁王が他の女と話していたら、私よりその人の方が大事か、と聞いてみたらどうだ?」
あれは単なる世間話だったが、脳裏から離れない。普段飄々としている仁王が、どんな反応をするか気になるのも事実。
『今日はせっかくのお出かけなのに、私よりその子の方が大事なの?』と追記してみる。
「⋯⋯⋯⋯」
恋人でもないし、重い。恥ずかしい。やっぱり、止めとこう。
追記した部分を消そうとすると、手首を掴まれた。
「なんじゃ、送ってくれんのか?」
「え!?」
耳元で声が聞こえた。肩が一瞬ビクりと上がり、心臓が早鐘を打つ。
さっきまでベンチにいたはずの仁王が、いつの間にか後ろにいた。彼の視線は、私の携帯に注がれている。
「さっきまでベンチにいたのに、いつから⋯⋯?」
「お前さんが携帯を取り出したあたりだったか」
つまり最初から気づいていたようだ。穴があったら入りたい。
「⋯⋯女の子と話してたじゃない」
思わず拗ねたような口調で言うと、仁王は目をパチクリさせ、手首の拘束を解いた。呆れられただろうか。
「向こうが一方的に話してただけだし、時雨の方が大事ぜよ。こうやってオフの日に連れ出すのは、お前さんだからじゃ」
仁王が目を弓なりに細め、私の頭をぽんぽんと撫でる。
「――さ、時間も限られているし、行くかのう」
手が離れ、仁王が改札に向かって歩く。
何が起きたかわからず固まってしまったが、ハッと我に返り、慌てて彼の背を追いかける。名残惜しいと思ったのは気のせいだ。
――――『時雨の方が大事ぜよ』
先ほどの言葉が、トークアプリに打ったメッセージの返答だと気づくのは、もう少し経ってからだった。
電車に揺られ、仁王と他愛もない会話をしていると、学校の最寄り駅に停車した。いつもならここで降りるところが、今日はそのまま乗車している。
いったいどこへ向かっているのだろう。気になるものの、跡部のアドバイスに従い、目的地は聞いていない。
「降りるぜよ」
窓から海を眺めていると、仁王に声をかけられた。どうやら目的の駅に着いたようだ。
下車して改札を出ると、人だかりができていた。通学路の乗換駅は観光地で、駅前は人であふれかえっているが、ここも同じくらい多い。
気をつけないと、仁王とはぐれそうだ。
そう思い、案内に従っていつもより早く歩いていたが、気づけば仁王と景色を楽しみながら、ゆったりと歩いていた。仁王が、私の普段の歩幅に合わせてくれているからだろう。無理して歩くスピードを変えなくて良いし、私を気にかけてくれるのが嬉しい。
彼と一緒に過ごすのが楽しく、自然と口角が上がった。
「まずは、ここじゃ」
仁王が人差し指で目の前の建物を指す。
白を基調としたモダンで開放的なデザイン。変わった見た目で、何の施設か想像つかない。
建物の中に入り、近くに設置されたエスカレーターで二階へ上がった。
入口で仁王が入場チケットを購入し、一枚チケットを受け取る。チケットの左上には、英語でアクアリウムと書かれていた。
「ここ、水族館なのね」
今まで行った水族館と雰囲気が異なったので、息が漏れた。
「アートと共存したアクアリウムらしくてのう。俺も気になって来てみたかったんじゃ」
早速展示ゾーンに足を踏み入れると、和の世界が広がっていた。ガラスに覆われた床のすぐ下を鯉が泳ぎ、壁面には切り絵が投影されている。まるで日本庭園の上を歩いているかのよう。
不思議な空間に、ただただ圧倒された。
「あ」
前をよく見ず歩いていたからか、足がもつれ、反射的に目を瞑った。視界が真っ黒に染まる。
「おっと」
転ぶかと思ったが、いつまで経っても痛みがやってこない。
不思議に思い、目を開け、顔を上げると仁王と視線がぶつかった。
彼が私の背中を支えてくれたため、転けずに済んだのだ。つまり私は彼の腕の中にいるわけで――。
至近距離なせいか、じわじわと顔が熱くなるのを感じる。
