愛の謂れ
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めそめそと、蜜璃はすすり泣いていた。
まさおの悲劇のその後のこと、なまえと蜜璃は各々隊服に着替え直し、まさおは返された試作品(ただしなまえと蜜璃が着たものは破り捨てられた)を背負ってとぼとぼと帰路に就いた。魂が抜けたような双眸をしていた。
「···悪ィと思ってっから、泣くな甘露寺」
「だって、だって、扉が」
「蜜璃ちゃん······本当にごめんね」
「なまえちゃんが謝ることないよ! せっかく、せっかく、二人で楽しくお茶してたのに、もう、台無しだわ!」
テーブルの上に突っ伏して、蜜璃がわあんと涙を流す。
「知り合いに腕のいい大工の棟梁がいるからよォ、元の通り直せねェか頼んでやっから」
「···本当?」
「あぁ。だからもうめそめそすんじゃあねぇよ」
「でも、せっかくのパンケーキが冷めちゃった」
「蜜璃ちゃん、このパンケーキ冷めてもとっても美味しいわ。ね? ほら実弥も」
「いいや俺は」
いらねぇ、と口にしかけたところでなまえのじとりとした視線を察した。
『これ以上蜜璃ちゃんを悲しませないで』という無言の圧力。さすがの実弥も今回ばかりは大いに後ろめたいものがあるので、『食やァいいんだろォ』と目配せしなまえの皿から頂戴したパンケーキをひとかけら口に放った。
──甘い。
なまえのパンケーキには蜂蜜がたっぷりと染み込んでおり、旨いと言えば旨いのだが、これは少々甘味がキツイと実弥は思う。
やはり、おはぎに勝るものなし。あんこの程よい甘さが自分には丁度良い。
「······旨いと思うぜェ」
「ほんとおぉ、よかったあ!」
今泣いた
甘露寺が呑気な奴で助かったぜェ···と、実弥は心中でほっと胸を撫で下ろした。
「泣いたらお腹が減っちゃった」
涙を拭い、パンケーキを三枚一気に手前の皿へ移した蜜璃は喜色満面。ど、れ、に、し、よ、う、か、な。で選んだいちごジャムの瓶を開け、果肉のたっぶり入った真っ赤なそれをパンケーキに盛り付けた。
普段は緑茶か抹茶しか口にしない実弥。せっかくなので出された紅茶を一口啜る。
砂糖もなにも加えずに飲んだ紅茶は渋みが強く濃かったが、意外にもイケんじゃねぇか。そう思った。
「不死川さんて、いつからなまえちゃんのことが好きなの?」
「ゴ、ブッ···っ!」
蜜璃の不意討ちかつド直球な質問に、実弥はなんとも王道な反応を披露した。
西洋のカップの縁は実弥の愛用している湯飲みのもよりも遥かに薄い。使い慣れないカップはどこか収まりが悪く、実弥の所作をやや鈍らせたせいもある。
「熱っ、ちィなァ!」と、顔面から紅茶をかぶった実弥はカップに向かって癇癪を起こした。前髪からしたる琥珀色の水滴が、痛々しい胸もとの傷を濡らしてゆく。
「やだ不死川さん、これ使って···!」
蜜璃が慌ててよこした白く厚みのある布巾を受け取る。
「···なんのことだよ」
「もう、知らんぷりしなくてもいいのよ。私、以前も見たんですから! 不死川さんが何でもない女の子と一緒に食事したりするわけないがないもの」
「···なまえは俺の師範の娘だ」
「それはなまえちゃんから聞いたわ。でも、それだけじゃない"愛"を不死川さんから感じるのよ! キャッ、なんだかドキドキしちゃう!」
蜜璃は高ぶりを抑えられないといった様子で、甲高い声を発した。
首を折り、実弥ははあ···とため息を吐く。自由気儘に先走る蜜璃を前に、もう四の五のこじつけることが面倒になっていた。
蜜璃の言う"愛"とはどういったものなのか。
一口に愛と言っても、捉え方や思い描く形は一様ではない。
実弥にとっての愛は、やはり母を思い起こさせた。
母親が我が子を想う慈愛には底知れぬものがある。少なくとも実弥の母は己を顧みないひとだった。そんな母を手助けしてやりたいと幼心にも思ったし、弟や妹たちが辛く悲しい思いをしないよう、出来ることなら何でもしよう。そう心に決めていた。
愛は、通わせることができればなお良い。
千々に砕けていてもいいのだ。同じ形でなくてもいいのだ。互いを想い尊ぶことで、時に心を吹き抜ける風は暖かく柔らかなものになる。
自分は、なまえに全うなそれを与えることができているのか。到底思えるはずもない。
時に、嫉妬で怒りに沈む。
時に、無理強いしてでも支配したくなる。
時に、なまえを想い己を慰めることも、ある。
そのたびに、まったく世話の焼けることだと自身にくたびれてしまうのだった。
「髪、どうしたの?」
