甘い蜜にはご注意あれ
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『なまえは身のこなしが雅やかよねえ』
『え? 急になあに』
『まるで琉金が水中を滑らかに泳いでいるみたいだわ』
『リュウキン···?』
『尾びれの長いのが特徴の金魚なの。とっても綺麗よ』
『ふふ。そんなこと初めて言われたわ。カナエってば、相変わらず言うことが変わってる』
『あの悠然と泳ぐ姿を見ているとなんだか気持ちが落ち着いて、悲しみが和らぐの。こうやってなまえと過ごす時間だってそうよ。辛いことがあってもまた心を取り戻せる。だから、なまえにはいつも感謝しているの』
『···そんな···カナエに支えられているのはいつだって私のほうなのに···。カナエがいてくれることがどんなに心強いかしれないわ。柱として隊を支えるカナエを尊敬しているし、カナエの笑顔を見るとほっとする。だから時間ができるとこうしてカナエに会いにきてしまうのね』
『ふふ、私もおんなじ。やっぱり気が合うわね私たち』
『でもどうしたの? 突然改まって』
『そうだわ、今日はね、なまえに受け取ってもらいたい物があって』
『え、これ···って』
『帯と帯留めよ。帯の色は、濃紅葉っていうんですって。きっとなまえに似合うわ』
『っ、まって、こんな立派なもの貰えない。だってこれ、お母様の形見なんじゃ』
『だからこそ貰ってほしいのよ。私の、大切なお友達に』
『···カナエ』
『ねえ、今度、浴衣を着てみんなで縁日にでも行きましょうよ。しのぶやカナヲ、粂野くんや不死川くんも誘って』
『実弥は来るかしら···?』
『あらあ、なまえが誘えばきっと来るわよう』
『そんなこともないのよ。去年だって匡近と何度もしつこく誘ってようやく連れ出せたんだから』
『あ、そうだわ。柱のみんなも誘っちゃえばいいんじゃなあい?』
『柱の···!? そ、そんなのだめよ、緊張しちゃう』
『なにを緊張することがあるの。柱だって、みぃんな普通の人たちに変わりないんだから』
『それ、カナエが言ってもあまり説得力がないような』
『うふふ、わくわくするわねえ。きっと楽しいわ。約束よ、なまえ。絶対』
『そうね。行けたらいいわね』
『はい、指切りげんまん』
『もう、カナエってば』
───はい、約束ね。
ゆびきりげーんまーん───···
「カナエ、」
見慣れた格天井がぼんやりと映し出されて、なまえは夢を見ていたのだと気づく。
あまりにも鮮明な夢だった。あんな風にカナエが夢に出てきたのは久しい。
明け方、床に着く間際まで衣替えをしていたせいかもしれない。
縁日で袖を通した浴衣をもう一度綺麗に畳み直し、
あの帯と帯留めがカナエからの贈り物であることに、しのぶは気づいていたのだろうか。
直接的な物言いはなかったが、ひょっとすれば、しのぶは悟ったうえでなまえの浴衣を煽ててくれたのかもしれない。そう思うと胸を詰まらせずにはいられなかった。
一緒に縁日へ行く約束は果たされぬまま、その年の冬、逝ってしまったカナエ。匡近が亡くなって、そう月日も流れていない頃のことだ。
鈍い動作で寝床から上半身のみを起こすと、ようやく意識がはっきりとした。障子から射し込む陽光の具合からして、午の刻(午後一時)くらいであると予想される。
任務から戻り、衣類を片しているうちに眠気に襲われ床に着いたから、おそらくは。
いつもより少し寝過ぎてしまった感じがする。
目尻に残る涙を拭い、なまえはぱしりと掌で頬を叩いた。
「さ、起きなくちゃ。今日は任務の前に蜜璃ちゃんのお家に行く約束があるんだから」
数日前、診察で蝶屋敷を訪ねると、なまえはそこで【甘露寺蜜璃】に出くわした。
甘露寺蜜璃も柱の一人である。
鮮やかな桃色と、毛先に若草色が帯びた長い髪。隊服は女性隊員が最初に必ず縫製係から手渡される肌の露出が多いものを着用している。
大抵の女性隊員は基準に基づいた隊服の作り直しを要求するが、(しのぶは裁縫係の目の前で露出の高い隊服を燃やした)蜜璃は少しぼんやりしている心優しい性格のため、女性隊員の隊服は皆これだと丸め込まれて今に至る。
