出藍の誉れ
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「実弥、実弥っ、実弥ー!」
「父様ったら、そんなに慌てなくても実弥は逃げないわよ」
屋敷の玄関口を跨いだ直後、とある人物が騒々しい足音を響かせ奥の間から大股で駆けてきた。
興奮した面持ちで頬を上気させるこの男こそ、なまえの父、【みょうじ林道】である。
「実弥ぃ、待ってたぞぉ。なんだお前すっかり立派になりやがってこのやろう」
「久方ぶりにございます師範。殊のほか
「どうした実弥ぃ! そんなかしこまったこと言うんじゃねえ、俺は照れるぞ!」
「痛ってェ···っ」
一礼する実弥の背中をバシバシ叩き、林道はおいおいと溢れんばかりの涙をこぼした。
着ている
「年々涙脆くなってるのよ、父様」
なまえが実弥にこっそりと耳打ちをする。
林道は一見すると物静かで近寄りがたい雰囲気を持つ男だが、実際の性分は感情豊かで
年を追うごとに涙腺ばかりが緩くなるのだと、なまえは感涙にむせぶ林道を見つめながら困ったように微笑んだ。
実弥は泣き伏す林道の下がった肩に目を留めた。よく見ると、身体の線がやや細くなったような気がする。
剣技の腕が今もなお健在であることは、立ち居振舞い、全身の筋肉を見れば一目瞭然。叩かれた背には疼くような痛みが残り、相変わらずの師の馬鹿力には図らずも懐旧の情が湧く。
一方で、呼吸を会得する修行に励んでいた頃の実弥には、今よりもずっと林道が大きく見えていた。
あれから、どれだけの月日が流れただろうか。
鬼狩りに命をかけ生死と隣り合わせの場にいると、ふと季節の流れに無頓着になっていることに気がつく。
いつの間にか自分は、ずいぶんとがむしゃらにここまで来ていた。
林道を前にして、そんな、どこか涙雨に打たれたようなうら寂しさが実弥の心を吹き抜けた。
この家は匡近との思い出が詰まっている場所だからというのもあるのかもしれない。
「実弥ちゃんかい? よういらしたねえ。まあまあ、随分と生い育って」
鼻をかむ林道の背後から、なまえの祖母がのんびりと顔を覗かせた。
祖母の名前は『みょうじキヨ乃』。林道の半分ほどしかない小柄な背丈ではあるものの、足腰は丈夫でちゃんとしている。
"実弥ちゃん"と呼べるのはキヨ乃くらいではなかろうか。
「おー、婆さんも変わらず達者じゃねぇか」
「ええそうねえ、おかげさまで」
「なまえから婆さんのおはぎよく頂くぜェ。いつもすまねぇなァ」
「いいんですよ。今もこさえとりますから、たんと召し上がんなさいな」
床に踏み入った感触が、はじめてこの屋敷の門を叩いた日のことを実弥に色濃く思い出させた。
『刀一本で鬼を殺すことができるっつぅなら今すぐ俺をその鬼殺隊とやらに入れろ』
匡近にそう凄み、勢いのままみょうじの門を叩いてはみたものの、林道は思っていたよりも遥かに強い圧を放って実弥の眼前に現れた。瞬時にこの男は普通の人間とは違うと悟った。
鋭い視線に圧倒される実弥の心を慰撫するように、一緒になって頭を下げてくれたのは匡近だ。純真な笑顔を見せる、優しい男だった。
匡近の死を悔やまない日は今もない。
次第に冷たくなっていく身体を支えてやることしかできなかったあの日を。
善良な人間の命が次々と儚く散ってゆく。そのたびに、もどかしさを通り越し言いようのない怒りに震える。
匡近がなにをした。弟たちがなにをした。生きることに懸命で、寝る間も惜しみ働いてくれていた母が、なにをしたというのだ。
生きていてくれればそれでいい。
貧しく慎ましい暮らしでも、家族で笑い合えればそれ以上はなにも望まない。
そんな希望さえ一瞬で散り去ったあの日の夜明けは、まるで色のない世界のはじまりだった。
「······なまえ?」
応接間に差しかかったとき、なまえは実弥を部屋に通して一人どこかへ向かおうとしていた。
「お線香あげてくる。実弥はここでゆっくりしていて」
「あぁ···なら、俺も行かせてもらう」
「そう?」
なまえには、こうして憂いだ笑顔を浮かべてみせる瞬間がある。
なまえの母親と妹は同じ病で亡くなっている。
妹を産んですぐに他界したという母親を、実弥は遺影でしか見たことがない。
文乃に関しては修行時に何度かその姿を見かけていたこともあり、急逝の報せを受けた当時はまだ修行中の身だったが、葬儀にも参列した。
病弱で一日のほとんどを病床で過ごしていたという文乃。言葉を交わしたことはなく、しかし体調の良い日は内縁から窓越しに庭で稽古をしている実弥の姿を微笑ましそうに眺めていたのだった。
なまえとひとつしか違わぬ年齢であったせいか、だいぶん痩せてはいたものの、その容貌は姉のなまえによく似ていた。