「ご、ごめんなさい。ありがとう」
「いや、構わんぜよ。⋯⋯何だか初めて会った時を思い出すのう」
「え?」
背中に回された腕が離れ、今度は右手を握られる。
目の前の光景に既視感を覚える。
そのまま仁王に手を引かれ、私は後をついて行く。
初めて会った時――始業式の日は初対面だったこともあり、仁王は立ち上がってから、すぐ目の前を去っていった。一ヶ月くらい前のことなのに、懐かしい気持ちになる。
テニス部と関わりたくないと決意したはずが、マネージャーになっているし、成り行きとはいえダブルス大会に参加。
あの頃の私に言っても信じないだろう。
「今だから言うけど、初日からテニス部の人と遭遇して、これからどうしようって思ってたの」
「ああ、確かに。ぶつかった後、テニスボールを見て顔が引きつってたからのう」
「私の視線の先まで見てたの?」
たった数秒だったのに、そこまで見られていたとは驚いた。
「珍しい反応だったからな。真田を前にした赤也じゃあるまいし、テニス部を見てげんなりするのは新鮮じゃろ」
「たしかに⋯⋯?」
テニス部はファンクラブがあるくらいだし、大半の人は部員と会ったら喜ぶのかもしれないと思い、私は曖昧に頷いた。
エリアが変わったようで、先ほどの和のエリアより暗くなり、中央には球体水槽が配置されていた。中にはクラゲがふよふよと穏やかに舞っている。
「あの頃は目を離したら、時雨がどっか行ってしまうのではないかと思ったが⋯⋯今は大丈夫じゃな」
水槽から仁王に視線を移すと、彼は正面を向いたまま微笑んでいた。
出会った頃は飄々としている印象だったが、今は意外と表情豊かだと思う。もし距離が縮まったからだと言うなら、これ以上喜ばしいことはない。
「さて、水族館の他にも行きたいところはあるし、少しペースを上げて回るぜよ」
仁王が振り向き、視線が交わる。少し恥ずかしげに笑う彼を前に、私は胸が熱くなるのを感じた。
*
水族館を見終わった後は、休憩がてらカフェへ行くことになった。
店内に入ると、海と島の空気感をそのまま取り込んだ、開放的で落ち着いた空間が広がっていた。
窓際の席に案内され、仁王と向かい合って座る。
店員にメニューを注文し、ひと息ついた。
「水族館楽しかったわ。連れってくれて、ありがとう」
「俺も一度行ってみたかったから、時雨と来れて良かったぜよ」
「あのね、仁王くん」
「ん?」
仁王が小首を傾げて私を見る。その姿が、少し可愛いと思ったのは秘密だ。
私は鞄の中から動物がプリントされた袋を取り出し、仁王へ渡す。
実は水族館のショップで、仁王に内緒でプレゼントを買ったのだ。
「これ⋯⋯いつも一緒にテニスに付き合ってくれるお礼、です」
慣れていないことをしているせいか、心臓がバクバクとうるさい。
受け取ってもらえなかったら、どうしよう。
仁王の顔がまともに見れず、テーブルに視線を落とす。
その時、手が優しく包まれ、彼の温度を感じた。ハッと顔を上げると、仁王が目尻を下げて微笑んでいた。
「ありがとさん。早速じゃが、開けても良いか?」
「も、もちろん!」
仁王が袋のテープを剥がして、中に手を入れる。
目の前で反応を伺うのは、緊張でどうにかなりそうだ。
仁王のことを考えながら選んだので、喜んで貰えると嬉しいのだが――――。
「これは⋯⋯ペンギンさんのぬいぐるみか?」
「ええ、そうよ。前に、ひよこのマスコットを机に乗せてたから、好きなのかと思って」
水族館のショップを歩いていると、棚に置いてあるペンギンのぬいぐるみと目が合った。水族館限定商品とポップが貼ってあったので、記念にと思ったのだ。
ぬいぐるみはカラーバリエーションがあったが、真っ先に選んだのは青色をベースとしたもの。仁王の好きな色である。
「フ、もこもこして可愛いのう。家帰ったら飾らせてもらうぜよ」