とはいえ容姿の抜群に整った蜜璃にはその隊服がとてもよく似合っていた。
愛らしく人懐こい性格の蜜璃。初対面のなまえとも美味しい茶店や甘味処の話をしているうちにその場ですぐに打ち解けた。
ぜひお茶にいらしてとの誘いを受け、本日は甘露寺邸にお邪魔することになっている。
鎹鴉に案内され辿り着いた甘露寺邸は、踏み入った瞬間から甘い香りが漂っていた。
「なまえちゃん! ようこそおいでませ我が家へ!」
「蜜璃ちゃん。今日はお招き本当にありがとう。これ、ささやかなものですがよかったら」
「わあ、もしかしてタルト!? ありがとう嬉しいわ! これずっと食べてみたかったの!」
「蜜璃ちゃんのおうち、すごく美味しそうな匂いがするのね」
「あ、わかっちゃう? あのね、蜂蜜やジャムを作っているのよ」
「蜂蜜まで?」
「養蜂してるの。パンケーキにたっぷりかけるととっても美味しいのよ。今日はたくさん焼くからいっぱい食べてね。そうだ、飲み物は紅茶でいいかな?」
「ええありがとう。すごく楽しみ」
「林檎のジャムもおすすめなの」とルンルンタッタ。蜜璃は跳躍しながらなまえを客間まで案内した。
甘露寺邸はところどころに西洋の家具が配置されている和洋折衷の様式で、それはもう、目を見張るほどに可愛いものばかりが揃っている。
客間の中央に構える角丸四角形の脚の細長いテーブルは、モダンな品格を漂わせていた。
テーブルの周りを囲んで配置された四つの椅子も、英国のお姫様が座るようなふかふかの赤い座面が目を引く。
意匠を凝らした透かし彫りの背凭れ。曲線の猫脚。そのどれもが細部まで美しい。
「さあなまえちゃん、遠慮なく召し上がってね」
「わあ、いい香り···! いただきます」
カップソーサーに添えられたふたつの角砂糖のうちひとつを手に取り、なまえはそれを紅茶の中へそっと落とした。
飴色へ溶けてゆく砂糖をスプーンで優しくかき混ぜながら、パンケーキに染み込むバターと蜂蜜の香りを大きく吸い込む。
この甘い香りをいつまでも楽しみたいような、けれども早く口へ含ませ味わいたいような、しばし幸せな板挟みを堪能していると、蜜璃が再びパンケーキを山盛りに乗せたお皿を運んできた。
「!? み、蜜璃ちゃん? あの、パンケーキはとっても美味しそうなんだけど、でも、私たち二人でこんなにたくさん食べきれるかしら······」
「あ、やだっ、びっくりさせちゃってごめんなさいっ。でも大丈夫よなまえちゃん。私ね、すごくたくさん食べるの。なまえちゃんはなまえちゃんが食べられる分だけ遠慮せずに食べてね」
お皿に積み上げられたパンケーキはなまえの目線よりも上の高さまで盛られ、一枚一枚も分厚い。
一皿目が運ばれてきたときも内心びっくりしたのだが、さらにもう一皿山盛りのパンケーキが追加されたのでなまえはたまげた。
蜜璃は華奢な見た目に反して、実はものすごい筋肉量の持ち主なのである。
筋肉の密度は常人の八倍。一歳二ヶ月の頃すでに四貫(現在の15キロ)もの漬物石を持ち上げたという逸話を残す。
そんな特殊な肉体同様、食べる量もすごかった。相撲取り三人分をも越える量をぺろりと平らげる蜜璃に、なまえの心配は皆無なのだ。
「なまえちゃんのお父様って、元風柱なの!?」
お代わりの紅茶を注いでいると、パンケーキを口もとに翳した蜜璃が双眸を見開いた。
そうなの。とうなずき、二杯目の紅茶に砂糖は加えず、熱々の湯気の香りを鼻先で堪能してみる。
それで不死川さんと仲がいいのねと、蜜璃は興奮した様子で頬を上気させた。
「一応姉弟子にあたるからなにかと実弥が気になって······どうかしら、柱の皆様とはうまくやれてる?」
「え? ええっと、うん、大丈夫よ! 私は不死川さん素敵だと思うわ!」
慌てた様子で大袈裟にうなずく蜜璃を見て、なまえはくすりと微笑んだ。
「ふふ、気を使わないで蜜璃ちゃん。合わない柱のかたがいるっていうのは実弥から少しだけ聞いているの」
「あ、冨岡さんのことかな」
「水柱様ね。私、お会いしたことはなくて」
「冨岡さんは物静かなかただから、言葉足らずなこともあると思うの」
冨岡さん、私は可愛いと思うのよ?
