花札の耳飾りは慈しみに揺れ
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見慣れない天井を霞がかった頭で眺め、一回、二回とまばたきを繰り返す。
しばらくして、なまえは飛び起きた。
周囲に視線を巡らせると、ゆうに十人は寝転べそうな
ふすまの上段を障子で型どった和紙からは柔らかな陽の光が透けている。しかしそれは奥方の床の間に飾られた山水画の掛け軸までは行き届かずに、太古のおとぎ話にでてくるような秘境を描いた色味のない風景はうっすらと閑寂を帯びていた。
その部屋の中央に敷かれた綿布団の上に、なまえはいた。
「···そういえば、私」
風柱邸までやってきたのだということを思い出す。到着した直後に呼吸が乱れ、実弥が寄り添い介抱してくれたことも。
「もしかして······ここ」
首もとに触れると隊服の詰襟が二段分ほどかれていた。おそらく睡眠の苦にならぬようにと実弥が外してくれたのだろう。
前方にある衣紋掛けに吊るされた羽織も自分のものだ。
ああ、と、なまえは掌で顔を覆った。項垂れながらため息を吐き、また実弥に迷惑をかけてしまったという自己嫌悪に襲われる。
実弥はどこにいるのだろうか。お詫びと、それからお礼もしに行きたい。思うものの、勝手に屋敷を出歩いてよいのか迷うところだ。
実弥は、柱になってからより鍛練に自由のきく広い庭付きのこの屋敷に越してきた。玄関先まで踏み入ったことはあっても上がり込んだのは初めてで、屋敷内をあちこち探し回るのはなんとなく気が引けてしまう。
うーんと考えあぐねていると、どこからともなく流れてきた芳醇な香りが鼻腔に絡んだ。
(···お味噌? お出汁かな? いい匂い···)
あたたかな家庭の香りがした。
日常に溶け込むありふれた優しさや安堵感。それらは人の心に心地よい安らぎを与えてくれる。同時に、抑えていたもどかしさや遣る瀬なさをも手招く。
目頭がじわりと痛んで、視界がぼやけた。
杏寿郎と過ごした日だまりのような優しい時間が、何度も何度も脳裏に浮かんでは消えてゆく。
杏寿郎ほどの剣士が殉職なんてありえない。
訃報を聞いた瞬間は、誤報ではないのかと疑った。
葬儀はしめやかに営まれたとの手紙が届いたのは昨日のこと。
鬼殺隊員たちの死は、可能な限りで公にはしないことになっている。故に家族や身内だけて慎ましく執り行われることが多い。柱である、杏寿郎でさえ。
手紙を読み終えたあとの記憶は曖昧だ。気づけば風柱邸に足が向いていた。
ふと人の気配を感じ咄嗟に手で涙を拭う。
直後、ふすまが横滑りした。
「···起きたかよォ」
現れたのは、既に隊服を身に纏った実弥だった。いや、今はおそらく朝だから、もしかしたら夜の任務を終え戻ったままなのかもしれない。
ということは、自分は丸一晩中ここでぐっすり眠っていたということになる。
「···お前、───何かしこまってやがる」
なまえは布団の上で正座していた。
「えっと···なんというか、これは咄嗟のことで」
「あァ?」
「その、色々とご迷惑をおかけして、本当に、申し訳ありません······」
ごにょごにょと言葉を濁し、しょぼんとうつむく。
「ハッ、なにを大層に。んなもんは別に今にはじまったことじゃあねェだろうが」
「うう···それも情けない話だわ」
目の前が影になる。視線を上げると、実弥が股開いた姿勢で腰を落とした。
す、と伸びてきた手が頬に触れ、驚く間もなく目袋がぐっと下げられる。
「···へ」
「顔色は、まァまァ良くなったみてェだが、血が足りてねェなァ。肉食ってんのかよ」
あっかんべーをさせたまま、実弥はそう投げかける。怒っているわけでもなく、憂いでいるわけでも呆れているわけでもなく、純粋な口調で淡々と問うてくる。
赤身のお肉を食べてくださいと、以前しのぶからも言われた。
なまえは獣肉の独特の臭みが苦手だ。
