追憶の炎、消えぬ黄昏
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呉服屋の軒先へ出ていくと、霧雨が宙を舞っていた。
暖簾を手で避け隙間から空を見上げる。分厚い雨雲が着々と青天井を覆い尽くそうとしているのが見え、せめて落雷は起こりませんようにと願う。
「なまえちゃん、傘はお持ち?」
背後で引き戸の開かれる音がして、店の中から呉服屋の女将が顔を覗かせた。
「いえ。お天気が崩れるとは思っていなくて」
「朝はよう晴れていたものねえ。良かったらこれ、差しておゆきなさいな」
心持ちふくよかな手が、なまえに和傘を差し出した。女将の年齢は父の林道と同じくらいに見受けられるが、肌はとてもキメ細やかでもっちりしていそうな手をしている。
「お気遣いありがとうございます。でも本降りになる前には家に帰れそうですし、大丈夫です」
「あらいけませんよ。近頃は大層冷え込む日もあるし、雨に濡れて寝込んでもしたらえらいことです。戻しに来られるんはどんな時でも結構ですから、ね? 遠慮せず持っていって」
「···そう、ですか? それじゃあ、お言葉に甘えて」
礼を言い、女将の手から受け取った傘の柄は真っ直ぐで細く、
「蛇の目傘ですね。素敵な色」
「ええ、軽いでしょう? これは模様がないけれど、柄の種類もまだまだ豊富にあるんです。うちの店にも幾つか並べてみようと思うてね。なまえちゃん、次来たときはぜひ良し悪しをお聞かせ頂戴」
「ふふ、女将さんたら相変わらず商売上手」
「けれどせっかく来てくれたのにお役に立てずごめんなさいねえ」
「いえ、私もはっきり決められなくて」
「良い贈り物の品が見つかるといいのだけれど」
傘を開くと、鮮やかな緋色が頭上を彩る。
霜月。十一月二十九日の実弥の誕辰に向けなにか良い贈り物はないものかと、なまえは早朝から町へ出てきていた。
辰の初刻(朝七時頃)には家を出発したというのに、結局これという品は決まらず日中になってしまった。
馴染みの呉服屋にも立ち寄り実弥が身につけてくれそうな物を物色してはみたものの、やはり思い至るまでにはいかず、こうして突然の雨に降られたこともあり、空を見上げたなまえの唇からははぁ、と小さなため息が漏れた。
「昨年は御刀手入具で、その前は抹茶碗······」
音もなく降る雨の中を、ぽつぽつと呟きながら歩く。
いっそ直接聞くのも手だが、実弥から正直な返答が得られるかどうかはわからない。
実弥はあまり贅沢は好まなかった。必要なものが必要な分だけあればいいといつも言う。しかし持ち物にはそれなりにこだわりもあるようで、これまでなまえはどちらかといえば無難なものを贈り物として選んできた。
今年はその無難を脱却し、実弥が大喜びするくらいの贈り物をしたいと思うのだけれど···。
困ったわ、とうつむいたとき、傘の軒に何かがぶつかり弾かれそうになった。
手からすり抜けようとした籐を寸前で捕まえる。
立ち止まった先には人がいて、すれ違い様に互いの傘が擦れたのだと理解する。
「すみません。よく前を見ていなくて」
「──なまえか?」
男の声で名前を呼ばれ、思わず「え?」と声が出た。
ふと足もとに焦点を合わせると、特徴的な、見覚えのある
徐々に視線を持ち上げてゆく。
鬼殺隊の隊服に、釣鐘型の袖のない
もしかして、このひと──···。
「杏寿郎···!?」
「やはりなまえだったか! こんなところで遭遇するとは奇遇だな!」
凛々しい眉を高く持ち上げ、双眸を見開く男の名は【煉獄杏寿郎】
鬼殺隊、炎柱である。
道行くひとの視線が彼に引き付けられるのは、獅子のような、鮮やかな向日葵色の髪をしているからだけではなく、風格の感じられる、律々しい佇まいからくるものでもあるのだろう。