蜜璃の頬が再びぽっと赤くなる。
「でも不死川さんのことなら心配しないで! 他の柱との関係は比較的良好だし」
「ありがとう。柱に蜜璃ちゃんみたいな子がいてくれてほっとしちゃった。それに、今日はこうしてお茶に誘ってもらえて本当に嬉しかったわ」
「本当? 実は私ね、なまえちゃんにずっと会いたいと思っていたのよ」
「え?」
それは思いがけない告白だった。
「蜜璃ちゃん、私のこと知ってたの?」
「うん。まだ柱になる前のことなんだけど、私、町でなまえちゃんを見かけたことがあるの。なんて綺麗な子なのかしら!って思ってね、そのとき一緒にいた煉獄さんになまえちゃんのことを聞いたのよ」
「──杏寿郎に?」
「私、いっとき煉獄さんの継子だったのね。結局炎の呼吸ではなく恋の呼吸を自分で編み出したから途中で継子は降りてしまったんだけど···。なまえちゃん、煉獄さんとは幼馴染みなんですってね」
「あ···そういえば以前、杏寿郎の継子の噂は耳にしたことがあったわ。蜜璃ちゃんのことだったのね。じゃあ、杏寿郎のお父様が元炎柱だったお話は聞いてる?」
「あ、うん。煉獄さんから少しだけ」
「杏寿郎のお父様と私の父は同じ時期に柱をしていたことがあって、仲も良かったの。もう長いこと会えていないけれど、小さな頃はお互いの家で遊んだり、時折一緒に稽古もしてたのよ」
でも、まさか町で見られていたことがあったなんて。
照れくさそうに眉尻を下げ、なまえは控えめに頬を緩めた。
「ちょっと恥ずかしいけれど、蜜璃ちゃんにそう言ってもらえるのはとっても光栄だわ」
恥じらう笑顔の周りにひらり。薄黄の花弁が舞った気がして蜜璃はきゅん! と胸の奥をときめかせた。
殿方だろうがレディだろうが、心惹かれるものには素直にときめく十九歳。
一般の良家に生まれ育ち、もとは鬼に私的な遺恨もなかったという彼女の夢は、自分よりも力の強い理想の殿方と添い遂げること。
「それにね、隠にもなまえちゃんの"フアン"が多いって聞くわ」
「ふぁ、ふぁん? まさかそんな、」
「すみませんごめんください」
蜜璃がお皿に林檎ジャムを追加していると、客人の声がした。
「あれ、誰だろう。今日はなまえちゃんしか招いていないはずだけど」
「ごめんください。恋柱様はいらっしゃいますか」
「はいはーい、今行きまーす」
男性の声だった。
"恋柱様"ということは、鬼殺隊内部の人間だろう。
蜜璃の手が、満足するまでかけられなかった林檎ジャムの瓶を名残惜しそうにテーブルへ置く。
ちょっとごめんね。そう言って、蜜璃は急ぎ足で客間から出ていった。