ほどよく乾いた風が仏間に回り、ろうそくの炎が微かに揺れる。
厳かな静けさに心を委ね、なまえと実弥はしばらく無言で両手を合わせた。
なまえの開いた双眸に、母と妹の遺影が映る。
文乃は、病を抱えてはいたものの、用心さえ怠らなければ長く生きられることも十分に可能だと云われていた。
母が父のもとへ嫁ぎ、なまえと文乃を身籠ったように、文乃にもそれができるとなまえは信じて疑わず、医者になるという夢も文乃ならば必ず叶えられると後押していた。
文乃が亡くなり五年の月日が流れようとしている。しかし、なまえから"あの後悔"が浄化されることはない。
「実弥、疲れているのにありがとう。今夜はここから任務へ出向いてまた帰ってくる予定でしょう? 少し腹ごしらえしたら、日が落ちるまで客間で休んだほうがいいわ」
「ああ、そうさせてもらう。師範とゆっくり話したいこともあったんだが」
「父様も理解しているから安心して。何度も言うけど、実弥の元気な顔が見られれば十分満足なのよ、父様も、婆様も」
正座から立ち上がり、仏壇の隣に置かれた小柄な収納木箱から仏扇を取り出すと、なまえはろうそくに向かって穏やかな風を送った。
ふっと炎が消え果てて、漂う線香の白煙が肥大して渦巻く。
なまえの家族は、変わらずにあたたかい。
やはり足を運んで良かった。
実弥の心がひとときほっと凪いでゆく。
なまえたちとの出逢いがなければ、実弥の世界はずっと色褪せたままでいただろう。
庭のいろはもみじが変色を見せはじめ、緑色に赤を帯びたものが幾つか小刻みに揺れている。
秋の深まる気配が、すぐ傍までやってきていた。
*
「そうか···那田蜘蛛山では、多くの隊士が死んだか」
口に付けた湯飲みを離し、切れ長の目を伏せた林道は声を落とした。
「十二鬼月がいたのか」
「はい。しかし十二鬼月といっても下弦の伍。他数体の鬼もいたようですが、どの鬼もさして手こずるほどのものではなかったと把握しています。更には、上の指示に従えぬ者も多かった」
「···ふむ」
「急遽柱二人が駆けつけようやく落着したとのことですが、このままでは隊士の質が落ちる一方であるとの懸念が否めません」
「まあ、そこは致し方ない部分もあるのだろうがなあ···」
「まず、育手の目が節穴ではないのかと。使えそうな奴かそうでないかくらいわかりそうなもんでしょう」
「ははは、実弥は厳しいな」
林道の手が、将棋板の実弥の自陣に飛車の駒をピシャリと打った。
む、と実弥の眉間に皺が寄る。
「···師範はもう、希望は募らないのですか」
考えて、実弥も飛車の駒を手に取る。
「そういうわけじゃあねえさ。覚悟を決めてきたやつの面倒はまだまだ見るつもりでいるが、やはり」
そうだなあ。とあぐらを組んだ姿勢で将棋板を見ながら林道は指先で顎をさすった。
秋晴れの正午前。
庭一面を見渡せるこの縁側は、昔から林道が将棋を指すのに腰を落ち着ける定番の場所である。
「実弥の言うことも、一理あるな」
「しばらく育てている様子はないと」
「なまえから聞いたのか」
ぱちん。ぱちん。林道が押し、実弥が逃げる。
そんな展開がしばらく繰り広げられると、茶の間のほうから二人を呼ぶなまえの声がした。
これはもう、逆転は厳しいだろうな。
背中を丸めようとした実弥に対し、まるで降参を遮るように首を降った林道は、実弥の肩にぽんと手を乗せ淋しそうに微笑んだ。
もう少しここにいてくれ。
そう乞うように。
「父様、実弥? 朝ごはんの準備ができたわよ」
開いたふすまの向こう側からなまえが顔を覗かせる。
「ああ」
「今行く」
冷めないうちにね。と言い残し去っていくなまえの背中を、二人は見えなくなるまで追いかけた。
「匡近を亡くしてからというもの、ひどく落ち込んでいた俺を、お館様がずっと気にかけてくださってなあ······今でも時折、手紙をいただくんだ」
腰を上げ、庭の上空を飛び回る鎹鴉に双眸を向けながら、林道はぽつぽつと言葉を紡いだ。
「今の柱たちの実力は、相当なものだと聞いている。そこに期待しているのだと言ったら、お前たちの負担になるばかりだろうが」
「悪しき鬼共は、自分が殲滅する覚悟です」
実弥の声は固い決意に満ちていた。それは、林道と出会った当初からひとつとして変わっていない。
「俺は、これまでも、多くの弟子を亡くしてきた。現役の頃も、目の前で幾人もの仲間が死んだ。それでも、彼等の死が決して無駄になることのないように、育て続けることが自分の責務だと言い聞かせ子供たちを送り出してきた」
鬼がいる限り、剣士を絶やすことだけは、あってはならないんだ。