「もう、びっくりしたわ···! 鬼殺隊にいても会う機会なんて全くなかったのに、まさかこんな突然」
「うむ、そう言われてみればそうだな。以前別の町でなまえの姿を見かけたことはあったんだが、少々忙しくしていたので声をかけるまでには至らなかったからな」
「杏寿郎も元気そうでよかった。何年振りかしら。私のこともちゃんと覚えていてくれて、すごく嬉しい」
「当然だろう! どれだけ月日が流れようとも俺の記憶からなまえが廃れることはない。断言できる!」
曲がりない眼差しでそう言われると、なまえの心にも暖かな炎が宿るような心地になる。
少しだけこそばゆいのは、杏寿郎の背がぐんと伸び、声も低く、明朗ながらも威風堂々とした顔つきになっていたから。記憶のなかにずっと存在していた杏寿郎は、もう少し小さくて幼い男の子だったのに···。
そんな感慨深さがなまえの眼裏をじんわりと暖めてゆく。
傘の上を、雨粒の落ちる音がした。霧雨だったものが少しずつ粒に変わり、町中に雨音が響きはじめる。
「杏寿郎はどこかへ向かう途中なの?」
「いや逆だな! 父上と千寿郎の様子を伺うべく生家まで足を運んだ帰りだ!」
「わ、懐かしいな千寿郎くん。もう随分大きくなったんじゃない?」
「ああ。なまえが知るよりはずっと立派に成長している。良ければまた会いにでも行ってやってくれないか」
「もちろんよ! 私も千寿郎くんに会いたいわ」
杏寿郎となまえは幼い頃の馴染みだが、長く疎遠となっていた。
杏寿郎の父、【煉獄槇寿郎】は元鬼殺隊の炎柱で、幼少期よりその元で修練に励んだ杏寿郎は師範である父と同じ炎の呼吸で才を伸ばした。
林道と槇寿郎が親交深かったこともあり、時に二人はそれぞれの父から剣技を学んだりもしていた。
しかし、ある時を境に槇寿郎はぴたりと剣士を辞めてしまった。最愛の妻の死が大きな要因ではないか···と林道は語っていたが、その物言いからして他にも理由があるようだった。
「おじさまは···?」
「うむ···。父上も、変わりはなかった」
「そう···。ご息災でいらっしゃるのなら、なによりだわ」
杏寿郎の尊敬する父は、厳しくも優しいひとだった。風の呼吸を継承できず落胆していたなまえにも、槇寿郎は「自分の呼吸を極めなさい」と力強く言ってくれた。
あんなに熱心だったひとが、なぜ。
杏寿郎は、どこかでずっとそんな気持ちを抱え続けているのかもしれない。
雨水の染み込む真砂土は次第に湿り気をふんだんに帯び、足もとにひしひしと物寂しさが漂う。
思っていたよりも早く本降りになってしまったな···。
傘を持たせてくれた女将さんには改めて感謝だ。
「なまえはここで何をしている? 買い出しか?」
「私は───」
ぐぅ、きゅううぅぅ···。
「······」
「······」
沈黙した。
とつとつ、と。傘を弾く雨音が強くなったような気がする。
いや違う。そう思うのは自分たちが無言になったからだ。
口角を上げたまま小首を傾げる杏寿郎。彼はまず、己の腹加減を疑った。小腹こそ空いてはいるものの、
傘の影で赤面したのは、なまえだった。
腹の虫が鳴いたことで初めて自分は腹が減っているのだと自覚する。
確かに、贈り物探しに夢中で早朝からなにも口にしていなかった。だからといってなぜ今ここで? 恥ずかしすぎて穴があったら埋まりたい。
ワハハ! と、曇天に笑い声が上がった。
「盛大な音がしたな! そうか、なまえは腹が減っているのか!」
「やだ杏寿郎···っ、そんな大きな声で···っ」
天候のせいかまばらだが、ちらほらと過ぎ行く町人の視線が刺さる。