洋食文化のおかげもあり近頃は口にする機会も増えたが、幼い頃はキヨ乃の作る食事が魚ばかりだったこともあり、今でも普段の食卓はもっぱら慣れ親しんだ淡白な魚が中心になってしまう。
「飯、食うだろ?」
「え···?」
「すぐに整う。お前も食ってけ」
ぺちぺち、と、言い聞かせるように、実弥はなまえの頬を指先だけで優しく叩いた。
「···実弥が作ったの?」
「俺はどこぞのどいつみてぇに
「わ···? 私も自炊には前向きに挑戦を···っ」
「ほー、そういやぁ、先日藤襲山の梺にある定食屋の親父が言ってたぜェ。ここんとこなまえが毎日のように来てくれるもんだからありがてぇってよォ」
「いやだわ源さんったら···実弥には内緒にしてねって頼んでおけばよかった」
頬を赤らめ、決まり悪そうに、なまえはまた肩を窄めた。
稽古や鬼狩りの学びに時間を費やしてきてせいか、なまえは料理が苦手である。というのはただの言い訳に過ぎず、キヨ乃に料理を習ってもなかなか上達しないところを見ると、てんから素質がなかったのかもしれない。
独り暮らしをはじめても馴染みの定食屋にはほぼ毎日のように通っているし、時にはご近所さんからいただくお裾分けに恐縮ながら甘えてしまえば、食べることに苦労はなかった。
ばつの悪さを感じていると、近距離からフッ、と息の抜ける音が聞こえた。
実弥が、眉を下げ笑っていた。
「はじめててめぇの作った握り飯とお浸しとやらを食わされた時にはァ、まったく度肝を抜かれたもんだぜェ」
以前、なまえは匡近と実弥が稽古をしている道場へ差し入れを持っていったことがあった。のだが、固めに炊き上げた白米は道場に着いた頃にはひどくパサつき、掴んだ瞬間真っ二つに割れてしまった。
おまけに塩をふり忘れたものだから握り飯に味はなく、お菜に持っていった菜の花のお浸しは醤油と出汁の分量を違えたのか飛び上がるほどしょっぱかった。
『しょ···ッ! 味見したのかよォ···!』
『やだごめんなさい······忘れちゃった』
『まあまあ実弥。なまえは一生懸命作ってくれたんだ。汗をかいたし塩分がとれていいじゃないか』
『まって匡近、無理に食べなくていいから、ね、実弥も···って、食べてるのっ?』
『···腹減ってんだよ。白飯が味しねェからなァ、こいつと食やぁ、まァ、食えなくもねェ』
『うん、そうだね。美味しいよなまえ』
決して美味しいとは言えないそれを、匡近も実弥も綺麗に平らげてくれた。
「···そ、れでも、あの頃に比べたら、少しは上達したのよ」
「っ、おい」
なまえの頬に一粒の涙が伝い、実弥はぎょっと双眸を見開いた。
「な、んだ突然、どうしたァ」
「さ、実弥が、わらってくれたから」
何···? と、実弥の眉が不可解さをあらわにする。
「ま、匡近がいた頃の実弥は、もっと、わらっていた気がするの······。私、匡近と違って実弥のこと楽しませてあげられないし、迷惑ばっかりで、一緒にいても、実弥のお荷物になってるんじゃないかって、どこかでずっと、思っていて」
むせび泣き、なまえはこれまで密かに抱いてきたものを実弥に吐露した。
実弥も、決して笑わなくなってしまったわけではない。だが匡近がいた頃の笑顔とはどこかが違う。なまえにはずっとそう見えていた。
またあの頃のように笑ってほしい。今、願っていた笑顔が眼前で揺れている。それは、なまえに向けられたというよりも忍び笑いに近いものだが、柔く綻んだ口もとと下がる眉尻に自然なあたたかさが灯っていた。
「、んで、そうなんだっつぅ···俺がいつお前をお荷物だなんて口にしたァ」
「っ、杏寿郎のことも、もう、大丈夫。ちゃんと前に進んでみせるから···本当、こんなんじゃ私、実弥の姉弟子だなんて言えないわ」
鼻をすするなまえを前に、『姉だと思ったことはいっぺんもない』と突っぱねた日を思い出す。
『弟』だと言われ、つい口をついて出てしまった言葉を。
あれは紛れもない本心だが、なまえは別の意味で捉えたのかと、実弥は閉口した。なにより、なまえの本音に柄にもなく困惑している自分に気づく。