仁王がテーブルにぬいぐるみを置き、頭を突っつく。どうやら気に入ってもらえたようで、ホッと胸を撫で下ろした。
「そうじゃ、渡したいものがあるぜよ」
「え?」
「ほら、これ。俺も水族館で時雨へのプレゼントを買ってのう」
仁王がテーブルの上に、先ほど私が渡したのと同じデザインの袋を置いた。
予想外の展開に、私はジワリと目を見開く。まさか仁王も、プレゼントを選んでくれているとは思わなかった。胸がほんわかと温かくなる。
袋の上から触ってみると柔らかい感触が伝わってくるが、何が入っているのだろう。
そっと袋を開けてみると、シャチのぬいぐるみが顔を覗かせていた。
「か、可愛い⋯⋯」
袋から出してみると、ペンギンのぬいぐるみより一回り大きかった。ふわふわして手触りが良い。
「お前さん、水族館でシャチを一番熱心に見てたじゃろ?」
シャチが見られる水族館は少ないらしいので、たしかにはしゃいで見ていた。しかし、その姿を間近で見られていたと思うと、今更ながら恥ずかしくなってきた。
「まあ、それだけで選んだわけじゃないが」
頬杖をつきながら、クスクスと笑う仁王。
「シャチは海の王者と呼ばれるじゃろ。立海も王者と呼ばれているから親近感が湧いてな。お前さんも立海テニス部の一員だから⋯⋯というのもあるんじゃが、今日の記念にと思ってのう」
「ありがとう! これ大事にするわね」
仁王からぬいぐるみを貰えたことが嬉しいし、なにより「立海テニス部の一員」という言葉が心が響いた。
以前、真田にも言ってもらえたが、立海でマネージャーをやって良かったと安心する。実際に言葉にしてもらえると、自信に繋がるのだ。
きっとぬいぐるみを見る度に、今日のことを思い出すだろう。彼の期待に応えられるような自分でありたい。
*
仁王とカフェを後にしてからは歴史ある商店街を楽しみ、集合場所であった駅で別れた。
「ただいま」
家に帰り、リビングに向けて声を出す。
トマトの香ばしい匂いがしたから、今日の夕飯は好物のトマト系パスタじゃないかと心を弾ませる。
手洗いうがいをして、自分の部屋へ直行した。
鞄からシャチのぬいぐるみを取り出して、机の上に飾る。
「ふふ、可愛いなあ」
今日のことを思い出しながら、ぬいぐるみの頭を撫でる。側にいるだけで、背中を押してくれる感じがする。
仁王が私のことを立海の一員だ、と言ってくれたからかもしれない。
ぬいぐるみを見ていると、頬が緩む。
だから、部屋の向こうからやってくる足音や、ノック音に気づかなかった。
「おーい、母さんが夕飯出来た⋯⋯って、どうした。良いことでもあったのか?」
突如、部屋のドアが開き、私は目をパチクリさせた。
「え? なんで兄さんが、私の部屋にいるの」
「何度もノックしたぞ。その様子だと、気づいてなかったようだが」
やれやれと呆れた様子で、吹雪はため息をついた。
「しょ、しょうがないじゃない。ぬいぐるみが可愛いのだもの」
机に置いていたぬいぐるみを手に乗せて、吹雪に見せた。すると彼は手を顎にそえて、まじまじとぬいぐるみを観察する。
「シャチ⋯⋯時雨が好きそうなぬいぐるみだな。水族館に行ったのか?」
「ええ。アクアリウムとアートが融合していて、面白かったわ」
「珍しい水族館だな。まあ、その緩みきった顔を見れば、楽しめたのは分かる」
「⋯⋯誰と行ったか聞かないの?」
家から出発する時は聞いたのに。
恐る恐る聞くと、吹雪はゴホンと咳払いをし、そっと目を逸らした。
「立海テニス部の誰かだろう? 時雨がテニス仲間と笑顔でいられれば、それでいい。まあ、後で蓮二に聞くかもしれないが⋯⋯」
「うん!」
「母さんと父さんが待ってるから、早く行くぞ」
私はぬいぐるみを机に置き、吹雪と一緒にリビングへ向かった。
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