こっそり笑いを漏らすの人の声まで聞こえ、なまえはうつむいてまた赤面した。
「なまえ、時間はあるか」
「え?」
再び杏寿郎を見上げると、彼は穏やかな顔つきでなまえを見ていた。
「これも縁あっての再会だろう。なまえさえ良ければどこかで食事でもしていかないか」
杏寿郎は微笑んだ。
煉獄家と疎遠になってから、どれだけの季節が流れただろう。
杏寿郎はめきめきと力をつけ、いつしか隊を支える柱となった。
杏寿郎が柱になったとの一報を受けたとき、尊敬の念を抱く傍らで、どこか遠い存在になってしまったような、そんな気もした。
時を経て対面した彼の佇まいもまた炎柱としての誇りに満ち、日々を脅かす輩から弱き者を助けるのだという気概が内面から滲み出ている。そのことに、なまえはほんの一瞬だけ気後れしたのだ。
このひとは、とても強くなった。
理屈ではなく、彼の纏う風格がそれを如実に証明している。
杏寿郎の双眸に、自身のひ弱さを見透かされてしまうのではないかとつい取り繕ってしまいそうにさえなる。
けれど、そんな雑念も、すぐに杏寿郎の見せた笑顔にほどけていった。
昔となんら変わらない笑顔が、とても嬉しかった。
「私はオムライスにしようかな。杏寿郎はなににする?」
「むう···! さつまいもご飯がないな」
「和食屋さんのほうがよかったかしら······あ、でも見て。甘味にさつまいもの"いももち"があるみたい」
「なに構わないさ。ならば食後にそれを頂こう。ハヤシライスを頼む!」
「そういえば、杏寿郎は昔からさつまいもが大好物だったものね。食べるときはいつもわっしょいわっしょい言って」
「よもや俺はそんなことを言っているのか!」
「え? 自覚なかったの?」
「ない!!」
キリッとした顔で当然のごとく言い切る杏寿郎があまりに愉快で、なまえは込み上げる笑いを堪えきれず吹き出した。
二人が足を運んだのは近場にあった洋食屋。
注文を終えしばらくすると、オムライスとハヤシライスがテーブルに並ぶ。
ウエイトレスの肩で靡いた真っ白なエプロンの大きなフリルを流し見たあと、なまえは両手を合わせ心のなかで「頂戴します」と唱えた。
次いで、杏寿郎も掌を合わせる。
「···うまい!」
杏寿郎が叫んだ。
店内で食事をしている客が一斉に杏寿郎に注目する。
モダンな服装に身を包んだ老夫婦。一人本を片手にコーヒーカップを啜る青年。ウエイトレス。
皆奇異な目をしていたが、なまえは気にしないことにした。
ハヤシライスはみるまに「うまい」を繰り返す杏寿郎の胃のなかへ収まり、「たまには洋食もいいものだな」との言葉が発せられた頃、皿の上はすっかり空っぽになっていた。
なまえはようやく三口目のオムライスを口にしたばかりだというのに。
「聞きそびれていたが、なまえはなぜこの町にいる」
お代わりのハヤシライスをスプーンで掬い上げながら、杏寿郎が聞く。
「実は、もうすぐ実弥の誕生日だから贈り物を探しに来たのだけれど、なかなかしっくりくるものが見つからなくて」
"さねみ"という名に、時の間杏寿郎は宙を眺め、すぐ様「ああ、不死川のことか!」と頷く。
「そうか、不死川はもうすぐ誕生日を迎えるのだな! それはめでたい!」
「それで朝から色々見て回っていたの」
「不死川に欲しいものは無いか聞いてみるのはどうだ」
「うーん、やっぱりそのほうがいいかしら···。あまり返事に期待はできないんだけど」
口の端に付いたケチャップを紙布巾で拭いながら、なまえは顔に苦悩の色を覗かせた。
「そういえば、夏の頃か、不死川を山で見かけたことがあったんだが、アレは何をしていたのだろうな。鍛練という雰囲気ではなかったようだが」
「あ、もしかしてかぶとむし」
「カブト?」