「···あのなァなまえよォ。俺が、お荷物だと思うヤツにあこそまで稽古つけたり飯に行ったりすると思うかァ」
「それは、そうかも、しれないけれど」
「お前は、ちゃんと俺を見ろ」
「? 見てるわ」
「···そういうことじゃねェ」
このタコが、となまえのひたいを指で弾いてやりたくなったがぐっと堪えた。
言葉の通り素直に受け取っちまいやがってよォ···。
脱力し、項垂れる。
「実弥···?」
双眸を赤く染め、か細い声を発するなまえ。
いったいなにをそんな風に泣くことがあるというのか。普段の実弥なら、そう呆れ返ってしまうところだ。しかし今はどうだろう。なまえの涙に胸が痛むどころか、無性に腹の底から辛抱たまらなくなってくる。
撫でてやりたいと思う。
触れてしまいたいと思う。
抱きしめてしまえたらと思う。
いつしか近づいてゆく距離は、これまで遠慮がちだった欲求をとめどなく膨れ上がらせた。
これだから、屋敷にあげることを頑なに拒んでいたというのに。
「さね、み」
なまえに向かって伸びる手に迷いがないといえば嘘になる。
匡近はどんな風になまえに触れていたのだろう。考えれば考えるほど、その上から全てを塗り替えてしまいたい衝動にかられる。
全くもって厄介で、世話の焼ける情緒だ。
「なまえ──···」
ガッシャーン···ッ
離れた場所から金物の鳴り響くような音がして、二人は同時にハッとした。実弥の指先が、なまえの頬に辿り着こうとしていた間際のことだった。
しばし沈黙し、実弥は「ぁー···」と低く唸ると、力なく丸めた拳を引き戻し、おもむろに腰を持ち上げた。
「···鍋の火を、消し忘れたみてぇだなぁ」
そう言って、なまえに背を向け歩きだす。
「整ったら、また呼びにくる。お前はもうしばらく横になってろ」
実弥は振り返ることなく部屋を出た。
「っ、おいしい」
汁椀に口付けたなまえは開口一番感嘆の声を漏らした。
箱膳に並ぶ品は一汁三菜。
ほくほくの白米に、具沢山の芋煮汁。キャベツと昆布の和え物にかぼちゃの煮付け、しめじの佃煮。さらには豆皿にきゅうりと大根の漬物も添えられている。完璧御膳である。
「お肉の臭みも気にならないわ」
「···下処理したからなァ」
なんと、料理に下処理などという工程があるのか······。
心のなかでうーむ···と唸り、なまえはまた芋煮の汁を一口啜った。
芋煮汁には牛の肉が入っていたが、苦手な臭みはほとんど感じられず、箸が進む。
「実弥がお料理できることは知っていたけど、まさかここまでとは思わなかった······すごいのね。感心しちゃうわ」
「長ぇこと独りで暮らしてりゃあ、嫌でもできるようになんだよ」
「その言い分だとできるようにならない私はなんなのかしら······不思議だわ」
「······」
「聞いてる? 実弥」
「フ、」
鼻で笑われ、なまえはむむむ、と顔をしかめた。
けれどそんなことはすぐにどうでもよくなるくらい、実弥の作った朝食は美味なのだった。
「そうだ、実弥。あのね······私、杏寿郎の家に行ってこようと思うの」
「煉獄の?」
「そう、生家のほう。槇寿郎さんのことは実弥も知っていると思うけれど、杏寿郎には千寿郎くんていう弟さんもいるの。私もずっと会えていなかったのだけど、少し心配だから」
漬け物に箸を伸ばし、「···元炎柱の煉獄さんかァ」と小声を漏らすと、いいんじゃねぇか? 実弥はうなずく。
「実弥の今日の予定は?」
「俺は甘露寺んとこに行くことになってる」
「蜜璃ちゃん?」
「以前壊しちまった甘露寺ンちの扉が新しくなったんだと。見に来いってうるせぇからよォ」
「実弥が知り合いの大工さんにお願いした扉だものね」
「だからってわざわざ見に行く必要もねぇだろとは言ったんだがなァ」
「ふふ。なんだかんだでお願い聞いちゃうところが実弥の優しいところだわ」
「······うるせェよ······」