1 黒い髪の弟


 過去の記憶を思い出そうとすると、シンは真っ暗な闇に包まれる。
 いつもそうだ。そして一つの場面が思い浮かぶ。覚えている限り一番最初の記憶。

 彼は暗い場所に横たわっている。どこからかぽたぽたと水音がする。音はすぐ近くで一定の間隔で響く。
 体は鉛のように重く、手足は何かで押さえつけられていて身動きが取れない。言葉というものを知らないけれど、口からは音も出ない。目に見えない重い何かが喉を塞いでいて、声を出す事が出来ないのだ。

 苦しい……。怖い……。
 ここはどこだろう?
 僕は誰で、何をしているんだろう。何も見えないし、話せない。体も動かせないし、聞えるのは水音だけ。
 誰か、僕をここから助け出してほしい。シンが願うのはそれだけだった。


 次に思い出せる記憶は、見知らぬ誰かの顔だ。

『いいかい?』

 そうシンに問いかける。何を聞いてきたのだろう。その表情はひどくあいまいにかすんでいるけれど、とても悲しそうなのは分かる。深い意味も分からずシンがこくりと頷くと、その人は彼の額に手を置き……。

 ーーーそして視界は再び暗転する。

 何か、大事な事を忘れてしまっている。覚えている事は断片でしかなく、それはシンをひどく不安にさせていた。何を忘れてしまったんだろう?思い出したいような、忘れたままにしておきたいようなバランスの悪い気持ち。
 父や母や兄と一緒に住むようになってから、シンはその不安を意識の底に追いやって、ふたをしてしまった。


 ある日、シンは兄と一緒に屋敷を抜け出そうとして、木から落ちてしまった。落下した衝撃で頭を打ち、彼の体は動かなくなった。

 痛い……!
 怖い……!

 状況が、過去のあの記憶とよく似ていた。

「シン!」

 シンを呼ぶ兄の声が遠くなる。目の前が暗くなって彼は意識を失った。

***

 ぽたぽたと水音がする。
 あの記憶の場面と同じだ。だが、それはいつもと違っていた。部屋は真っ暗ではなく、小さなろうそくの灯りがともされていた。
 首を音のする方にどうにか動かしてみると、音はシンの手の先から出ている事に気づいた。彼の左手に少し大きな傷があってそこから出血している。
 彼は横たわっている台から怪我をしている手を突き出すようにしていて、その手から流れる血が台の下に落ちてる。ぽたぽたという音はシンの手の先から流れる血の音だった。

 どうしよう、とシンは思う。
 こんなに血が流れたら……僕は死んでしまう。

 漠然とそう思いながら、手を動かそうとしたが、まったく動かせなかった。助けを呼ぼうとして声も出ない事に気づく。手も口も見えない何かで押さえつけられている。かろうじて首を動かすと、彼は白い服を一枚着せられていて、手と口には何もなかったが、足にははっきりと目に見える物が存在していた。
 両足をそろえて、足首の部分で金属の枷がはめられていた。
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