問われたところで理由など口にできるはずもない。
ぶっきらぼうに「···どうもしねェよォ」と答えると、実弥は丸い漆器に盛られた厚焼き煎餅へと指を伸ばした。
甘いものを食べていたらしょっぱいものが食べたくなったわと言う蜜璃が先ほど持ってきたばかりのものだ。
煎餅とくれば緑茶が欲しいところではある。まあそう長居するつもりもないので贅沢は言わない。
蜜璃の屋敷に来てからというもの、実弥はどうにも居心地が悪かった。おそらく見慣れない西洋家具がそこかしこにあるからだ。
この脚の長いテーブルと椅子もやけに気分が落ち着かない。早く自分の屋敷に戻って畳の上で抹茶を飲みてぇなぁと思う。
なまえはこの屋敷の仕様にすっかり興味津々で、あの照明はどこで買ったのだのベッドの寝心地はどうなのかだの、外国式のものに心奪われているようだった。女は変わり身が早いのである。
実弥といえば、"流行"という軟派なものを毛嫌いする生粋の頑固者。他人の趣味にとやかく口を挟むつもりもないが、急速に様変わりしていく街並みの西洋かぶれには近頃少々うんざりしていた。
「あのね、今、不死川さんと恋のお話をしていたの」
「実弥が恋······!?」
「甘露寺が好き勝手にぺらぺら駄弁ってただけだろうがァ」
「なあになあに、蜜璃ちゃん、もしかして好きな殿方がいるの?」
「キャッ、聞いてくれるなまえちゃん」
「俺は帰るぜェ。桜餅も渡せたしなァ」
「待って、不死川さんにも聞いてほしいの!」
「あァ? どのみちくだらねェ話だろうがァ。聞いてられっかよォ。てめぇら二人で好きにしたらいいじゃねぇか」
「く、くだらない···!?」
「──実弥」
残り一口の紅茶を飲み干し立ち上がった実弥の羽織を、なまえがくい、と引っ張った。
蜜璃ちゃんは実弥にも聞いてほしいと言ってるの。迷惑をかけたのだから、ここはせめて真摯に耳を傾けるのが礼儀でしょう?
眼差しがそう言っている。
ググ、と顔をひきつらせ、胸の内で舌打ちを一発鳴らすと、どすん。実弥は仕方なしに慣れない椅子へと腰を戻した。
厚焼き煎餅を噛み砕く実弥の傍ら、女二人は恋の談義に盛り上がる。
「それでね、伊黒さんがこの靴下をくれたの」
「素敵ね~! 蜜璃ちゃんの髪の色に合わせてくれたのかしら」
「そうかなそうかな、そう思う!?」
可愛いなあ。
幸せそうな蜜璃の笑顔を見ていると、なまえまで目尻がとろけてしまいそうになる。
蜜璃の意中の相手とは、伊黒小芭内のことだった。
蛇柱の【伊黒小芭内】
左右で別々の色をした珍しい双眸が特徴的で、肩に乗せた鏑丸という名の白蛇と常に行動を共にしている。
口もとを包帯で隠したどこか影のある彼も、鬼殺隊の柱の一人だ。
なまえと小芭内は面識はなく、ただし一風変わった様相をしていると噂されることからその存在自体は知っていた。
小芭内だけではない。
一般隊士が柱と対面できる機会はあまり無く、水柱の【冨岡義勇】や音柱の【宇髄天元】など、なまえは彼等と接触したことこそなかったが、少々変わり者ばかりだと話題に上る柱は何かと逸話を残していることが多く、一般隊士時代からその名を轟かせている人物ばかりだった。
蜜璃と小芭内は時折食事に出かけたり文通をする仲で、小芭内からの贈り物の靴下は、丈短なキュロットスカートを恥じらう蜜璃を気遣ったものである。
蜜璃は、小芭内への感情が恋い慕うものであるかはまだ断言できないという。
それでも、近頃の楽しみは? と問われれば、小芭内との食事や散歩に出かける時間が真っ先に思い浮かぶのだと。
小芭内の素敵なところ。
言われて嬉しかった言葉。
出かけた場所。
鏑丸の可愛いところ。
そして、小芭内は自分をどう思っているのだろうか。青色吐息。
そんな乙女な話に花を咲かせ時は過ぎ、実弥はいつしか隣で小さないびきをかいていた。
「蜜璃ちゃん。今日はご馳走さまでした。次は美味しいジャムの作り方を教えてね」
「もちろんよ! なんだか途中バタバタしちゃったけど、すごく楽しかったわ! また絶対にお茶しましょうね」
なまえと蜜璃は両手を固く繋ぎ合わせて約束をした。
目覚めたばかりの実弥は寝惚け眼で別の方角を見ている。
「不死川さんも今日は桜餅をありがとう。扉の約束も楽しみにしてますから」
フン、と小さく鼻を鳴らし、実弥は「あァ」とだけ返事した。直後、「そうだ不死川さん!」
何かを思い出したように、蜜璃が実弥を呼び止める。
「最近、悲鳴嶼さんに継子ができたって聞いたんだけど、その子、不死川さんの弟さんなんですってね」
──弟?