僅かに語気を強めてはみせたものの、窓の外から射す陽光で照る足もとに視線を落とすと、林道は時の間言い淀んだ。
「···歳のせいでもあるのだろう。少しばかり、臆病になってしまったのかもしれない」
実弥は、林道の言葉に黙って耳を傾けていた。
自分たちは、人間だ。
荒行で鍛え上げた強靭な肉体を纏おうと、血の吹き出た場所が瞬時に再生することはなく、失った手脚は一生涯戻らない。鬼とは違う。
心も同じだ。
優れた身体能力と折れない精神でひたすら戦い続けてきた剣士が、あるときふと中枢を抜かれたように刃を振れなくなることがある。
生と死の極限の狭間で毎夜鬼の頸を狩り、目の前で助けられなかった命の場面に遭遇することも一度や二度ではないなかで、自責の念に駆られるたび失う恐怖にがりがりと蝕まれては、やがて心にぽっかりと穴が開く。
それは誰にでも起こりうることで、いつ、何がその身に降りかかるかは誰にも予想がつかない。
人の血肉を喰らうだけじゃない。
鬼は、そうして遺された者の心までもを喰らっていくのだ──。
『死ぬな』と、林道は実弥を見据え迷いなく放った。
在りし日の、匡近に連れられここへやって来た実弥。
成長した実弥の背後に、今よりもずっと小さな実弥の面影を見ながら、林道は思う。
あの日、一目見た瞬間、こいつには抜きん出た才があると心が踊った。
鍛え上げれば上げるだけの素質が、実弥にはある。将来必ず柱となれる逸材だろうとの直感に心髄が震えた。
見込んだ通り、実弥は与えられる過酷な修行を、これまでのどの弟子よりも速く、高い身体能力で乗り越えてきた。感情的になりやすく好戦的な性分ではあるが、飲み込みが速く頭も良かった。
実弥はとうに、師範である自分を越えた。今実弥と剣技を交えても、おそらくは敵わないだろう。
林道は実弥を誇りに思う。しかし同時に、実弥には一人の男として、この世に生を享けたものとして幸せになってほしい。そんな願いが日に日に大きくなるばかりだった。
皮肉なものだ。
強くなれと叱咤激励し育て上げたのは紛れもなく過去の自分であるというのに、惰弱な心が実弥をこれ以上遠くへ送り出すことに強い葛藤を抱かせる。
もちろんそれは、なまえに対しても同等だった。
強くなるということは、より"死"にも近づくということだ。
強い剣士たちが上弦の鬼にことごとくねじ伏せられる瞬間を目の当たりにし、鬼のその異常な強さにひどく打ちのめされてきた。
どれだけ肉体を強化しようが、異能を操る鬼と生身の人間とでは、圧倒的に人間が不利であることには変わらない。
自分がこうして生きていられるのは、運が良かっただけ。
文乃が生まれすぐに妻が他界し、その文乃も病弱で、以前と同じようには鬼狩りに時間を割けなくなった林道は若くして鬼殺隊を引退し育手の道を歩むことに決めた。
その選択が正しかったどうかはわからない。
まだ戦える身であるのに退くのかと、非難する仲間もいた。
それでも、子供たちの笑顔に触れるたびこれでよかったのだと心から思えた。
あのまま戦いを続けていても、自分はどこかで命を落としただろうから──。
『死ぬな』
実弥は林道の言葉を頭の中で反芻していた。
鬼舞辻無惨を倒すまでは死ねない。死ぬつもりもない。されども明日あるかどうかもわからぬ命に変わりはない。
血の繋がりもない一弟子の身を案じてくれる師の人情深さには、感謝と敬慕の情が尽きない。
実父の記憶は拳や下肢を振り下ろしているものしかなく、師に対しこんな想いを抱くのはおこがましいことと心に留めながらも、しかし、実弥にとっての林道は実の父親よりもずっと父親のような存在だった。
世話になったぶんいつか恩返しができたらいい。
実弥は、そんな想いを常時心に秘めている。
ただ、今は───···
「鬼狩りに命を懸ける。そこに、後悔はありません」
やるべきことを、全うする。
今の自分にはそれしか生きる術がない。
林道に向かって実弥は深く頭を下げた。
師の望んだ返答ではないだろうという詫びいる気持ちも込めての長い黙礼。
その
「······実弥、頭を上げなさい」
間を置いて、実弥は再び林道と向き合った。
「そろそろ行かねえと、飯が冷めちまうなあ」
肩の力を抜くように、林道は口を綻ばせた。
白米や、味噌の芳醇な大豆の香り、焼いた魚の香ばしさが実弥の腹の虫を疼かせる。
箱膳を前にしたなまえとキヨ乃が、自分たちを今か今かと待ちわびている姿が眼裏に浮かぶ。
「情けねえところを見せちまって、すまなかった」
「······俺も、なまえには、永く年老いるまで生きてほしいと願います」
実弥を見つめ、どこか愁いを帯びた笑顔を落とすと、「そういえば」
再び視線を上へ引き上げ、林道は言った。
「なあ実弥、弟は元気なのか?」