内心で、しまった、と慌てた。だが他言無用と念を押されているわけでもないし、ここまできて誤魔化すのもおかしな話なので、なまえは実弥の育てているカブトムシの話を杏寿郎に切り出した。
「なるほど! 道理で今思い出してみても頻りに上の方を気にかけていた印象がある! 不死川はあの日、カブトムシを採取、もしくは山へ放っていたと」
杏寿郎は実弥の趣味に大袈裟に驚くこともなく、ただ素直に納得していた。
ならば、と、杏寿郎は続ける。
「虫籠はどうだろうか!」
「虫籠?」
「うむ、俺も千寿郎への祝いにやったことがある。あれは良いぞ。竹細工の工芸品なのだが見た目も繊細で美しい。良い職人を知っている。興味があれば紹介しよう」
虫籠と聞き、実弥の家にあったものを思い出してみた。
確か、玄関先で見たものは鈍色の鉄格子のようなものだった。
「竹細工の虫籠か···。素敵ね。私も一度見てみたいわ」
「少々値が張るが構わないか」
「今年はちょっと奮発しようかなって思っていたから」
「では地図を書いてやろう。ここからでも然程不自由のない場所にあるから立ち寄ってみてくれ」
懐から紙と木筆を取り出すと、杏寿郎はさらさらと地図を描きはじめた。
「本来なら道案内までしてやりたいところだが、なにぶんそこまでの時間はなくてな、すまない」
「ううん、助かるわ。任務のほうはどう?」
「これといった問題はない。明日は朝からお館様の指示で少々遠出しなくてはならないが」
「なにかあったの?」
「ああ。とある列車に乗り込む予定だ。そこでは短期間のうちに四十人以上が行方不明になっているらしい。数名の剣士を送り込んだが皆消息を断っている」
「そうなの···。心配ね···。十二鬼月の仕業かしら」
「おそらくな。だがそうであれば斬首するのみ! 罪無き人の命を奪うことなどこの嚇き炎刀が許さない!」
ぽう、と、杏寿郎の目玉に炎が宿る。
杏寿郎は、昔から正義感溢れる子供だった。
弱い者いじめを見つければ相手が誰であろうと飛んで行って庇ったし、困っているひとを見かければ必ず優しく手を差し伸べた。
一本筋の通った強い意志は、病気で亡くなった杏寿郎の母、"瑠火"の教えによるものである。
『弱きものを助けることは強く生まれたものの責務です』
幼い頃、杏寿郎と共に聞いたこの言葉を、なまえも心に留めている。
瑠火もなまえの母同様身体が弱く、煉獄家を訪うと大抵病床に伏してした。
表情の起伏が少々乏しく、当時なまえは体調が優れないためだとばかり思っていたが、杏寿郎の話によればそれが瑠火の通常であるらしかった。しかし、挨拶をすると決まってほんのり微笑んでくれる瑠火のことが、なまえは大好きだった。
槇寿郎が剣士を辞めても、杏寿郎は母の教えを胸に鬼殺隊に入ることを諦めなかった。父から受けたこれまでの学びを反復し、炎の呼吸の指南書を読み日々鍛練に励んだ。
己を信じ、努力を惜しまず、心にある炎を絶やすことなく燃やし続けた。
そして柱にまで上りつめた杏寿郎は、今こうして鬼殺隊を支えている。
「本当ね。この辺りならなんとか今日中に行けそうだわ」
地図を受け取りお礼を言う。
食後、先に運ばれてきたのは杏寿郎の頼んだいももちで、一口頬張った杏寿郎の口から「わっしょい!!」が飛び出した。
「ほら! 杏寿郎ってばやっぱり」
「な、なんと、よもやよもやだ」
「ふふふ」
なまえはフルーツポンチを注文した。
テーブルに届いたフルーツポンチは崩すのが惜しいほど美しく、赤や緑、黄色や橙の果物に半透明の寒天が混ざり合うそれは、西洋の宝石のように思えた。
今度、蜜璃ちゃんを誘って来てみよう。
そう思いながら、なまえは硝子製のデザートカップに銀のスプーンを差し込んだ。