にこにこしながら声を弾ませる蜜璃の傍ら、なまえの脳内を『弟』の一言が埋め尽くしていった。
瞬間、実弥の
「あれ? まだ継子じゃなくて弟子だったかな。ん? けど、弟子ってことは継子ってことだよね?」
ね、なまえちゃん。そう蜜璃に話を振られても、なまえは言葉を返せなかった。
実弥の弟が、岩柱の【悲鳴嶼行冥】に弟子入り。そんな話は寝耳に水だ。それどころか、鬼殺隊に実弥の弟がいたことすらなまえは知らない。
家族は皆、亡くなったはず···。
ううん、でもよく思い出してみて。本当に、そうだったのか。
「······俺に、弟なんてもんはいねェ」
あの日の記憶を手繰り寄せている最中、不意に実弥から抑揚のない声が届いた。
「え···でも、悲鳴嶼さんがそう言ったのよ!」
腑に落ちない様子で今一度そう主張する蜜璃を無視し、実弥は背を向けて歩き始める。
「···どうしちゃったのかしら、不死川さん」
「蜜璃ちゃん······今の話、本当?」
「え···? うん。私は弟さんを見たわけじゃないからわからないけど、悲鳴嶼さんは確かに"不死川の弟"だって言ってたのよ。不死川なんてそうよくある名前じゃないし、てっきり不死川さんの弟さんかと思ったんだけど、違ったのかしら···?」
実弥は、家族は亡くしたが天涯孤独になったとは言っていない。
「···蜜璃ちゃんありがとう。また絶対にお茶しましょうね」
「あ、なまえちゃ」
蜜璃に微笑みを向けたあと、なまえは実弥と同じ方向へ駆け出した。
「こちらこそありがとう~! また今度を楽しみにしてるね~!」
両腕を大きく振る蜜璃に手を振り返し、視界から消えてしまった実弥の姿を追いかける。幸い、しばらくは一本道。しかもこの方角は実弥の帰り道じゃない。なまえの家までの道のりだ。
「実弥、待って」
追いつくと、肩で息を整えながらなまえは実弥の隣に並んだ。
沈黙が漂う。
石垣の連なる土壌の道。地面を踏む小石混じりの足音だけが、淡々と響く。
「···助かった弟さんが、いたのね」
まぶたを伏せて、口にした。
人気のない山合いの道は静かで、周囲を囲む葉の擦れる音がするだけ。声を落としても十分に会話が響いてしまう。
なんとなく、実弥の顔を見ることに躊躇いを覚える。
「弟じゃねぇつってんだろうが」
「でも、悲鳴嶼さんが」
「人違いだ」
冷えた空気が、さらりとなまえの髪を靡かせた。
刻一刻と夕陽が沈む。
層雲の向こう側に霞む橙。まるで、胸の内を悟られまいとしているような。
日中はまだ陽射しの麗らかなことも多い季節とはいえ、この辺りは日没にかけ急激に気温が低下する。
随所から届く葉の音も、どこか寂しげに乾いている。
「···そっか···。実弥がそう言うのなら、人違い、ね。きっと」
「······」
「あ、もうここで大丈夫よ。そろそろ日も暮れるし任務に向かわなきゃ。送ってくれてありがとう」
坂道に差し掛かる二手に分かれた道の手前で立ち止まる。なまえの家まではもうしばらく距離があるものの、お互い任務へ向かわなければならない時刻が迫ってきていた。
家に戻ってものんびり過ごす暇はない。このまま指定地区へと飛んでしまったほうが実弥の手間も省けるだろう。
実弥は、毎々それらしいことは口にせずともこうして必ずなまえを住まいまで送り届けてくれていた。
時に実弥の屋敷とは真逆の場所だからと遠慮をしても、実弥は首を縦に振らない。
なまえは以前、任務中に突然卑猥な誘いを持ちかけられた男に怪我を負わされたことがあった。
応じなかったことに腹を立てた酔っ払いが、なまえを突飛ばした挙げ句に殴る蹴るの暴行を働いたのだ。
幸い大事には至らなかったものの、事情を知った実弥は「どこの野郎だブチ殺す」とものすごい剣幕で蝶屋敷を飛び出して行こうとし、(相手の素性も知らず一体どこへ向かおうとしたのかは謎) しのぶをはじめとする屋敷の皆と、たまたまそこに居合わせた行冥が実弥を一所懸命に抑え込み事は混乱を収めたのだった。
四六時中傍にいてやることはできないが、せめて行動を共にしている時くらいは······。
その日を境に、実弥は今でもそう心に決めている。